第五章 未来へ



翌日のお昼休み。

わたしはめぐみを屋上に呼んだ。


あんなことがあって桜太くんにも知られてしまった以上、友達であるめぐみに黙っているわけにはいかないと思って、家庭のことを打ち明けることを決めた。



「澪が屋上なんて珍しいね」


そう言って、にこりと笑った。



土曜日の雨はすっかり忘れさられたように、今の天気は雲一つない晴天で、遠い遠いところにいる太陽がわたしを照らすように日差しがまぶしかった。


まるでわたしのことを応援してくれているような空は、近くにお母さんを感じた。



「うん。めぐみに話があって」



わたしの言葉に頷いた。

そして、微かに微笑んだ。


『待ってたよ』そう言っているようだった。



本当はずっと言わないつもりだった。


ーーううん。言えそうになかった。こんな重たい話をしてどうするんだって思ってた。それを聞いた相手まで苦しめてしまうはめになるから言わない方がいいと、ずっと思ってた。


それが正しい選択だと、そう思ってた。

間違っているはずないと思ってた。


ずっと、そう思い込んでいた。



「…あのね、」



この話を聞いてなんて思うだろう? その疑問が頭の中を駆け巡って不安だった。



「……お父さん、再婚してたの……。」



その言葉を聞いてめぐみは、「えっ…」と小さな驚いた声を発した。


その表情は、戸惑いが見えた。



なんて言ってあげたらいいんだろう? 祝福? それとも喜ぶべきじゃない?

