はじめましての距離

大臣

 

 何かが近づく音とともに、突如目の前が真っ暗になった。瞼は柔らかく、かつ温かいものに覆われて、さっきまで見ていた春の大三角が見えなくなってしまった。

「だーれだ」

という声が後頭部付近で聞こえるが無視して顔を覆う手のひらをどける。視界に先ほど同様の星空が戻ってくるとともに、ここ野辺山特有の寒風が吹いてきて、寒さに慣れていたはずの肌が再び震えるのを感じた。

「つまんないの。ノリが悪いと嫌われるぞ」

と、同じ声がまた僕のほうに向かって聞こえる。同時に草を踏みしめる音も聞こえるから、次は自分の前に出てくるだろう。

「そういうのはやる相手を選んで行うものだ。僕みたいなやつにやっても面白くはならない」

「けち」

 言葉とともに足音が隣で止まる。布擦れの音がして、自分と同じように相手が座り込んだのだと思って、横に顔を向ける。そこには予想通り、同級生の顔があった。

「で、なんでいまさらこんなことしたんだ。高城たかぎ

 呆れを交えつつ肩を落としながら聞くと、高城 りょうは片手を猫のように丸めながら口元にやって笑った。どこか悪戯っ子のような笑みがこいつの癖らしく、今までずっとこの笑みばかり見てきた。

「なんでだろうね、これが最後だから最初みたいなことやりたくなったのかも」

「……なるほどな」

 そういう気持ちなら、なんとなくわかる。僕は後ろを振り返って、ほかの部員たちがいるブルーシートのほうを見た。高校三年生。正式には引退している身ながら、これから本格的になる受験シーズン前最後の観測としてここにやってきたからか、昔自分たちがやっていたような「寝るなよー!」とか「報告しろー!」とかの言葉が、物理的な距離よりも遠く感じる。ほかに二人いた同級生が予備校の春期講習でいなくなっていることも拍車をかけているのかもしれない。

「変わったよね。河埜は」

 どうしてか一呼吸ほどの間をおいて、高城がポツリと評した。

「そうか? 僕としては特に入部したころから変わってないと思うが」

 実際、あのころから僕は堅物だし、友人も多いほうではない。部活の外に出てしまえばボッチと言われるような種別の人間だ。

 しかし高城は首を横に振って小さく笑う。

「あの頃の河埜だったら受験前にここに来たりもしてないよ。きっと家で勉強してる」

 そう言われたらそういう気もする。しかしそれは、今ここにいない二人のような明確な目標を持ったものではないはずだ。部長を務めていた松下圭吾まつしたけいごは、憧れであった昨年の部長を追って金沢にある国立大学を目指しているし、山口灯やまぐちあかりはひそかな夢であった留学を目指している。昔の自分は、みんなそうだから、と勉強をしていたと思う。

 みんなそれぞれの大切なものがあって、僕はきっとそれがこの村野学院地学部の風景だったのだろう。それは高城も同じだろう。

「しかし、なんであの日のお前はいきなり僕の目をふさいできたんだよ。それなりに面食らったぞ?」

 さっきの高城の行動のせいで昔のことを思い出してしまった。目の前でまたいつもの笑いを見せる彼女が、最初に野辺山で出会ったときの高城と重なる。僕は変わったというが、彼女はあのころから変わっていない。

 不意に、笑みを浮かべたままの高城が片手を僕の目に押し当てた。また視界が真っ暗になる。

「ねえ知ってる? はじめましての平均距離って四十センチなんだって」

と、あの日の口ぶりを真似して高城が言う。いきなり視界をふさがれてこんなことを言われるものだから、当時の僕はずいぶんと驚いていたはずだ。その時とはまた別の意味で驚きながらも、当時を思い返しながら口調を再現する。それでもどうしても笑ってしまうので完全再現とは至らなかったが。

「その距離の算出方法がわからないうえに僕らは初対面なので五十センチ離れてくれませんか!?」

 ああ、こうやって反応できているのだから、この言葉を本心から言っていた時よりは変わっているのだろうと、あらためて実感する。向こうもやはりおかしいのか、あの日よりも多少柔らかい笑い声をあげながら、立ちだがって少し距離をとる。思った通り、腕をしっかり伸ばせば届くぐらいの距離に離れていった。

「たしか握手の時の互いの距離の平均値だったかな? 最初にするのは握手なんだからちょうどよいでしょ?」

 そういうとどこかおどけた様子で小首をかしげる。あの頃はこの反応にいら立って様な気もするが、今は笑みが浮かぶ。向こうのほうが再現度が高いので、どこか負けたような気になる。

「それなら普通に声をかけて握手しましょうよ。まったく」

 このころからこいつにはため息をつかされていたのかと思うと、どこか懐かしく感じる。たった二年前のこと。なのに、ずいぶん遠い。

「確かにそうだね」

 高城はうんうんと頷いて、じゃあと言わんばかりに片手を出した。僕は怪訝そうにその片手を見つめていたはずで、それから彼女の顔を見たはずだ。

「握手をしよう。私たちは友達になるんだ」

 その言葉が、後々の僕をどれだけ助けたのか、きっと高城は知らない。それでも、そんなものは結果的に分かったことで、あの日の僕は怪訝そうな顔のままこの握手を振り払ったはずだ。

 だからこそ、今日はこの手を取る。再現をしていたはずなのに急に変わったからか、高城が目を少し大きくする。今日、初めて勝った気がした。

「うん、そうだ。僕たちは確かに、友達になったよ」

 そういって、手を強く握る。実際のところは、後からほかの二人が入部したころになってようやく仲良くなり始めたのだ。だからこの手は取れていなかった。

「ありがとな。こんなやつと友達になってくれて」

 言いそびれていた感謝の言葉を伝える。驚いた表情のままだった高城は、僕から視線を逸らすと吹き出した。

「あー、驚いた。昔を懐かしんで遊んでみたら、まさかこんな意趣返しをされるなんてね!」

 そうして、ちゃんとこちらに向き直る。

「うん。感謝してよね? そしてこれからもよろしく!」

 終始おどけた口調の高城だったが、ここだけはなんとなく、ほかのセリフと違う色がついているように聞こえた。

「せんぱーい! ちょっと教えてもらってもいいですかー? この子が質問あるみたいで!」

 唐突に、ブルーシートのほうから僕らのほうに声がかけられる。振り返ってみて声の主を確認する。それは今年の新入部員のようで、その後ろには肩を縮こまらせている別の新入部員がいた。

 まるで昔の自分たちのようで笑ってしまう。だが、仕事というなら仕方ない。まだ自分は、ここの一員なのだから。

「すぐ行くから待ってろー」

 できることなら、あの二人の四十センチが縮まればいいと思いながら、僕は足を彼らのほうに向ける。

「うまく二人の四十センチを縮めなよ」

と、高城から声がかかる。お前も同じこと考えてたのかよと苦笑して、後ろを振り返らずに手を振って応じる。

 きっと今までのように笑っているのだろうと、そう思いながら。


 

 


 

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