第二章 再会する二人


あれ以来、桜太くんとは一度も会わないまま、一週間が過ぎた。


これが本来わたしの日常で、それに戻っただけ。


一週間前のアレは、きっと現実に起きたことではなかったのかもしれない。

夢の中の出来事だったんじゃないかと考えると妙に納得できてしまう。


桜太くんというのも、わたしが勝手に作り上げた空想上の存在だったのかも……。



「ーーお、みお、澪!」


「わ……っ、な、何?」



現実に引き戻されると目の前に不思議そうな顔をした友達のめぐみがいた。



「暗い顔してたけど何かあった?」


「…ううん。なんでもない、ごめん」



なにもない。


そのはずなのに、どういうわけかオムライスの味だけはしっかり覚えている。


居心地のよかった、あの空間も。



最近、家でオムライスを食べた記憶はない。

家が温かい空間でもない。


ーーとなると、やっぱりアレは夢の中の出来事ではないということ……?



「澪、知ってる?」



その言葉に頭を傾ける。



「今年転校生が来たらしいよ!しかもねぇ、男の子なんだって!」



その瞬間、ドクンと。

胸の奥がざわついた。



『転校生』『男の子』

たったそれだけの言葉なのに、頭の中のそれとシンクロするかのように重なる。


そんなわけないのに、そんなはずないのに、胸の奥のざわつきが収まらない。


それどころか暴れだす。



無意識のうちにスカートの裾をギュっと握りしめて、それは次第にしわを作っていく。



「一緒に見に行ってみない?」


「…わ、わたしは、別に……。」



さらにスカートの裾を強く握りしめる。

不安だけが押し寄せてくる。



転校生が誰なのか、それは気になる。ーーけど、もしそれが頭の中に浮かんでいる一人の人物と一致したらと思うと怖くなる。



「澪ってほんとそういうの興味ないよねぇ」



苦笑いをした後に、鏡を見ておかしなところがないかチェックする素振りをするめぐみ。

もしかしたら他の友達と転校生を見に行くのかもしれないと容易に想像できた。



「ねぇ、めぐみ!今から見に行こ!」



別クラスのめぐみの友達。同じ部活に所属していて、めぐみを慕っている子だ。「行こ行こ!」そう言って立ち上がる。



「澪はほんとにいいの?」


「…うん。大丈夫」



廊下からめぐみを急かす声。

それに返事をして走って行くめぐみ。



わたしはポツンと一人残された。

急に静かになったわたしの周りだけがクラスとは浮いているような感覚に襲われる。



それをかき消すように頭を振る。



めぐみが傍にいなければ、わたしはただの存在の薄いクラスメートAに成り下がる。

めぐみが傍にいるから、わたしの存在を認識して話しかけてくれるクラスメート。



一人ぼっちのわたしを、誰も見ようとしない。

誰も話しかけようとしない。


学校でも家でもそうなんだ……。

わたしの居場所はどこにもない。



そんなことを考えると、急に上手く息が吸えなくなった。


酸素が足りなくて、苦しい。

家にいる時と同じだ。



逃げるように教室を抜け出して、走って走って、階段を駆け上がる。





重たい鉄格子の扉を開ける。ーーと、きらりと輝く太陽の光が真っ直ぐにわたしを照らした。


わたしの視界いっぱいに広がる蒼い空。


手を伸ばせば届きそうな距離。



ふわりと吹いた風が、わたしの髪を攫って軽々と持ち上げる。


さっきまで苦しかったはずなのに、気がつけば自然と息が吸えていた。


当たり前のように息をしてる。



お母さんに会いたい。

お母さんに会って、たくさんたくさん話したい。



お母さんだけがわたしの味方。

誰よりも理解してくれる。



この世界は嫌い。


みんな自分のことばかり考える。

自分の幸せばかりを考える。



こんな不公平な世界なんて今すぐにでも消えてなくなってしまえばいい。



蒼い空を見上げる。


自然と溢れた涙は頬を伝って屋上のアスファルトにしみを落としていく。



* * *



お昼休みになると、めぐみがわたしの机の前に座って当たり前のようにお弁当を広げ始める。


それだけでわたしはホッと安心してしまう。



「転校生見に行ったんだけどさー、どこにも姿がなかったんだよね」


「…隠れてたんじゃない?」



『転校生』というだけでたくさんの人が集まる。好奇の目に晒される。

それを避けるために、もしかしたらどこかへ避難してたんじゃないかな……。



「じゃあいつ行けば会えると思う?」


「え?うーん……。」



まさか、そんなことを聞かれるとは思っていなくてなんて言おうか考える。ーーけど、答えなんか全く浮かんでこなくて「わ、わからない。」と言った。



この短い時間で考えるのはわたしには無理。


たしかな答えがないまま、曖昧に答えたとしても会えないというのは分かりきっているから。



「だよねぇ。…わたしもわかんない」


「えー、なにそれ!」



お弁当を食べながら他愛もない話をして笑う姿を人が見て、誰も孤独だとは感じない。


そんな悩みを抱えているとは思わない。


さっきまでの孤独感はすっかり消えていて、今は安心感だけが心の中を占領していた。



「だけどさ転校生って聞くと、身体がうずうずするというかやっぱ一度見てみたいじゃん?」


「そういうものなの……?」



めぐみがいう、うずうずはよく分からない。


ーーでも、たしかに感じた小さな変化。

それはドクンと胸を打つ鼓動。



それがなにを意味するのかまだ分かってはいないけど、関係あるとすればきっと桜太くん。


実在しているのかしていないのか。


それを確認するために、一度は見に行った方がいいのかな……。



「ーーお、澪ってば!」


「え?あ…、ご、ごめん」


「ほんとに大丈夫?」と、卵焼きを食べながらわたしを心配そうに見る。


「大丈夫、大丈夫。」



それを笑って誤魔化した。

深く追求されても、それから逃れるすべを持っていないから。


こういう時、作り笑いが役に立つ。


16年生きてきて、その中で学んだ。



人と上手く関わるためには、笑わなくちゃいけない。笑顔でいないといけない。

そのためには作り笑いが必要だ、と。



きっとそれに誰も気づいていない。

だって上手く演じられているはずだから。


何年も誰にも気づかれていない。

だからこれからだってこうやって生きてく。



「なにかあったら相談してよ?」


「うん。…ありがとう」



何事もなかったかのように時間は過ぎていく。


誰もわたしが悩んでいることなんか気にならないし、誰も見向きもしない。


そうやって時間は過ぎていく。



こんな重たい悩みなんて友達に話せるような内容ではないし、打ち明けられた方だってきっと困るだろうから……。



だからわたしは我慢する。

自分でどうにかしなきゃいけない問題だから。

家族だけの問題だから。



お弁当を食べながら他愛もない話は続き、それを聞き役に徹してたまに相槌を打って笑ったりする。


そうやって何事もないまま、時間が流れていけばいいと心の中でふと思った。



* * *



お弁当を食べ終わると職員室に向かう。


最悪なことに今日、日直のわたしは次の授業で使われるプリント持ちを命じられていた。



「春野悪いな。せっかくの昼休みなのに」


「あ、いえ……。」



面倒くさい。

そんなことを思っているなんて、きっと先生は知らないだろうなぁ…。



プリントを持ちながら並んで歩く、わたしと先生。ーーと不意に先生が「ああ、そうそう」と何かを思い出したように話し始める。



「俺のクラスに転校生来たんだよ」


「…へぇ、そうなんですか。」



まるで世間話でも始める様子の先生は、近所に住んでいるおばさんたちみたい。

それほど慕っている先生でもないし、ただ頼まれたから仕方なくというだけで、できることならちゃっちゃと済ませたい。



「春野はそういうの興味なさそうだよな」



ああ、これデジャヴだ。

さっき、めぐみから言われたことを思い出しながら適当に返事をする。



「真面目なことはいいと思うけど、たまには息抜きもするんだぞ」



先生の呟いたその言葉。

全くこれっぽっちも心に響いてこない。



真面目なんてそんなの見た目だけ。

上っ面だけで判断されても、そんな言葉は全然心の中に届きはしない。


そんなことを考えてしまうわたしは、やっぱり捻くれていて人とちょっと違う。



喜んだり楽しかったり、そういうのが少なくて、悲しみや辛いことばかりが起こる現実。


本当に不公平だと思う。


周りのみんなばかりが幸せになって楽しそうに過ごす姿を見て、まるでわたしと正反対。


羨ましいを通り越して妬んでしまう。



学校でも家でも同じ。

ただ苦しいだけで楽しさなんかない。


その場の雰囲気を乱さないように必死に自分を取り繕って対処しているだけだ。

それが周りからは楽しそうにしていると勘違いされているだけ。



めぐみといるとホッとする。

だけど、時折やってくる不安に押しつぶされそうになって、真っ直ぐにめぐみを見ることができなくなる時がある。


些細な事に気づくめぐみ。


何かあれば「どうしたの?」「大丈夫?」と真っ先に言葉が出る。すごく、優しいめぐみ。



それが、たまに疲れる時もある。


それはめぐみのせいなんかじゃなくて、自分とは正反対すぎて眩しく感じてしまうから隣にいるのが違和感を感じてしまう。



そんなことを思いながら廊下を歩いていると、隣で先生が独り言をぶつぶつを呟いていた。



「それにしても青柳くんはどこに行ったんだか。…次の授業も出ないのかねぇ」



ピタリと止まった足。


まるで足の裏に接着剤でもつけられたように、その場から動くことができない。



それに気づいた先生が振り返ってわたしの名前を呼ぶ。ーーが、それに返事をすることも歩き出すこともできない。


先生は今、なんて………?

それともわたしの聞き間違い……?



「どうしたんだ?」



わたしの元までやって来て、わたしの顔を不思議そうに見る先生。



「あの、先生…。」


「ん?なんだ?」



プリントを抱えたまま立ち止まるわたし。

頭の中でぐるぐると巡る二つの疑問。



「今、名前なんて言いました?」



あれからずっと考えていた。

一週間前のあの日からずーっと。


それでも答えは出ないまま、考えることを放棄したわたし。



夢だとか存在しない人物とか適当に片付けて納得しようとした。


でも、できなかった。



「名前?ああ、だからーー…」



先生が言ったその名前。


それを聞いて二つの疑問が繋がった。


頭の中でばらばらに存在していたその疑問が、ようやく今、線になって繋がった。



会いたかったわけじゃない。

探していたわけでもない。


ただ、どうしてあの日来なかったのか、それだけが知りたかった。



「先生、ごめんなさい。これ、あとはお願いします」



プリントを先生が持っている教材の上に乗せて、廊下を今来た方向とは逆へ走って行く。


後ろから「おい!春野!」と先生が慌てる声さえも今は雑音にしか聞こえなくて、それを振り切るように前へ前へ走った。



途中、本鈴のチャイムが鳴ったけど、今さら教室に戻っても「言い訳を説明するのが面倒くさい」。

そう思って戻るのは諦めた。



どこにいるかなんて分からない。

学校にいるのかさえ分からない。


たった二日間だけしか会っていない彼のことなんて、名前以外ほとんど分からない。


それでも足が前へ進むのは、逃げる場所を探し求める人はそこしかないと予想しているから。


現に、わたしがそうだったからーー。



* * *



「……ハァ、ハァ……。」



扉の前で呼吸を整える。

この奥に、いるのかいないのか。



ドクン、ドクンと、暴れ始める。


胸の前で拳をギュっと握りしめて、重たい鉄格子の扉を開ける。ーーと、そこには灰色がかったコンクリートだけが広がっている。



「…いない。」


フェンスの元まで歩いて来たけど誰もいない。



わたしの勘違い。気のせい。


そう思って振り返ると、さっきまではそこにいなかったはずの人がコンクリートの上に座ってわたしの方を見ていた。



「な、なんで……。」



驚くわたしを見てフッと笑った。



「ーー久しぶり。」



声を発するその人は、やっぱり夢の中の空想なんかではなく、ちゃんとこの世界に存在している。



さっきはどこにもいなかったのに……。

いつからそこにいたの?