めぐみの顔を見ればすぐに分かった。


わたしは、さらに言葉を続ける。



「ほんとは祝福してあげるべきだったんだけどね、…わたし、まだお母さんの死を受け入れられてなかった。…だからお父さんが再婚してから、ずっと……」



また、思い出して込み上げてくる。


その感情を抑えながら一つ一つ、呟いていく。



「………ずっと、苦しかったの……っ」



のどの奥が、ギューっと苦しくなった。

目頭が熱くなってきた。


でも、もう泣きたくなかった。

昨日向き合うことができたはずだから、歩み寄ることができたはずだから……。

泣いてばかりじゃいけないと思った。


泣いてばかりいると天国で見ているお母さんが心配してしまうから、悲しんでしまうから、涙とはお別れしなきゃいけないと思った。



「家の中に居場所がないって、ずっと思ってた。お父さんばかり幸せになって憎いって思ってた。再婚相手の裕子さんも憎んでた…っ」



めぐみには一度も相談したことがなくて、いきなりこんなことを言われても受け入れられるはずもないし、話に追いつくこともできないはず。


だからこそ、わたし自身の言葉で包み隠さず言わなきゃいけない気がした。



「それに、弟もできたの。…でもね、みんな嫌いだった。みんなみんな憎んでた。」



ほんとは苦しかった。

もう、言いたくない喋りたくない。


でも、昨日向き合うことができたわたしは、これを言わなきゃいけないような気がした。

めぐみに隠したまま「何もない」と嘘をつくのがもう苦しかったから……


お父さんたちと話し合うことができた。

それなら、きっとめぐみにも言えるはず。


少し前のわたしとは違うはずだから。



「どうしてわたしばかり不幸なんだろうって苦しいんだろうって思っていた。」



思ってた。


ーーそう、過去形。

昨日のあの時から、「わたしばかりが」っていうのは変わったんだ。


わたしばかり、ではなく、みんな同じだった。



みんな苦しかったんだ。


それを、わたしは自分だけと勘違いしてた。



「…生きるのが苦しかった。お母さんの元へ行きたいと何度も願った……。」



この空の、ずっとずっと上にいる。

わたしをずっと見守ってくれていた。



「……誰にも相談できなかった。めぐみにも……っ。嘘ばかりついてて、ずっと苦しかった」



なにもないよって笑って誤魔化してばかりで、嘘で塗り固めたわたしの心の中は、どうしようもなくてもうずっと真っ暗闇だった。


もやもやと苦しい感情が支配していた。



「……でもね、」



もう、違うから安心して。

もう、大丈夫だから安心して。


今のわたしなら、心の底から素直になれる。



「……もう一人ぼっちじゃないって気づいたから。……たくさんの支えがあるって気づいたから…、もう、大丈夫だよ…!」



自分の言葉で、自分の声で、全部思っていることを、めぐみに伝えるんだ。


今までのわたしはなにも伝えてこなくて、笑って誤魔化してばかりだったから…、それじゃあ、伝わらないってこと、痛いほど学んだ。



「……澪、」



わたしの名前を呼ぶめぐみ。

静かに、ポツリと涙を流すーー



「……今まで一人で抱え込ませて、ごめん…っ」


と、言って、わたしの手を優しく包み込んだ。



その瞬間、『わたし、一人ぼっちじゃなかったんだ』そう思って我慢していた涙が一気に溢れてきた。

それを止めるすべは、もうない。


泣かないって決めたはずなのに、苦しかった時を思い出すと、その決意なんてあっという間に跡形もなく崩れてしまう。



「一番近くにいたはずのわたしが…、澪の苦しみに気づいてあげられなかった。……ごめん」



わたしの手を包み込んでくれるめぐみの手はとても温かくて、優しい。

いつも隣にいためぐみの優しさを素直に受け取ることができなかった。


こんなに温かくて安心するのに、どうしてもっと早くに打ち明けられなかったんだろうと思う。


けど、あの時は仕方なかった。できなかった。


この苦しみをめぐみにも背負わせてしまうのだと思っていたから、こうなることを分かっていたからこそ言えなかった。



「澪…っ、今まで苦しかったね……。寂しかったよね…。一人で抱え込ませてごめんね」


