第三章 噛み合わない歯車



珍しく家にいた週末。


今日もまたオムライスを食べに行こうかと思ったけど、おこづかい制のわたしのお財布は少しピンチだったため仕方なく喫茶店に行くことを断念した。


家には、全員がいる。

そのせいで部屋から一歩も出れない。


リビングに行けばお父さんと裕子さんがいるのは分かっているし、隣の部屋にも宗輔くんがいる。

何かを取りに行こうと部屋を出て誰かに会っただけで憂鬱な気持ちになってしまう。


トイレ以外は部屋から一歩も出てない。



「なんで自分の家なのに気を使わないといけないのか意味がわからないんだけど…」



そんなひとり言を呟くと、タイミング悪くトントンと、ドアが二回ノックされた。



「父さんだけど、ちょっといいか」


「……なに」



無表情で、ドアを開ける。



「話があるんだ」


と、わたしの返事も聞かないままリビングへ歩いて行くお父さん。


まるで拒否権はない、と言われているようで、それだけでいらいらしてしまった。



* * *



リビングに行くと、裕子さんの姿はない。



「ちょっと座りなさい」



休みの日にどうしてお父さんと座って話さないといけないのか意味が分からないまま、少しずつ湧き上がるいらいらを抑えておとなしく座った。



「最近、友達と外で食べてばかりじゃないか?」



一瞬、何を言われてるのか理解するのに時間がかかってしまった。



「せっかく裕子がご飯作ってるのにもったいないじゃないか」


「だから連絡してるじゃん」


「そういうことを言ってるんじゃない」



お父さんが何に対して気に入らないのかよく分からなかったけど、きっと裕子さんに何かを言われたからまた庇っているんだろうな、くらいにしか考えていなかった。



「家族みんなでご飯を食べるのが普通だろ」



当たり前のようにそう言ったお父さん。



お母さんがいた時はそんなことさえ言わなかったくせに、どうしてその言葉をお父さんが言うのだろうと、腹が立った。



「……んで、」


いつもいつもわたしをいらいらさせる。



「なんでいつもお父さんはそうなの……」



わたしが傷ついていることにも気づかずに、自分だけにこにこと幸せそうにしている。


わたしのことよりも裕子さんを庇う。

実の子である、わたしよりも………



「何も知らないくせに偉そうなこと言わないで」



こういう時だけ父親ぶるその姿さえ。

今のわたしには、いらいらを増幅させる材料にしかならなかった。



「何かあるなら言ってみなさい」


「お父さんに話すことなんか何一つないから!」



バンッとテーブルを叩いて立ち上がりリビングから出て行こうとするわたしに「待ちなさい」とお父さんの声が聞こえるけど、それを無視して行くと、廊下で会いたくないもう一人の人にぶつかった。



「…なにかあったの?」



裕子さんの息子の、宗輔くん。



「別に、なにも。」



いらいらが収まらないこんな時にそんなことを聞かれても教える気にはなれないし、赤の他人である宗輔くんに何かあったなんて教える必要はないと思った。


そのまま横を通り過ぎて部屋に戻った。



* * *



「……むかつく、何なの、あれ」



ああいう時だけ父親ぶって話を聞くとかなんとか言ってたけど、結局はわたしが最近外で食べて来るのが多いからそれをやめさせたいだけでしょ。


そう考えると、またいらいらしてくる。



結局お父さんなんて裕子さんの味方ばっかりして、実の子であるわたしが傷ついていることすら気づかないで、わたしばかりが悪いように責めてくる。


お父さんなんて嫌いだ。

嫌い嫌い、大嫌い。

そしてそれを思う自分も、嫌いだった。



* * *



そのままいつのまにか寝てしまっていて、目が覚めたのは、夕方17時頃だった。



「最悪。…一日無駄にした」



せっかくの休みなのに落ち着くところか、あの出来事を思い出しただけでいらいらして最悪な日になった。


リビング行きたくない。

ご飯食べたくない。

誰とも顔を合わせたくない。



なんて子供じみたことを思ってしまうけど、わたしからすれば本当に嫌なことなんだ。


どこにも居場所がなくて落ち着くところもなくて、いつも周りに気を使ってわたしだけが何もかも我慢をしている。


そんな毎日がもう疲れた。

うんざりだと思った。



それでも次の日はやってくる。


日が昇って、この世界を照らす。

そしたら一日の始まりなんだ。



「はあ。…疲れた。もう、嫌」



お母さんのところに行きたい。

お母さんだけがわたしを慰めてくれる。


こんな苦しい世界にずっと生きていないといけないと思うだけで嫌になった。



この家に必要なのはお父さんだけ。

お父さんのおまけでついてきたわたしは、誰からも邪魔でしかないんだ。


お父さんだってきっとわたしが邪魔になった。


だからこんな風に当たってきたり、わたしばかりが責められるんだ。



わたしだって好きでこの家にいるわけじゃない。

まだ高校生だから仕方なくいるわけ。


お母さんとの思い出がたくさんあるこの家は、わたしの宝物だったのに、そこに入り込んできた赤の他人がいるだけで、全部を台無しにされた気がした。



お父さんは新しい家族と再出発をしている。

裕子さんの息子の宗輔くんとだって仲よくしているお父さんは、もうわたしのお父さんではなかった。


もうそれでいいと思った。

全部いらないって思った。


こんなに苦しまないといけないのなら、全部捨ててしまえば楽になると思った。



──コンコンと、ノックの音がする。


「ご飯できたよ」と裕子さんの声がした。



でも、どうしても行く気になれなくて「お腹空いてない」とだけ答えた。



きっと、わたしだけが悪者扱い。

みんなみんなわたしを悪く言う。


優しく接してくれている裕子さんに冷たく当たってしまう、そこだけを切り取ってわたしだけを責める。


裕子さんがリビングに戻った後、ドアの向こうから今度はお父さんの声がした。



「食べないのか」


「お腹空いてないって言ってるじゃん」



わたしのことが嫌いなら、話しかけなければいいじゃん。無視すればいいじゃん。

裕子さんに言われたからってわざわざ無理して来なくてもいいのに。


わたしの心は、もやもやで支配されていく。



「家にいる時くらいご飯食べなさい」


「だから、お腹空いてない」


「そんな嘘が通用するはずないだろ」



ドアの向こうにいるお父さんは、怒っているようで、口調からそれが伝わってくる。



「早くしなさい。みんな待ってる」


と、わたしだけを責めるお父さん。



「だからいらないって何度も言ってるじゃん!」



ドア越しの喧嘩は少しずつヒートアップしていき、それに気づいた裕子さんと宗輔くんの声が後から聞こえてきた。


ドアの向こうにいる三人。

本物の家族のように振る舞う三人。


わたしだけが、一人ぼっちだと証明される。



それだけでなんだか悲しくなった。

居場所がないことを嫌でも感じてしまう。

それが苦しくてたまらなかった。



「…ゴホンッ。とにかく、何を怒っているか知らないがご飯だけは食べに来なさい。」



裕子さんたちになだめられたお父さんはそれだけを言い残して、スリッパの音が遠くに消えた。



部屋に一人残されたわたし。

心の中いっぱいに広がる虚無感が、わたしの身体を蝕んでいくようだった。



その日の夜、わたしはあのままリビングに行くことはなく、ご飯も食べなかった。



のどの奥がぎゅーっと苦しくて、

気がつけば涙が頬を伝っていたーー。





天気予報では晴れだと言っていたのに、学校についた途端に雨が降ってきてそれは次第に大粒の雨に変わり、外の景色は一変した。


青空もいつのまにか黒い雲に隠れてしまって、薄暗い天気で少し気味が悪いくらい。



「天気予報も当たらない時あるよね」


と、呟くめぐみは、鏡で髪を気にしながらむすっとした顔をしてみせた。



「最悪。湿気で髪がぼさぼさ」



いつも真っ直ぐ伸びているショートカットの髪が、今日の湿気のせいで毛先が少し広がっていて全体的にふんわりしているように見えた。



「雨っていいこと何もない」


「うん、たしかに」


「気分だってずどーんってなるし」



外がぴかっと光ると、カミナリが鳴り響く。


その瞬間「きゃっ」とめぐみが声を上げる。



「カミナリの音やだ……」



わたしの真正面に座っていためぐみが、いつのまにか隣にぴたりとくっついて耳を塞いでいた。


何もかもが得意なめぐみだけど、カミナリの音だけは苦手らしくて仲よくなった中学の時からすでに嫌だと言っていたのを思い出す。



「落ちた時のあの音聞くと怖くなる」



めぐみの身体はますます縮まっていた。

おそらく中学以前の時にカミナリが家の近くで落ちたことがトラウマになっているのかもしれない、とその言葉を聞いて思った。



「今日最悪の日だ」


「めぐみにもそういう日ある?」



なんだか意外だな、と思って聞いてみると、「あるよ!」と前のめりになって言ってくる。



「今日の運勢最下位で朝から最悪って思ってたんだけど、さらに雨降ってカミナリ鳴るし…、ここまできたら今日はとことんついてない」



また、ぴかっと光ると、その後にゴロロロロ…とカミナリの音が鳴り響き、めぐみが目をぎゅっと閉じて耳も塞いでいる。



「…もう、ほんとなんなの…!」


と、しまいには怒りだすめぐみ。


ぶつぶつと不満を呟きながら、カミナリが鳴ると耳を塞いで鳴り止むと離して、の繰り返しをすることおよそ三回。


雨がさらに強まって湿気も酷くなり、より一層めぐみは不機嫌になっていく。



「雨、ほんと嫌い。澪もそうでしょ?」


「まあ……。」


「それなのに澪の髪はいつもふんわりしてる!すっごく羨ましい!」



一つ結びをしていたわたしの髪を掬って、しばらくめぐみが触り心地を堪能する。


ふんわりと聞けば聞こえはいいかもしれないけど、癖っ毛のせいで櫛でといでも綺麗にならなくてボリュームのあるこの髪を、仕方なく一つ結びをして誤魔化しているだけなんだ。



「おまけに髪痛んでないもんね!」


「え、そう?」


「うん!」



髪質はよくお母さんに似ている、と小さい頃から何度も言われていた記憶がある。


癖っ毛でふわふわしていて真っ黒ではなく少し栗色がかっている髪。ーーを、お母さんが小さい頃から一つ結びをしてくれて、何度も「似合ってる」と言われて喜んだ。



それからわたしは一つ結びが好きになって、今でもこうしてこの結び方をしている。

それだけがお母さんとの唯一の繋がりみたいに感じて嬉しく思うんだ。



「澪、お母さん似だったもんね!」


「うん。よく言われてた」



昔はよく、言われていた。

現在進行形ではなく過去形。


同じ高校に入学したのは、めぐみの他にもう一人だけで、わたしのお母さんのことはほとんどの人が知らない。



それにお父さんが再婚したっていうことは、まだめぐみには言えていない。

再婚したのが、わたしが高校入って半年経った時くらいで、それからすでに半年以上が過ぎているのに、どうしても言えない。


お母さんが亡くなって五年、お父さんが再婚して新しい家族が増えたと聞けば、誰もが喜ぶことなのかもしれない。


でも、わたしにとってそれは喜びなんかではなく、ただの苦しみにしかならないということも誰も気づいてくれない。


こんな感情のまま、めぐみに話せるはずもなく、ひたすらこの苦しみを隠すほかなかった。



「ーーお、澪!」



その声にハッとすると、隣で心配そうにわたしの顔を覗き込むめぐみの姿が見えた。



「ぼーっとしてたけど大丈夫?」


「だ、大丈夫。ごめん」



わたしの家庭の事情を知ったら、めぐみは何と思うんだろう? 何て言うんだろう? 喜んでくれる? 祝福される? それともわたしを心配する?