「扉の後ろもちゃんと確認しないと」



わたしの聞きたいことに気づいた彼は、わたしが聞く前に答えをくれた。



「扉の横にいたから見えなかっただけ……?」


「そういうこと」



わたしだけが慌てている様子。

彼は一週間前のあの時と変わらずに、最近まで会ってましたけど?という表情をしているようだった。



「……あ。」



座っている彼が着ているのはここの制服。

その上にパーカーを羽織っていた。



「気づいた?俺が転校生ってことに」


「う、うん。」



ハハハッと笑う彼。

あの時と変わらない桜太くん。


どうして転校してくるってあの時、教えてくれなかったんだろう……。

それとも、まだあの時は転校するなんて決まってなかったのかな……。


理由を聞きたいけど、聞けない。

深く追求されても困るのはわたしも同じ。


だから、ワケを聞くすべが何もない。



「……一週間前、ごめんな」


「え?」



ポツリと、話し始める。



「あの日行こうと思ってた。…けど、ばあちゃんが倒れちゃってさ」



本当なのか嘘なのか分からない。


でも、桜太くんの顔を見る限り嘘を言っているようには思えなかった。



「それで結局行けなかった。澪にも悪いことしたなって思う。…本当にごめん」



あの時は別に気にしてなかった。


ーーううん。むしろ、それでいいとさえ思っていたくらいだ。


友達でもなんでもないわたしたち。

それで縁が切れても何も困らないと思ってた。



桜太くんを目の前にした今。

やっぱりどこか寂しかったのかもしれない。


そんな風に思ってしまう。



そしてなにより一緒に並んで食べた、あのオムライスの味が忘れられなかった。


また、食べたいと思ってしまった。



一人じゃなくて、二人で。

誰かと一緒に食べたかったのかもしれない。




強い風が吹く。


その瞬間、あの時と同じ、シトラスの匂い。



桜太くんの座っているところは日陰。

そのせいで上手く表現が読み取れない。



「澪は裏切られたかもって思ってると思う。あの時、俺が逆の立場なら同じこと考える」



桜太くんの傍まで来て、座る。

何も言わずに黙って聞き役に徹する。



「でもさ、俺。やっぱり澪とこのまま何もなかったみたいにすることなんてできないよ」



振り絞るように出した声。

それはまるで寂しさが伝わってくる。



面倒くさい。鬱陶しい。いらいらする。


人と関わるとロクなことがないと、自分の人生で何度も経験している。



今回もまた同じ。

同じようにわたしが損をする。


わたしだけが苦しくなる。


そう思うのに、桜太くんはなぜか他の人と少しだけ違うように感じてしまう。


最初はあんなに嫌だったのに。

あんなに鬱陶しく感じていたのに……



「澪が嫌って言うなら関わらない。二度と澪にも話しかけない」


「それ、言い方がずるい……。」



まるでわたしの答えに全てを委ねるような。



「うん。たしかに、俺ずるいんだ。」



ここにいるのに、心はここじゃない。

目があっているはずなのに、合っていない。


まるでわたしを通り越して、どこか遠くの向こう側を見ているような……。



「でも、実際その通り。澪が嫌ならもう話しかけない。迷惑はかけない」



どうして答えられないんだろう。

どうして言葉がでないんだろう。


何も返せないのはどうして? 桜太くんのことが嫌いだから? 桜太くんが自分勝手だから?



ーーううん。違う。きっとそうじゃない。


でも、どうしてなのかまだわたしにもはっきりと分からない。


分からないからこそ答えられない。


だからーー…



「べつに、嫌じゃない。」



力強く言ったその言葉。

桜太くんに伝わればいいと思った。



「そんなに嫌じゃない……。」



それしか言葉がでてこない。

それ以外の言葉を忘れてしまったみたいに。


他の言葉を長々と言ったところで伝わらなければ意味がない。

届いていなきゃ意味がない。



それなら最短距離で伝わる言葉だけを、切り取って言えばいい……。

面倒くさいわたしにはそれしかできない。

それしか方法がなかった。



「ハハハッ。」不意に笑った桜太くん。



「『嫌じゃない』って言われてるだけなのに、なんでこんなに嬉しいんだろうな」



男の子ってよく分からない。

考え方も性格も全く違う。



「あれかな?澪が普段無表情だから、些細なことを言われるだけで嬉しくなんのかな」


「……それ軽くディスられてる?」



無表情って、たしかにそうかもしんないけど。

面と向かって言われたのは何年振りかな……。


『無表情』『無愛想』『真面目』とか今までに何度も言われた気がする。


わたしだって人間だから、面白いことがあれば普通に笑うし、嫌なことがあれば顔を歪める。誰だって同じだ。


先生もクラスメートもお父さんも再婚相手も、みんなみんなわたしの上っ面だけしか見ていない。



「澪はただ普段が落ち着いてるだけで、普通に話せば笑うやつだって俺知ってるから!」



屋上のコンクリートに座る姿。

制服を着ているだけで身近に感じる。


一週間前に会った、あの時間はたしかに存在していたのだと実感する。



「あのさ、澪がよければだけど…、今度またあのオムライス食べに行こうよ」


「………べつにいいけど。」



ハハハッと嬉しそうに笑う桜太くん。

また、八重歯が見える。



「次こそは、ちゃんと守るよ」



一週間前の約束は守られることはなかった。


だけど、今度は違う。


わたしがしたずるい約束とは違う。



あの喫茶店のオムライス。


それを想像しただけでお腹がグーと鳴って、また同じように笑われた。



* * *



放課後。


HRが終わって真っ直ぐ家に帰ると、靴があった。…ということはすでに帰って来てる。


ドアの音に気づいたのか、向こうからフローリングとスリッパの擦れる音がして、それは次第に近づいて来る。



「おかえり」



リビングのドアが開いて、裕子さんがひょこっと顔を出した。



「…うん。ただいま」


小さく返事をして自分の部屋に向かおうとしたら話しかけられて立ち止まる。



「今日なにか食べたいものある?」


「ううん。…特にはない、かな…。」



振り向かずに答えて、自分の部屋へと逃げる。



ドアを閉めた瞬間「…はぁ。」と制服のままベッドになだれ込む。


疲れる。疲れる。

二人きりの時が一番気まずい……。


よりによって最悪のタイミングで帰って来てしまったと自分を責める。


目を閉じて呼吸を整えても目覚まし時計の秒針の音が気になって落ち着かない。


この家に誰かがいるというだけで気を使う。

全神経を張り巡らせて気を張っている状態。


落ち着くどころか疲れるだけだ。

自分の家なのに落ち着かないって普通の家庭ではあり得ないこと。



裕子さんは、お父さんの再婚相手。


わたしは一度も「お母さん」と呼んだことはないし、それはこれからも変わることはない。



話しかけられても気を使ってしまって言いたいことも言えないし、自然と話すことができない。

上手く言葉が出てこない。


一緒に住むようになって一度も自分から話しかけたことはなくて、一方的に話しかけられてそれに返事をするくらい。


そんな状態だというのにお父さんは別に何かしてくれるわけではなく、自分のことばかりって感じで腹が立つ。

自分だけが家族の輪にいて、自分だけが幸せににこにこと笑っている。



その姿を見ているのが嫌で、なるべくご飯も一緒に食べたくないし同じ空間にいたくない。


お父さんだけが本当の家族だったのに、まるで裏切られた気分で、わたしは一人ぼっちになった。


わたしよりも再婚相手が大事なんだ、と。



それを実感した時から、もう誰も頼らない信用しないと決めた。

信じられるのは自分だけだと。



「…ああ、もう…っ、いらいらする…!」



少し眠ろうと思っても、これじゃあ眠れないと起き上がり財布とスマホだけ持って部屋を出た。



ローファーを履いているとまたやって来る。



「どこか行くの…?」


「……ちょっと、友達のとこに」



そんな約束なんて何もない。

けど、ここにいるよりはマシだと思う。



「…そう。あんまり遅くならないようにね?」



まるで母親気取りのその言葉。

小さく返事をしてそのまま玄関を出た。



バタンと閉まったドア。


この家から解放されたわたしは少しだけ肩の荷が下りて、その反動でお腹が空いたわたしのお腹からグーと鳴った。



そうなれば行き先はあそこしかない。


時刻は、まだ17時00分。


夜ご飯を食べるには早すぎる時間だけど、このまま家で食べるよりはいいかもしれない。



そう思っていたらすでに足は動きだしていて、喫茶店への道を辿って行く。

一度しか行ったことがなくて覚えているか不安だったけど人間って覚えているもんだ。



気がつけばすでに目の前まで来ていた。


家からもそんなに遠くないことに気づいて、これくらいなら通えそうだなと思った。



* * *



店内に入ると「いらっしゃい」と声をかけられたと同時に「澪!?」とわたしの名前を呼ぶ声が聞こえた。



「…桜太くんも来てたんだ」



あの時と同じ定位置。

カウンターの右から二番目。



「澪こそどうしたんだよ」


「………べつに。」



言いたくなかった。

ううん、言えなかった。


家があんなことになってるって簡単に言えるわけがないんだ。



「そか。…まぁ座れば?」



自分の家かなにかと勘違いしてるんじゃないだろうかと思う時がある。

それくらいここにいる桜太くんは自然だ。



「何食う?」


「……オムライス」



わたしがそう言うとハハッと笑って「あ、やっぱ気に入ったんだ?」と、まるでそうなることを予想していたかのようだ。



「マスター、オムライス二つ!」


当たり前のようにわたしの分まで頼む。



一週間ぶりのオムライス。


家で食べるご飯よりおいしい。



何と言っても温かく話しかけてくれる人がいる。

温かい空間がある。


それだけで何倍にもおいしくなるんだ。



「はい、どうぞ」



カウンターに置かれたオムライス。

あの時と同じようだった。


まるで時間が巻き戻されたように。



「あ、あの…、これ撮ってもいいですか?」



わたしの急なお願いを快く受け入れてくれた喫茶店のマスター。


スマホを操作して写真アプリを選択して、出来立てほやほやのオムライスをパシャリと撮った。



美味しそうなオムライスを写真に残したいというのもあったけど、一番はこの温かい空間にわたしもいるんだ、という証みたいなものを残したかった。


ここはわたしを必要としてくれている。

わたしを温かく迎えてくれる。


自然と、そんな気になってしまうんだ。



「早く食わないと冷めちまうぞ」


「うるさい、わかってる…!」



くだらない言い合いをするわたしたち。

それをカウンター越しに微笑むマスター。


とても居心地がよかった。

あの家とは大違いだと思った。



「………おいしい。」



一週間ぶりに食べたオムライスは、あの時と変わらず温かくておいしくて幸せな味がする。


一口食べただけで心が満たされる。


わたしの心の欠けた部分を埋めてくれるように、ぽかぽかと温まっていく心の中。



「マスターのオムライス最高だわ!」



わたしの右側で頬張る桜太くん。

同じ高校二年とは思えないくらい少し幼い。


でも、時折見せる大人びた表情。

その裏に隠されたものは何なんだろう……。



「なあ、澪!」


「な、なに?」



じーっと見てたのがバレたのかと内心焦っていたけど、そんなことではないらしい。



「俺、何度か澪のこと見かけてるんだけど、学校ではいつもあんな感じ?」



あんな感じと大まかに言われても分からない。

けど、そこをあえて掘り下げる必要もないかと思って「あんな感じ」と答えた。


わたしの話題が中心になって話されるのは、あんまり好きじゃないから……。



「ふーん。普段はこんなにつっかかってくるくらいなのに?」


「べ、べつに、関係ないでしょ…っ」



さっきまで夢中になってオムライスを頬張っていたその手を止めて、頬杖をついてわたしを見てくる。



「あの時の表情が。……いや、何でもない。」



桜太くんは言いかけてやめた。


「あの時の表情」は、恐らくこの世界が終わるような表情という意味だろう。


それを深く聞かれたところで答えられるはずもないわたしからすれば、聞かれない方がいい。


この悩みは人に打ち明けられるものではない。


………今は、考えるのやめよ。せっかくおいしいオムライスが台無しになってしまう。


「それよりさ!」と顔を近づける桜太くん。ーーと同時に顔を離すわたし。



「連絡先交換してくんない?もちろんあの時は俺が悪かったし今でも悪いと思ってるけど、連絡先知ってないと不便っつーか」



目の前でしょぼくれる。

手に取るように分かる心情。


俯いたまま、ポツリと呟いた。



「…澪がなんかあった時にすぐに駆けつけてやりたいじゃん」



その言葉に耳を傾けるように、スプーンを持つ手が止まる。

時間が止まったかのように。


自分のためではなく、わたしのためと。


そう言った桜太くんの意図が分からない。



連絡先を交換したいがために口から出た嘘なのかもしれないし、真実は誰も分からないけど、そんな嘘をついて何の得があるのだろう。



「澪、すぐに一人で抱え込む。なんかそんな感じがするんだよね」


「そ、そんな感じがするってだけでしょ」



一瞬だけ動揺する。

心の内側を見破られた気がした。


でも、あくまでそれは一瞬だけ。

すぐに冷静を取り戻す。



「そーなんだけど…。多分当たってる気がする。俺と澪、案外そういうとこ似てるから」


「え?似てる……?」



つまり、わたしと桜太くんが似た者同士だと、そう言いたいってこと。

そう言うワケは、わたしと同じように桜太くんも何かを抱え込んでいるということ……?