「…めぐみは、悪くないじゃん…っ」



悪いのは、誰にも言えなかった自分自身。

言えないことが悪いわけじゃない、もちろんそれはよく分かっている。



「……誰も悪くない。わたし、ちゃんと知ってる。…めぐみが力になってくれようとしたのも、頼ってほしいって言ってくれたのも、ちゃんと分かってるから」



今なら分かるよ。

その気持ち、痛いほど分かる。



「……言うのが遅くなって、ごめんね…っ」



もっと早くに打ち明けられていたら、こんなに苦しむことだってなかっただろうし、めぐみに心配かけることだってなかったかもしれない。


正しい選択なんて誰にも分からなかった。

きっと、そういうことなんだと思う。


ーーわたしも、お父さんも……。



「……澪が一番苦しいはずなのに、話してくれて…、ありがとう」



またギュっと包み込む手に力が込められた。



「澪が、今まで話せなかったこと知ってる。…だから、今ようやく心で繋がれた気がする。澪、いつも遠慮してた…だから、支えてあげたかった」


「……うん」


「今まで苦しかったね、寂しかったよね…っ。」



気がつけば二人とも顔をくしゃくしゃにさせて思いきり泣いていた。


たくさんの涙が溢れていた。


泣かないって決めたのに、昨日あれだけ泣いたはずなのに、次から次へと溢れてくる涙。



「澪…」そう言って、わたしの顔を真っ直ぐに見つめてくるめぐみ。



「今まで苦しんできた分、澪はこれから幸せになる。…ううん、幸せにならなきゃいけない。澪には幸せになる資格が、あるから…っ!」


と、精一杯の笑顔を涙を流しながら見せた。



「……幸せに なれる、かな…?」


「なれる!絶対幸せになれる。…ううん、幸せになろう…っ!きっと澪のお母さんもそれを望んでるはずだよ……!」



今まで幸せになることを許されていないんじゃないかと思ってしまうくらい、わたしは不幸の渦に飲み込まれていたような気がしてしまうくらい、ずーっと苦しかった。


でも、やっぱり、幸せになりたいんだ。

それが手紙に書き残した、お母さんの願いでもあるのだから。



「…今まで苦しんだ分、澪が幸せにならないと わたし、神様を恨むから…!」


そう言って、涙を拭いながら笑ってた。



そんなおかしなことを言うめぐみにつられて、わたしも笑ってしまった。


打ち明けるだけでこんなにも心の中が軽くなる。


少し前までのわたしはそんなことに気づかないで、この苦しみを抱えてた。

それはもう、とてつもない重さだった。



「澪、話してくれてほんとにありがとう。苦しかっただろうけど、これから先は澪自身のために生きて。…そして幸せになろう」


「……うん…っ」



また、溢れた一筋の涙。


固まった心は溶けて、その涙に濁りなんてものは一切入っていない純粋のもの。


太陽の日の光が、涙をキラキラと輝かせた。


涙でくしゃくしゃになったわたしたちの顔を明るく照らしてくれる空からの光。



「…澪、顔すごいよ!」


「めぐみもすごいことになってる」



そう言って、お互い顔を見合わせて笑った。


その笑顔は作り笑いなんかではなく、本当に心の底から思いきり笑えていた。



きっと、もう大丈夫。

一人で苦しむことはない。


だってわたしの周りにはたくさん、わたしを心配してくれる人たちがいるから。

その人たちの存在がある限り、わたしは一人ぼっちになることはないんだと、そう思うーー。





朝、7時30分。


身支度を済ませてリビングへ顔を出すと、お父さんがすでに朝食を食べていて、わたしに気づくと小さく微笑んだ。



「おはよう」


「…ん。おはよう」


そう言って、いつもの席に座る。



なんだかまだぎこちない感じで心がそわそわして落ち着かないような感覚だけど、たしかに感じるそれは小さな変化だった。



「今日は早いな」


そう言って、コーヒーをすするお父さん。



「あー、うん。…友達と待ち合わせしてて」


「そうか」



スマホにきていた通知は、桜太くんからのラインで、【澪の家近くの公園で待ってる。】と、それだけ送られていた。


