第四章 降り続けた雨は止む




「澪、これ」


そう言って手渡されたのはバスタオルと洋服。



あのままあそこにいるわけにもいかず、ずぶ濡れになったわたしは桜太くんの家へと連れて行かれた。



ずぶ濡れなわたしたちを見て驚いていたおばあさんは、わたしの表情を見てなにかあったのだと気づいてはいたけど、そこには触れずに、わたしを家の中へ招いた。


お風呂場に案内されたわたしは、水分を含んで重たくなった洋服を脱ぎ捨てて、借りた洋服を着た。



それを着ると、ふわりとシトラスの匂いがした。


ーーああ、桜太くんの洋服だ。そう思った。

その匂いはなぜかホッとする。落ち着けた。



「………洋服、ありがと…。」



居間に行くと、桜太くんとおばあさんが座っていて、二人してこっちを見るからなんだか申し訳なく感じた。



「ん。…まぁ、座れば」


と、ポンポンと、自分の隣の座布団を叩いた。



お見舞いに行ったあの日、帰り際わたしは、おばあさんにろくにあいさつもしないまま帰った。

そのこともあり少し気まずくて俯いたまま顔を上げることができなかった。


そんなわたしを気遣ってか、おばあさんは「わたしは部屋で編み物でもしようかしら」と言って立ち上がりそのまま居間を出た。



ここはわたしの家でもないのに他人であるわたしが気を遣わせてしまった。


それがすごく申し訳なかった。


少し前まで死のうとしていたなんて考えられないくらい、今の自分はまともだと思った。



「澪も飲めば」



目の前に置かれたマグの中には温かいであろう、湯気が上がっていた。



ふーっとした後、一口飲むと、温かくて甘いココアの味がした。

冷え切った身体が一瞬にして温まり、その甘さが身体に染み渡り、じーんと涙が出そうになったーー



「冷えた身体にはうまいだろ?」


そう言って、隣でニッと笑う桜太くんの顔は、まぶしいくらい明るかった。



また、こうして桜太くんの笑顔が見れるとは思っていなかったし、そしてなにより桜太くんに会えると思っていなかったわたしは、嬉しさでいっぱいだった。



「俺、これが小さい時から好きなんだよな」



わたしがさっきどうしてあんなことをしようとしていたのか聞くわけでもなく、自然に振る舞ってくれているその姿を見てこのままではいけないと思った。



ーーううん。そんなことより、わたしはもう一人では限界だと思った。



「……桜太くんはなんでわたしが、さっきあんなことしてたのか聞かない、の……?」



今まで明るかった桜太くんの表情はいっぺんした。



「聞きたいけど、無闇に聞いていいのか分からなかったから。…澪が話してくれるまで待とうと思った」


そう言って、悲しい笑みを浮かべた。



桜太くんはいつもそうだった。


人の心に土足で踏み込んでくることはしないで、無闇にこじ開けようとしたことなんか一度もなかった。



今だって、そう。

わたしの様子を伺って、わたしが話してくれるまで待とうとしてくれていた。

そんな人、きっとどこ探しても世界中で桜太くんだけなんじゃないかと思ってしまうくらい、優しい人なんだ。



「澪が心の準備できるまで待つよ」



ギューっと締めつけられる心。

それは苦しみではなく、嬉しさの方。



「……桜太くんが、嫌じゃなければ…、その……聞いてほしいんだけど…」



自分がこの苦しみを打ち明けるのは初めてで、どうすればいいのか戸惑った。


けど、「聞くよ」と言った桜太くんの声を聞いて、表情を見て、それがわたしの心の中の厳重に閉ざしていた扉を開けたーー



「……あのね、」



いざ言おうとしたら、のどの奥がギューっと苦しくなってきて泣きそうになって、とまる。


フーっとゆっくりと息を吐いて心を落ち着かせて、隣にいる桜太くんを見た。



わたしの視線に気づいた桜太くんと目が合う。

その瞳はまるで「大丈夫」「落ち着いて」と言ってくれているような気がした。



「……あのね、わたしのお母さん五年前に病気で亡くなったの。……それで、その、…半年以上前にお父さんが再婚して、それからわたし苦しくて……」



桜太くんはなにも言わずに、ただ、わたしを見てその話を真剣に聞いていた。



「お母さんのこと大好きだったの……お母さんがいないことに、まだ慣れなくて……、それなのにお父さんが再婚したから、ますます家にわたしの居場所がなくて…っ」