分からない現実がとても怖かった。

めぐみに何て思われるのか、それが怖かった。


そう考えると、やっぱり言えそうにない。



「ほんとに?」



いつもならすぐに会話が切り替わるはずなのに、今日のめぐみは少しだけ違った。



「澪、なにか隠してない?」


「なんも ないよ」



笑って誤魔化すことをめぐみに気づかれてしまった以上、なんとかして逃げないと…と思っても、なかなかいい方法が見つからない。



「ねぇ、澪。やっぱりなにかあるでしょ?」



隣から真っ直ぐ見つめられるその瞳を、逸らすことができなくて追い詰められてしまった。

このままうまくやり過ごしてもきっといつかまた聞かれてしまう。バレてしまう。



ーーでも、まだわたしには時間が必要だった。


これを打ち明ける勇気も、自信も、まだ何もかも揃っていなくて、環境の変化を受け入れていない自分がいる以上はどうしても無理だった。



「……もう少し、待ってほしい」


「澪?」



これからのことなんて誰にも分からないし、知らなくて当たり前。


めぐみに打ち明けられる日が来るのか、それすらも何も分からない。

分からないけど、これ以上誤魔化すことは不可能だと諦めて自分なりに前を向いた。逃げることをやめた。



お母さんが亡くなってしまったことは、もう変えることのできない現実だけど、これから先のことはまだ変えがきくんだ。


自分が行動を起こせばどうにでもなる。

まだまだ未来は変えられる、と。



期待はしない、望みもしない。

お父さんにはもう何も思わない。

新しい家族と勝手に楽しくすればいいと思う。


そこにわたしの居場所は当然ない。


だったら、そこから消えたらいいだけのこと。

そうすればきっとこのいらいらもなくなる。



もう少し落ち着いた時に、めぐみに話せたらいいなと思うけど、この先自分がどうなるかなんてわたし自身にも分からない。


でも、だからこそ約束するんだ。



「話せる時がくれば話すから。……いつになるか分からないけど、待っててほしい」



わたしにその未来があることを願ってーー。



* * *



放課後、さらに雨は強まっていた。

そのせいで昇降口で立ち止まるわたし。


傘を持っていなくてどうしよう、どうやって帰ろうと悩んでいると、ポンっと後ろから肩を叩かれた。



「澪、なにしてんの」



後ろを振り向くと、思いのほか桜太くんの顔が近くにあって「わっ!」と驚いてよろけると、それをさらりと支えてくれた。



「澪、危なっかしすぎる」


「今のは桜太くんのせいじゃん」



「そうか?」と首を傾げて別に俺は悪くないけど、とでも言いたげな顔をしていた。



昇降口を抜けて外に出ると、雨の音はさらに近くで聞こえて、地面に打ち付けられた雨粒が元気よく跳ねてわたしの足元に少しずつかかる。



空を見上げても真っ黒い雲に覆われたままの太陽は、今日は一度も顔をだすことはなく、まだ夕方だというのにあたりはすでに薄暗くなっていた。


空から降る雨粒はとても大きい。

この雨の中、走って帰ったとしても確実にびしょ濡れになって帰りつく姿が頭に浮かぶも、それ以外の方法は見当たらない。


「よし」と小さく気合を入れて走りだそうとしたら、肩を掴まれて動けなかった。



「一緒帰ろうよ」


と、言った桜太くんは、鞄の中から折りたたみ傘を取り出した。



「濡れて帰るよりマシだろ?」



この雨の中、折りたたみ傘に二人入って帰ったとしてもお互いの肩は傘からはみ出て濡れるのは間違いないだろう。


濡れて帰らないはずだった桜太くんまでも道連れになってしまうのだと考えると、申し訳なくなってきて、それを断った。



「この雨の中、帰るつもり?」


「べつにどうだっていいじゃん」



どうせ帰るだけだったら濡れて帰っても特に困るようなことはない。


それに一緒に帰るとなれば、わたしの家が知られてしまう。運悪く裕子さんたちにでも見つかれば最悪なことは分かっている。

だからどうしても近づけたくなかった。



「待て、澪。それだけはマジ勘弁」


と、今度はわたしの手首を掴んで離さない。



「この雨の中帰ったらどう考えたって風邪ひくにきまってんだろ?」


「風邪ひくほど弱くないから」



ザーっと雨の音は強まり雨粒も大きくなり、あたり一面が滝が流れていると感じるほどの勢いになる。

ここで言い争いをしている暇はないくらい早く帰らないと、まだ雨は強まるつもりらしい。



「手、離して」


振り解こうと思っても振りほどけない。



「俺と帰るのが嫌?」



ふいにそんなことを呟いた桜太くん。


一緒に帰るのを拒むわたしの姿は、桜太くんから見たらそんな風に見えているのだろうか。



「だったらこれ使ってよ。俺帰るから」


そう言って、わたしに折りたたみ傘を渡そうとするも、これを受け取ってしまえば桜太くんが濡れて帰るということになるからわたしは受け取らない。



「じゃあ選んでよ」と言う桜太くん。



「俺と一緒に折りたたみ傘に入って帰るか、俺と帰るのが嫌なら折りたたみ傘受け取るか、どっち」


「それ、ずるい」


「こうでも言わないと澪このまま帰るだろ」



まるでわたしの性格を全て理解していると言った口ぶりで、すでに桜太くんによって答えは決められたも同然だった。



「………一緒、帰るから……。」



この雨のせいで呟いた声が桜太くんに届いているのかいないのか心配だったけど、フッと笑った顔をして、その心配はすぐに消えた。



「素直にそう言え」


そう言った桜太くんは、いつもより少し大人びた雰囲気をしていて、一瞬どきどきしてしまった。



折りたたみ傘を開くとギリギリ二人が入れる大きさで、それでもおそらくお互いの肩が濡れてしまうのは分かっていた。



「ほら入って」


「う、うん……。」



俗に言う、相合い傘というやつに、わたしは人生で初めて体験をしている。


こんな近い距離に桜太くんがいると考えただけで、どきどきしてしまって肩がぶつかり合うだけで心臓が飛び出しそうなくらいうるさかった。


この場面をクラスメートに見られてしまったらと、さらにはめぐみに見られてしまったらと、想像しただけでそわそわ落ち着かなくて、気づかれないように少し桜太くんから離れる。



「あ、澪!あんまそっち行くな、濡れる」


と、わたしの肩を抱き寄せて、さっきと同じ距離に戻される。


触れた左肩が、やけに熱い……。

そこだけが熱を持ったみたいになる。



桜太くんとわたしの身長差は頭一個分よりもあり、必然的にわたしが濡れることになるはずなのにそんなことが起きない。ーーとすれば、桜太くんが傘をわたしの方に傾けていることに気づいた。