日曜日に家の前で別れたきり、まだ会っていなくて、どんな顔して会えばいいのかなとか悩んだり不安な面もあるけど、もう怖がることはない。


だってぎりぎりの苦しみまで見られてしまっている以上、なにを見られても恐れることはなかったし、悩んでも仕方がないと思った。



「澪ちゃん、おはよう」


そう言いながらわたしの元へやって来た裕子さんは、テーブルに朝食を並べていく。



「…おはよう」


その後すぐに宗輔くんもやって来て、食べ始める。



今までだったら自分で適当に食べて一刻も早くこの場を逃げ出したいとばかり思っていたけど、最近は朝みんなで食べるようになった。

その変化を初めのうちは宗輔くんも驚いていたけど、嬉しそうな姿を見て『ああ、家族ってこういうことなんだな』と思った。


そしたら心の中が一気に温かくなった。



「あのさ…」



宗輔くんがわたしになにかを言いかける。



「…今日の夜、少し時間があれば…、勉強教えてほしいんだけど……」



最後あたりもごもごと小さくなる言葉。


きっと、まだみんな同じ気持ち。

向き合えたから話し合えたからといってすぐに変わることはできないし、今までのことを無かったかのように接するのも難しい。


だからこそ、少しずつ変化していく日々。


それをわたしは肌で感じでいた。



「…いいよ。」



そんな返事をする自分が照れくさく感じた。


まだうまく話せなくて、短い言葉短い返事ばかりになってしまうけど、わたしなりに変わろうとしているし、そしてなにより今までの自分とは違った。



「ありがとう」


と、言って伏し目がちに笑った宗輔くん。



今まで真っ直ぐに宗輔くんの顔を見ることはなかったし、ちゃんと顔を見たこともなかったけど、今初めて見た気がするその顔は、意外と可愛らしかった。


これだけ近い距離に座っていたのに、宗輔くんのことなにも知らないんだ。


今まで全然家族らしいことしなかったし姉らしいこともしたことがなかった。

でも、きっとお姉さんってこういう感じなのかな、と今は漠然としたものしかなかったけど、少しずつ分かっていけたらと思った。



「……本当、よかったなぁ…」



ポツリと、そんなことをお父さんが呟いて、みんなの視線がお父さんに集まる。


その呟きは、心の底からのものだと顔を見ればそんなことすぐに分かる。



「…よかった。」


と、何度も何度も呟く。


その姿を見て、なんだか心の中がギューっと苦しくなった。



お父さんは、ふう、と小さく息を吐いた後にみんなの顔を一人ずつ確認するようにゆっくりと見た。



「こうして家族みんな揃ってご飯を食べるのがこんなに幸せなことなんだなぁ…」



独り言のように呟いた後に、目頭を押さえる。



普通の家庭なら家族みんなでご飯を食べるのは当たり前なのかもしれないけど、わたしたちはちょっと複雑な家庭でそれが叶わなかった。

当たり前のことが当たり前のようにできない家庭で、苦しみばかりだった。


ーーでも、今は違う。



「…みんなで食べるご飯はうまいなぁ。」



お父さんの言葉に、小さく頷いた。


それに気づいたお父さんは優しそうに微笑んだ。



その時、…あ、と思い出す。


今までずっと忘れてきたけど…、お父さんはよく笑う人だった。今みたいに笑っていた顔をよく見たことがある。



でも、お母さんが病気になってから笑うことも少なくなって、苦しそうに顔を歪めていたり無理して笑っていたり、そして最後は笑うことがなくなった。

そして最近はずっと怒った顔ばかりだった。


お母さんがいた時はよく笑っていて幸せだなぁと子供ながらに何度も思っていたのに、今までそれを忘れていて、わたしは不幸だと、世界不公平だとそればかり考えてた。


幸せになるのも不幸になるのもその人次第でどうにでもなれるってこと気づいた。

だって、こんなにも温かな家族に囲まれているんだからーー…



「俺…」と、宗輔くんが話しだす。



「ほんとはみんなでこうやってご飯食べたかった。それに澪ちゃんとも仲良くなりたかった…」



そう言って、わたしを見た。

その表情はどことなく悲しげ。


一瞬、目を逸らした後に、またわたしに視線を合わせた宗輔くん。