わたしの手は震えていた。

そして冷たくなっていた。


その手を桜太くんは、ギュっと握ってくれたーー



「…お母さんは最後まで、苦しんだ、のに…っ、お父さんだけが幸せになったの。……それが悔しくて苦しくて悲しくて…。子供のわたしにはどうすることもできない」



お父さんと話していた時とは全然違って、落ち着いて思っていることを言える。


苦しかったことも悲しかったことも全部。

言葉で伝えることができる。



「家の中はわたしの居場所が、なくて…ずっと苦しいの。……それなのに、そのことにお父さんは全然気づいてくれてなくて…」



俯くと、ポロっと涙が落ちた。

そこで泣いていることに気づいた。



「再婚相手の裕子さんにも、優しくできなくて……、だって、お母さんだと思えないし…お母さんの居場所に裕子さんが、いるから…っ」



涙が邪魔で視界がぼやけてくる。


それを拭いても拭いても溢れだしてくる。


桜太くんはなにも言わず話を聞いてくれていて、握った手はそのまま繋がれていた。



「どうしてなんだろうって…、どうして、お母さんなんだろうって…どうしてお母さんが死ななきゃならなかったのかって…」



言葉と感情はとめどなく溢れてくる。


今まで必死に溜め込んできていたものが一気に溢れだすと、それはもう誰にも止められなかった。



「苦しくて苦しくて、それなのに……誰にも相談できなくて…。この苦しみから逃げたかった……っ」



あのまま車に轢かれていたらわたしはお母さんの元へ行けたかもしれないと思うと、今生きていることが嫌になってくる。



それでもあの時、たしかに感じたものは、紛れもなく恐怖だったーー


目の前をものすごいスピードで通り過ぎた車を見て、息が止まりそうだった。

あの時、桜太くんが引っ張ってくれなければ、わたしは間違いなく死んでいた。


それを思うと怖くて怖くて、さらに手の震えは止まらなかった。



「…うん。澪、もういい。話さなくていい」



そう言って目の前で苦しそうに顔を歪める桜太くんが見えた。


わたしと同じように苦しんだ過去を持っているのに、立ち直っていつも明るかった桜太くんは、今とても苦しそう。



もう、話すのは苦しい。悲しい。


でも、まだ、本当の心の叫びを言えていなくて、わたしは言葉を続けた。



「……分かってる。ほんとは、分かってる。……裕子さんが優しく接してくれてるのも、ちゃんと分かってる。でも、どうしてもそれを受け入れられない…」



わたしは、分かってた。


分かっていたけど、それを認めてしまったらお母さんが一人ぼっちになる気がして可哀想だと思ったんだ。



「……毎日作ってくれるご飯も、ありがたいと思ってる。優しくしてあげたいのに…、苦しんでるのは自分だけなんだと思うと、人に優しくしてあげられない」



再婚してから家が賑やかになった。


それは間違いなく裕子さんたちがきたから。

お父さんも本当は寂しかったのかもしれない…

再婚してからは、よく笑うようになった。



その姿を見ると、なんだか悲しくなった。


まるでお母さんのことを忘れて幸せになっているような気がしたから……。

それでお父さんにも裕子さんにも優しくしてあげることができなくなってしまった。


天国にいるお母さんが一人ぼっちになってしまうと思ったからどうしても受け入れたくなかったんだ。



「でも、ほんとは分かってたの……」



こんなことをしてもきっとお母さんは喜ばないってこと、頭ではわかってた。


分かっていたけど、できなかった。

優しくしてあげることができなかった。



お母さんは心の狭い人ではなかった。

怒られたことも一度もなかった。


むしろよく褒めてくれたのを覚えている。

そんなお母さんが、こんなこと望んでいるわけじゃないし喜ばないことくらい、多分ずっと知っていた。



知っててそれに蓋をして、ずっとずっとお父さんを責めてきたし憎んできた。


人を憎んでもそこから生まれるのは憎しみでしかなくて、結局なにも変わらないことくらい理解してた。


それでも、できなかったーー



「……それって、澪がお母さんのことを大事に思ってるから、お母さんのことが大好きだから、…だからお父さんにも覚えててほしかったんでしょ。お母さんのこと忘れてほしくなかったんでしょ?」