桜太くんの言葉を待つように、じっと見つめていると、プハッといきなり笑った。



「まぁ、そういうこと!だから何かあった時のために交換してほしい」



「……いいけど…。」わたしがそう言うと、早速スマホを取り出して連絡先を交換する。


この雰囲気で丸め込まれそうになったけど、上手くはぐらかされた?



桜太くんは自分の話題になると、それ以上は関わってほしくないみたいに伏線を張って逃げ場を確保する。


そうして違う話題に持ち替える。


今思えば、桜太くんは自分の話題になると一瞬黙った後に笑う気がする……。

それが癖なのか自然とそうなったのかは分からないけど、もしかすると自分を守るために身につけたものなのかもしれない。


そう考えると深くは追求できなかった。

だって、わたしも同じような状態だから。


「なんかあった時はすぐ連絡して」と、そう言うと、またオムライスを食べ始める。


その表情は、今まで見てきたのと同じ。

明るい笑顔をしていた。



その後のことは何を話したのかよく覚えていなくて、気がつけば喫茶店を後にしていた。



よく覚えているのは、桜太くんがわたしと似てると言ったこと。

そしてその後の雰囲気が一瞬だけ違うように感じたこと。


わたしが考えている桜太くんとは全然違って、もしかしたら大きな悩みを抱えているのかもしれない。


それを聞けるほど、わたしは優しい人なんかではなく、自分のことで精一杯なただの高校二年の女の子。



* * *



喫茶店でつい長居をしてしまって家に帰り着いたのは、19時少し前だった。



「おかえり」



ドアの音で気がついたのか裕子さんがスリッパをぱたぱたさせて走って来た。



「ご飯もうできてるよ?」


「えー…っと、ごめんなさい。友達と食べてきちゃってお腹空いてない…。」



わたしの言葉を聞いて分かりやすいように落ち込んだ顔をする裕子さん。



「そっか、うん。…分かった。ラップしておくから、お腹空いたら食べて?」



その言葉に頷いて、部屋に戻る。



財布とスマホをベッドにぽいっと投げて、自分もベッドにダイブする。


「はぁ…」家に帰りつくとやってくる虚無感。


全身が鉛のように重たくなって、そこから一歩も動けなくなる脱力感。

身体はここにあるのに心はここじゃない。


そんな感じで、とにかく何もやる気が起きなくて居心地が悪い……。



さっきまで喫茶店にいた時は、心が満たされてお腹も満たされたのに、家に帰りついた途端にズドンと頭上から鉛が落ちてきた。



「……もう…っ!」



ベッド脇のクッションを壁に投げつけても、このいらいらはどうやらわたしから去ってくれる様子がない。



リビングの方から微かに話し声がする。

おそらくお父さんが帰って来た。


リビングのすぐ隣にあるわたしの部屋。

嫌でも気配を感じる、嫌でも話し声がする。



お母さんが亡くなって五年。

お父さんは早く帰って来るようになった。


仕事を持ち帰って家でするのが増えたから。


そうなると必然的に家にいる時間が長くなり、その分わたしのいらいらも増えた。



どうして今さらなんだろう。

どうしてもっと早くに、お母さんがいる時に早く帰って来てくれなかったのか。


どうして今さらなのか理解できなかった。



何もかもが最悪で、わたしばかりが不幸。

神様は本当に不公平だ。


この世界に神様はいるのだろうか………。



コンコンッと、二度ノックされる。

「ちょっといいか」ドアの向こう側から、お父さんの声がした。



「………なに。」


「お前今日ご飯食べて来たのか」



………ああ、そのこと。

多分、裕子さんが言ったんだろう。



「外で食べて来るならちゃんと連絡しなさい。裕子だってご飯作ってるんだから」



目の前のお父さんはいつもわたしじゃなく、裕子さんを庇う。


悪いのは全部わたし。

そうやって決めつけて話を進める。



「……話ってそれだけ?」



一秒でも早く済ませたかった。



「本当に分かってるのか」


「分かってるってば!」



普段はわたしに無関心のくせに、こういう時だけ説教して父親ぶる。

何を言われても聞く気にはなれない。



全身の毛がぞわぞわと逆立つのを感じた。


わたし自身がお父さんに対して嫌悪感を持っている以上、この感情は収まらない。


「まあ、それだけだ」そう言って部屋の前から離れて行くお父さん。



バタンと思いきり閉めたドア。


右手が少しだけ痛かった。

お父さんにそんなことを言うわたしにバチが当たったのだろうか……。


そうだとしたらこの世界に神様はいない。



真っ暗な部屋。


時計の秒針の音だけが響く。

それ以外は、なにも聞こえない。



自分の部屋がわたしの心を表している。


真っ暗闇に閉じこもって、何重にもカギをして、外から聞こえる声さえも遮断するように。



「………はあ…。」



ベッドの上で目を閉じる。

その瞬間、桜太くんの顔が浮かんだ。



どうしてだろう、なぜだろう。

考えるのも面倒くさくなった。



いつしかそのまま寝てしまってたーー…。





転校生という物珍しい肩書きに騒ぐのは最初の一週間だけで、その後はいつもの日常に戻る。



クラスが違う桜太くんとは学校で会話をすることはまずないけど、お互いの存在には気づいていて、すれ違う時たまに桜太くんはわたしにしか気づかないくらいの声でわたしの名前を呼ぶ。