「だから少しずつでいい。…少しずつ、俺のことも弟だと思ってもらえたら、嬉しいな」


そう言って、小さく微笑んだ。



わたしより三つも下なのに、どことなく大人びた雰囲気を感じつつも、伝えてくる言葉や表情は中学二年生の男の子のものだった。



「……うん。そうだね」



お姉さんらしいことなんてまだ言えないしできないけど、きっと時間が解決してくれるんじゃないかな、と思いながらその言葉に頷いた。



わたしたちのやりとりを見ていたお父さんは嬉しそうに微笑んでいて、隣にいた裕子さんは涙を浮かべていた。


それに気づいたお父さんがティッシュを渡して、裕子さんは涙を拭いた。

宗輔くんは「母さん、涙もろい」そう言って笑いながらも、微かに涙を浮かべてた。

親子って似るんだな、そう思ったらその光景がなんだか微笑ましく感じた。


その瞬間、家族らしいなと思った。



ほんの少しだけ、ふっ、と口元を緩めた。



「あ!」

「澪ちゃん…っ!」



裕子さんと宗輔くんがわたしを見て驚いていたけど、二人よりも驚いたのは自分自身だった。


生まれながらにそれが当たり前のようにできる、まるで呼吸をするみたいな感覚で、気がつけば自然と笑ってた。


自分にスポットライトが当たっているみたいに視線を感じて、それがなんだか照れくさくて、ふいっ、と目を逸らす。



「澪の笑った顔 久しぶりに見たなぁ」



そう言ってお父さんは立ち上がり、リビングのサイドテーブルに置いてある写真立てを見た後にわたしに言ったーー



「母さんの笑った顔にそっくりだ」



お父さんの心の中にもまだお母さんが存在していて、まるで生きているようで、それを言われたわたしはすごくすごく嬉しかった。


大好きなお母さんに似ていると言われて嬉しくないはずがなかったんだ。



「…懐かしいなぁ」



そう言ってまた写真立ての中にいるお母さんを見て、少しだけ涙を浮かべていた。

きっと、何年経ってもお父さんはお母さんを忘れることはないんだと、その時改めて実感した。



写真立ての中にいるお母さんは、いつも太陽のように温かく微笑んでいた。

今にもわたしの名前を呼んでどこからか現れそうなくらい明るく、リビングを照らしていた。


わたしがいない時、お父さんはこうやって写真立ての中にいるお母さんに話しかけていたのかな? そう思うとちょっと切なくなった。



「澪は、父さんたちの宝物なんだ」


そう言うと、写真立てを軽く撫でた後に元の位置に置いて、椅子に座りなおした。



「だから幸せになってほしいんだ」



『それが母さんの願いでもあり、父さんの願いでもある』と、お父さんの表情は真剣な眼差しをしていた。



その瞬間、微かにお母さんの気配を感じたような気がしてあたりを見回すけどその姿はどこにもなく、見えないのが当たり前。


でも、たしかにいたような気がした。


懐かしいお母さんを感じた気がしたんだ。



「どうした?」


「あ、ううん。…なんでもない」



きっと、写真立ての中にいるお母さんを見て懐かしく思ったのかもしれない。


霊感なんて持っていないわたしがお母さんの気配を感じることなんてほとんど不可能に近いんだから、と思うとなんだかおかしくってお父さんたちには言えそうになかった。



そうか、そう言った後にお父さんは、話し始めた。



「澪だけじゃなく、この家にいる家族みんな幸せになるんだ。それが今の父さんの願いだ」



そう言って、裕子さん、宗輔くん、そしてわたしの順に顔を見た。



家族の間に深い溝ができていて今までは、自分は幸せではなく不幸とばかり思って生きてきた。


こうしてリビングで集まっていることが少し前のわたしからすれば奇跡に近いことであり、ありえないようなことだった。


でも、家族と向き合うことができた今。

わたしに待っている未来は明るいような気がした。



「今まではバラバラになっていたけど…」



そう言って一呼吸置いた。

そして、またゆっくりと話しだす。



「これからは違う。みんな同じ方向を向いている。足並みも揃った。…澪も裕子も宗輔くんもみんな家族だ。血は繋がっていなくても家族であることに変わりはない。決して一人で悩むな。みんなでその苦しみを分かち合えばいい」