と、ポツリと呟いた桜太くん。



わたしの本当の心の叫びはそれだった。


わたしの心の真ん中にはいつもお母さんがいて、お母さんが全てだった。

だから、お母さんを忘れてしまったお父さんが憎いと思った。



ーーでも、それはお父さんに聞いてないから本当の思いは分からなかった。

聞いてもいないのに決めつけていた。


お父さんのいつもの笑顔を見て、それだけでなにもかも決めつけていた。



「……わたし、最低だ…っ」



お父さんにひどいことたくさん言った。

傷つけることたくさん言った。



「澪は最低じゃない。それが、その時自分を守るための行動だった。」


「えっ……?」


「自分を守るための行動が結果的にお父さんを傷つけることになっていたとしても…、それは澪が悪いわけじゃない」



そう言ってわたしの涙を拭う桜太くんの手はとても優しかった。



「必死だったら誰だってそうなる。澪だけじゃない、俺だって同じだよ。澪が悪いわけじゃない。……誰が悪いとかないんだよ」



その言葉は、真っ直ぐわたしの心の中に入り込んできて、今まで凍ったように硬かった心をゆっくりと優しく溶かしていくようだったーー



ほんの少し前までは苦しくて苦しくて死のうとまで考えてあんなことをした自分が子供のように思えてきて、少しだけ恥ずかしかった。



それと同時に死ななくてよかったと思ってしまった。


だって、死んでしまったら、もうお母さんを思い出すこともできなくなってしまうから……。

懐かしい思い出を振り返ることができなくなってしまうのは嫌だった。



今、ここにいるからこそ、そう思える。


桜太くんが繋いでくれた命。

大切にしなきゃいけないと、思ったんだ。



「……わたし、まだ、生きていたい……っ」



お母さんの分も生きて、楽しい思い出も綺麗な景色もたくさんたくさん見て話してあげたい。

お母さんにもらった命、粗末に扱ってしまったら、きっとお母さん悲しむ……



お母さんがわたしを生んでくれた。

大切に育ててくれた。


死んでしまったらそれを全部否定するのと同じで、お母さんを否定したのと同じになってしまう。

そんなのは嫌だった……。



「うん。…きっと天国にいるお母さんも、澪に生きてほしいと思ってるよ」


と、言った桜太くんのその言葉が、お母さんに言われたような気がしてたまらなく悲しくなった。



生きたくても生きることができなかったお母さん。

それなのに一度でもこの命を投げだしてしまおうとした自分が情けなくて、それがどういう意味を表すのか考えるとお母さんに申し訳なかった。



「俺が、澪の苦しみをもらうから。……だから、どうかもう死ぬなんて考えるな」



ーーと同時に、ギュっと抱きしめられる。


胸の奥の温かい鼓動の音が聞こえて「ああ、わたし、まだ生きてる……」そう思うと、心底よかったと思って、また涙が溢れだす。



桜太くんは初めから優しかった。


その優しさが、ふとした時、怖かった。

わたしの苦しみに気づいて、この汚い感情に気づいたら、どうなるんだろうって、ずっとずっと怖かった。


ーーだけど、その優しさに無性にしがみつきたくなる時だってあった。



入り混じる感情に揺られながらわたしは、桜太くんを突き放すことを決めて何度も傷つけた。

それなのに桜太くんは何度もわたしに向き合おうとしてくれた。



「澪は、もう一人じゃない。俺がいる。俺が、ずっと傍にいてやるから」


と、言って、わたしを強く強く抱きしめた。



背中に回る腕はわたしを優しく支えて包み込む、全部受け止めてくれるようなたくましいもの。


桜太くんの胸のシャツをギュっと掴んで、思わず声を上げて泣いた。



「安心して。…もう、大丈夫だから」



誰かに苦しみを打ち明けたのは初めてだった。


男の子に抱きしめられたのも初めてだった。

男の子に安心したのも初めてだった。



今までずっと我慢して押し殺していた感情の蓋が外れた途端に思いきり桜太くんの前で泣いてしまっているわたしは、なにも考えられずに、全て忘れて泣き続けた。



のどの奥が、ギューっと苦しかった。

息ができないくらい苦しかった。


それを、桜太くんが解放してくれたんだーー



「澪の人生はまだこれからたくさんある。失った感情も少しずつ取り戻せばいい。俺も、そん時は手伝うから。な?」



わたしの頭を、ポン、ポンと撫でてくれる。



桜太くんの低くて優しい声が、安心する。


わたしを抱きしめる腕が温かくて、胸の奥から聞こえる鼓動が生きてる喜びを実感させる。



「夢や目標がないなら今から探していけばいい。今まで苦しかった分、たくさん楽しいことしてたくさん笑おう。そしたらきっとお母さんも安心してくれる」



溢れる涙は、ポタポタと、桜太くんのシャツにしみをつくっていく。


今まで一人で抱え込んでいたこの苦しみを、誰かに打ち明けるだけでこんなにも気持ちが違うんだと、今気がついた。


それを桜太くんは教えてくれた。



解決したわけではないし、家族との距離も縮まったわけではないけど、それでもわたしの中でなにかが変わった気がした。


それは、きっと他の誰でもない桜太くんのおかげだと思ったーー



思いきり泣いたあの後、冷静になると、その恥ずかしさはかなりあって顔がやたらと熱くて桜太くんの顔を真っ直ぐ見ることができなかった。


そんなわたしに桜太くんが言った言葉。



『どこにいたって必ず探しだす。澪がこの先ずっと安心して歩けるように俺が、澪の道しるべになるからーー。』



そう言って、いつものように優しい笑顔を見せてくれて、それだけでなんだかホッとしてしまった。



桜太くんにとっては何気ない言葉で、わたしをただ安心させるための言葉なのかもしれないけど、わたしにとってそれは宝物みたいなものだった。


そんなことを言われたのが初めてだったから、嬉しくて照れくさくもあった。



死のうと考えた人間がここまでまともになれたのは桜太くんのおかげであり、桜太くんに打ち明けたからこそ心が少し軽くなって、壊れた心が修復している証拠なのかもしれない。