「ちょ、ちょっと…、桜太くん濡れてるじゃん」


「俺は平気だって!」



学校を出てだいぶ歩いたこの距離の間、ずっと雨に打たれっぱなしのせいでシャツはたくさん水を含んでいた。



「よ、よくないから!」



折りたたみ傘の持ち手を真っ直ぐに支えると、左肩に雨があたりシャツが水分を含んで少しずつそれは広がっていく。


でも、桜太くんが濡れるより、ずっとずっとマシだと思った。



「澪もっとこっち寄って」


「む、無理……。」



この距離でも限界なのに、さらに近くことなんてわたしにはできそうになかった。



「じゃあ、また傘傾けるけど」



その言葉を聞いて渋々わたしが近寄ると、桜太くんとの距離はもうゼロに近くて、シャツとシャツが擦れあうくらいの近さ。


横を向けばすぐ桜太くんがいる。


それを意識すると、さらにどきどきした。


この雨の音のおかげできっと、このどきどきは桜太くんに聞こえることはなくて、それを思うと雨でよかったのかもしれないと思った。



初めての相合い傘をして終始どきどきして落ち着かなかったけど、それに混ざるように別の感情もあった気がした。


たしかなものは分からないけど、桜太くんと相合い傘をして嫌だとは思わなかった。


ーーそれが何を意味するのか。


今のわたしには気づけそうになかった。



* * *



「ここまでで、大丈夫」



見慣れた家の近くの公園。


これ以上はまずいと思って立ち止まると不思議そうな顔を向けられた。



「家まで送るって」


「い、いい!ほら桜太くん帰るの遅くなっちゃうじゃん?だからここまでで大丈夫」



アスファルトに勢いよく落ちる雨粒、そして跳ねて制服を濡らしていく水滴、道路脇の溝にたくさんの雨水が流れていき、それだけでこの雨の強さが感じられる。


それなのにここからは濡れて帰る、と言っているわたしは、どう考えてもおかしいことを言っているのは自分でも理解している。


それでもこれ以上家に近づいてほしくなかったから、どうにかして桜太くんを帰らせたかった。



「わたしの親すっごくうるさいの!男の子と帰って来ただけで騒ぎだすし……と、とにかく、ここまでで大丈夫だから!」



実際のお父さんはそんなことなくて、むしろ正反対すぎて自分でも何言ってるんだろうって思った。



「こんな雨降りでも言われんの?」


「うん、言われる」



この距離で嘘をついていると桜太くんにバレてしまうかもしれない、と不安がよぎるけど、雨のおかげで声も音もなにもかもかき消される。



「わかった」



その言葉を聞いて、すぐに走りだそうとしたけど、また桜太くんによって止められた。



「澪はこれ使って」


「え?」



雨がうるさいせいで、一瞬何を言われたのか分からなかった。



「女の子なんだから風邪ひいちゃだめじゃん。澪、もっと自分を大事にして。」



ザーっと雨音は強まる一方。


傘に弾いて音がメロディーのように聞こえる。

左肩だけがしみをつくっていく。



傘の中、わたしと桜太くんは数秒見合わす。


どきどきとうるさい胸の中。

雨の音で桜太くんには届いていない。



「俺は大丈夫だから、澪使って。じゃあ!」


そう言って、わたしに傘を預けると、ニコッと笑って、今来た道を走って引き返して行く。


その後ろ姿に声をかけても届くことはなかった。



この雨の中、桜太くんは走って帰った。


わたしがあんなことを言わなければ桜太くんは濡れて帰ることはなかったはずなのにと思うと、申し訳なさでいっぱいになった心。


いつも自分のことだけを考えてしまって、まわりの人の気持ちなんて後回しにしている自分が情けなかった。





翌日、隣のクラスを覗いてみても桜太くんの姿はなくて気になったわたしは、桜太くんの担任の先生に確認すると『熱のため休みます』と朝早くに連絡があったらしい。


完全にわたしの責任だと思った。



「澪、昨日の帰り大丈夫だった?」


「あ、うん。わたしは大丈夫だった……」



桜太くんが貸してくれた折りたたみ傘があったから、ほとんど濡れずに帰ることができた。



「『わたしは』って誰かと帰ったの?」


と、めぐみに聞かれて、そこで自分がさっき何を言ったのか思い出す。



「もしかして桜太くん?」



わたしを真っ直ぐに見つめてくる。


めぐみは桜太くんのことが好きなのかもしれないと思うようになってからなるべく二人になることを避けていたのに、昨日のあれはさすがにまずかったと思うと罪悪感でいっぱいになった……。


どうやって弁解したらいいのかと、考えていると、クスッとめぐみが笑った。



「澪、勘違いしてるかもしれないから言っておくけど、わたし桜太くんのこと好きとかじゃないからね?」



その言葉を聞いて一瞬めぐみは何を言っているのだろうか、わたしに気を使って嘘をついているのだろうか、と思ってしまった。

けど、目の前にいるめぐみは、わたしの顔を見てさらに笑っていた。



「やっぱり澪勘違いしてる!そりゃあ、桜太くんいい人だけど友達としてだから!」


と、わたしに言うと、顔の前にかかる横髪を耳にかける仕草をする。



「もしかして澪、ずっと勘違いしてた?」


「う、うん」



自分の中では勘違いという認識はなくて、めぐみは本当に桜太くんのことが好きなのかもしれないと強く思うようになった。


それに今でさえも、もしかしたらまだわたしに嘘をついているだけなのかもしれないと考えてしまう。



「澪は勝手に思い込むところあるよね」


と、わたしを見てフフッと笑うめぐみ。



「桜太くんはさー、多分どちらかと言うと澪のことをよく見てると思うけどね」


「え……?」



桜太くんが、わたしを……?

そんなはずはないと思って笑い飛ばす。


「本当なんだって!」とムキになるめぐみ。



「それに澪は気づいてないだけ!桜太くんの視線の先にはいつも澪がいるの、澪だけを映してる。きっとそこには何か理由があるの!」



めぐみがどうしていきなりそんなことを言いだすのか、わたしにはよく分からなかった。


少し前までは桜太くんと二人きりで帰ったことがバレてどうやって誤魔化せばいいのかと、ずっとそればかり考えていたはずなのに……。


気がつけば話は変わり、桜太くんとわたしの話になっていて、さらにはめぐみはおかしなことを言いだす始末だし……



「ほら、わたしが桜太くんのことで何かを言いかけてやめた時あったでしょ?」



そんなこともあったような気がして、それに頷くと、数秒黙った後に話しだすめぐみ。



「その時から気づいてた。桜太くんが澪のことよく見てるなーって!」



そう言って、ポカンとするわたしの頬をぷにーっと軽く摘んだ。


小さな痛みが頬に走る。


めぐみの言葉が現実で言われていることなんだと実感すると、ますますその言葉の意味が分からなくなってくる。



たしかに今まで桜太くんが現れるのは、わたしが落ち込んだ時や苦しんでいる時がほとんどで、タイミングよく現れる桜太くんのことをヒーローみたいだと思ったりもしてた。


それが、もし、偶然じゃないとしたら……?

めぐみの言うように、桜太くんがわたしのことを見ていて必然的に起こっているものだとしたら…?



ううん、そんなはず、ない。桜太くんがそんなことをするはずがない。きっとめぐみの勘違いだろうし、きっとわたしの思い過ごしに違いない。



「そ、そんなはずない、じゃん」



桜太くんがわたしを見ている、なんてそんなこと、あるはずがないんだーー。



「きっとそれはめぐみの勘違いだよ」


「ほ、本当なんだって!」



ただの偶然が重なっただけかもしれない、と思うとそれで納得できてしまう。



弱っている時に落ち込んでいる時に、そこに誰かが現れたらそれは誰だってヒーローみたいだと勘違いしてしまう。

きっとそれはわたしだけじゃない。


偶然に現れて、それを勘違いしている。それを周りから見れば、ただの痛いやつだと思われてしまうだけだ。



「心配している人がすぐ傍にいるのにそれに気づかないでいつも一人で我慢する。それ、澪の悪いとこだと思う」



と、ポツリと呟くめぐみの、その声は少しだけ小さかった。



友達に迷惑をかけたくないからと笑って誤魔化していたのは、めぐみからしたらそんな風に見えていたということ……?


自分ではそれが当たり前だと、そうしなきゃ迷惑がかかるからと思っていたのに、それは間違ってるということなのだろうか……。



「きっと、桜太くんも何かに気づいてる。」



そう呟いためぐみは、いつになく真面目で嘘なんか言っているようには見えなくて、それを笑って誤魔化すことも話を逸らすこともできなくて、ただその言葉を受け止めることしかできなかった。


黙ったままのわたしにさらに言葉を続ける。



「わたしと同じように澪が何かを隠していることに気づいてる。たまに見せる悲しい瞳…、その裏に何があるのかなってわたしも桜太くんも心配なの」



『わたしも』と言うめぐみは、このことを桜太くんと話したことがあるのかもしれない、と、今の言葉を聞いていて思った。



桜太くんとした今までの会話を思い出してみると、何かを聞きたそうな感じがした時もあったし、めぐみと同じように言われたこともあった。


今思うと、それは桜太くんがわたしの「何か」に気づいてたからなのかもしれない……。



勘のいい桜太くんのことなら尚更だ。


このことを隠し通すのも限界が近づいているということくらい自分でも理解している。

ううん、自分が一番理解しているんだ。



「澪が話せる時まで待つよ。……待つから、どうか無理だけはしないでほしい。」



めぐみのその言葉が、絞り出すように切ない声に聞こえてしまったのは、きっと気のせいなんかではなかった。



それに、わたしは「うん」と頷いた。



それなのにどこかうわの空な自分がいる。

自分のことなのに、まるで傍観者のごとく見物しているような気分だった。


そうさせてしまうのは、きっと今のわたしには熱で学校を休んだ桜太くんの方が気になってしまうから。



罪悪感だけが膨らんでいた。


いつも助けてもらってばかりで何も返せていなくて、それなのにわたしの知らないところでさらに迷惑をかけていたなんて……


わたしの身の回りにいる人にも被害が及んでしまっているのかと思うと、わたしはここにいていい人間なのだろうかと疑問が浮かぶ。


そんなこと誰にも言えそうになかったーー。



* * *



放課後、桜太くんの担任の先生の元へ行く。


どうしてもお見舞いに行ってあげないといけない気がしたわたしは、住所を聞きに来た。



「これ無くすなよ?」



そう言って渡されたのは、小さな真っ白な紙に桜太くんの家に向かう地図らしいもの。

手書きで書かれたそれはお世辞にもうまいとは言えなさそうだった。



「ありがとうございます」


「…あ、ちょっと待って」



と、言うと机の上をごそごそ何かを探しだしで、それを目の前に差し出された。



「これもついでに頼む!」



プリント用紙を数枚渡されて、数秒立ち止まったわたしは受け取って、それをくしゃくしゃにならないように鞄の中のノートの間に挟んで、軽く頭を下げてそのまま職員室を出る。