と、その瞳は家族みんなを映していた。



その言葉を聞いた後にのどの奥がギューっとなって、泣きそうだ、と思った時にはすでにもう泣いていた。


そして、同じように裕子さんも涙を流していた。


お父さんがティッシュを裕子さんに渡して、そしてわたしにも差し出して、それを静かに受け取った。



今まではこうして朝食をみんなで囲んで食べるということはなくて、わたしだけがいつも家の中から逃げだしていた。


今は、それができている。


こうやって家族でご飯を食べることがあまりできなかったお母さんのことを思うと、それがだめなんじゃないか、とかお母さんが一人ぼっちになってしまう、と考えていた。



でも、それが間違いだったんだよね。


お母さんはそんなことを責めるような人ではなかったし、手紙にも書き残していたとおり、わたしたちの幸せを願ってた。


わたしたちが苦しんでどうするの。

わたしたちが幸せにならなくてどうするの。


今までの生活を続けていたら天国から見ているお母さんが悲しんでしまっていたはず。



お母さんの分まで、わたしが幸せになろうと決めた。

お母さんが見れなかった景色、たくさんたくさん見てあげて伝えてあげたい。

それが、きっとお母さんのためでもあるから……



そしたらお母さん安心してくれる?


ーーううん。そんなこと聞かなくても分かる。


だってお母さんはいつも明るく笑って、そして最後まで、そして今もわたしの幸せを願ってくれる優しい人だから。



ローファーを履いていると、いつものように決まってやって来る裕子さんが少し前までは嫌だったけど、今はちょっと違った。



「あの…、澪ちゃん。お弁当作ったんだけど…」



そうは言ったものの、なかなか手渡さず自分で持ったままになっているお弁当が入った巾着袋。

わたしがお弁当を断ったからきっと渡しにくいんだろうな、と表情を見ればすぐに分かった。



ひょいっ、と巾着袋を手に取ってーー、



「…持ってく」



視線は逸らしたまま、そう呟いた。



そしたら裕子さん、嬉しそう微笑んでいた。

その姿を見て『今の選択は間違ってなかった』そう思って安堵した。



玄関を開けようとしたら、「澪ちゃん」と後ろから呼び止められて振り向く。



「いってらっしゃい」


そう言って、微笑んだ裕子さんがいた。



玄関を出て行く時、いつも振り向くことはしなかったわたしはこの光景を知らない。

その光景を見ることなく、いつも玄関から逃げだして行ってた。



でも、今は違った。


温かな雰囲気が漂う玄関がそこにはあった。



「……いって きます。」



自然と溢れた言葉。自然と緩んだ口元。

温かい感情に包み込まれているようだった。



* * *



公園までの足どりはとても軽く感じて、早く感じて、いつのまにか公園入り口に着いていた。


そしてそこにはあの時と同じ、ブランコに座っている桜太くんの姿があった。

ぼーっと立ち止まって向こうにいる桜太くんの姿を見ていると、胸がギュっと、熱くなる。

その感情の意味から今まで目を逸らしてきて、気づいていないふりをした。



ーーでも、もう、無理だと思った。



「あ、澪!こっちこっち!」



わたしに気づいて手をあげる桜太くんの表情は、太陽みたいに明るかった。

わたしを呼び捨てで呼ぶのも嬉しかった。



ーー桜太くんのことが、好きなんだ………。



気づいてしまえば、受け入れてしまえば、その感情はあっという間に膨れ上がっていく。


どきどきを抑えながら桜太くんの近くに駆け寄ると、隣のブランコを指差して「座って」と言われているようだった。



「よかった。澪、来てくれて」



そう言ってニカッと笑うと八重歯が見えて、可愛いな、と思うとギューっと胸が締めつけられる。



「…来るよ」



どきどきを悟られないように、俯いたまま呟く。


好きだと自覚すると桜太くんの顔を真っ直ぐ見ることができなかった。



「澪」わたしの名前を呼び、それに視線を向けると、真っ直ぐにわたしを見てくる桜太くんが隣にいた。

もしかしたらあのことを聞きたいんだろうな、と直感的にそう思った。


だから今度は自分から言おうと決めたーー。



「…桜太くんに聞いてほしいことがある」



遠慮気味に言うわたしのその言葉に、「ん。」と短い言葉で頷いて優しく微笑んだ。

その表情を見て、ホッと安心してしまう。


ふう、と息を吐いて呼吸を整える。



「あのね……、お父さんとちゃんと話せたよ」



桜太くんがわたしの苦しみを受け入れてくれて、そして背中を押してくれたから前を向くことができた。


全部全部、桜太くんのおかげなんだ。



「ちゃんと全部伝えたと思う…。」


「うん」


「伝えたら、心がすごく楽になった」



今までの苦しみは何だったのだろうか、というくらい心は軽くなって息が吸いやすくなった。



「お父さんたちとも向き合うこと、できたよ」


「うん」



桜太くんのわたしを見るその視線が優しくて温かくて安心しながら話すことができる。



「わたしね、…ずっとお父さんのこと勘違いしてたみたいなの」



拳をギュっと握りしめて膝の上に置く。



「お父さん。…お母さんのこと忘れてなんかなかった。幸せそうに笑ってるって、そうじゃなかった」



あの時のことを思い出すだけで苦しい感情が込み上げてくる。


ーーけど、それに飲み込まれることはない。

わたしの隣には桜太くんがいて、わたしはもう一人じゃないと知っているから。



「わたしと同じように苦しんでた……。」


「…そっか」


「お父さんの心の中に、ずっとお母さんがいた」


「うん」



わたしと同じようにお母さんの死を受け入れられなくて苦しんで、今まで無理して笑ってた。



「お母さんのこと忘れるどころかずっと心の中に生きていて、ずっとお母さんを愛してた」



五年前のあの時から、ずっと。

お父さんはお母さんを想い続けていた。

それは、きっとこれからも変わることはなくて、生涯ずっと続くんじゃないかな…。


そしたらお母さん一人ぼっちじゃないよね?

そう思うと、ホッとしたんだ。


離れ離れになってはいるけど、心では繋がっていて、それをお母さんもお父さんも、そしてわたしも知っているから。


見えない絆で繋がっているんだ。



「…それにね、お父さんが再婚したのはわたしのためだったみたいなの…。」


「澪のため?」


「…うん。家族が増えたらわたしが、また笑うようになるんじゃないかって…思ったみたいなの」



そう言った後に、「そんなの全然知らないから気づかないから、一方的にお父さん責めちゃった」と呟くと、何も言わずにわたしの頭を撫でた桜太くん。



わたしが苦しい顔してたから? だから慰めようとしてくれたの?