お父さんたちとの関係は、まだまだ時間がかかりそうで自分でもどうしていけばいいのか分からなかったけど、お母さんのことを思うとこのままでいいわけがなかった。



天国から心配そうに不安そうにわたしのことを見ているに違いなかった。

お母さんを安心させるためにわたしがするべきことは決まっている。


でも、きっかけがないとできそうになかった。



その日、そのまま家に帰ることができなかったわたしを心配して桜太くんが泊まるように提案してくれた。

わけを聞いたおばあさんも納得してくれた。


そして、わたしの代わりにお父さんに電話をしたのは桜太くん。

受話器から微かに漏れた声はお父さんのもので、その言葉を聞いてわたしは少しだけ泣きたくなった。


電話を切ると、桜太くんが心配な顔を向けてきて、わたしの頭を優しく撫でてくれた。



その時、耳元で呟いた言葉ーー



『お父さん、澪のことすごい心配してた。明日帰ったら、ちゃんと話し合った方がいい。澪たちは、まだ話し合うことができるんだ。それを失ってからじゃ遅いんだよ』



桜太くんの言葉には重みがあった。



わたしたち家族は、ちゃんと心から向き合って話すことができていなかった。

だからこうやってすれ違いが起こった。

そして自分も傷ついて相手も傷つけてきた。


ちぎれそうになっている糸をまた結び直せば、わたしたち家族は元に戻ることができるのだろうかーー


この日が土曜日でよかったと、心底思った。





翌日、朝早くに帰ることになったわたしは昨日のこともあり落ち着かなくて、まだ気持ちがぐらぐらと揺らいでいた。



「澪、きっと大丈夫だから」



そう言ってわたしの隣を歩いてくれる桜太くんの髪は、さっき起きたからかまだ寝癖がついていた。


午前9時過ぎの日曜日。


昨日の雨はすっかり止んでいて、降り続いた雨のせいでアスファルトの上にはあちこちに水たまりができていた。

その水たまりに日の光が反射してキラリと光る。


葉っぱの上にのっている雫が綺麗に透き通っていて、それがぽたりと地面に落ちると葉っぱも微かに揺れる。


時折、吹く風は生ぬい。


隣からシトラスの匂いが、ふわりとその風にのってやってくる。



大通りに出ると車が多くなり、ふと、気づくと桜太くんが車道側に移動していた。


わたしの視線に気づくと、優しく微笑んだ。

その優しさが、急に照れくさく感じてパッと目を逸らして俯いた。


どきどきと、小さく暴れだす心。


それがなにを意味するのか、きっともう知っている。自覚している。


でも、わたしはーー…



「澪、前危ない」


と、言ってわたしの肩を抱いて自分の方に引き寄せる桜太くん。



目の前に電柱柱があることに気がつかなかったわたしは、あのまま歩いていたらきっとぶつかっていた。



「考えことしながら歩くと危ないぞ」


「え、あ…うん」



どきどきが、落ち着かなかった。

触れられた肩がやたらと熱かった。


なんの躊躇いもなく、さりげなくそれをする桜太くんは、きっとこんなの大したことないはずで、わたしだけが意識しているようだった。


その感情に名前をつけてしまえば後戻りはできない。

だからわたしはそれに蓋をする。



「澪ってさー」そう言ってわたしの方を見る。



「見た目はしっかりしてるように見えるけど案外抜けてるとこあったりするよな」


「そんなこと、ない、けど…」



桜太くんの方を見ると、空高く昇っている太陽の日の光がわたしの元へ真っ直ぐきていて眩しくて目を細める。



「あと、可愛いとこあるよな」



そう言ってハハッと笑う桜太くんの、その言葉を聞いてピタリと足が止まったわたし。


それに気がついて振り向いて声をかける。



「ーーあ、なんでも、…ない」



桜太くんの言う「可愛い」は特に深い意味はなくて、だから、変に意識する方がおかしいんだ。


桜太くんの隣まで駆け寄ると何事もなかったかのように、また歩きだす。



* * *



家の近くの公園までやって来た。

もうすぐで家が近づいていると考えただけで思わず足がすくんだ。



「ちょっと寄らない?」



わたしの返事を待つわけでもなく、一人だけ先に公園に入って行くその姿は、最初の時に見たのと同じだった。


その後を黙ってついて行く。


案の定、昨日の雨のせいでブランコに座ることはできそうになくて、立ったまま立ち止まった桜太くん。

いきなり振り向いてわたしと視線を合わせたーー



「澪、まだ不安?」



その言葉に小さく頷くと、「そっか」と言う。


さっきまでの明るい雰囲気とはいっぺんして、桜太くんが纏うものは違って見えた。



「澪は、一人じゃないからな」


「…桜太、くん…?」


「澪には俺がついてる。だから、大丈夫」



わたしを勇気づけるためにその場のノリで言った言葉なのかもしれないけど、それがわたしにとっては心強いものでもあったんだ。



「不安だろうけど怖いだろうけど、お父さんとちゃんと話し合ってこい。澪たちはまだ間に合う。やり直すことができる。」


そう言うと、わたしに近づいて頭を優しく、ポン、ポンと撫でてくれた。



「澪が今まで心の中に溜め込んでいたものを全部お父さんに伝えたらいい。隠そうとしなくていい、もう我慢しなくていい。」


「……伝え、られるかな…」



お父さんを目の前にすると、今までのいらいらとかをぶつけてしまいそうで怖かった。



「今の澪ならきっと大丈夫。俺が保証する」


そう言って、ニカッと笑うと八重歯が見えて、なんだか可愛いな、と思ってしまった。



* * *



それからまた家に向かって歩きだした。


隣で静かに歩く桜太くんを見て、視線が合うと優しく微笑んで、そしてまた前を見る。


一歩一歩近づくたびに不安とどきどきが入り混じり、逃げだしたくなるけど、今回はもうそんなことはしなかった。



「…つ、ついた……。」



家の前に立ち止まり、ゴクリと息を飲む。


少しだけ震えだす手。

それをギュっと優しく繋いでくれた。



「澪、大丈夫。落ち着いて」



視線が合うと数秒見つめられ、そしてまた優しく微笑んだ。


最後まで桜太くんはわたしのことを支えてくれて、背中を押してくれた。

それがどれだけ心強かったか、きっとわたしだけしか知らない。