わたしの代わりに雨に濡れて帰った桜太くんのことを考えると何か持って行ってあげたいと思い、途中でコンビニに寄って、冷えピタとのど飴と飲料水を買った。



そして先程、手渡された地図を頼りに桜太くんの家へと向かう。

地図を見ては立ち止まり、目印になるものを探しては、また進む。


桜太くんの家だと記すそこにはいびつな星マークが書かれていて、ピタリと立ち止まりあたりを見渡すと【青柳】と書かれた表札が目に入る。



「……ここだ。」



学校から少し距離があるこの場所まで、昨日わたしの家の近くの公園から走って来たのだと想像しただけで、胸の奥がギュっと締めつけられる。



ゆっくりと呼吸を整えて、伸ばした手はとても震えていて、その手はインターホンを押した。

ーー数秒して「はい」と声が聞こえる。



「あ、あの、わたし……、お、桜太くんの友人なのですが……。」



言うことを考えていなかったわたしは頭が真っ白になり、かなり、声が震えた。



「ーーちょっと待ってね」


と、インターホンが切れた後、数秒してガチャリと開いた玄関に現れたのは60代くらいのおばあさんだった。


わたしに気づくと、にこりとした。



「どうぞ。お入りください」


「あ…えと、おじゃまします……。」



突然家に伺うなら菓子折りでも持って来た方がよかったのだろうか、とか、とにかく緊張して何を話せばいいのか分からなかった。



「こっちにおいで」


と、わたしが案内されたのは居間だった。



「桜太、今さっき寝たとこなの。だからわたしと少しだけお話してくれないかしら?」



にこりと笑ったおばあさんは、どことなく桜太くんに似ている気がした。



それに頷くと、おばあさんは台所に向かった。


居間に一人残されたわたしは座ったまま、あたりをキョロキョロ見渡した。


壁に掛けられた時計は16時30分を指している。


電話横に置かれたカレンダーは毎日何かしらの予定が書かれている。


畳の匂いがして落ち着く。

座っている座布団がふかふかしている。


この居間はとても温かい空気が流れていて、わたしの家とは大違いだった。



「おまたせ。さ、お話しましょうか」



目の前に置かれたグラスに氷が入っていて、それが少しずつ溶けるたびにカラン、カランと、音を鳴らす。


その音につられて一口飲むと、あっというまに飲み干してしまった。

暑い外を歩いて来たからのどが渇いていたのかも。


フフフッと笑って、空になったグラスにまた麦茶を注いでくれた。



「あ、ありがとうございます……。」



なんだか一気飲みした自分が恥ずかしくなって俯くと、「外、暑かったもんねえ」と言って、おばあさんも一口麦茶を飲んだ。



……なんか、桜太くんに似てる。

いや、違う。桜太くんが似てるのか……。



人の気持ちを察して優しい言葉をかけてくれるあたりはそっくりだと思った。

桜太くんがあんなに優しいのは、きっと、おばあさんに似たからなのかもしれないと思うと簡単に納得できた。



「お名前聞いてもいいかしら?」


「あ、えっと、春野、澪です」



深々と頭を下げると目の前のテーブルの存在を忘れていたわたしは、ごつんっと思いきりおでこをぶつけた。


桜太くんの家に来て数分しか経っていないというのに、その間に何回失敗してしまっただろう……。



「大丈夫?」と心配されて、それに頷いて、おでこをさすると少しだけひりひりした。

とにかく恥ずかしさでいっぱいだった。


きっと、この場に桜太くんがいたら思いきり笑われてしまっているだろうと思ったけど、笑った後には多分また同じように優しい言葉をかけてくれる。


わたしが恥ずかしくないように心を軽くしてくれる言葉をかけてくれる。


それを想像すると少しだけ落ち着けた。



「澪ちゃんと呼んでもいいかしら?」


「あ、は、はい。大丈夫です」



わたしの言葉にフフフッと笑ったおばあさん。



「なんだかもう一人孫が増えたみたいだわ」



初対面にも関わらず優しく言葉をかけてくれるおばあさんは、不思議と嫌悪感とかはなくて、むしろするりと心の内側に入り込んでくるような感覚だった。


赤の他人だというのに、あの家とおばあさんとどう違うのかよく分からなかったけど、それでもたしかに感じた安心感。



「あの子、学校ではどう?」


と、言ったその顔は眉を八の字に下げて心配している様子だった。



「あんまり学校のこと話さないの。まあ、転校して来てまだ日が経ってないのも無理ないけど…。ちょっと心配なのよねえ」


「わ、わたしもよく分からないんです。…桜太くん、あんまり自分のこと、話してくれなくて……それにクラスが違うので…。」



本当ならここで少しでも気の利いたことを言ってあげたら少しは安心するのかもしれないと思ったけど、うまい言葉が見当たらなくて本当のことしか言えなかった自分は、情けなかった。



「そうなのね。…きっとあの子、まだ引きずっているのかもしれないわね」



そう言った後に、麦茶を一口飲んで、どこか遠くを眺めているような眼差しをした。


その姿が寂しそうで何か声をかけてあげたいと思ったのに、言葉がでてこなかった。



静かな居間には時計の針が進む音と、グラスに入っている氷がカランと溶ける音だけが響いた。



「少し前の話になるけどね」と、ポツリと呟いて、少しずつ言葉を紡いでいくおばあさん。



「わたしのところへ来たのは親が離婚しちゃったからなの。」


「え……、」


「驚かせちゃってごめんなさいね。あの子、きっとなにも話さないだろうから…」



固まるわたしを見て、気を使ってくれたその言葉に何も返すことができなかった。

だって、おばあさんの言葉が未だに信じられなかったから……。



いつも笑ってわたしに優しい言葉をかけてくれる桜太くんに、そんなことがあったなんて全然気づかなかったし、自分のことで精一杯だった。



ーーううん、違う。自分だけが苦しくて、自分だけが可哀想なんだ、と思い込んでいた。


だから周りの人が悩んでいることなんて知らなくて、小さな欠片にすら気づかないふりをしていたのかもしれない。



「あの子、ずっと言わないと思うの。でもね、それってしんどいじゃない?」


「そう、ですね……」



桜太くんのことだから、おそらくこの先も自分から打ち明けることはしないと思う。


それにわたしも桜太くんのプライベートなことまでも聞いたりしなかっただろうから、きっと、おばあさんが教えてくれなければ知ることのなかった現実なんだと思った。



それを黙ったまま、いつも優しく笑ってくれていた桜太くんは、ずっとどんな気持ちで笑いかけてくれていたんだろう……?



「それにね」と、ポツリと呟いた。



「一人では抱えきれないものがある。それは誰だって同じよ。桜太だって、澪ちゃんだってそう。みんな大きさは違えど抱えてるものはある」



わたしよりもたくさんの年月を生きてきたからなのか、おばあさんの言葉にはとても重みがあるような気がした。


その場しのぎの言葉なんかじゃなく、うわべだけのものでもなく、しっかりと意味があるその言葉はわたしの心の真ん中に、ぽつんと落ちてきた。



ーーその言葉を聞いた後。


のどの奥がギューっと苦しくなってきて、

ああ、わたし泣きそうなんだ、と思った。



* * *



「あら、もうこんな時間。」



壁に掛けられている時計に目を向ければ、18時を過ぎていた。



「帰る前に少しだけ桜太の部屋覗いてみてごらん?もしかしたら起きてるかもしれないわ」



「廊下を出て二番目のドアよ」と言った後に、おばあさんは台所に向かって夜ご飯の準備にとりかかった。


居間に残されたわたしは、溢れそうになった涙を拭って、桜太くんの部屋に向かった。



コンコン、とノックをしてみても返事はなく、まだ寝ているんだろうと思い入るのに気が引けたけど、せめて顔だけでも確認したら帰ろう…とゆっくりとドアを開ける。



ベッドに眠っている桜太くんの姿。


おでこには冷えピタを貼っていて、すでにそれは熱を吸ってカラカラしていた。



「……桜太くん、昨日は、ごめんね…」



昨日のことと、さっきおばあさんと話した内容で、わたしの中には罪悪感がいっぱいだった。


寝ている桜太くんに届くはずのない声は、部屋のなかにすうーっと消えていった。



そのまま立ち上がり帰ろうとした。


ーーその時、「……澪?」とわたしの名前を呼ぶ声がした。

振り向くと、桜太くんが微かに目を開けている姿が見えた。


まだボーッとしたままの桜太くんは、焦点が合っていないような感じがして、熱っぽかった。



「……まだ夢見てんのかと思った」


と、言って小さく笑った桜太くん。



さっきの話を聞いたわたしは、どうやって桜太くんに接したらいいのかと少し戸惑った。



ゆっくり起き上がる桜太くん。


ゴホッゴホッ、とせきをする。



「澪、昨日大丈夫だった?」


「う、うん」


「そか。よかった」



自分が風邪をひいてしんどいはずなのに、そんな時でさえも人の心配をしている桜太くん。

いつも、わたしに笑顔を向けてくれる。


その裏に隠された真実を聞いてしまったら、それをどうしたらいいのか分からないでいた…。



「これ。……昨日は、ごめん」



折りたたみ傘を桜太くんに手渡すと「ん。」と言って受け取った。



「澪が無事ならそれでいい」


と、また、軽く微笑んだ。



昨日のことの罪悪感と、さっきおばあさんから聞いた桜太くんのことが頭の中に混在していて、いろいろと言いたいことはあるはずなのに、頭がおいつかないのか言葉が出てこない。


今までどうやって接していたのかな? どうやって話し返していた? 距離は? 態度は? わたしいつもどうしてた?



「……澪?」



わたしを不思議そうに見つめる桜太くん。


その瞳から逃げるように目を逸らす。



「……もしかして、ばあちゃんに何か聞いた?」



その言葉に一瞬ピクリ、とすると、「そっか」と呟いて黙り込んだ。



「あ、いや……えっと、……。」



何か言ってあげたいのに、違うって否定すればいいのに、言葉がのどに詰まって出てこない。


その間にも時間はどんどん過ぎていく。



「はあー」と、ため息をついた桜太くんは、今までの明るい笑顔はなく、それが普段のものだと思える表情を浮かべていた。


それはまるで別人のように感じた。



「べつに澪とばあちゃんを責めるわけじゃないから心配しないでよ。……ただ、知られたからには気を張る必要もないのかなって」



その姿は、少し自分と似ている気がした。


悩みに気づかれないようにと、周りに気を使って笑って誤魔化している自分とーー。


それがなんだか、苦しくて、いつも息苦しさを感じている……。



「どこまで聞いた?」


「え、っと……」



正直、この話を桜太くんにするべきではないと思ったんだ。


苦しい記憶を思い出させたくないし、それ以上に今の桜太くんは熱でしんどいのにさらに苦しみを増やすわけにはいかないと思ったから……。


でも、桜太くんは、「いいよ、話して」と、その瞬間だけいつもの姿に戻った。



『桜太くんの両親が離婚して、おばあさんのところに来た』ということを話した。



できることならこの言葉を言いたくなかった。

桜太くんにも聞こえなければいいと思った。

そう思ってわざと小さな声で呟いたのに、それは確実に桜太くんに届いていた。



「もう隠しようがないよな」


ポツリと、言ったその言葉は、まるで覚悟を決めたようなものが見えた。



「ばあちゃんの言ってた通り、両親は離婚して俺はここにいる。でも、それがなぜなのか聞いてないでしょ?」



淡々と話す姿は平気そうに見える。


でも、きっと、心の中はそうじゃなくて、ずたずたになっているのかもしれない。

そう思うと「もういいよ」「言わなくていいよ」って言いたくなった。


桜太くんは今どんな気持ちで話しているんだろう、と考えただけで胸の奥がえぐられるような思いだった。



ゴホッゴホッと、せきをした後に桜太くんが、ポツリと呟いた、それはーー。



「簡単に言えば捨てられたんだよ、俺は」



とても、残酷な言葉だった。


普段の彼からは想像もつかないほどに、その言葉は重たくて冷たいものだ。



「両親ともに再婚するんだって。それで、邪魔になった俺はいらないって」



桜太くんの声なのに、桜太くんじゃない人から言われているような気がしてしまうのは、その言葉とトーンのせい。


そこに優しさなんて少しも含まれていなかった。


ただ、あるのは苦しみだけ。



「……ご、めん…っ。熱出て苦しい時に、わたしが…こんな話を……ごめん、」



その過去を知ってわたしに何ができるだろう。

その過去を聞いて何をしてあげられるだろう。


今まで自分だけが苦しいんだと可哀想なんだと、思い込んでいた、このわたしに何かできることがあるのだろうか。



彼に優しくしてあげられる? 彼の傍で寄り添ってあげる? それをされて彼はどう思う? ただの同情だと、思うだけ?