ーーそれはまるでそよ風のように。



わたしの耳に届くと同時に、風にのって、ふわりとすぐに消えてしまう。


振り返った時にはもう桜太くんの姿はない。


わたしの周りに微かに残るシトラスの匂い。

桜太くんがさっきまでいた証拠。


本人の姿はどこにもないのに、名残惜しいように匂いだけがわたしの周りを漂っていて、まだここに桜太くんがいるような錯覚を起こしてしまいそう。



知っているのに知らんぷりをしているよう。

そんな自分に違和感を感じる。


わたしに気を使って桜太くんか話しかけないのか、それともわたし自身がそういうオーラを放っているから話しかけられないのか。

どっちなのか確信はないけど、桜太くんのことだから、きっとわたしに気を使っているのかも……。


学校というたくさんの生徒がいる中で親しげに話していれば誰だって怪しむし噂が一人歩きをしてしまうことだって予想している。

だからと言って、存在の薄いわたしなんかと転校生である桜太くんの話題を誰が喜んで噂を広めるのだろうかと、心の中で「ありえない」と呟く。



「ねぇ、澪。桜太くんのこと知ってるの?」


「え?な、なんで……?」



会話のついでみたいに持ち出したそれは、わたしの平常心をいとも簡単に崩してしまう。



「だって、なーんか桜太くんいっつも澪のこと見てる気がするから」



そう言われてわたしは内心ひやひやしながら聞いていると、「それに」とめぐみは言葉を続ける。



「桜太くんが通りすぎた後いつも澪振り向くから、なんでかなって気になってたの!」



「え、と……」思わず口ごもる。



「あれだよ。…匂い!いい匂いするなぁって思って振り向いちゃうの!」



「えー、匂い?」そう言って、わたしの顔をじーっと見つめるめぐみ。



その間およそ10秒。

それがとても長く感じた。



「わたし桜太くんと距離近くないから匂いとかわからないなぁ」



すれ違う時、桜太くんの横はわたしが通る。

わたしの左側にいるめぐみは少し離れていて、シトラスの匂いは届いていないんだ。



「今度本人直接嗅いでみようかなぁ」


「それは怪しがられるんじゃない?」



桜太くんと知り合いだということを、めぐみには打ち明けていなくて、なんだか隠し事をしているみたいな気分で自分が悪いことをしているみたいに感じる。


このタイミングでめぐみに言えばいいのに、どうしてわたしは何も言えないんだろう。

このままずっと知らんぷりを続けるつもりなのだろうか……。


いつかはバレてしまう。

いつかは言わなきゃいけない日がくる。


そう考えるだけで、わたしの心の中は黒い雲で覆われて憂鬱な気持ちになる。

こんなことを考えているなんて、きっとめぐみは思ってもいないだろうなぁ……。



「ねぇ澪、わたしさ思ったんだけど…」


「ん?」


「桜太くん……。」



そう言いかけてとまる。

めぐみの言葉を待つわたしに気づいた彼女。


「あー、いや。なんでもない」笑って誤魔化した。


「桜太くん」その続きをなんて言おうとしたのか、気になってしまうけど聞けない。

なんでもない、と言われてしまえばそれまで。



「ごめん、今の忘れて」



納得はいかないけど、それに黙って頷いた。

きっと大したことではない。


そう思うことに決めたらすんなりと忘れられそうな気がした。



「それよりさー、今度の日曜日部活の大会があるんだよねぇ」



がらりと話題が切り替わり、他愛もない話が始まる。場の雰囲気を崩さないように笑い返すわたし。



無表情だと言われるわたし。

友達といる時は普通に笑う。


真面目だと言われるわたし。

ただ、そう見えるだけ。


一人でいると無表情だから、真面目そうにしていると思われているだけ。



別に実際はそんなことない。

誰もわたしを見ようとしない。

誰もわたしの心に気づきもしない。


このまま笑い返して他愛もない会話が続いていけば、わたしも周りから楽しそうにしていると思われるだけ。



「澪も応援に来てよ!」


「うん、行くよ」


「気合い入れて頑張ろーっと!」



笑い返すなんて簡単にできる。

場の雰囲気を守ることもできる。


それでも、感じる違和感は少しずつ膨らみ始めてきている。



* * *



放課後、職員室に用があり「失礼します」そう言って入ると、真っ先に視界に入り込んできたのは桜太くんの姿だった。



「馴染めないのは分かるが、ちゃんと授業には出なさい。いいね?」


「…はい。」



担任である先生に注意をされている桜太くん。

その後ろ姿は少し寂しげな感じがする。


聞いてはいけないようなことを聞いてしまった気分で、なんだか申し訳なく感じてしまう…。



「お、春野来たか。」



タイミング悪くわたしの名前を呼ぶ先生。


誰よりも早く振り向いた桜太くん。

目が合うと、お互い数秒見合わせて、わたしからぱっと目を逸らす。



「これさっきのプリントな」


「あ、は、はい。」



先生の話よりも後ろにいる桜太くんが気になって、心が落ち着かない。

話なんか頭に入ってこない。


一刻も早く職員室を出て行きたかった。


だらだら話しだす先生の話題なんて大したことないんだから、と言ってしまいたいけど担任である以上気まずいのだけは勘弁だ。

その大したことのない話題に付き合う他なくて、その間もずーっと後ろが気になってしかたなかった。



「じゃあ、提出期限守りなさいね」


「はい」



ようやく解放されたわたしは、そのプリントを鞄の中に乱暴に突っ込んで急いで職員室を出た。



「…ふう……。」



まさかのまさか。

こんなところでばったり会うとは予想していなくて、心の準備もできていなかったわたしの心臓は未だ鳴り止まない。



「まさかこんなとこで会うとはな!」



にかっと笑う桜太くんは、さっき注意を受けていたことなんてこれっぽっちも気にしていないという素振りを見せた。



「澪も担任に呼ばれてたんだ?」


「ま、まあ…。」



こんな場面を誰かに見られたりでもしたら…という不安がやってきて、まともに桜太くんの顔を見て話すことができないわたしは「じ、じゃあね」と走り去ろうとした。


ーーが、それは桜太くんの手によって阻止された。



「そんな急がなくてもまだ時間早いじゃん」



こんだけ親しく話していたら普段知らんぷりをしている意味がなくなるじゃん……。

心はそわそわと落ち着かない。



「ここ、廊下。…意味分かるよね?」



誰かにこんな場面見られたりでもしたら大変なことになる。ーーそれを手短に省略した。



「もう放課後じゃん」


「そーだけど!」



分かった上で言い返す桜太くん。

さらにギュっと掴まれた腕に力が加わる。



「…手、離してよ。」


「離したら澪、逃げんじゃん」


「に、逃げない、から……。」



廊下の窓から、ふわりと風が入り込む。

静かな時間だけが流れていく。



「ん。」そう言ってぱっと解放された。


今までのわたしなら平気で何も考えずに逃げていたのに、目の前にいる桜太くんはなんだか寂しそうな瞳をしていた。

そのまま置いて行くのが可哀想だと感じてしまう。



「………さっき話、少しだけ聞いたけど…。学校にまだ馴染めてないの?」



桜太くんは何も答えない。

いや、答えられないのかもしれない。



「え、と…ごめん、忘れて。」



そう言って二、三歩歩きだすと、グイッと後ろに引っ張られてよろけるわたしを桜太くんが軽々と支えた。



わたしの背中に桜太くんの胸板がついた。

シャツ越しでも分かる、その温もりが、わたしをどきどきと焦らす。



「ちょっとだけ時間ちょうだい」


「……え?」



頭上から聞こえる桜太くんの声。


こんな場面見られたら大変なことになる。

噂が一人歩きしかねない。

どうにかしなきゃいけないのに、桜太くんのせいで冷静に判断できなくなる。



放課後のこの時間。


部活生が行き交うこんな場所で、桜太くんと二人、こんな形で立ち止まっていたら誰かに見られてもおかしくはない。

それなのに動こうとしない桜太くん。



「澪には話せそうな気がして」



そう言う桜太くんの声は少し寂しげに聞こえてしまうのは、きっと気のせいなんかじゃない。


「うん」と頷こうとしたら遠くから生徒の笑い声が聞こえて、それはこっちに近づいて来るように少しずつ大きくなる笑い声。



「…桜太くん、離して」



後ろから返答はない。

聞こえているはずなのに、聞こえないフリ。


その間にも生徒との距離は少しずつ近づいていく一方で、どきどきと焦りだけがわたしを支配する。



「…離して…っ!」



思い切り手を振り上げると、ようやく離れた桜太くんの手は思っていたより力が軽かったことに気づいた。



「と、とりあえず場所変えよう」



焦るわたしは早口でそう言った。

けど、桜太くんから出た言葉は。



「ごめん、今の俺どうかしてた。」


「……え?」


「引っ張ってごめん」



それだけを言うと、頭をぽんぽんと二度撫でて、昇降口に向かった。

それとすれ違うように廊下の角から数人の部活生がやって来た。



廊下にぽつんと取り残されるわたし。



何がどうなったのかよく分からないけど、また桜太くんははぐらかした。

それだけはたしかなことだった。



腕を掴まれたこと、シャツが擦れるくらい近づいた距離、頭を優しく撫でられたこと。


そのどれもが未だに鮮明に残っていた。



* * *



よく分からないまま家に帰りついた。


いつものように出迎えられて、それに適当に返事をして部屋にこもる。

またあの喫茶店に行こうか迷ったけど、さっきの出来事を思い出してやめた。



近づきすぎるのもよくない。

信用しすぎるのもよくない。


桜太くんがどういう人かなんてまだ何も分かってはいない。



スマホの電話帳に登録されている【青柳桜太】の文字を見て、メールを打とうか考えた。ーーけど、そこまでする仲でもないと思ってホーム画面に戻す。



「…はあぁ。」



ため息をついたタイミングで、ドアが二度ノックされて、それに返事をすると裕子さんの声がした。



「お湯溜まったからお風呂入っていいよ」


「あー、うん。…分かった。」



ドア越しの短い会話。


その後すぐにスリッパの擦れる音がして、それはぴたりとなくなった。



それからすぐにお風呂に入った。

脱衣所に映る自分の顔はなんとも無表情で、可愛いの欠片さえ感じとれなかった。


別に知ってる。

誰かに言われなくてもわたしは可愛くないんだって自分で理解してる。


そこまでわたし馬鹿じゃない。



自分がどのへんに属しているのか、どのくらいの価値なのか、ちゃんと分かってる。

分かってるからこそおとなしくしている。



シャワーを浴びて嫌な感情を洗い流そうとしても、なかなかへばりついて離れない。

それはまるで頑固な汚れみたいにしつこい。


浴室の中はシャワーの音だけが響いて、それ以外は何も聞こえない。


まるで何もかもシャットアウトしたかのよう。



* * *



お風呂から上がると、部活が終わって帰って来た裕子さんの息子の宗輔くん。

その後すぐにお父さんが帰って来た。


当たり前のようにテーブルの上に4人分の夕飯が並べられて、座らざるを得なかった。



「さ、食べよう」



4人で食卓を囲む。


いつもしてることだけど、わたしはそれが馴染めなくてご飯が喉を通らない。


お母さんがいた時はこうやって食卓を囲むこともできなかったのに……。


一人ずつ取り皿に分けられていて、目の前に置かれている唐揚げ。見た目はおいしそうなのに食べると何も味を感じない。


噛んでも噛んでも喉を通らない。



家で食べるご飯は、いつもそうだ。


「おいしい」と感じることがない。

それは、もうずーっとだ。


この空間が、この食卓を囲む風景が、わたしをそうさせてしまう……。



お父さんも宗輔くんもおいしそうに食べる。

それなのにわたしは箸が進まない。


お母さんができなかったことを、わたしだけがしていいのかと思うと箸が止まる。


食欲がなくなってしまう。



「なんだ。もう食べないのか?」


「……うん。お腹いっぱい」



わたしの取り皿には、まだたくさん残った唐揚げと、その横に添えられている真っ赤なトマトが残されたのを悲しむように見ているようだ。



「あ…。じゃあ、ラップしておくね?」


「……うん。」



眉を下げてわたしを見る裕子さん。

その向かい側にいる宗輔くん。


そして、わたしの目の前にいるお父さん。

とにかく居心地が悪かった。



リビングを出て部屋に逃げ込んだ。


さっき食べたはずの唐揚げ。

すでに見た目もあんまり覚えていない。

味も全く分からなかった。


温かい出来立てのはずなのに、冷え切ったお惣菜のように感じてしまった。



裕子さんのご飯がまずいというわけではない。

現に宗輔くんもお父さんもおいしそうに食べているわけだから、おかしいのはわたしの方。


それなのに喫茶店で食べたあのオムライスだけが、よく記憶に残っている。


二回しか食べてないのに、覚えている。



「……お母さん……。」



ベッドに寝転がって、天井に向かって真っ直ぐ伸ばした腕。

手のひらを優しくギュっと握ってくれる、お母さんはもうどこにもいない。


ただ、空を切っただけの手のひら。


虚しい現実が目の前にあるだけ。

幸せなんてどこにもない。



お母さんに会いたい。

お母さんに会いたい。


優しく頭を撫でてほしい。

優しく手を握り返してほしい。


わたしの名前を呼んで、優しいその笑顔で笑いかけてほしい。



ーーそのお母さんはもうどこにもいない。



高校二年になったからって、すぐに大人になれるわけじゃない。


寂しい気持ちは人一倍ある。

それを隠して過ごしているだけだ。



グー。お腹が鳴った。


たった今食べたご飯はノーカウントなのか、身体は素直でお腹が空いているみたいだけど、今さらリビングに戻るのもおかしいと思ったわたしは財布だけ持って玄関に向かう。



「どこか行くのか」


「……コンビニにシャー芯買いに。」


「気をつけるんだぞ」


「…うん」



サンダルを履いて玄関のドアを開けた。


外は街灯もついている。

明るくてまだ夕方みたいな気持ちになる。



近くのコンビニに寄って、肉まんとアイスティーを買って店を出た。


家に帰る前に立ち寄ったのは近くの公園。

ここなら桜太くんと会うこともないと安心して寄り道ができた。


まだアツアツの肉まんを一口ぱくりと頬張ると、中の具がたくさん入っていていろんな食感がする。

喫茶店のオムライスには断然劣るけど、それでも美味しく感じてものの数秒で食べ終わる。



アツアツの肉まんを食べたのに身体は温まるところか冷えてくる。

一人ぼっちのこの場所が寂しいのか。それとも一人ぼっちの現実が苦しいのか。



帰りたくない。

あの家にわたしが帰る居場所はない。


温かく迎えてくれるお母さんはいない。

わたしの唯一の味方だったお母さんは、もうどこにもいない。