自分の家なのにインターホンを押すのは違和感があったけど、押すと数秒して、ガチャっと玄関が開いて、現れたのは昨日のあれ以来会っていなかったお父さんだった。


その表情はなんだか疲れきって見えた。



「……澪…帰って来たか。よかった…」



そう言って目頭を押さえたお父さん。


その瞳には、少しだけ光るものが見えたような気がした。



「あの、昨日はいきなりすみませんでした。」


「あー、いや。いいんだ。…こちらこそ迷惑をかけてすまなかった」



わたしの隣に並んでお父さんと話す桜太くんの姿は、今まで見たことのない真剣な眼差しをしていて、数秒その姿に吸い込まれた。



「じゃあ俺帰ります。」


と、頭を下げると、一瞬だけわたしの目を見て優しく微笑んだ。



その瞳の奥から「がんばれ」と言われているような気がして、また背中を押された。


今来た道を今度は一人で帰って行く桜太くんの後ろ姿は、たくましくて、かっこよかったーー



* * *



家の中に入ると、昨日まで感じていた苦しさや重さはほとんどなくなっていて、少しだけ息が吸いやすく感じた。



「…澪ちゃん…っ!」



リビングに入ると、裕子さんが駆け寄って来て、その顔には涙が溢れていた。


今まで真っ直ぐ見ることができなくて目を逸らしてばかりだったけど、それが今はできている。


裕子さんの顔をちゃんと見ることができた。

その表情は、悲しみが伝わってくる。



「とにかく一旦座ろう」


そう言うと、お父さんも裕子さんも椅子に座る。



少しの間、静かな時間が流れる。


きっとみんな同じなんだと思った。

なにから話せばいいのか、どう切りだせばいいのか、みんな分からないんだと思った。



今まで家にいることが苦しくてしかたなかったけど、今は不思議と落ち着いている自分に驚きつつも、それがきっと当たり前なことだった。


それを今まではできなかっただけのこと。


「ゴホンッ」とわざとらしい咳払いをすると、静かに重たい口を開いたお父さん。



「澪。昨日はすまなかった」


そう言って、小さく頭を下げた。



「昨日はあまりにもカッとなって、つい、手が……本当に悪かった、すまん」



叩かれた頬はもう痛くなかった。

それよりも今は心が痛かった。


目の前で謝るお父さんの姿が、いつも以上に小さく見えて弱々しかったから。



のどに何かが詰まったみたいに言葉がでない。

なにか言わなきゃ、なんて言おう、とそればかりを考えて、時間はただ過ぎるだけ。



桜太くんと約束した。


だから、ちゃんと話し合わなきゃいけない。

ここで逃げだしてしまえば、きっと修復不可能になってしまう。

それだけはだめだと思ったんだ。



「……あ、の……。」



言いかけて止まる。

なんて言えばいいのか、分からなかった。


お父さんと裕子さんの視線を感じて、一気に焦りだす心を落ち着かせようと、膝の上で拳をギュっと握りしめてもあまり意味はなかった。



「…父さんから話してもいいか?」



わたしが頷くよりも前に、話し始めた。



「母さんが亡くなってから澪が塞ぎ込むようになったのは知ってた。知ってたけど、どうしてやればいいのか分からなかったんだ…」



その表情は、昔のことを思い出して悲しげ。



「俺は親だから落ち込んでいたらだめだと思って、澪の前ではなるべく明るく振る舞おうとした」



お父さんの言葉を聞くと、『やっぱりわたしはお父さんの気持ちを決めつけていたんだ』と知り、少しだけ後悔した。


今まで自分がお父さんに対してして八つ当たりしていたことを思い出して、情けなく感じた。



「でも」そう言って、止まる。


そして数秒時間を置き、また話し始める。



「母さんの死を受け入れられなかった。」



その言葉を呟いた後に、顔を歪めるお父さん。


その表情は、とても苦しそうだった。


なにか言ってあげたい、そう思っても、のどに違和感があって言葉が出てこない。



「今まで仕事ばかりしてきた俺は、その時自分を何度も責めた。」



知らなかったお父さんの過去。

そして苦しみ。



「…そんな時、裕子と出会った。」



そう言って、隣にいる裕子さんを見た。


裕子さんを見るお父さんの目も、お父さんを見る裕子さんの目も、悲しそうだった。



「…でも、俺はもう結婚する気はなかったんだ」


「……え?」


「母さんになにもしてやれなかった。その後悔もあって、俺は一生一人でいようと思った」



ーー知らなかった。


お父さんが、そんな風に考えて苦しんでいたなんて、わたし全然知らなかった。


どうしてわたしは自分のことばかりだったんだろうと、どうしてお父さんの苦しみに気づいてあげられなかったんだろうと、自分を責めたくなった。



…でも、わたしも一生懸命だった。

あの時は、自分のことに精一杯で、周りを見ることができなかった。



きっと、お互い同じだったのかもしれない。


もう少し心に余裕があれば、お父さんの苦しみに気づいてあげられたかもしれないし、わたしの苦しみに気づいてくれたかもしれない。


二人とも、生きるために必死だったんだ。



「ちょっと待っててくれ」



そう言って、ゆっくりと立ち上がるとリビングを出て行って一分も経たないくらいに帰って来た。その手には何かを持っていた。


そして、それをテーブルの上に置いた。



「これ、母さんが残した手紙だ」



その言葉はあまりにも衝撃的だと思った。



「再婚するつもりは、なかった。…でも、これを読んで少しだけ考えが変わったんだ。自分のためではなくお前…澪に幸せになってもらいたいと思って再婚をしたんだ」



どうして再婚がわたしの幸せに繋がるのかと不思議に思い、お父さんの言葉の意味が分からなかった。


だって、お父さんが再婚した結果、わたしは苦しむはめになってずーっとこの苦しみの中生きてきたのに、わたしは、なんで? なんで?とそればかりだった。



「本当は澪には内緒にしてくれと頼まれた。が、もうここまで関係がこじれたら見せるほかなかった」


と、言ってその手紙が入っている封筒をわたしの前に差し出して、それを静かに受け取った。



手元にあるお母さんの手紙。


この存在をわたしは今まで知らされていなかったし、今ここにあるものでさえも本当にお母さんが書いたものなのか信憑性が薄かった。