桜太くんの手の温かさが、身体中に染み渡り、ギューっと胸が苦しくなった。



「澪は悪くないし誰も悪くない。それ、お父さんも知ってるから、だからもう何も心配いらない」


そう言って、微笑んだ。



そしたらわたしもつられて自然と笑ってた。

それは作り笑いなんかではなかったんだ。



「ずっとね…。ずっと居場所がないと思ってた。でも、ほんとはそんなことなかったんだよね」



あの時はそれに気づくことができないくらい必死で、苦しいのに耐えていた。


お父さんたちから目を逸らして、背を向けて、歩いていたらそんなこと気づくことができないのは当たり前なんだ。


でも、今は向き合って同じ目線で、同じ場所にいる。


気づかないまま歩きだすことはない。



「居場所…、ちゃんとあったよ」


「うん」


「もう、見失うことは、ないよ」



きっと、もう大丈夫。

だからわたしは笑うことができるんだ。



「……桜太くんのおかげ、だよ…。」



多分、ここで桜太くんと出会うことがなければ、わたしはまだこの苦しみから解放されることはなかっただろうし、お父さんたちとも向き合うことができなかったと思う。



「桜太くんが、わたしに 勇気をくれた」



いつも優しい言葉をくれて、いつも温かい手を差し伸べてくれる。

誰よりも優しくて誰よりも苦しみを分かってくれる桜太くんだったからこそ。


ーーだから、わたしは桜太くんに打ち明けることができたのかもしれない。



「…それと、」



一瞬だけ俯いて、ふう、と息を吐く。

膝の上に置いてある拳にさらに力が入る。



「……たくさん、傷つけて ごめん…。」



桜太くんと視線が重なる。

息が張り詰めたようになる。


のどの奥が、ギューっと苦しくなる。


今までわたしが桜太くんにひどいこと言ったことを思い出すだけで泣きたくなった。

けど、わたしが泣いたらだめだと思った。



「…関わらないでって言ってごめん。…嫌いって言ってごめん…!」



そんなこと思っていないのに、あの時のわたしは桜太くんを遠ざけたかった。逃げたかった。

だからと言って人を傷つけていい理由になんかならないんだ。



「ごめんなさい…」



「──澪」



わたしを優しく呼ぶその声が好き。


優しい言葉をくれる、優しく接してくれる、いつも温かい感情をくれる、そんな桜太くんが好きなんだ。



「謝らないで。俺、澪に怒ってるわけじゃないし、あの時の澪は苦しんでたんだから仕方ないよ」


「で、でもーー」



その言葉の続きを言うことができなかった。


桜太くんの人差し指がわたしの唇に微かに触れて、一瞬にして思考回路が停止したから。


どきどきとうるさくなる鼓動。



「これ以上言うと、俺怒るよ?」



そんな素振りなんて全然見せていないのに、と思いながらもそれ以上はなにも言えなかった。

わたしがおとなしくなったのを見て桜太くんの人差し指は離れていった。


唇に残る微かな温もりが、わたしをまだどきどきさせ続ける。



桜太くんはそんなこと知らない。

わたしが桜太くんのことを好きになってしまったなんて、きっと知らない。


これを知られてしまったらどうなるんだろう。

その不安が頭の中を駆け巡っていた。



「澪」


と、またわたしの名前を呼んだ。



どきどきを悟られないように桜太くんを見ると、どことなく大人びた雰囲気を感じた。



「澪の力になってあげられてるか分からないけど、でもほんとよかった。澪が少しでも笑顔を取り戻すことができてホッとした。」


「…すごく、力になってくれてるよ」



わたしがそう言うと、「マジ?よかった」そう言って胸を撫で下ろしていた。



「俺の家族みたいになってほしくなかったから、澪だけはなんとしても幸せになってほしかったんだ」


そう言って、ニカっと笑った。



なんかそれだけで全部どうでもよくなってしまうくらい桜太くんの笑顔を見るとわたしまで嬉しくなる。



「澪の家族は、お互いを思い合っていたのに話し合うことをしなかっただけですれ違いがあっただけ。そんなにお互いのこと思い合えるってすごいことだって俺、思うよ」



桜太くんの過去はすごく苦しかったはずなのに、前を向いて『今は幸せ』だと言っていた。

その言葉に嘘はなく本物だと思うけど、きっと昔は苦しかったことに変わりはない。


もうちょっと時間が経てば、わたしも桜太くんみたいになれるだろうか。

前を向いて幸せになれるだろうかーー?