裕子さんと宗輔くんは血の繋がりがない。

いわば他人も同然なのだ。

そんな人たちが家の中にいて、落ち着けるはずなんかないんだ。


無視されてるわけでもない。

優しく接してくれているのは分かる。

それに応えてあげることができないんだ。

その優しさを冷たくあしらって突っぱねてしまう。



こんな自分も嫌い。

人の優しさを受け入れることができない自分は、子供のように思えてしまう。



この世界に生まれた意味ってなんだろう。

わたしはどうしてここにいるんだろう。


生まれてこなければこんなに苦しくなることだってなかったんじゃないかと思うと、こんな現実から早く消えてしまいたかった。



こんな風に公園で一人ぼっちでいるわたしの存在は、この世界からすぐ消えてしまっても誰も困らないし誰も気づかない。

そんなことを考えるだけで惨めに感じる。



ジャングルジムのてっぺんに登って空を見上げると、思いのほか空を近くに感じる。


空に無数に浮かび上がる星。

キラキラと輝く星は自分の存在を主張しているようで、わたしとは正反対だと思った。



「……澪?」



声がして見下げると、めぐみがいた。


薄暗くて表情ははっきりとは見えなかったけど、月明かりのおかげでジャングルジムに登ってくる姿だけは見えた。



「部活帰りにフードコート寄って来たんだけど…」


と、言いながらわたしの隣に座った。



「澪はどうしてここにいたの?」


「……散歩?」


「なんで疑問形」



ふふふっと笑うめぐみ。


さっきまで一人ぼっちで寂しかったのに、めぐみが来たおかげでその寂しさはいつのまにか消えていた。



「なんか食べた?」


「うん、肉まん」


「肉まんって冬に食べたくなるよねぇ」



そんな他愛ない会話が今のわたしにとっては、せめてもの救いだった。


一人ぼっちじゃないんだ、と思わせてくれる。

錯覚でもいい。わたしは孤独じゃないんだと。その瞬間だけでも思わせてくれた。



「さっき食べたのにまた食べたくなる」


「めぐみは年中食欲の秋だよね」


「ちょっとー!それどういう意味!?」



ジャングルジムのてっぺんに座って他愛ない会話をする女子高生二人は、周りから見たら怪しくも見えるしおかしな人にも見える。


よく考えれば分かることなのに、その時は全く気にならなかった。



「あ、そうだ。澪に聞きたいことあるんだった」



空に近づいたおかげで、めぐみの表情ははっきりと見えていた。



「放課後、桜太くんといた?」


「……え?ど、して?」



真っ直ぐわたしを見つめてくる。

月明かりのせいで、お互いの顔がよく見える。



「部活の友達が澪と桜太くんが一緒にいるとこ見たっていうから、どうなんだろうって思って」


「一緒にいたというか…、あれは偶然だよ。」



わたしと桜太くんが一緒にいたら何なのだろう。


そんなにおかしく見えるのだろうか。

不釣り合いだと言うんだろうか。



「お互い職員室に呼ばれてたの。…で、偶然一緒になっただけ!」



変に勘違いされたくなくて笑って誤魔化すと、「なんだ、そうだったんだ!」とそれに納得してその後は追求されることはなかった。



内心どきどきが止まらない。

焦りが尋常じゃないくらいの脈を打つ。

外は肌寒いくらいなのに、身体中が熱く感じて冷や汗が流れてくる。



みんな他人の不幸が好きなんだ。

人の不幸は蜜の味。

誰かから聞いたことがある。



わたしが不幸になれば一人ぼっちになれば、影で喜ぶ人がいるのかもしれない。


誰かを蹴落として上り詰めるこんな世界。


汚くて醜い世界の片隅で、わたしは一生懸命に生きているだけなのに、どうしてこんなに嫌なことばかり起きるんだろう。


全てを投げ出して、今すぐにでもお母さんのところに行ってしまいたいと何度も思う。

人生を放棄してしまいたくなる。



わたしがそんなことを考えているなんて、きっと誰も思わない。

表面上では笑っているから楽しんでいるように見えるだけなんだ。


孤独感がわたしを襲ってくる。


わたしに気づいてくれているのは、遥か遠くに存在する月だけだ。

月明かりがあるおかげで帰り道は迷子にならなくて済みそうだーー。





4月も終わりに近づくと、夏の訪れを感じさせるように日中は気温が高くなってきた。



この時期にやってくるマラソン大会。


それは毎年恒例の全校生徒強制参加の授業の一環で、三位以内の人には学食券一万円分が貰えるというもので分かりやすく言えばそれをエサに頑張ってもらおうという作戦。


この手に全く興味のないわたしは去年、仮病を使って学校を休んだ。が、今年は休まないようにすでに念を押されている。



「今年こそは三位以内に入りたい…!」


「やっぱり学食券欲しいんだ?」


「だって一万円分だよ!?好きなの食べ放題って感じだよ?」



好きなの食べ放題って……。

一万円分使い切ったら食べ放題じゃなくなるけど、やる気になっているめぐみにそんなことを言う必要はないと思って飲み込んだ。



「澪は今年どうするの?」


「すでに休むなって念押しされた」


「澪走るの嫌いだもんねぇ」



運動の苦手なわたしは、マラソンという名の長距離が一番嫌い。

どうしてそんな意味のないことをさせられるのかよく分からない…と屁理屈ばかりを思ってしまう。



「これも思い出だと思ってさ、頑張ろうよ!」


「う、うん……。」



めぐみの圧に負けてしまった。


バレー部に所属しているめぐみは、体育会系でとにかく運動とか行事がとにかく大好きな子。

それとは正反対なわたしは、汗をかくのが好きじゃなく運動も苦手で、日差しの下にいたくない。


できることなら日陰にずっといたい。


比較してみると全然違うわたしたち。



「やるからには三位目指そ!」


「そ、それは無理…!」


「そのくらいの意気込み大事だよってこと」



ニイッと歯を見せて笑うめぐみ。

すごく可愛いと思った。


揺れるショートカットが元気いっぱいさをアピールして、もともと肌の白かっためぐみの首元は透き通るくらい綺麗。

明るく元気なめぐみは人気者で高校に入ってからその可愛さに磨きがかかって、かなりモテる。


女のわたしから見ても可愛いと思ってしまう。



それにひきかえわたしは何なんだろう。

女子高生だというのに華やかさもないし、存在も薄いし目立たなくて可愛くない。


性格も残念でいいところなんか一つもない。



表面上ではにこにこ笑っているけど、心の中はどんどん卑屈なことばかり考えてしまう。


めぐみに知られてしまったら、きっとわたし嫌われてしまう……。


それだけは嫌だなぁ。

めぐみに嫌われたら、わたし本当の意味で一人ぼっちになってしまう…。


めぐみに必要ない、いらない、って言われたら、わたしの存在価値なんてないに等しい。



「はあ…。」心の中で深いため息一つ。


それを隠して笑わなきゃいけない苦しさ。

喉の奥がぐーっと苦しくなってくる。



「真夏じゃないだけマシだよねぇ」


「た、たしかに…。」


「せめてくもりなら走りやすいよね」



天気予報がその日雨ならいいのに。

そしたら延期になってマラソン自体がなくなるかもしれないのに。


マラソン大会の前日に逆さまのてるてる坊主でも吊るそう。

そしたら雨になってくれるかもしれない。



「晴れてる時に走ると気持ちいいけどね」


「暑いだけじゃん」


「そうなんだけど風を切って走ってると、その暑さまでも心地よく感じるの!」



小学生の時も中学生の時も走るのは苦手で、ずる休みをしてしまうくらい嫌だった。


めぐみが言うことはよく分からなかった。



風を切って走る記憶はそんなにない。

16年生きてきてほとんどない。



思い返せばわたし、何かに一生懸命になったり必死になったりしたことがない。

全部中途半端に投げ出して、バレない程度に手抜きをしてた。



「ここまででいい」と手抜きをして

「頑張る」ことを投げ出した。


それが恥ずかしいものに思えてしまって、めぐみの顔を真っ直ぐに見れなかった。



「例えるなら…」と数秒考えて、何かがひらめいためぐみは、ぱあっと明るくなる。



「サイクリングだって気持ちいいでしょ?あれに似たようなものかな」


「えー、よくわかんない」



明るく元気なめぐみ。

対照的な沈んだわたしの心。


どんどん沈んでいく。



まるで、ドボンと海に落ちた気分。


ゆっくりゆっくり沈んでいく。

その先に待っているのは蒼い海だけ。



深い、深い、蒼い海の中。


真っ直ぐ伸ばした手は誰にも気づかれぬまま、深い海にのまれていくだけ。



* * *



お昼休み、売店へ向かった。

お昼ご飯を買うためだ。


いつもなら無理やり持たされたお弁当を食べるわたしだけど、最近なんだか食欲がなくなって作ってもらうのを断っている。


あからさまに落ち込んだ顔をした裕子さん。

申し訳ないと思いながらも、どこか心の中ではホッとしてしまう。


作ってもらったのに食べなかったらとか、ほとんど残してしまったらとか、今まではたくさんたくさん気を遣ってきた。

そう考えると、お弁当を断ってよかったのかもしれないと思った。



「澪がパン買うなんて珍しいね?」


「あー…たまには気分転換」


「分かる!お弁当ばっかり食べてるとたまにはパンも欲しくなるよねぇ」



なんとか上手く切り抜けた。

あまり深く追求されても困るから……。



「どのパン買うの?」


「焼きそばパン」


「あー、それ定番だよね。あるかな?」


「だといいけど」



お昼時は売店はものすごく混み合う。


男の子の割合の方が高く、その中をかいくぐって買いに行かなければならない。



「うわ、人すごいね」


「本当だね」



いつにも増して多い売店。

買わなければお昼ご飯抜きになってしまう。


それだけはなんとしても阻止しなきゃならないと思い、人と人の間をすり抜けて「おばちゃん、焼きそばパン一つ」と声をあげる。


けど、その声は全く届いていない。

他の人の声によってかき消される。



周りがうるさすぎて嫌になる。

男の子ばかりで暑苦しく感じる。


こんな人混み、一刻も早く抜け出してしまいたいのになかなかパンを買えない。



もう一度言おうとした。


すると横から「焼きそばパン一つ」とわたしではないその声がして、声の方を見ると、桜太くんがそこにはいた。



また、ふわりと香るシトラス。

それだけでなんだかホッとしてしまう。



人混みに紛れて、めぐみのところからわたしがいる場所は見えていない。

そのおかげで桜太くんがいると気づかれていない。



「ん、これ」


手渡された焼きそばパン。



「ありがとう」そう言う前に桜太くんはすぐに人混みに紛れて消えてしまった。

お礼も言えてないし、お金も渡せてない…。



「あれ、早かったね」


「う、うん」



自販機でアイスティーを買った。


歩きだすと、横からめぐみが「あんな中買いに行けたねぇ」と、まるで桜太くんがいたことを知った上でそんなことを聞いてくるのかと疑ってしまう。



「運がよかったのかも」



たまたま偶然居合わせただけ。

聞かれたらそう言えばいい。

なにも不自然なことはないんだ。



それなのにどきどきと鳴り止まない鼓動。


ほんの一瞬の出来事だったのに、桜太くんが現れたら嫌な感情が吹き飛んで安心感だけが広がっていた。



男の子は苦手。

うるさくて騒がしくてガサツで、ずけずけと踏み込んでほしくないところまで踏み込んでくる。



それなのに桜太くんは違う。

いつも清々しくて困った時に現れるヒーローみたいに、わたしを救い出してくれる。

おまけにいつもいい匂いがする。


出会った当初は、強引で面倒くさい人だなって思っていたのをよく覚えている。



喫茶店で話す雰囲気と学校での雰囲気は少し違う気がするけど、それをあえて聞かないのは、わたしも聞かれたらまずいから。


わざとその話題には触れないようにしてる。



人間誰だって人には知られたくない悩みの一つや二つは持ってて当たり前。

わたしだってたくさんのことを隠してる。


悩みのない人間なんてほんの一握り。

きっとみんな少なからず悩みを抱えている。



「うわー、見て。男子が騒いでる」



わたしの肩を軽く叩いて指を指すめぐみの見る先は、同学年の騒がしいグループが中庭で食べながら騒ぎたてていた。


その姿はまるで子供のようだ。



「……悩みなんかなさそう」


「澪、なんか言った?」


「ううん。なんでも、ない」



ふわりと風が吹き、渡り廊下を歩いているわたしたちの目の前を木の葉が風にのって流されていく。



めぐみのショートカットの髪の毛が風に攫われて、柔らかく踊っている。

触り心地がよさそうで思わず、めぐみの髪に手が伸びそうになるくらい。



悩みのなさそうな男の子のたちを眺めながら、心の中を支配していくのは真っ黒な感情。


一度落ちてしまえばそこから抜け出せない底なし沼のように。



* * *



教室に戻り、いつものようにお弁当を食べる。

そして他愛もない会話が始まる。

それだけで楽しそうにしている状況が作られて、充実した日を過ごしているように思われる。


焼きそばパンを食べながら、めぐみの話に耳を傾けて、たまに笑って返事をする。



「あー、お昼の後の授業が一番しんどい」


「ね。満腹になると眠たくなるもんね」


「そう!睡魔との戦いだよ!」



お昼休みの後の授業は大半のクラスメートが寝ていて、それを起こされるのがセットになっている。



「やばい…。お腹いっぱいってくらい食べすぎちゃったんだけど」


「いつものことじゃん」


「ちょっと澪!」



焼きそばパンを食べ終わると、案外お腹いっぱいになって満たされた。

お弁当を食べていた時はなんだか味気なく感じてお腹に溜まる感じがなかったけど……。



お母さんのお弁当が懐かしいなぁ…。


運動会の時とか、わたしの大好きなおかずばっかり入れてくれていて「おいしい」って言って食べてたのを覚えてる。


何年経っても忘れることのない思い出。


それは生涯ずっと心の中にある。



ふいに窓の外を見た。


屋上が、一瞬だけ きらりと光った。


遠くてよく見えなかったけど、人の姿がたしかに見えた。



「ごめん、用を思い出した…!」


「え?ちょ、澪!?」



めぐみの声も振り切って、アイスティーが飲みかけのまま残されているのも忘れて、わたしは屋上へと駆け上がる。



* * *



「ーー桜太くん!?」



重たい扉を開けると、そこにはやっぱり桜太くんがいて「澪、なんでここいるの?」とさほど驚いていない様子だった。



「さ、さっき、ここが光ったから……」



「ああ。」そう言って、わたしの前に来て取り出したのは、スマホだった。



「すっげー天気よかったから写真撮ってた」



スマホの画面には、さっき撮られたであろう写真が映っていて、それが思いのほか上手く撮れていて驚いた。


教室からきらりと光って見えたのは、スマホの画面に日差しが反射したから……?