ーーけど、封筒を開けて手紙を見ると間違いなくそれはお母さんの字だった。


少しだけいびつになっている文字もあり、それがあの時のお母さんの苦しみ辛さを表しているようで、ギューっと心が苦しくなった。




【和史さんへ】



わたしの命はもう残りわずかです。

先生は「頑張りましょう」「可能性はあります」そう言って励ましてくれるけど、自分の身体のことは自分がよく分かっています。

なのでまだ鉛筆を持つことができる今、わたしが思っていることを書きます。

きっと面と向かって言えそうにないので、手紙で残すことを許してください。


わたしがいなくなった後、和史さんも澪も悲しむのは分かっています。

だからこそ言わせてください。


わたしの死に向き合うことができた時は、前を向いて明るい未来を生きてください。

このまま一人ぼっちで生きることを考えるのはやめて、和史さん自身が幸せになってください。

死ぬまでずっと一人だなんて、そんな悲しいこと思うのはどうかやめてください。


人は一人では生きられません。誰かの支えが必要です。和史さんにもそれが必要です。

後悔に苦しむのではなく、未来に向かって希望を持ってください。


人生はまだまだこれから長いです。

和史さんの幸せを願って、わたしは上から見守っています。

幸せな家庭を築いてください。


そして時々わたしのことを思い出してくれると嬉しいと思っています。

和史さんには今までたくさん幸せをもらいました。

わたしは幸せ者でした。

だから今度は和史さん自身が幸せになって……



それと、もう一つお願いがあります。


わたしたちの大切な娘、澪のことです。

澪は人一倍頑張り屋でわがままも言わない優しい子ですが、それと同じくらい寂しがり屋です。

寂しいのに寂しいとは言いません。

苦しいのに苦しいとは言いません。

わたしに似て、我慢してしまう子です。

一人で抱え込んでしまいます。

それだけはどうか見逃さないであげてください。

澪が苦しんでいる時に気づいてあげてください。


澪は一人でも平気そうに見られがちですが、本当はそうじゃありません。その逆です。

なので、きっとわたしがいなくなった後、とても悲しむ姿が見えています。

わたしはそれがとても苦しいです。

澪に悲しい思いをさせてしまうのが一番苦しい。


そして、大好きな澪の成長を見ることができなくなるのはとてもとても苦しくてなりません。

天国に行くわたしの代わりに澪の成長を近くでたくさん見てください。

澪が幸せになるように支えてあげてください。

澪が幸せに笑う姿がわたしは大好きです。

その笑顔を守ってあげてください。


澪は、きっと一人で抱え込んでしまうので、それだけは見逃さないであげてください。

小さな変化でも拾ってあげてください。


どうか、どうか、お願いします。



本当のことを言うともっと生きたかった……

生きて生きて、生きたかった。


和史さんと一緒に澪の成長を近くで見て喜びを分かち合いたかった。

たくさん思い出も作りたかった。

写真もたくさん撮りたかった。


澪の成人式にも出たかったし、澪が結婚する姿を見てあげたかった。

最後まで澪の成長を一番近くで見ていたかった。

澪のお母さんとして最後まで………



死ぬと分かっていると生きたい思いが強くなって、死ぬのが怖くなります。

夜寝て、そのまま目が覚めなかったらと思うと、夜寝ることも怖くなります。

次の日、目が覚めると「ああ、今日も生きてた」「よかった」と思います。



本当はまだまだたくさん書きたいことはある。


でも、読むのが大変になってしまいそうなので、このくらいにしておきます。

苦しい言葉は残したくありません。

だって、きっとわたし以上に残された方が苦しみを抱えて生きることになるから…。

だから苦しみは全部わたしが持っていきます。

和史さんの苦しみも澪の苦しみも、わたしが全部全部一緒に持っていきます。


どうか二人は幸せになってください。

それがわたしの最後の最後のお願いです。



本当に今までありがとう。

わたしは誰よりも幸せでした。


天国から和史さんと澪を見守っています。



【香奈】




手紙を読み終えた後、わたしは泣いていた。


お父さんたちの前で泣いたのは初めてだった。


だけど我慢することができなかった。

自然と流れていた涙は、純粋すぎるくらいに綺麗なものだった。


ぽろぽろと溢れだす涙は蛇口が壊れたみたいに止まらなくて、次々に頬を流れていく。



悲しかった。苦しかった。


お母さんはこれをどういう気持ちで書いていたのかなんてすぐに分かるくらい手紙の向こう側からお母さんの悲痛な胸の内が聞こえてくるようで、あの時の思いが真っ直ぐに伝わってきて、痛いほど苦しかった。


手紙に頬から流れた涙がポタリ、ポタリと落ちて一つずつしみを作っていく。



「…母さんは俺たちの幸せを願ってた。」


「………う、ん……っ」



手紙を読んだらそれは伝わってきた。


お母さんは幸せを願ってた。

後悔に苦しむのではなく、未来に向かって希望を持ってください、と。

自分のことよりもわたしたちの幸せを最後まで願ってくれていた。


それが、とても悲しかった。



「澪は母さんが大好きだった。それは痛いほど分かっていた。……だから、その穴を埋めてやらないといけないと思ったんだ…」


そう言って、目頭を押さえた。



「家族が増えたら少しは元気になってくれるじゃないか、前向きになってくれるんじゃないか、そう思ったんだ。……でも、そうはならなかった」



お父さんがそんなことを考えていたなんて全然知らなかったし、気づかなかった。

お母さんのことを忘れて自分だけ幸せになってると、ずっとそれを憎んでた。



……でも、実際はそうじゃなかった……。


言ってくれなきゃ分からないよ……


言葉で言ってくれないと伝わらないよ……



「それからずっと澪は父さんのことを避けはじめた。もう正直、どうすればいいのか分からなかった」


そう言って、ハア、と重たいため息をついた。



「母さんの手紙を何度も読み返した。どうすればいいのか聞きたかったのかもしれない……でも当然教えてくれるはずはなく、結局は自分がどうにかしなきゃいけなかったんだ。でも、最近の俺はそのことから逃げてたのかもしれない」