何もできないわたしは、ただひたすら謝ることしかできなかった。



「澪、頭あげて。べつに澪が悪いわけじゃない。俺が澪に聞いてほしかっただけなんだ。…だから、ごめん」



苦しかった。


のどの奥が、ギューっとなった。

桜太くんの過去を聞いて、泣きたくなった。



でも、本人が泣いていないのに、わたしが泣くのはおかしいと思った。

それこそ同情だと思われそうだと思った。



「澪にこんな重い話ししてごめんな」



謝る桜太くんに、何も言葉を返してあげられないのは、わたしにもどうすればいいのか分からなかったから。


どうすればこの苦しみから逃れることができるのだろうかと考えて、でも結局は何も浮かばなくて、桜太くんに優しい言葉すらかけてあげられない。



落ち込んでる人がいるのに傷ついている人がいるのに、わたしは手を差し出してあげることもできないのかと思うと、自分がひどいやつに見えた。


自分のことだけで手一杯で、自分が一番可哀想なんだと、まだ思い込んでいるのかもしれない、と。



「でも」と、また話し始める。



「俺の過去はたしかに苦しいものではあったけど、べつに今はそうじゃない。ばあちゃんと暮らしてむしろ幸せだと思ってるから。そこは覚えといてよな」



と、少しだけ上がったトーンと、いつものあの笑顔を浮かべていた桜太くんの姿を見て、無理して笑っているのかもしれないと思うと胸が苦しくなった。



「まあ、実を言うとさ。この話は澪にするつもりなかった。言っても重たくなるだけだし気使わせるだけだし。…でも、ほんとは俺ずっと無理してたのかもしんない」



そう言った桜太くんの表情は、苦しそうな思いと、そこに少しだけホッとした思いが混在しているような感じがした。



知られることを望んではいなかっただろうけど、こうしてわたしが知ったことで桜太くんは無理に気を張ることをしなくてもよくなった、と言った。


その言葉には今までの苦しみが込められているように感じて、わたしと同じだと思った。



でも、わたしはまだ誰にも話せていなくて、この苦しみからは解放されることはないと思うと、ズシリと重く乗りかかる。



「桜太くんに今までいっぱいひどいこと言ってきちゃったよね、わたし」



出会ったあの時も、わたしは強く桜太くんのことを責めてひどい言葉を言った。

それからだって何度もやつあたりをしたことがあり、今思えば申し訳なさすぎてここにいるのが恥ずかしく感じてしまう。



「ごめん」



わたしには、謝ることしかできない。



「澪は知らなかったんだから、気にすることない。だから、あんま自分責めないでよ」



それなのに桜太くんは、わたしにいつも優しい言葉をかけてくれる。優しく接してくれる。


それがさらに今のわたしを苦しめる。



「澪はなにも悪くない。むしろごめんな。こんな話を聞かせちゃって…」


「あ、ううん、それは大丈夫…。」



もうちょっと気の利いた言葉を返してあげられたら桜太くんへの罪悪感はなくなってくれるのだろうか。


…ううん、きっとそうじゃない。わたしが自分だけが可哀想だと思っているその考えを変えない限り、何も変わることはなく、むしろ苦しむ一方。



おばあさんが言っていた、『一人では抱えきれないものがある。』



いつかわたしはこの苦しみに押しつぶされる時がきたら、その時はどうなってしまうんだろうと今までに何度だって考えた。

この苦しみから逃れるためにお母さんの元へ行きたいと何度も何度も思った。



今日偶然、桜太くんの過去を知ることになった。


苦しいと思った、泣きたいと思った。


でも、今はその苦しさから解放されて幸せに生きてるじゃないか、と思うと、やっぱり自分が一番可哀想なんだと思ってしまう。



こんなことを考えているなんて桜太くんには知られたくないし、こんな考えのまま桜太くんに普通に接してあげられるほど、わたしの人間はよくできてはいなくて困惑する。


普通ってなんだろう? わたしにとっての普通ってなに? どこからが普通に値するの?


桜太くんにたくさん助けてもらったのに何も返してあげることができていないわたしは、この先どうやっても返してあげられそうにないと思うと桜太くんの優しさに甘えてはいけないんじゃないかと思い始めた。



「澪!」



と、大きな声で呼ばれて、何事かと思って桜太くんに視線を向けると、ベッドから降りてすぐ目の前まで来ていた姿が見えた。



「大丈夫か?熱でもあるか?」


「だ、大丈夫、だから…!」



おでこを触りそうな勢いの桜太くんを止めて、コンビニの袋とプリント数枚を慌てて持ち出した。


コンビニの袋の中を数秒見て、その後に「ありがとう」と頭を撫でられた。



そんなこと言ってもらう資格もないのに、と思いながらも、頭を撫でてくれたその行動にギューっと胸が締めつけられる。


桜太くんの手は優しくて温かい。


それを誰よりも知っているからこそ、わたしにはその資格がないのだと思ったーー。



「じ、じゃあ、わたし、帰るから」



そう言って立ち上がろうとしたら、「ちょっと待って」と、手を掴まれた。



「澪、なんか変。」


「べ、つに…、いつもと同じ」



気づいてほしくなかった。

そのまま見過ごしてほしかった。



「なんか隠してる?」



それなのにすぐに気づかれる。


桜太くんが勘がいいってこと結構前から知ってたから、なるべく近寄らないように信用しないように、と距離を置いていたはずなのに……



わたしが逃げようとすればいつも捕まえる。

捕まえられると、そこからどうやって逃げたらいいのか分からなくなる。



「澪、やっぱこの話重かった?そうだったら謝るよ、ごめんな…」


「ち、違う。べつにそうじゃないから」



桜太くんが病人だということを忘れそうになるけど、おでこの冷えピタと手の熱さで思い出して、一瞬だけ冷静になれる。


でも、逃げることを考えているわたし。



「離して」



俯いたまま呟く。桜太くんがどんな表情をして手を掴んでいるのかさえ分からなかった。

でも、わたしは、分からないままそれにふたをした。


知る必要がないと思ったから。



「澪、やっぱなんかあるだろ。俺知ってる、澪がなにか抱えてること。でも、澪のガードは固すぎてそこまで入り込んでいけねえ」


と、言った後に、少しだけ緩んだ力。



今なら振りほどいて逃げられる。そう思って、思いきり振りほどこうとしたーー



「澪が苦しんでるのに俺、なんもしてあげられてない。澪の力になりたいって思ってるのに澪は頼ってくれない。…べつに頼ってくれないのが悲しいわけじゃない、澪が一人で苦しんでる姿を見るのが悲しいんだよ」



ポツリ、ポツリと、紡がれたその言葉に耳を傾けたわたしは、逃げられるはずなのにピタリと止まったまま動けずにいた。



「昔の自分見てるみたいで助けてやりたいって思ってるのになにもできてなくて、その一方で澪は苦しんでる。俺自分が情けないんだよ」



わたしのことなのに、他人のことなのに、どうしてそこまで一生懸命になれるのか意味が分からなかった。


他人にこれっぽっちも興味のないわたしからすれば、まるで正反対だと思った。



「澪は苦しくない? 誰かに頼りたいって思わない? そこに俺は含まれないの?」



耳を塞いでしまいたかった。


そうすれば桜太くんの声も、桜太くんのその優しさにも気づかずに突き飛ばすことができるのに……



「なあ、澪、俺を頼ってよ。そうじゃないと、澪このままどっか行ってしまいそうで怖いんだよ」


「………や、めて」



振り絞るようにだした声は思いのほか小さくて、まるで無に等しかった。



「限界がきてるってことくらい自分が一番よく理解してるだろ?」


「……るさい。やめて…っ!」



俯くのをやめて思いきり叫んだら、目の前の桜太くんは苦しそうな顔を浮かべていた。



熱で苦しいのかわたしのことを思って苦しんでいるのかどっちなのか分からなかったけど、そんな顔をさせてしまって「ああ、わたし馬鹿だ」と思った。


他人のことなのにここまで優しく寄り添ってくれる人はいなかったのに、今からその人を遠ざけようとしている。



「分かった気にならないで…。わたしを理解した気にならないで。……そういうのが一番むかつく」



言いたいのはそれじゃないのに、本当に言いたいのは真逆のことなのに、いつも桜太くんを傷つける言葉しか言わないわたし。



きっと、初めから出会うべきじゃなかった。


出会わなければこんなに苦しい思いをしないで済んだかもしれないのに……



ーーううん、そうじゃない。桜太くんが今まで出会ってきた人の中で一番まともだった。正しかった。素直だった。


純粋に嬉しかった。



だけど、わたしの悩みはとてもとても深く重たいもので、簡単に解決するものではない。

話し相手が一人見つかったくらいで解決できるようなものではない。



「……もう、関わらないで」



こんなに真っ直ぐに素直に生きる桜太くんを、わたしのどん底まで付き合わせるつもりはない。付き合わせてはいけない。


関わりが浅い今のうちならまだ間に合う。

お互いを知らずに生きてきた関係に戻ればいい。



「み、澪…」



優しくわたしの名前を呼んでくれた桜太くんのその声をもう聞くことはなくなるだろうと思うと、苦しくて泣きたくなった。



病人である桜太くんにこんなことを言うためにここまで来たわけじゃないのに、ヒートアップしてしまった感情は抑えることも収まることもなく、さらに加速していく。



「昨日はありがとう。それだけ。…さよなら」



桜太くんの顔を見ることができなくて俯いたまま呟いて、その言葉を聞いた桜太くんのことを考えるだけで苦しくなってこの場から逃げ出したかった。



そのまま後ろを振り返らずに部屋を出て、途中おばあさんとすれ違ったけど丁寧にあいさつすることもできずに慌ただしいまま、そのまま桜太くんの家を出て行った。



立ち止まらずに振り返らずに前だけを見て走って、走って、走って行ったーー



勝手に涙が溢れてきて頬を伝っていく。

風に流されてどこかへ消える、その涙。

悲しみはとめどなく溢れてくる。



でも、これでよかったのかもしれない。


一人で生きることに慣れないと、わたしはきっと生きていけなくなる。

桜太くんの優しさに甘えてはいけない。



「………ごめ、ん」



ここにはいない桜太くんに、謝っても意味がないのに、それでも無意識に呟いてしまうのは彼を傷つけたことへの罪悪感が大きすぎるから。



今まで赤の他人なんて信じたこともなかったし必要ないと思っていたけど、いつのまにか桜太くんがわたしの中で大きな存在になっていることに今気がついた。


桜太くんを傷つけてしまったことだけが、わたしの中で大きな傷跡となってしまった。



* * *



それからどうやって家に帰ったのかも覚えていないくらいわたしは憔悴しきっていて、いつのまにか自分の部屋にいた。


魂が抜けてしまったみたいに、ただぼーっと天井を眺めていた。



コンコンッ、とノックされ、「今少しいいか?」とお父さんの声が聞こえてきたけど、それに返事をする心の余裕さえ残されていなく抜け殻のようにドアを見つめる。


それを不信に思ったお父さんがドアを開けて、廊下の方からわたしを見ていた。



「なにかあったのか」


「……べつに」



今だけはそっとしておいてほしい、という念を送ってみても全く通用しないのか、さらに質問を続ける。



「少し今話せるか?」



自分の都合だけで物事を進めていくお父さんが本当に腹立たしいと思ってしまう。



「なにか返事しなさい」


「…無理、だから」



どうしてわたしの苦しみに気づいてくれないのに、わたしがいつも責められなきゃいけないんだろうと、心はすでに限界だった。



「……出て、行って」



今は顔も見たくなかった。

声も聞きたくなかった。



「なんでいつもそう反抗的なんだ。何が気に入らないんだ、言ってみなさい」


と、廊下から張り上げる声は、苛立ちが含まれているようだった。



反抗的? 気に入らない? お父さんはそんなことしか考えてないの? わたしが苦しんでいるという考えはないの?