「澪ここいていいの?」


「なんで?」


「俺といるとこ見られるの嫌なんでしょ」



視線はスマホに向けられたまま、さらりと言ったその言葉。表情は俯いてて読み取れないけど、わたしを見ずに言ったその姿がなんだか心を表現しているようだった。



「この前廊下で一緒いた時も、澪は周りばかり気にしてた。友達に知られんの嫌なのかなぁって思って。澪、最初から俺のこと嫌ってたもんな」


「ち、違う…!」


「いいって。分かってるから」


「だから、違うの…っ!」



スマホからわたしに視線を変えた桜太くんの表情は、わたしが言ってることに対して意味が分からないと言ってるように見えた。



「桜太くんのこと、嫌ってない。…そりゃ、最初は図々しいって自分勝手だって思ってたけど、案外いい人だって思ってる。…だから別に、嫌いじゃないよ」


「…………ほんとに?」


「う、うん…。」



改めて確認されると、自分が言ったことを思い出して恥ずかしい気持ちになる。



「澪に嫌われてなくてよかった。」



そう言った桜太くんの表情は柔らかく微笑んでいて、その顔を見たらわたしが言った言葉は間違いじゃなかったのかもしれないと、恥ずかしかった気持ちが少しだけ軽減された。



「あいさつも普通にしていいの?」


「…うん」


「すれ違った時も話しかけていい?」


「いいよ」



今まで不自然に隠してた方がおかしかった。

めぐみに気づかれないように必死に嘘取り繕ってその場をしのいでも、疲れてしまうのは結局自分なのに。


桜太くんも傷ついて、めぐみにも嘘ついて、隠し通すのは誰も得しない。

得るものなんか一つもなく失っていくだけ。

もう少し自分の行動に責任を持たなければいけない、と心の中で肝に命じた。



「はあー…」としゃがみ込む桜太くん。



「ど、どうしたの?」


「ホッとしたら気が抜けた。…ずっと澪に嫌われてるって思ってたから」



ハハハッとカラ元気の笑顔を浮かべる姿は、少し疲れているようにも見えた。



「ご、ごめん…。」


「なんで謝るんだよ。澪のせいじゃないって」


「で、でも」


「ストップ!」



わたしの顔の前に桜太くんの手が現れて、その先を言うことを止められた。



「じゃー、はい」


「な、なに?」


「改めての握手」


「…それ必要?」


「まぁ、あれだ。気持ち的な問題?」



フフッ。わたしが笑うと、桜太くんが「何だよー」とむすっと口を尖らせてすねた真似をしていた。

その姿が少しだけ幼く見えてしまうということは黙っておこう。



「ほら早く」


「ええー」



そう言いながらも差し出された手に左手を添えると、ギュっと思いきり力が加わった。


桜太くんの手はわたしよりも大きくて温かくて、優しい手をしていた。



* * *



「めぐみに嘘ついてたことがあるの」



あれから教室に戻ると、お昼休みは終わって授業が始まってタイミングを逃したわたしは放課後、めぐみが部活に行く前に少しだけ残ってもらった。



「桜太くんのことなんだけど…。実は、少し前から知ってたの」


「……うん。知ってた」


「え?」


「知ってたというか、桜太くんと何かあるんだろうなぁくらいは気づいてた」



ぽかんとしていると、クスッと笑っためぐみ。



「まぁ、そのうち澪が教えてくれるかな?って思ってたからあんまり深くは聞かなかった」


「ご、ごめん」



友達に嘘をつかれたらわたしだったら、きっともっとショックで怒ってる。

それなのにめぐみは怒ることなんかせず、わたしが何かを隠していることに気づいてあえて深く聞かなかったんだ……。



「まぁ、二ヶ月経っても教えてくれなかったらさすがに気になって聞いてたかもしれないけどね」



桜太くんが転校してきて約一ヶ月。


その間ずっとめぐみに嘘をつき続けてきたわたしは罪悪感でいっぱいだったけど、打ち明けられたことで心が軽くなった気がした。



「澪は何かを隠す時決まって笑って誤魔化す。それにわたしが気づいてないと思ってた?」


「…お、思ってた」


「何年の付き合いだと思ってんの!」



めぐみとは小学校五年からの友達。

お母さんが亡くなったことも知ってる。


いつもわたしの隣にいためぐみに、何かを隠し通すことなんか無理なんだ。



「わたしそんなに頼りない?」


「ち、違う!そうじゃないの!」


「これからはもっと頼ってほしい。」



今まで人を頼っていなかったし人を信用していなかったわたしは、人の優しさに触れると、どうしていいか分からなくなる。

その優しさを素直に受け止められないわたしは頷くことしかできなかった。



「それに」と、めぐみは明るい表情になった。



「桜太くんの話だってもっと聞きたいし!」


「え?」


「だって二人なんか仲よさそうじゃん」


「べ、べつに普通だよ?」



仲よさそうと言われても、わたしは桜太くんのことをそんなに知らない。

知らないことの方が多い。



「わたしにはそう見えるけどなぁ」


「ないない。普通だってば」



「えー」と、まるでわたしの言葉を信じてないといっためぐみ。



キーンコーン…とチャイムが鳴り、教卓の上に掛けられている時計を見ためぐみは「やば!」と慌てた姿で荷物を詰め込んだ。



「部活前にごめんね?」


「いいよいいよ、気にしないで!それより、また明日詳しく聞かせて!」



ばいばい、と手を振ると廊下を走って行く。


少しずつその音が小さくなってきて遠ざかって行ったのが分かると一気に静かになった。



窓を開けると、ふわりと風が入り込む。


白いカーテンが心地よさそうに波を打つ。



遠くで沈んでいく夕焼けのオレンジ色が、明るく教室中を照らしてくれていた。





5月に入ると暑さが増してきた。


そして本格的にマラソン大会の練習が始まった。

わたしはそれに文句を言いながら体操着に着替えて、めぐみに連れられて校庭に向かう。



「澪、しっかりして」


「だって…」


「ほら、ちゃんと準備運動して!」



この暑い日差しの中、今から校庭を20分間走り続けないといけない地獄のような時間を想像しただけで、ひどく頭が痛くなった。



「次わたしの番。澪、肩押して」


「う、うん」



準備運動だけですでに暑くて、額からじわりと汗が滲んでくる。



「…溶けそう」


「澪、室内ばっかりいるから色白だよね。日焼けして顔真っ赤になっちゃうんじゃない」


「それだけは嫌なんだけど…。」



体操着のズボンからのぞくめぐみの足は、すらっとしていて程よく筋肉がついた健康的な感じ。


それにひきかえわたしは運動嫌いなため、マラソン大会が終わるまでの間ずっと筋肉痛かもしれない。



「お昼食べた後に体育って最高じゃん!眠気なんて吹っ飛ぶでしょ」


「その前に食べたのが出てきそう」


「えー、それは勘弁!」



遅刻しそうになったわたしは朝ご飯を食べて来なくて、お腹が空いてしまったわたしはお昼にパンを二つも食べた。


一時間前が悔やまれる……。



体育は二クラスが合同。

そんなわけで、もの凄い数になるから半分の人数ずつ前半と後半に分けて走る。



「ほら、そろそろ始めるぞー」



ピーっと笛の音が鳴ると一斉に走りだす。


ペース配分を考えながら走らないと後が持たなくなってくるから、わたしは最初からのろのろペースで走り始める。



「ちょっと澪、それじゃ時間かかるよ?」


「分かってるけどこれ以上無理」


「…ああ。さっきのパンね」


「そう。パンがお腹の中で揺れてる」



先生に気づかれないように走りながら喋るけど、それは体力のある最初だけで少しずつ喋るのもきつくなる。



「じゃあわたし先行くよ?」



まだまだ余裕のあるめぐみは、どんどんスピードを上げて、風を気持ちよさそうに切っていた。



ああ、そう言えばこの前言ってたっけ。

走ってる時の風を切る感じがサイクリングしてる時と同じだとかって……。


わたしのペースだと風を切るところか生温かい風しかやってこなくて不快にすら思える。

前髪が汗でへばりついてくる感じが嫌で、首を横に振るけど、のりみたいに張り付いてしまってる。



走り始めてまだそんなに時間は経っていないのに、これが20分も続くと考えただけで、どんどん憂鬱になってくる。

その感情を読み取ったようにペースが落ちてきて、他の人に二周も追い抜かれた。


こんな晴れた日にマラソンなんてするもんじゃないよって心の中で呟くわたしは、何に対しても一生懸命になったことがなくていつも手抜きをしてしまう。



頑張って何になるのさ。


頑張ったってこの不幸な生活が変わるわけじゃないし、お母さんが戻ってくるわけでもない。


全部に言い訳をして逃げ出してしまう。

「もういいや」「ほどほどでいい」って勝手に決めて、頑張ることをしなくなった。

だって、頑張ったって誰も見てくれない。

誰も褒めてくれない。



お母さんはよく褒めてくれた。

小学生のテストでいい点数を取ったら褒めてくれたし、読書賞というものを貰った時も褒めてくれた。


絵が上手いって、字が綺麗だって、たくさんのことを褒めてくれた。

それがすっごく嬉しかったんだ。



お母さんに褒めてもらうために頑張ろうって趣旨が変わってしまったけど、それでも当時は頑張ることをしていた。


今のわたしとは大違い。



お母さんがいなくなってしまった今、何のために頑張ればいいのか分からなくなった。

目標を見失ってしまった。


今こうやって走っていることさえ何の意味があるのだろうかと考えるだけで、馬鹿らしく思えてきてしまって走るのをやめたくなる。



それでも授業だからと、なんとか20分走り切ると、ぴーっと笛の合図で終わった。



「澪、おつかれ!」


「絶対明日筋肉痛だよ」



わたしの元へ入って来ためぐみは、まだまだ体力が余っているように見えて自分がおばあちゃんにでもなったような気分だった。



「次、休憩できるからラッキーじゃん」



残りの人たちが今から走る。

その間わたしたちは休憩ができるわけで前半に走っててよかったかもしれない。


後半に走ると汗がひかないまま次の授業を受けなきゃいけないはめになる。あの気持ち悪さを想像しただけでため息がもれそうだった。



めぐみは友達に「頑張れー」と応援していたり、時々わたしに話しかけたりと忙しそう。



わたしはめぐみしか友達がいないのに、めぐみは部活をしているからたくさんの友達と仲間がいる。

もしめぐみが当たり前にわたしの隣に座ってくれなかったら、わたしは一人ぼっちなんだ。



「澪!」


「え、な、なに?」


「なにじゃないよ!ボーッとしてたけど気分でも悪い?大丈夫?」


「う、うん、大丈夫」



心配そうな顔をしてわたしを見てくるめぐみ。



「ちょっとさっきのパンが危なかった」



冗談を言うと、「もうー!」といつもの笑顔に戻っためぐみを見てホッとした。


その後は他愛ない話をしながらクスクス笑って、先生に気づかれそうになったら真剣な顔でグラウンドを走ってる生徒を見る。


その繰り返しでひやひやしながらも、なんだかおかしくて顔を見合わせて笑った。



授業が終わる頃には、いつのまにか汗もひいていて気持ち悪さはなかった。


べったりなった前髪だけはどうしようもなくて横に流してピンで止めた。

そのせいで、おでこは丸見えだった。



* * *



久しぶりに喫茶店に寄ると、桜太くんはまだ来ていなかくて他のお客さんもいなくてわたしが一番のりだった。



「いらっしゃい。久しぶりだね」


「あ、はい」



最近はこうして少し話しかけてくれるようになったマスターは、とても気さくで落ち着いててこんな人がお父さんだったらよかったと心底思った。



「まだ食べるには時間早いんで、飲み物だけ頼んでもいいですか?」


「もちろんいいよ」


「えと、じゃあアイスティーで」



甘いのを頼もうと悩んだけど、体育で走ったらさっぱりしたものが欲しくなった。


店内はほどよく冷房が効いていて涼しい。

学校からここまでの道のりは少しだけあって、この暑さのせいもあり少しだけ汗が滲んだ。


前髪を横に流しているせいでおでこが丸見えなわたしは、鞄からハンカチを取り出して汗を拭いた。



カランと音が鳴りドアが開くと、「あっちー」と言ってシャツをパタパタさせて入って来たのは、桜太くんだった。



「走って来たらすっげぇ暑かった」



その姿を見たら少しおかしくなって、フフッと笑うと、「あれ」と言ってわたしの隣に座った。



「今日前髪違うね」


「じ、授業で走ったから暑くて」


「いいね、それ。似合ってる」



そんなことを男の子に言われたことが初めてで、恥ずかしくなって少しどきどきした。



「しかもピンに猫ついてる」


「と、友達にもらったの」


「可愛いじゃん」



桜太くんにとってはなんてことない言葉でも、『可愛い』と言われ慣れてないわたしは、それだけの言葉にいちいち反応してしまう。

そんな自分が恥ずかしいと思ってしまう。



「なに?」


「べ、べつに」



普通の男の子ならこういうことを言うのを躊躇ってしまうし恥ずかしがって素直に言わない人が多そうなのに、桜太くんはそんなことなくてさらりと言ってのける。


スマートな感じで嫌味がない分、言葉が真っ直ぐ心の中に入ってくる。



こういう時、変に意識してしまう方がおかしいんだ。桜太くんにとって大した意味はなく、ただわたしがつけているピンが可愛い、と言っただけだ。



「あ、そうだ」と言って身体ごとわたしの方に向いて言った。



「俺、澪が走ってるとこ見てた」


「え、嘘!?」


「そん時授業で理科室いたんだよ。あそこ校庭丸見えじゃん。で、すぐに澪見つけられた」



最悪。と、心の中で呟いた。


のろのろ走ってる姿を桜太くんに見られていたんだと思うと、一気に顔が熱くなってきて、それを隠すようにアイスティーをごくごく飲んで気を紛らわす。



「澪ってなんかオーラ放ってる感じする。だからすぐ見つけられんのかな」



わたしを真っ直ぐ見てそう言った。



「俺、澪がどこにいても見つけ出せる気する」


「そ、それは無理でしょ」


「まじ!絶対見つけられるもん」



なにを根拠に、って思うけど、それを聞いただけで嬉しくなってしまうのは、きっとそれを誰かに言われたのが初めてだったから。


言われ慣れていない聞き慣れないその言葉に、そわそわして落ち着かなくて、やたらとどきどきがうるさかった。



『澪がどこにいても見つけ出せる』



その言葉がまるで魔法のように感じた。


その言葉を聞いただけでなんだか心がふわふわして不思議な感覚になったのは気のせいなんかじゃないと思った。



「マスター、俺、カフェモカ」