涙で視界がぼやけてきて、それを拭うと、目の前にいるお父さんは苦しそうに悲しそうにしていて、その姿を見てまた涙が溢れてくる。


隣にいる裕子さんも同じように涙を流していた。



「でも」そう言って、数秒黙る。


そして、またゆっくりと話しだすーー



「昨日喧嘩をした時。…澪がいなくなった後、静かになったこの家を見て『このままじゃだめだ』そう思った。母さんが一番気にかけていた娘である澪のことから逃げたらそれこそ後悔すると思った。」


そう言って拳を強く握りしめるお父さん。



「澪に幸せになってもらわなきゃ母さんに合わせる顔がなくなる。…娘である澪に幸せになってもらうのが俺たちの願いだ」



その言葉に込められた思いは強かった。


痛いほど真っ直ぐに伝わってくる。



今までこうやって面と向かって話し合ってこなかったからここまでこじれた関係になって、お互い苦しんできた。

家族でも話し合うって大事なんだなって思った。



ーーその時、ふと、桜太くんの顔が浮かんで、『こういうことだったんだな』そう思った。



「……わたし、知らなかった。」



自分の心の中のまだ言えていない、今まで抱え込んできたものを話し始める。



「…自分のこと…で精一杯で、お父さんが…苦しんでたなんて全然、気づかなかった…。お父さんは、お母さんのことを忘れて、幸せになってるんだ、って…ずっと思い込んでた」



泣いているわたしはうまく言葉を繋げることができなくて、途切れ途切れになるその言葉にありったけの思いをのせていくーー



「わたしと同じように、苦しむお父さん…を、わたし、ずっと知らずに憎んできた…っ。たくさん八つ当たりした。…再婚したのも、早く帰って来るように…なったのも全部、わたしの、ため…だったなんて知らなかった…っ」



ずっと、ずっと、憎んでた。

ずっと、ずっと、恨んでた。


それが全て間違いだったと、今知った。



家族だから言わなくても伝わる。家族だから何でも気づいてくれる。



ーーそうじゃない。わたしたちは普通の人間で、人の心を読み取る魔法みたいなことなんて使えないし特別な力なんかない。あるのは言葉だけ。話し合うことでしかお互いの気持ちを理解するこができない、ただの人間だ。


伝えたい思い、伝えたい言葉、それを向き合って話し合うことしかできないんだ。



それなのにわたしは今まで全部を諦めて、自分は悪くない、お父さんだけが悪いと憎んで恨んできた。


わたしだけが苦しくて可哀想な人間なんだと思い込んでいた。



「言葉で言って、くれなきゃ…分からないよ。……でも、それをさせなかったのは、わたしだよね…。逃げてたのは、わたしも…同じだ…っ」



苦しい現実から目を逸らして、お父さんと向き合うこともしなくて、ずっとずっと逃げてきた。



「…わたし、ずっと寂しかった。」



短いそれだけの言葉なのに、どうしてもそれを言うことができなかったのは、お父さんも裕子さんもわたしとは違って幸せにしていると思っていたからそんなこと言えなかった。


それに天国で一人ぼっちのお母さんのことを思うと、わたしが寂しいって言っていいのかも分からなかった。



「…お母さんがいなくなって、わたし一人ぼっちになったと思ってた。…ずっと、そう、思い込んでた。」



どうしてわたしだけ幸せになれないんだろう、どうしてわたしばかりが不幸になるんだろう、どうして世界はこんなに不公平なんだろう。


たくさんの疑問が次々と浮かんでいた。



でもーー、それは全部わたしの勘違い。


あの時、お母さんの死を受け入れることができなかったのは、お父さんも同じ。

その苦しみから目を逸らしていたのかもしれない。



「お父さんも苦しんでた。…ずっと苦しんでた。…それ知らなくて、再婚して自分だけ幸せになって、お母さんのこと忘れたんだって…。ずっと、そう思い込んでた…」



最後までお父さんのことを心配して、最後までお父さんの幸せを願い、そして天国にいる今もわたしたちの幸せを願ってくれているお母さんのことを思うと、ずっとお父さんが憎かった。