「これからきっと楽しいことたくさんある」


「わたしも…?」


「澪も楽しいと思えることたくさんあるよ」



その言葉を聞いて胸の中がうずうずした。


これからの未来にどんな楽しいことが待っているのかと考えただけで心が踊りそうだった。


目が合うだけで笑ってくれる。

にこりと笑う桜太くんの顔を見ているだけで、わたしまで嬉しくなる。



「今まで苦しんだ分、幸せになろう」


そう言って、また優しいあの手で頭を撫でた。



癖なのか慰めてくれているのか分からないけど、どっちでもいいと思った。

だって、桜太くんに頭を撫でられるのはとても心地がいいからーー。


お母さんの記憶を思い出しているような感覚になって、ふいに目を閉じてその心地よさに浸ってしまいたくなるんだ。



「今までも、そしてこれからも、澪は一人じゃないから。」


「ーーうん。」



純粋に嬉しいと思った。

自然と口元が緩んでしまう。


好きな人にそこまで言ってもらえるって、こんなに嬉しくて幸せなことなんだなって初めて知ることができたんだ。


心の中が温かい気持ちで満たされていく。



「そこに俺も入ってると、嬉しいな」



ふいに、そんなことを言った桜太くん。


急に立ち上がり、どうしたのかと思って見ていると、わたしの目の前で立ち止まった。



その時、ふわりと風が吹いて、わたしの髪が風に攫われて顔にぴたっとついた数本の髪。

ゆっくり近づいた桜太くんの手が、髪を払う瞬間、頬に微かに触れた。



「……っ」



息を吸うのも忘れてしまいそうなほどに、桜太くんが纏う空気、雰囲気に吸い込まれてしまう。


どきどきとうるさくなる鼓動。

熱くなる、触れられた頬。


どうしてこうなったんだろう、と考えてみても全く思い出せなくてぼーっと桜太くんを見つめ返すことしかできない。



「最初の時を思い出すな」


「…え?あ、…。」



そういえば出会った時もこんな風にわたしの前に立ち塞がって、それをいらいらしてたわたし。



最初の時は桜太くんが苦手だった。

強引だし一方的だし面倒くさい。正反対に明るすぎる彼と、できることなら関わりたくないって思ってた。



「澪、俺のこと嫌いだったもんな」


「……嫌いでは、なかったけど」



わたしの言葉を聞いてハハッと笑った。



「俺、あの時から澪がなにか抱えてるなって思ってた。だから力になってやりたいって思った。なにかあった時にすぐに駆けつけてやれるようにってずっと思ってた」



その言葉の通り、桜太くんはいつもわたしを救ってくれた。

それがまるでヒーローみたいだったんだ。



「俺」そう言って、わたしの目の前にしゃがみ込む桜太くん。



「澪を支える役目を俺はこれからもしていきたい」


「……え?」



ブランコに座るわたしの方が目線が高く感じて、そして桜太くんと近くなる距離にどきどきと暴れだす鼓動。



ふわりと風が吹いて、その時、わたしの元へ流れてきたシトラスの匂い。

暑い風なのに、それすらも心地よく感じてしまうのはきっと桜太くんのその匂いのおかげ。


視線が重なり合って、風が止み、そしてーー



「……俺、澪のこと ずっと好きなんだ」



桜太くんの言葉が真っ直ぐに伝わってきて

その瞬間、息が止まるかと思った。


目をぱちぱちと、開いたり閉じたりを繰り返してみても、目の前の現実はたしかにそこにあって嘘ではないことを物語っていた。



「もう一度言う。」



今度はブランコの鎖を二つとも掴んで、さらにわたしとの距離を詰めた桜太くん。


そのせいで、ぐんっと近づいたわたしたち。



「ーー俺は、澪のことが好きなんだ」



桜太くんの目は真剣そのもので、このどきどきから目を背けたくなっても視線だけは桜太くんに捕まえられたみたいになって動かない瞳。


息を吸うのも忘れてしまうくらい、桜太くんの姿に見惚れてしまう。



何かを言ってあげたい。


でもなんて? なにを言えばいいの? 好きってわたしも言う? でも、まだ…、まだ言えそうになかった。


そんなわたしを見かねて桜太くんはハハッと笑った後にこう言った。



「すぐに返事もらおうなんて思ってない。俺の気持ちを知ってほしかっただけだから」


と、立ち上がりわたしの頭を撫でた。



わたしの目の前で立ち止まる桜太くんの表情を見ようと見上げると、空高くに昇る太陽がキラキラと輝いて見えて、その光を浴びている桜太くんまでもが輝いて見えた。



「でも、」そう言ってまた話す。



「俺、諦めないから。澪を幸せにするのは俺の役目だって思うし。…なにより俺が澪を幸せにしてあげたいから」



ブランコから立ち上がれるはずなのに、わたしはその言葉でまだ身動きができなかった。



「だから覚えておいてよ。俺が澪のこと、好きだってこと。忘れんなよ?」



そう言って歩きだす桜太くんの姿を、ブランコに座ったまま見つめることしかできなかったわたし。

呆然とするってこのことだろうか、そんなことを頭で冷静に考えてるもう一人の自分もいた。



少し先の方から「澪、早く!」そう言ってわたしを呼ぶ桜太くんのその表情は、まぶしいくらい明るくて輝いていた。



桜太くんの「好き」にわたしが追いつくまで、もう少し待ってほしい。


きっと、すぐ追いつくと思うんだ。

だってもうこんなに好きだと思っているから。



その時まで、あと少し時間をください。

そしたら今度はわたしから言うから。


わたしが気持ちを伝えるその時まで、まだ桜太くんがわたしのことを好きだと言ってくれるのなら……



「ま、待ってよ!」



桜太くんの元に駆け寄ったわたしの中にある恋心はまだ誰にも秘密。


誰も信じないと決めたわたしが最後に選んだ道は、もう一度だけキミを信じるということ。



わたしの近い未来、

幸せが待っていると 思ったんだーー。






ー Fin ー



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きみと、もう一度。 水月つゆ @mizusawa00

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