一人にして。これ以上苦しませないで。惨めな思いばかりさせないで。もう、構わないで……。



「……出て 行ってってば!」


「ハア。…もう、お前が分からん」



そう言ってバタンと閉まったドア。



その瞬間、また涙が溢れてきた。


虚無感、脱力感、罪悪感、生きる希望さえ見失ったわたしには何が残されているのだろうか……。



この世界から急に消えてしまっても誰も困らないし、それでも世界は回っていくし、わたしの存在がなくたって何も問題はない。

そんなことを思うと今すぐにでも消えてしまいたいと願った。


もういらない。この世界なんていらない。ほしくない。生きていたくない。こんなに苦しい思いをしながら毎日生きていかなきゃいけないのだと思うだけで、明日を生きるのが怖くなる。



お母さんに会いたい。


もう生きることを投げだしてお母さんに会いに行きたい。それだけでいい。

お母さんとまた楽しく過ごせたらそれでいいーー。





「澪、なんか変じゃない?」



めぐみにそう言われたのは、お見舞いに行ってから一週間くらい経った頃。

わたしは学校で桜太くんを避けるようになった。



以前と変わらずに廊下ですれ違っても話しかけてくる桜太くん。


本当は嬉しかった。嬉しかったんだ。

でも、わたしが彼を傷つけてしまったことには変わりはなく、以前と同じように接することができなくなったわたしは苦しさでいっぱいだった。



学校にいても家にいてもどこにいても罪悪感と虚無感はずっとわたしにこびりついて離れない。


今までは作り笑いもうまくできていたはずなのに、うまく笑うことができなくなってきて、めぐみにもそれを気づかれるのも時間の問題だと思うと焦りしかなかった。



「最近桜太くんのこと避けてない?」


「そ、んなこと…ないよ」



今までなら笑って誤魔化してきてた。それができたはずだったのに…



この場所も少しずつ息苦しくなってくる。


めぐみがいて一人じゃないとホッとするはずなのに、この居場所でさえもわたしを苦しめるものになりつつあった。



「澪、やっぱ変だよ。なにかあったでしょ」



そう言ってわたしを真っ直ぐに見つめてくるその瞳が、いつかわたしの心の中を見破ってしまうんじゃないかと思うと、怖くてめぐみを見ることができなくなってしまう。



「な、ないない。」



お願いだから気づかないで。お願いだからわたしをそんな目で見ないで……。


この苦しみに気づかないでと思いながらも、心のどこかでは気づいてほしいと思うもう一人の自分が存在している。


それに気づいているのに閉じ込めて見ないふり。



めぐみは優しい。だからこそきっとこの苦しみを打ち明けてしまったら、その苦しみをめぐみにも背負わせてしまうことになる。

それはどうしても嫌だった……



「えー、でも、やっぱり澪の様子が…」


と、まだなにかを言いたそうなめぐみ。



「あ、…わたし、先生に呼ばれてるんだった」



なんの心もこもっていない棒読みとなんら変わらないようなことを言われても、それが嘘だと当然気づくだろう。


でも、これ以上ここにいたらきっとさらに聞かれてしまいそうだと思ったわたしは、そんな嘘をついてこの会話から逃げた。



「わたしも行こうか?」


「ううん、大丈夫。行ってくる」



わたしは、足早にその場を離れた。



お昼休みの残り10分を、わたしはどこで時間を潰そうかと渡り廊下を歩きながら考えていると、ふいに後ろから手を掴まれた。



「澪」



以前と変わらずわたしの名前を呼んでくれる桜太くんの表情は、眉を下げて元気のない様子だった。



「……桜太くん、離して」



わたしはあの時傷つけた。

ひどい言葉で彼を傷つけた。



こんな場面をめぐみに見られてでもしたらわたしの身に何かが起こっていると確実に気づかれてしまう。



「……離して。」


「澪、少し話そうよ」


「無理、…だから」



話すってなにを? 話してどうするの? 話してなにか解決でもするの? それとも桜太くんは仲直りをしたいの?



「…お願い、だから 離して」



桜太くんに掴まれている手が少しずつ熱を持ち始めて、そこから伝わる小さな鼓動が、やけにうるさく感じてしまう。



渡り廊下のひと通りが少ないこの場所。


吹き抜ける風がスカートを波打たせる。

髪を攫って心地よさそうに踊る。



ここには桜太くんとわたしの二人だけ。



息を吸うのでさえも忘れてしまうくらい、桜太くんの存在に全てをもっていかれる。


この前の記憶が走馬灯のように頭の中を駆け巡り、あの時の桜太くんの表情、声、が鮮明に残っていて、またわたしを苦しめる。



そして今いる、桜太くんの表情もわたしがそうさせてしまっているんだと思うとのどの奥がギューっと苦しくなった。



「澪は関わらないでって言ったけど、このままなにもなかったみたいに他人のふりするの俺、絶対に嫌だから。」



まるで小さな子供のようにすがるみたいに、わたしの手をギュっと掴む桜太くんの姿を見ると、これ以上傷つけてしまうのは可哀想だと思うのに、その優しさを受け入れてしまってはだめなんだ……。