手紙の存在を知らなかったわたしは、一方的にお父さんだけを責めていた。


でも、それは間違いだったーー。



「……お父さんは、お母さんのこと…、最後まで大好きだった? ちゃんと、愛してた?」



気がつけばそんなことをお父さんに聞いていた。



お母さんの残した手紙には、「幸せでした」そう書かれていた。


きっと本心なんだと思った。

だってこれが最後だという別れの手紙を残す時に嘘なんて誰も書かないはず。

心の底から思っていることを書き記す。


天国にいるお母さんの代わりにその言葉を聞きたかったのかもしれない。答えを知りたかったのかもしれない。


目の前にいるお父さんは一度ゆっくりと目を閉じて、そして、またゆっくりと目を開けるーー



「…ああ。もちろん、愛してた。それは今も変わることはない」


と、力強くその言葉を呟いた。



その言葉を聞いて確信した。


お母さんが「幸せでした」と残したその言葉に嘘なんてなく、同じようにお母さんのことをずっと愛していたお父さん。

そして今もまだ、その思いは続いている。


きっと、お母さんも聞いてると思った。

見えなくてもここにいるような、そんな気がしたんだ。



「…ずっと、お父さんを憎んでた。責めてた。……なにも知らないのに、わたしひどいことばかりしてた…」



素直になるって難しい。

謝るって難しい。


些細なことなのに、少し前までの自分は、それがとても難しかった。



「……ごめん、なさい…」



今まで言うことのできなかったその言葉を言った後に、さらに溢れてくる涙。


ようやく言うことができた。


桜太くんが背中を押してくれた。それがなければきっと今もまだこうやって向き合うことができなかったかもしれない…。



「…うん。父さんもすまなかった」



目の前で頭を下げるお父さん。

テーブルの上に、ポタリと、一つの雫が静かに落ちた。


自分は父親だからと、親だから、明るく振る舞わないといけないと。

そう思っていたお父さんは苦しみを隠して今までわたしに接してくれていたんだと思うと、胸が張り裂けそうだった。



「…澪ちゃん。あのね…」



そう言って、今まで静かにわたしたちの話を聞いていた裕子さんが話す。



「わたしは実のお母さんではないし本当のお母さんにはなれないけど…それでも澪ちゃんのこと、娘だと思ってるから…っ」



今まで裕子さんにも八つ当たりをしていて、冷たい態度ばかりを取って、母親気取りなんてしないでほしいと何度も何度も思ってきた。



ーーけど、今の裕子さんの姿は、母親そのもののように見えた。


わたしの苦しみを理解して受け入れて、涙まで流してくれる裕子さんは、本当は優しい人なんだってこと、きっと、ずっと知ってた。

分かっていてそれに気づかないふりをした。



きっと、裕子さんだって苦しいはずだった。

苦しくないはずがない、平気でいられるはずがない。裕子さんだって普通の人間で、悲しむし苦しむし、そんなの当たり前なんだ。


眉を下げて悲しむ姿、何度も見てきた。

何度もその顔をさせてしまった。


それなのにいつも変わらずに裕子さんは、わたしに話しかけてくれたしご飯も毎日作ってくれていた、そんなありがたいことをわたしは全部、突っぱねてきた。



「澪ちゃんの心の中にはお母さんがいて当然だと思う。…お母さんの代わりになろうなんて思ってないの…。」



少しずつ言葉を繋いでいく裕子さん。


涙を拭いながら、それでも視線はわたしの方を真っ直ぐ向いていた。



「………ただ、少しでも、澪ちゃんのことを支えてあげられたらいいなって、ずっと思ってた…。澪ちゃんの力になってあげたかった」



裕子さんの気持ちも全然知らなかった。

考えようともしなかった。



「……ごめんなさい。今まで、澪ちゃんを苦しめてきて、ごめんなさい…っ」



何度も『ごめんなさい』と呟く裕子さんは、子供みたいに泣くその姿が、まるで自分を見ている気分になってのどの奥がギューっと苦しくなった。



その涙につられて、わたしも涙が溢れる。


どんなにたくさん泣いても涙は枯れることはない。

今まで我慢してきた分、溢れてしまえば、もう止めることなんて不可能だった。



「……ごめんなさい…っ」



小さな、か細い声で、何度も呟いて、わたしにその言葉を繰り返し伝えてくる。



「……裕子さん、頭上げて。……べつに、裕子さんが悪いってわけじゃ、ないから……」



誰が悪いとか悪くないとかそうじゃなくて、結局誰も悪くなんてないんだ。

みんな自分を守ることで精一杯で、ただ、それだけだったんだ。



「…わたしも…、裕子さんにひどいことばかりしてた。ごめん……。」



今まで一度も言うことのできなかったその言葉を、今は、すんなりと言うことができた。



あれほど二人のことを嫌っていて憎んでいたのに、こうして向き合うことができたのは、きっと桜太くんの力が大きいんだと思った。

わたしにとって桜太くんは、やっぱりヒーローなのかもしれない。


困った時に、苦しい時に、真っ先に駆けつけてくれる桜太くんの存在に何度も救われた。


それは言い逃れのできない真実なんだ。



天国から見ていたお母さんがわたしが苦しんでいるのを見て、桜太くんと出会わせてくれたのかもしれないと思うと、なんだかそれだけでお母さんを近くに感じて安心してしまうんだ。


一人ぼっちだと勝手に思い込んでいたけど、気づいていないだけで、わたしは一人ぼっちではなかった。

お父さんたちに背を向けて違う方に歩いて行っていたわたしは、その真実に気づくことができなかっただけなんだーー



「澪」わたしの名前を呼ぶお父さん。


視線が重なると、お父さんの瞳の奥に、今までは映っていなかったわたしの姿が見えるような気がした。



「今まで苦しい思いをさせてしまってすまない。…でも、これからは違う。みんなで幸せになろう」


そう言って、微かに微笑んで見えた。



お父さんの言う「みんな」には、きっとお母さんも含まれていると、そう思った。

ここに手紙があるということは、もしかしたら見えないだけでお母さんもこの場にいるのかもしれなかったから。



お母さんの気配を微かに感じるような、懐かしいような、そんな感じがした。


握りしめた手紙から温かな温もりが伝わってくるようで、まるでお母さんに手を繋いでもらっているような感覚がする。


会うことは叶わないけど、きっと、わたしの心の中ではまだ生きているんだ。


だから、お母さんの温もりを感じる。



わたしたちは今、初めて向き合うことができた。


言葉を交わすことなく、ずっとすれ違ってばかりいたわたしたち。

それがどれだけ大切なことで必要な時間なのか、今はっきりと分かった。



まだ完全に家族の溝を埋められたわけではないし、これから時間もかかるかもしれないけど、今日こうして話し合うことができた。


それだけでも前進したんだと思う。


前を向いて歩き始めたんだーー。

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