そう言った桜太くんの中では今の出来事は記憶に残るほどのものではなく、会話の中の一部としてあっというまに上書きされていた。


まだわたしだけが覚えていてわたしだけが勝手にどきどきしてしまう、それが少しだけ悔しいと思ってしまった。



「また今日もここで飯食うの?」


「た、食べるけど…」


「ふーん。じゃ、俺も食お」



ここへ来る途中、信号待ちをしている時に裕子さんにメッセージを送った。


連絡をして食べに行くなら問題ないでしょ、とお父さんに対してあてつけのようにしているわたしは少し子供っぽいところがあるのかもしれない。


きっと裕子さんはまた落ち込んでる。

分かっていてもそれを慰めてあげるほど、わたし優しくない。


どうせお父さんがまた味方になる。

「大丈夫か」って裕子さんには聞いてあげるのに、わたしにはなにも言ってこない。

それどころかわたしに無関心なお父さんは、きっとわたしのことがいらなくなったんだろう。


家庭のことを考えるだけで頭の中がいらいらして、一気に憂鬱になってしまう。



「澪!」


「え、な、なに?」


「今ぼーっとしてたじゃん。なんかあった?」



わたしの顔を覗き込んで来ようとする桜太くんを慌てて止める。



「な、なにもないよ!」


と、笑って誤魔化した。



「本当に?なんか悩んでねえ?」


「な、なにもないから!」



いつもなら深くは追求されずにすぐに会話が切り替わるのに今回は少し長い。というか、桜太くんがしつこいくらいに聞き返してくる。

まるで何もない、というわたしを疑っているような瞳を向けてくる。



「まあ、人には言えない悩みとかあるだろうけどさ、澪は人を頼らなすぎ。なんかあったら俺を頼ってよ」



ふざけているわけでもなく適当なことを言っているわけでもなく、至って真面目な桜太くんの表情は、いつもと違って見えた。


そんなことをいきなり言いだすと怪しく見えて、もしかしたらわたしの悩みに気づいているのだろうかと不安になってくる。



「俺、まじで澪の力になりたいから」



出されたカフェモカにも手をつけず、その甘い匂いだけがわたしの元へと流れてくる。



その言葉になにも返すことができなくて、黙ったままアイスティーが入っているグラスを見ることしかできなかった。



桜太くんが冗談で言っているわけじゃないって分かるからこそ、その言葉に冗談で返してはいけないんだと笑って誤魔化してはいけないんだと思うと、今は何も返さないのが正しいのかもしれない。



言葉って難しい。

伝えるって難しい。



一つでも組み合わせる言葉を間違えてしまえば、相手に誤解されてしまうことだってある。

相手を傷つけてしまうことだってある。


そう考えると、言葉を慎重に選んで考えて、言わなきゃいけないような気がしてくる。



「じゃあこの話はおしまい!」



わたしが困っていると思ったのか、桜太くんがこの場の雰囲気を変えようといつもの表情に戻ると一気に空気が切り替わる。

目の前に置かれたままになっていたカフェモカを一口飲んで「うまい」と言って、二口目を飲む。



桜太くんは様子を見ながら聞いてくる。


ここまでなら大丈夫かな?とかここまで聞かれたら嫌かな?とか、そういうことを考えてわたしが嫌な思いをしないようにほどよい距離を保ってくれている気がした。


人の心の中に土足で入り込んでくるような真似はしなくて、何度かドアにノックをして入って来ていいか確認を取っていくみたいに。

鍵がかかっているドアにはそこまで踏み込んでこれないのか遠くで様子を見ている感じがする。



18時を過ぎると店内に人が増えて少しずつ賑やかになってきた。



「ほら澪、ぼーっとしてると氷溶けちまうぞ」


「え?あ、う、うん」



桜太くんの声にハッとしてグラスを見ると、氷はだいぶ小さくなっていてアイスティーを飲んだら少しだけ味が薄くなっていた。



「澪は今日もオムライス?」


「その、つもり…」


「俺も。だけど今日はソースをデミに変えようかなって思ってる!」


「え、そんなこともできるの?」



「まあな」そう言ってニカッと笑ってみせると、マスターにわたしの分のオムライスとデミオムライスを頼んだ桜太くん。

そんなことができると知っている彼は、よっぽどここのオムライスが好きで通い詰めて常連になったんだろう。



店内はいろんな食べ物の匂いが漂って、それに反応したお腹がまたグーとなり咄嗟にお腹を抑えても、すでに桜太くんに聞かれていたみたいでまたクスッと笑われた。



「いい匂い嗅ぐと腹鳴るらしいよ」


「…毎回わたしがお腹空いてるみたい」



こうも何度もお腹が鳴るのを桜太くんに聞かれてしまうたびに恥ずかしくなって顔が熱くなる。



「走って体力使ったから腹減って当たり前。べつに恥ずかしいことないじゃん」


「そーなん、だけど……。」



男の子の前でお腹が鳴るというのは、さすがに恥ずかしいと思ってしまう。

それは当然のことで、桜太くんがそういうのに気にしなさ過ぎというか、ありがたいとは思うけどフォローをされても恥ずかしいのに変わりはなかった。



「はい。二人とも召し上がれ」



目の前に置かれたオムライスは、やっぱりいつもと同じで、ほかほかと湯気を立てていてつやつやに輝くたまごが食欲をそそる。


スプーンを持って一口食べると、口の中が『おいしい』でいっぱいになる。

お腹を満たすその味は何度食べても変わることはなく、何度でも食べてしまいたくなる。



「デミオムもうまい!」



そう言っておいしそうに食べる桜太くんの姿を見ていると、フフッと自然に笑みが溢れてしまった。



「澪も一口食べてみろよ」


「えっ……。」


「まじでうまいから!」



デミオムライスがのったお皿をわたしの目の前にスライドさせて、『早く食べて』とでも言いたげな眼差しを向けてくる。


食べるまでこのお皿はここから離れてくれなさそうだと緊張しながらも、一口スプーンですくって食べた。



「ん、おいし」


「だろ?」



たった二文字だけしか言われていないのに、『当然うまいに決まってるじゃん』という言葉を言われているように感じてしまう。



「澪のもちょーだい」


と、わたしのオムライスをスプーンで一口すくってぱくりと食べた桜太くんの表情は、何も言わなくても伝わってしまうくらい、その表情が全てを物語っているように見えた。



「こーやって別々の頼めばシェアできていいな」


「そ、そうだね」



店内は明るくて賑やかで、寂しさなんか一つも感じない雰囲気が、わたしを明るくさせる。


家で食べるご飯よりも、お昼に食べるパンよりも、ここで二人で並んでくだらない話をしながら食べるオムライスが一番おいしかったんだ。





翌日、四限目の授業でマラソン練習をしたわたしは、走り終わった瞬間、頭の中が真っ白になってそのままグラウンドで倒れてしまった。


その後どうなったのかよく分からないまま、わたしは目を閉じていたーー。



「………あ、れ……」



次に目を覚ました時は保健室のベッドの上に横になっていて、目をゆっくり開けたり閉じたりを繰り返しているとめぐみの声がした。



「大丈夫?まだふらふらする?」


「ううん、大丈夫…」



ベッド脇の椅子に座っていためぐみは蒼白な顔をしていて、その瞬間どれだけ心配をかけてしまったのだろうかと容易に想像できて申し訳なく感じた。


起き上がろうとすると一瞬ふらついて、それをめぐみが支えてくれた。



「まだ横になってて」


と、言ってわたしを再度ベッドに横にしてくれるその姿がなんだか看護師さんみたいに見えて思わずフッと笑ってしまった。



「飲み物買ってくるからちょっと待ってて」



わたし一人残されて静かになった保健室は少しだけ気味悪く感じてしまって、それを紛らわすために窓を開けると、風が入り込んできてカーテンを揺らす。



そよそよと揺れるカーテンを見ていると、心地よくなり、なんだか眠たくなってきて重たくなってきた瞼を閉じた。


ーーら、ガラッとドアが開く音がした。



「めぐみ?早かったね」



上履きとフローリングが擦れる音がして、その音は徐々に近づいて来て、わたしがいるベッド前でぴたりと止まった足音の後にカーテンの隙間から覗いた手。


カーテンを開けて同じ空間に入ってきたのは、めぐみではなかった。



「大丈夫?」


「お、桜太くん!?」


「さっき廊下でめぐみちゃん? と会って、そしたら教えてくれたから」



そう言いながら椅子に座る桜太くん。


体育で走った後に倒れたわたしはまだ体操着のまま。しかも汗かいた後で、おまけに少しぼさぼさになっている髪を慌てて手で整える。


汗くさくないかなとか、髪ぼさぼさで汚いって思われないかなとか、いろんな考えが頭をよぎってそわそわして落ち着かない。



「まだ頭ぼーっとする?」


「だ、大丈夫…。」


「めぐみちゃんから聞いたけど…、保健室の先生は寝不足が原因だろうって言ってたって」


と、言った桜太くんの表情は少しだけ暗かった。



「何か心当たりあったりする?」


「……夜更かしのしすぎかも」



家庭の事情を知られてしまうのが嫌だったわたしは、桜太くんはそれに気づかないで、と願いながらありったけの笑顔で誤魔化してみせた。



「本当に?」


「ほんとだってば」


「分かんないじゃん」


「嘘ついてどうすんの」



わたしの顔だけを真っ直ぐに見る桜太くんは真剣な眼差しをしていて、その目で見つめられたら嘘に気づかれてしまいそうで怖かったわたしは、さらに嘘を重ねた。



「……やっぱり、ちょっと頭痛い…。」



これ以上ここに桜太くんがいたら、きっとわたしの嘘に気づいてしまう。


だから、わたしは彼を遠ざける。



「大丈夫?」



心配そうに椅子から立ち上がり、わたしに近寄って来る桜太くん。



「…うん。でも、少し横になるね……」



ベッドに横たわってタオルケットを頭までかぶって桜太くんの姿を見えないように、わたしの顔を見られないようにタオルケットで嘘を隠した。



嘘をついた罪悪感でいっぱいになった心の中が、ギューっと締めつけられるように苦しかった。



「…体調が悪い時に変なこと聞いちゃってごめん。じゃあ、俺行くから」


と、桜太くんは一度はわたしの返事を待つようにその場に立ち止まったままだったけど、数秒してから保健室を出て行った。



罪悪感と虚無感だけがわたしの心を支配して、一人になったこの空間に押しつぶされそうになる。



また、風がふわりと入り込む。


その風は少し寂しげな感じがした。



桜太くんが行った後、めぐみが返って来た。


スポーツドリンクを手渡されながら桜太くんのことを聞かれたけど、知らない、とだけ答えた。


自分のことを守るのに精一杯になって、友達を傷つけていることには見向きもしない、そんなわたしは本当にずるい人間だと思った。





一週間以上のマラソン練習を経て、とうとう本番当日がやってきた。

朝から憂鬱なわたしは顔を歪める。



「澪、すっごく嫌そうな顔」


「だって嫌なんだもん…」



昨日の夜の天気予報は曇りのち雨と言ってたからさらにその効果を強めようと思って雨が降るようにてるてる坊主を逆さまに吊るしたのに、どうしてこんなに雲ひとつない快晴なのだろうか。


わたしがそんなずるいことをしたからそれを見た神様が意地悪をしたに違いない。

性格の捻くれたわたしはそんなことばかりしか考えられなくて自分の性格が心底嫌になる。



「授業ないだけマシじゃん!」


「わたしにとっては授業の方がマシなんだけど」


「生徒の大半はきっとわたしに同意見だよ!?」


「……それ、偏見すぎる。」



まるでわたしがおかしいと言いたげなめぐみは走るのが好きだからそんなことが言えるんだ、と、またわたしの捻くれた性格が炸裂する。



「高校の思い出として頑張ろうよ」


と、言うめぐみはキラッキラしていた。


それに思いきり頷くことができないわたしを見て笑うめぐみは、太陽みたいにどこにいても目立つ存在で、自分の居場所がここではないような気がしてきたわたし。



何もかもがうまくいってない気がしてきて、どんどん気持ちが沈んでいく。



「澪!澪!」


「…え?な、なに?」


「ほら、あそこ!」


と、指をさす、その向こうには桜太くんが大きなあくびをしていて、わたしたちに気づくと笑って駆け寄って来る。



「今日めっちゃ晴れたな!」



体操着からのぞく長い手足がほどよく日焼けしていて、目鼻立ちが元々整っている桜太くんの姿はより一層かっこよく見えた。


普段はそんなことに気がつかなかったというか、あまり興味のなかったわたしは桜太くんのこともそんなにかっこいいと思ったことがなかった。


それなのに他の誰よりも目立って見えて、なんだかおもしろくなかった。



「ね!すっごい暑いよね!」


「な!ほんとやばい」



朝から元気な二人の輪の中になかなか溶け込むことができそうになかったわたしは、外から会話を聞いていることしかできなかった。


それに一週間ちょっと前のあんなことがあってから少しだけ桜太くんと顔を合わすのが気まずい。


それなのに桜太くんは気にしている様子もなさそうで、わたしだけが気を張っている感じがする。



「みんなで三位以内目指そうよ!」


と、突然そんなことを言っためぐみ。



「なんで三位以内?」


「桜太くん知らない?三位以内に入れば学食券一万円分貰えるんだよ」


「マジ?すっげぇいいじゃん、それ」



二人って息ぴったり。会話を聞いているとそんなことが頭に浮かんで、なんだかわたしが邪魔者みたいに思えてきてしまった。


家に居場所だってないし、もしかしたら学校にもないのかもしれない。

そう思うと、わたしってどこにいても必要のない存在なのかなって思えてくる。



「なあ、澪!」


「な、なに?」



初めて会ったあの時から当たり前のようにわたしを呼び捨てで呼ぶそれが、たくさんの人の前だと少し照れくさいものに感じた。



「賭け、しない?」



そう言った桜太くんの横に今までいたはずのめぐみがいなくなっていてキョロキョロして探すと部活の友達のところにいた。


ここに桜太くんと二人きりというのが慣れなくて、居心地が悪い。



「俺が三位以内に入ったら一つ言うこと聞くってのは、どう?」


「それ、桜太くんは得するかもしれないけど、わたし何も得するものないしむしろ損するじゃん」



桜太くんが足が速いのか遅いのかそれは分からないけど、見た感じからしてそんなに遅いようには見えなくて、この賭けをすることに何の意味があるのだろうかと不思議に思ってしまう。



「俺が三位以内入ったら学食券澪にあげる」


「…なに、それ」



もので釣ろうって作戦?