「澪の力になりたいって支えてやりたいって言ってんじゃん。…なあ、俺じゃ頼りにならない?」


「……離し、て」


「澪!」


「やめて……。名前、呼ばないで…」



出会った時から桜太くんはわたしのことを呼び捨てにしていて、それが今では当たり前のようになってきている。



「……関わらないでって、言ったじゃん。……もう、わたしの名前も呼ばないで…っ!」



本当は嬉しかった。

いつも明るい声でわたしの名前を呼んでくれるのが、たまらなく嬉しかった。


本当はこんなことしたくなかったのに、思っていることと真逆の言葉を使ってわざと遠ざけようとして、わざと傷つけてしまう。


苦しかった、苦しくて辛い……。



今の言葉が懲りたのか、黙り込む桜太くん。


今なら逃げられそうだと思って、手を振りほどいて走って行こうとしたーー



「……澪、ほんとはそんなこと思ってないだろ?」


と、静かにポツリと呟いたその言葉に、一瞬だけドキっとして、足が止まった。



真っ直ぐに見つめるその先に、わたしがいて、わたしはその瞳から目を逸らすことも逃げることもできなさそうだった。


苦しくて苦しくて、息が止まっているんじゃないかと思ってしまうくらい酸素が足りなくて、のどの奥がギューっとなる。



「本当は知ってる」そう言って話し始める。



「無理してそんなこと言ってるの、俺気づいてる。そうやって無理して言う時の表情は苦しそうで、嘘ついてるの分かる」


そう言うと、苦しい表情を浮かべる。



その姿はまるでわたしの気持ちをそのまま表しているようだった。



少しでも気が緩めば涙腺が壊れて涙が溢れてきそうになるのを堪えながら、どうやってこの場を逃げたらいいのかと必死になって考える。



桜太くんの前では泣けない。泣いちゃいけない。泣いてしまえばきっともう後には戻れない。全てを知られてしまう……


わたしは必死だった。

誰にも知られないように隠し通すのに。



「……もう、やめて。」



これ以上、わたしを追い込まないで…。


振り絞る声は、涙を堪えているせいか少しだけかすれていた。



「言ったじゃん。……関わりたくないって、話しかけないでって。…もう、桜太くんとは話したくないの」



聞こえるはずもない届くはずもない言葉を心の中では何度も何度も『ごめんね』を繰り返す。


心は苦しめられる一方だったーー。



「……手、離して」



また、わたしは彼を傷つける。



「……桜太くんのこと、嫌い、なの。……もう、嫌なの…。だから、今後関わらないで」



その言葉を聞いた後の桜太くんの表情は、とても傷ついた顔をしていた。


それと同時に緩まる手の力。


その隙にわたしは、そのまま立ち去った。



傷ついた桜太くんを置き去りにしたまま、一度も振り返ることなく、渡り廊下を通った。



振り向いてしまえば、溢れた涙に気づかれてしまうから……。


傷つけた本人が泣くのはずるい。

だから、わたしは一人で泣く。


誰にも気づかれないところで、ひっそりと静かに、声を押し殺して泣いたーー。





数日が過ぎたある日、わたしのスマホが鳴った。


それは桜太くんからのメッセージの通知で、そこには【今日、あの喫茶店で待ってる】という文面が送られていた。


が、同然行けるはずもなく、わたしは返事もせずにスマホの電源を切った。



「……はあ」



灰色がかったもやが視界いっぱいに張り巡らされて、わたしの世界には、とうとう色がなくなった。



桜太くんと知り合ってから今までいろいろなことがあって、おいしいオムライスや優しい言葉、頭を撫でる仕草、明るい笑顔、たくさんのものをもらって少なからず楽しかった。


でも、今は何もなくなった。



桜太くんにひどいことを言って傷つけた、その現実は紛れもなく存在していて、そんなわたしが今さら桜太くんに会えるはずがないんだ……。



「……ごめんね」



もう二度と、桜太くんと話すことはない。

そう思うと苦しくなった。


連絡先を交換したのに一度もわたしから連絡することはなかった。



『澪になにかあった時にすぐ駆けつけてやりたいじゃん』



桜太くんの言葉は、いつも温かくて真っ直ぐ心の中に入り込んでくる。

その言葉が、まだわたしの心の中に存在していて、思い出すたびに切なくなった。泣きたくなった。



過去にあんな辛いことがあったのに、それなのに人に優しい言葉をかけてあげる桜太くんは、いつもどんな気持ちで伝えてくれていたんだろう。



それなのにわたしはいつも自分のことばかりで、自分だけが可哀想なんだと思い込んで、まるで悲劇のヒロインだと思った。


こんな人間が幸せになれるはずなんてないんだ。

わたしは幸せになったらだめな存在なんだ。


だから、こんな風にたくさんの不幸が重なってしまうんだ……。



この先だってきっと同じ。だったらいつ死んでしまっても同じだと思った。

苦しい思いをしながら生きるより楽になりたいと、願ってしまうんだ。



お母さんが亡くなってすぐは、現実を受け入れられずに不登校になった時期もあった。

泣いてばかりの毎日で、それでも次の日はやってくる、その繰り返しだった。


それから五年が経ち、お父さんが再婚して半年くらい、わたしはずーっとこの苦しみに耐えてきてた。



もう、それは限界だった。


お母さんのところへ行きたい。

お母さんだけがわたしの味方だからーー。



コンコンッ、とノックの音が鳴り、ドアの向こう側からお父さんの声が聞こえてきた。


その声を一度は無視したものの、もう一度ノックされて、しぶしぶドアを開けると、お互い顔を見合わせて数秒黙った。



「…ちょっとリビングに来なさい」



この前にできた距離のせいで、お父さんは少しだけ気まずそうな顔をしていた。



わたしがなにも言わずにぼーっと立ち止まっていると「大事な話なんだ」と言って、鼻の先を触り、リビングに足を進める。

その後ろ姿は、少しだけ元気がないような丸まって見えた気がした。



お父さんは気まずいこと、困った時に必ず鼻の先を触る癖がある。


それはお母さんがいた時からそうだった。

最初に気づいたのはお母さんで、お父さんに内緒でわたしにだけ教えてくれたのをよく覚えてる。



お父さん自身は自覚がないだろうけど、それを知っているわたしからすれば『ああ、今気まずいんだろうな』とすぐに理解できた。


最近はそんなことを思い出す余裕さえなくて、すっかり忘れてしまっていたけど、久しぶりにその癖を見た気がして、お母さんとの思い出が蘇り少しだけ懐かしいと思った。



リビングには裕子さんがいて、いつもの空気よりもっと重たく感じたのは気のせいなんかではなさそうで、椅子に座った瞬間、その重たい空気に押しつぶされそうになる。



この苦しさから逃げだしたかった。


けど、それを今回は許されそうになかった。



「お前は、もう分かっているだろ」


と、言った後、目の前にいたお父さんと視線が交わったけど、すぐに逸らしたのはわたしではなくお父さんの方だった。



「俺は男だから、お前がなにを考えてるのか分からない」



そう言われてわたしはなにを言えばいいのだろう。



この苦しみをぶつける? 今さら言ってなにになる? お父さんにそれを言ってどうするの?


今までの苦しみは消えることはなく、そしてこれからもそれが変わることはないのだと理解しているわたしは、これを言ってどうするんだ、と諦めていた。



「いつもそうやって不機嫌な顔をしているが、なにが気に入らないんだ」



始めのうちは落ち着いた態度で話していたのに、少しずついらいらしているお父さんの態度が目で見ても分かるくらい変化していく。



それをわたしは黙って見ているだけ。


隣にいる裕子さんはお父さんの態度が気になるのか、ハラハラしている様子が伺えた。


自分のことなのに傍観者気取りで眺めているわたしは、この話に興味がなく、どうでもいいと思っているからなぜリビングにわざわざ集まって話すのか意味が分からなかった。



「澪、なにか言いたいことがあるなら言いなさいと言ってるだろう」



少しずつ怒り口調になるお父さん。


わたしが悪いわけでもないのに、どうしていつもそんなにわたしが悪いように言うのだろう、すぐに怒りだすのだろう。



お父さんがそんなんだから言いたいことも言えずに我慢ばっかりしてきて、結果苦しむはめになっているということを、お父さんは全然分かっていない。



「澪ちゃん」と、お父さんの隣で静かに黙っていた裕子さんが話しだす。



「あのね、みんな澪ちゃんが心配なの…。」



そう言った裕子さんの表情は、悲しそうに眉を下げていた。



「和史さんも本当はすごく澪ちゃんのこと心配してるの。だから少し強く言い過ぎたりしちゃうけど…」



お父さんは裕子さんを庇い、裕子さんはお父さんを庇う姿を見ていると、今までずーっと一緒に夫婦でいたかのような雰囲気を感じて、心底居心地が悪いと思った。



お父さんの心の中にはもうお母さんはいないのだと思うと、それが悲しくて苦しくて、裕子さんにまでその矛先が向いてしまう。


お父さんに一生懸命尽くしていたお母さんが、なぜ先に死ななければならなかったのかと思うと心底神様を恨んだ。



なぜ、お母さんだったのか、と。


なぜ、お父さんじゃなかったのか、と。



「……お父さんは、今幸せでしょ。…お母さんのこと忘れて、自分だけ幸せになってる。」



やっとの思いで言った言葉はそんなことで、どうして今そんなこと言うんだろうと、自分でもよく分からなかった。



今そんなこと関係ないはずなのに、お母さんのことを思うと、自然と言葉が溢れてしまい止めることはできなさそうで次々と流れだす感情。



「なんで、お母さんなの? なんでお母さんが死ななきゃならなかったの?」


「澪、今それは関係ないだろ!」


「関係あるよ…っ!あるに、決まってんじゃん。……そもそも全部お父さんが悪いんじゃん」



感情的になるともう止めることはできなくて、裕子さんもいるということを忘れてお父さんに言葉をぶつけていくわたしは、きっと子供っぽいと思われてしまうだろう。



それでも、わたしにとってはお母さんが全てだったし、お母さんだけがわたしにとって唯一の味方だったんだ。


亡くなる直前まで苦しんだお母さん。


それなのにお見舞いにだってろくに来なかったくせに、そんなお父さんがどうして今幸せになっているのか。



この世界は本当に不公平だ。


ずるい。ずるい人たちばかりが幸せになっていて、真面目に生活していたお母さんやわたしがどうしてこんな目に合わなきゃいけなかったのか……


この世界に神様なんかいないのかもしれないし、いたとしてもわたしのことなんか見向きもしてくれていないのかもしれない。



「なんで…、なんでお父さんばかりが幸せになってるの?どうして?」


「お前はなにを言っているんだ!」


「最後まで苦しんだお母さんが、可哀想…。どうしてお母さんだけが……っ」



わたしの言葉を聞いた後に、バンッとテーブルを叩いて立ち上がるお父さんの表情は、怒っているのだとすぐに分かるくらい顔を真っ赤にしていた。



「なにもかもお父さんのせいじゃん!お父さんが家を顧みなかったから…、だから、お母さんの異変にも気づかなかった…!」



口を開けば仕事仕事ってうるさかった。


仕事をしている人間だけがそんなに偉いの?ってその時は何度も思ってた。



そんなお父さんを、お母さんは献身的に支え続けた結果、気づくのが手遅れになってこんなことになってしまった。

もっと早く気づいていたら治っていたかもしれない、と医者の人は言っていた。



後悔しても遅かったけど、後悔せずにはいられなくて、お父さんのことも責めたけど、それ以上に一番近くにいたわたし自身が情けなかった。


どうして気づいてあげられなかったんだろう。



どうして、どうして、と何度も何度も自分を責めて悔やんだ。


悔やんでもお母さんの病気の進行が遅くなるわけでもなく、日に日に弱っていくお母さんを支え続けるしかあの時のわたしにはできなかった。


きっとお母さんは、お父さんに来てほしかったんだと思う。



でも、一言もそんなことは言わなかったし弱音だって吐いたこともなかった。



あの時のことを思い出すたびに苦しくて苦しくて泣きたくなる。



「お父さんが今みたいにもっと早く家に帰っていたら異変に気づけたかもしれない。……それなのに、お父さんは仕事ばっかりだった…!」


「あの時は仕方なかったんだ。仕事が忙しくて、なかなか早く帰ることができなかった」


「そんなの言い訳じゃん!今は…、今はそれができてるじゃん!もっと早くそうしてればよかったのに…」



一度溢れてしまった感情はもう止めることはできなくて、言葉はさらにヒートアップしていき、自分でも自分が止められなかった。


その時、お父さんの隣にいる裕子さんが視界に入り、矛先は少しずつそっちに向いていく。



「裕子さんと再婚してから早く帰るようになった。…なんで?なんでお母さんの時もそうしてくれなかったの!?」



もう、全てどうでもよかった。


視界に入るもの全てがどうでもよくて、お父さんも裕子さんもこの家も全部全部壊れてしまえばいいと思った。



「それは、だからその時はできなかったんだ」


と、その言葉だけで片付けてしまうお父さん。



できなかったってなに? その時は忙しかった? でも、今はできてるじゃん? なんで?



いつも仕事を言い訳にして「できなかった」「忙しい」で片付けて解決しないままのせいで結果こんな目に合っているというのに、それでもなお、まだ仕事のせいにするの?


あの時はできなくて今はできてる、この違いって一体何なんだろう……。



「お母さんがあの時どんなに苦しかったか、寂しかったか分かる!?本当はお父さんにも来てほしかったのに全然そんなこと言わないで、毎日苦しいのと戦って……、それなのにお父さんは仕事ばっかり……。」



言い終えると、ハア、ハアと息が切れる。



いつのまにか立ち上がっていたわたしの後ろには椅子が倒れていた。


無惨に倒れた椅子は寂しげだった。



「仕事を言い訳にして結局なにもしなかった!……それなのにどうしてお父さんだけが今幸せになってるの…!?」



それじゃあお母さんは報われない。


最後まで苦しんで亡くなったお母さんが可哀想で、お母さんの気持ちを考えただけでのどの奥がギューっとなって、泣きたくなる。



お母さんの死からまだまだ立ち直れていないわたしは、この家の居心地の悪さにずーっと苦しめられてきた。


それなのにお父さんだけは家族の輪の中にいた。


真ん中で、いつもにこにこしていた。



「わたしの苦しみにも気づかずに自分だけが幸せになってる。……そんなお父さんが憎い」



憎くて、ずるくて、恨んでしまう。


こんな汚い感情に飲み込まれてしまう自分が怖いのにどうにもできなくて、わたしはどんどん汚い感情に支配されていく。



「お前がなにも言わないから悩んでいるなんて気づかないだろうが」



お父さんは、きっと“気づかない”じゃなくて、“見て見ぬふり”なんだと思った。


だって気がつかないはずがないんだ。

同じ家に住んでいて、これだけ近くにいるのに、わたしの苦しみに気づいていないはずがない。


お父さんのそれは言い訳にしか聞こえない。



「だからいつも言ってるだろう!なにかあるなら言いなさいと」


そう言って、ハア、とため息をついた。



その瞬間、お父さんになにを言っても無駄なんじゃないかと、この言い合いをしている時間さえも無駄なものに思えて全部投げだしてしまおうかと思った。



ーーけど、どうせこれが最後だ。


最後くらい言いたいこと言って楽になってやる、そう思った。



「言えない状況を作ったのはお父さんじゃん」



わたしの中でカチッとなにかが外れた音がした。


それは、きっともう修復不可能なものだーー。



「お父さんが全部壊した。この家もわたしの心もなにもかも、お父さんのせい」



血の繋がりがあるだけでお父さんと呼んでいたけど、そんなこともうどうでもよくて、わたしにとって家族はいないも同然だった。



この家にわたしの居場所はない。

それならもうこの家を捨ててしまえばいい。


そしたらこの苦しみからも逃れることができる。



「お父さんのせいでわたしの人生はめちゃくちゃになったんだから…っ!」



そう言い終えると、突然流れだした涙。


それは頬を伝って、テーブルに落ちていく。


一粒ずつ落ちていくその涙の中に、わたしの全ての感情が込められているような気がした。



「ちょ…っと二人とも、落ち着いて…っ」



そう言ってお父さんの肩に手を置いて落ち着かせようとしている裕子さんの姿が見えて、それがなんだかむっときてしまった。


まるで、本物の夫婦のように妻のように振る舞うその姿が癪に触った。



「うるさい…っ、裕子さんは黙ってて!」


「親に向かってその言い方はなんだ!」



わたしが裕子さんを責めたりすれば必ずお父さんは裕子さんを庇い、そして必ずわたしを悪者扱いする。


実の娘であるのにも関わらず、わたしを庇うことは一度もなく見捨てられているのは目に見えていた。



なんだか、もうどうでもよかった。


この言い合いでさえも面倒くさくなった。

お父さんの顔を見ているだけでむっとする。



「裕子さんはべつにお母さんじゃない!わたしにとってのお母さんは世界で一人だけだから!…だから母親づらしないで…!もう、この家だってお父さんだって裕子さんだって宗輔くんだって、みんなみんな嫌いだから…っ!」



ーー言い終えた瞬間、バシッと頬に痛みが走り、それがお父さんに叩かれたものだと知った。


頬に手を当てると、まだじんじんと痛くて熱い。



わたしを見るお父さんの瞳には、わたしなんて映っていなかった。


そんなこと、もうずっと前から知っていたはずなのにそれを改めて自覚すると、なんだか虚しくてとても悲しくなったーー



「……大嫌い。お父さんなんて嫌い」



悲しくて涙が溢れるのか、叩かれた頬が痛くて泣いているのか、どっちなのかもう分からなかったけど、それすらどうでもよくて、目の前にいるお父さんがとにかく憎かった。


頭の中で誰かが叫んでいるみたいにぐわんぐわんいっててうるさくてうるさくていらいらする。



「み、澪ちゃん……」



裕子さんがわたしの名前を呼ぶその声さえも、雑音(ノイズ)にしか聞こえなくて耳障りだ。


偽善者ぶってお父さんの隣にいるその場所は、元々はお母さんの場所なのに、当たり前にいるその姿さえもわたしをいらいらさせる。



「いい加減にしなさい。お前は自分がなにを言ってるのか分かってるのか?俺だけならともかく、裕子と宗輔くんを悪く言うのはやめなさい!」



お父さんの声を聞いているだけで、さっき叩かれた頬がさらにじんじんと痛みだす。



「うるさい…ってば!」



うるさい、うるさい、うるさい。


頭の中の叫ぶ声も、この家も、みんなみんなうるさくてたまらない。



「み、澪ちゃん……あの、ね……」


「黙って!もう聞きたくない!……こんな家大嫌い……。もう、いらない。分かってくれないなら、もういい。」



袖で涙を乱暴に拭いて、涙を止める。



「お父さんだけが、幸せになるなんて……、わたし、絶対に許さないから」



それだけを言い残してリビングを抜けだして、そのまま玄関を出た。


後ろから裕子さんの声が聞こえたけど、なんて言ってるかまでは聞き取れなかった。



さようなら、この家。


さようなら、この世界。


わたしは、もうなにもいらないんだ。



* * *



走っている間に降りだした雨は、どんどん勢いが強まって、晴れていた景色はいっぺんして土砂降りの雨に変わり薄暗くなった外。


まるで、わたしの心を表現しているようだった。


雨が降ってくれてよかった……。

このまま涙も流してくれたらいいのに……



雨に打たれたままどこへ行くわけでもなく、それでも足を止めないのはあの家から少しでも遠くへ離れたかったから、逃げたかったから。



打ちつける雨は強い。

突き刺すように痛くて冷たい。

わたしの身体の体温を奪っていく。



楽しいも嬉しいも、その感情もその色も全て捨ててしまった。


今のわたしは灰色としているだけ。


希望も目標もなにもない。

あるのは、絶望だけだったーー



見慣れた公園。

そこにあるジャングルジムとブランコ。


ここで桜太くんと出会った。

懐かしい、懐かしい記憶。思い出。


………だけど、それももうお別れだね。



ザーっと降り続く雨の中わたしはどこまでも歩いて歩いて行く。

水分を含んで重たくなった身体、べったりと身体にまとわりつく洋服と髪の毛。



心の中に充満し続ける黒い感情。


この雨と一緒に流れてくれたらいいのに、と思うのに、こびりついて離れない。流れていかない。

ぐるぐると渦巻いて、そこに存在する。

苦しくて苦しくて、全身が痛かった。


頭の中を支配する黒い感情、突き刺すように降り続く雨、さっき叩かれた頬、そして今にもちぎれそうな心の中。


全部が痛かった。



ふと、交差点に目を向けると、歩行者信号はまだ青色を示していた。


それを数秒眺めてた。

そして歩行者信号は点滅しだす。



それにもかかわらず、当たり前のように同然というように、そのまま道路内に侵入していく。



わたしの心は真っ黒な雲で覆われている。



もう、嫌だ。

生きるのは疲れた……



歩行者信号が赤に変わると止まっていた車がアクセルを踏んで動き始める。その光景が目に入っているのにわたしはそこから足が動かなくなった。


真っ直ぐこっちへ向かってくる一台の車。

ププーっとクラクションを鳴らし危険を知らせてくれているのに、それでもわたしの足は動こうとしない。



ああ、これでお母さんの元へ行ける。この苦しみから解放される。そう思って涙を流して、ゆっくりと目を閉じたーー



ーーその瞬間、思いきり後ろに引っ張られ、わたしのすぐ前を車が通り過ぎた。

まるでスローモーションのようにその瞬間だけが切り取られたようにコマ送りになったような気がした。



「………な、んで」



ペタンと地面に崩れ落ちるわたしの目の前に、しゃがみこんだのは、この前わたし自らが傷つけた、桜太くんがいた。



「……なに、やってんだよ…っ!」



わたしの肩を思いきり掴んで怒鳴る桜太くんは、切迫詰まった感じで、ハア、ハア…と思いきり息が切れていていた。



せっかくこの世界から逃げることができると思っていたのに、伸ばされた手によってわたしはお母さんの元へ行けなかった。



「……馬鹿じゃねーの!?」



ボーッとしたままわたしは何が起こったのかいまいち理解できずにいたんだ。



「なんで自分から命投げだすようなことしたんだよ!…だから俺、言ったじゃん…っ」



死のうと思った本人より、どうしてそんなに必死になってるんだろう? なんで泣きそうになってるんだろう? と、客観的に見てしまう自分がいて、思いのほか落ち着いていることに気がついた。



「……頼むから、死のうなんて考えないでよ。」



消え入りそうなか細い声でそう言って、桜太くんはわたしを思いきり抱きしめたーー。



ドクン、ドクンと聞こえる鼓動と、桜太くんの温もりを感じて、自分が今何をしようとしていたのか考えると急に怖くなって、また涙が溢れてきた。


ほんの数秒前まで死ぬことを望んでいたはずなのに、今のわたしは死ぬことを恐れてしまった。


怖くなって手が震えてしまう。



さらに桜太くんはきつく、わたしを抱きしめる。


もうどこにも行かないように、逃げださないように、と、強く強く抱きしめるその腕は、微かに震えていた。



「……澪は、一人じゃないから。俺がいるって言ったじゃん。どこへいてもすぐに駆けつけてやれるようにって、言ったじゃん」



数日前、わたしはたくさん桜太くんを傷つけたはずなのに、どうして桜太くんは変わらずわたしに優しく接してくれるんだろうか。


どうしていつもそんなに必死になれるんだろう。



その優しさに安心してしまう自分がいて、その優しさに甘えてしまいそうな自分がいて、突き放したはずなのに……



いつもわたしが困った時や落ち込んだ時、ピンチの時に必ず現れて助けてくれるヒーローみたいだと思った時があった。


ーー今、まさに、その通りだと思った。


わたしが命を断とうとした時に、何も知らないはずの桜太くんがここへやって来て、わたしを救ってくれたんだ。



それは言い逃れのできない事実だった。


偶然なのか必然なのか、よく分からないけど、桜太くんがここにいる。

そんなことが奇跡みたいに思えた。



「澪が抱え込んでるものを半分、俺にも背負わせてよ。そしたら少しは軽くなるかもしれないじゃん」


「………っ、無理。そんな、こと…できない」



泣いていてうまく話すことができないわたしは、少しずつ言葉を付け足していく。



「……桜太くんに、たくさん迷惑、かけた。…たくさん傷つけた。…だから、もう、これ以上は…、」



どのくらい時間が過ぎただろう。

どのくらい抱きしめられているだろう。


なにも分からないまま、土砂降りの雨の中、歩道にしゃがみこんで泣き崩れるわたし。


とめどなく溢れる涙は、この雨のおかげで桜太くんには気づかれていない。



人前でこんなに泣いたのは初めてだった。


内側の感情を見せたのも初めてだった。


きっとそれは、相手が桜太くんだったからーー



「なあ、澪」と、耳元でポツリと呟いた。



「俺が受け入れるから話してよ。澪の苦しみを少しでも和らげてあげたいんだ」



そう言って抱きしめていた腕を緩めて、至近距離で顔を見合すことになったわたしたち。

目の前にいる桜太くんは真っ直ぐにわたしを見ていて、その瞳には嘘なんて一つもなかった。



わたしの頭を二度ポン、と撫でてから、立ち上がると、わたしに差しだした右手。


それに自然と伸ばした自分の手を重ねた。

繋がった手は力強かった。



全身を打ちつける強い雨なのに、繋がれた手だけは温かくて、そこから桜太くんの温もりが伝わってくるようだったーー

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