わたしそんなに安っぽく見える?


学食券とかべつに欲しくもないけど…、

…ああ、でも、めぐみすごく欲しがってた。



「……べつに、いいよ」



気がつけばそんなことを言っていた。



「それ絶対約束だから」


「分かってる」


「破るとかなしだから」



指切りまでしてきそうになった桜太くんをなんとか丸め込んで、場を収めるとタイミングよくめぐみが帰って来た。


ーーと思ったら桜太くんが「じゃあまた後で」そう言って自分のクラスメートがいる方へ走って行った。



それからすぐに開会式が始まって、校長先生の特に意味のない長いだけのあいさつがようやく終わった頃にはすでに時計は10時前を指していた。


男女別々で走るため、結構な時間がかかるマラソン大会。

グラウンドを一周してからその後校外に出て学校周辺を一周して、さらにグラウンドを一周してゴールとなる。


前半は女子からという決まりで、白線の前に並ぶと、すぐにピストルの音がなり一斉に走り出す。



その瞬間、砂けむりが舞い上がる。


たくさんの人の数と歓声と、この暑さで、すでにやる気を失っているわたしは練習同様のろのろペースで走っていた。


誰もわたしのことを見ていないし気づいていないはずなのに、やたらと視線を意識してしまう自分がいる。

グラウンドの周りに数人で固まる男の子がいるだけで、嫌だなあ、と思ってしまう。



校門を出て行く時、桜太くんの顔が見えた。


走っていて景色が切り替わっているはずなのに、桜太くんの顔だけは鮮明にくっきりと見えた。



「澪、がんばれ!」



わたしの存在に気づいて声をかけてくれる。

それだけでなんだか嬉しかった。


走っている間もずっと桜太くんの顔が浮かんだままで、それがさらにわたしを勇気づける。

走るスピードは遅いのに一歩ずつ確実に進んでいて、ゴールを目指している。



頑張っているわけじゃないし、頑張りたいと思っているわけでもない。

それでも何かに最後まで打ち込んでいるのは、これが初めてかもしれなかった。



一歩ずつ進むにつれて変わっていく景色。

道端に咲いている小さな花。

空を自由に飛んでいる小鳥たち。

雲ひとつない青空。

夏の訪れを感じさせる暑さ。匂い。

たくさんの人の歓声と熱気。



走っている間、それが鮮明に伝わってくる。

肌に直接伝わってくる。


ーーそれが、なんだか新鮮に思えた。


今までだったらそんなのどうでもいいって面倒くさいって初めから投げだしてろくに取り組むこともしなかったわたしが、今初めて何かをやり遂げようとしている。



空からお母さんが見てくれているかも。

お母さんが「がんばれ」って言ってくれてる。


最後は、きっと褒めてくれる。


懐かしい、懐かしい、記憶。

たくさんたくさん蘇ってくる。



嫌だったことも苦しいことも全て忘れて、気がつけば走ることだけに集中していた。



グラウンドに帰って来た頃にはすでにたくさんの人がゴールしていて、走り終えたわたしに気づいためぐみが遠くから駆け寄って来た。



「澪、おつかれ!」



笑顔でわたしを迎えてくれためぐみは、まだ元気いっぱいな感じでわたしとは対照的だった。



「自販機行って飲み物買おう!」


「うん、わたしものど乾いた」



ゴール横にあるテントを通り過ぎるさい、記録係がわたしのタイムも記入しているのに気づいた。

順位を見ると後ろから数えた方が早そうだった。



「澪、早く!」


めぐみの声にハッとして駆け寄って行く。



「次、男子走るから急いで帰ってこよう!」


「誰か見たい人でもいるの?」



聞かなくても分かるのに聞いてしまう自分がいるのは、たしかな証拠がほしかったからなのだろうか。



「桜太くんが走るとこ見たいじゃん!」


と、元気いっぱいに笑っているめぐみは、いつもより可愛い気がした。


恋をすると可愛くなるって聞いたことがある。

もしかしたらめぐみは桜太くんに恋をしているのかもしれない、と思うと応援してあげたくなった。



「ほら、急ご!」


わたしの手を掴んで自販機まで走りだす。


元気いっぱいなめぐみの足は思ったよりも早くて、たった今ゴールしたわたしからすればそのスピードについて行くのは少しきつかった。



自販機でスポーツドリンクを買って来てグラウンドに戻ると、すでに男の子が白線に並んでいていた。


その後にすぐピストルの音が鳴り一斉に走りだすと、砂けむりが舞い上がりそれが風に流されてわたしたちの場所までやってくる。



「桜太くん頑張れー!」



たくさんの歓声の中、大きな声で叫んでも本人まで届いているのか分からないけど、立ち上がって叫び続けるめぐみ。

ーーと、わたしたちの目の前を走り過ぎた桜太くんは、一瞬だけこっちを向いて笑った。


一生懸命走っている姿が、少しだけかっこよく見えて、その瞬間、息を吸うのを忘れた。


桜太くんのその姿に引き寄せられそうになる。



「桜太くん結構早いね!」


「う、うん。…そうだね」



賭けをしているわたしたち。

応援してあげたいのに賭け、というそれが邪魔をして、素直に応援してあげられない。



グラウンドから次々に出て行く男の子たち、それとともに静かになるグラウンドはなんだか寂しく感じてしまった。


時折、吹く風は暑くて身体に纏わりついてくるだけで憂鬱になっていった。



ずっと外にいたから気分が悪くなってしまったわたしは救護テントに行き、保健室で休んでいるようにいわれた。



「…ふう」



めぐみが心配して保健室までついて来ようかと言ったけど、桜太くんの走る姿を見たがっていためぐみを思い出して断った。



カーテンを閉めて仕切る。

ベッド横の窓を開ける。

カーテンが揺れて風が入り込む。


ここからでもグラウンドがしっかり見えて、窓からたくさんの人の歓声と熱気が伝わってくる。



最後まで何かをやりきったことが初めてだったわたしにとって、今回のマラソン大会は達成感みたいなものがあった。


何のためにもならないと、何の意味もないと、思っていたけど、最後までやりきることこそに意味があったのかもしれないと気づくことができた。



今まで全部手抜きで、頑張ることをしてこなかったわたしが初めて感じた気持ち。


達成感でいっぱい満たされていた。


まるで、お母さんに褒めてもらった時と同じような、あの温かい感情だった。



* * *



「あー、悔しい!」



マラソン大会が終わり、いつもより早い時間に喫茶店にいるわたしたち。


隣で悔しがる桜太くんの結果は、惜しくも五位。

それだけでもすごいことなのに本人は喜ぶこともせず、とにかく悔しいと連発していた。


こういう時なんて言葉をかけてあげたらいいのか分からないわたしは、頭の中でいろいろ考えるも、なかなかいい言葉が浮かんでこない。


それに賭けをしていたわたしたち。


わたしから『五位もすごいじゃん』とか『頑張ったじゃん』と言われてもきっと嬉しくないことを知っているからこそ、そんなありきたりな言葉で慰めてあげるのは違うなと思った。



「あんだけ走る前に自信ありげに言った俺が、すっげぇ恥ずかしいわ」


と、カウンターに頭をつける桜太くんの表情は、少しだけ赤く染まっている気がした。

けど、日焼けのせいなのかなと、結局はよく分からなかった。



「澪、めっちゃホッとした顔してる」


「そんなこと、ないけど…」


「なんか雰囲気で分かる」



そう言って身体を起き上がらせてわたしの方に向き直る桜太くんを今までと同じように見ることができなかった。


それはきっとめぐみが関係しているからなのだと、すぐに見当がついた。



二人でここにいるのがおかしいように思えてきて鞄を持って立ち上がろうとしたら、わたしの鞄を掴む桜太くんの手によって止められた。



「なんで帰ろうとすんの?」


「よ、用を思い出して…」


「さっきここで食べるって言ってたじゃん」


「え、っと……」



それ以上言葉が出てこなくて立ち止まるわたしの鞄をぐいっと取り上げて、桜太くんの自分の鞄を置いているところに重ねる。


つまり鞄を人質にとられたというわけ。



「オムライス食べるんじゃねぇの?」


「あ……。」



マラソンを完走した自分へのご褒美として、何かしようと真っ先に浮かんだのが、ここのオムライスを食べることだった。


それをさっき桜太くんに話してしまったことをすっかり忘れていた。



「走ったあとのうまさは格別だぞ」



その瞬間、たまごのふわとろさと、たまごに包まれたケチャップライスの絶妙なおいしさ。

オムライスの味が口いっぱいに広がってきて、それに負けてしまったわたしは椅子に座りなおした。


その直後、ハハハッと笑われた。



「澪、ここのオムライス好きだもんな!」


「だっておいしいんだもん。…それにお母さんが作ってくれたのに似てるから……」



味が同じってわけじゃないのに、どこか懐かしく感じてしまう。

お母さんが作ってくれたご飯はどれもおいしくて、いつもにこにこ笑って会話が絶えなかった気がする。


ここのオムライスを食べると、そんな風に懐かしい思い出が蘇ってくる。



「澪」


と、何かを聞きたそうな桜太くんの顔が目に入ってハッとした。



「な、なんでもない。とにかくここのオムライスおいしいから好きなの」



もう、どこへ行っても食べることのできないお母さんの手料理を思い出して少し寂しくなる。


お母さんがいないことにまだ慣れないわたしは、きっと何年経ってもこの寂しさが消えてくれるはずはないんだ。



「そ、それより、桜太くん。なんでいきなり賭けしようなんて言ったの?」



今のわざとらしかったかな、と内心どきどきしながら桜太くんの返事を待つ。



「あー…まぁ…、」と濁す桜太くん。



「それはもういい。賭けに負けたのに言うのもなんか違うし」


「わたし、気になるんだけど…」



一方的に賭けの話を持ちかけられて、あの時、桜太くんは何を賭けたのかそれを知りたいと思っているのに頑なに教えてくれない。



「とにかく今回の件は忘れて!」



そう言って、パンっと手を合わせてそれが『おしまい』という合図なのか、それ以上は何を聞いてもさらりと交わされた。


消化不良のわたしだけがなんだかもやもやする。


そんなことおかまいなしにカフェモカをおいしそうに飲む桜太くん。

それだけでも絵になるってなんだかむっとする。



「なに?」



わたしの視線に気づいた桜太くん。



「…なんでもない」



今まで一緒にいて気にしたこともなかったのに、一度それに気づいてしまったら、変などきどきがうるさかった。


桜太くんはたしかにかっこいい。


でも、だからといって、好きになるとかじゃなくて、きっとこれからもそれは変わらないはず。

だってわたしの人生は嫌なことばかりが起きる。


好きになってもわたしが傷つくだけ。

わたしばかりが不幸になる。


そんな世界なら初めから幸せを望まないほうが自分の身のためだと、思うんだ。

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