第六章
文化祭当日は大雨だった。
生徒たちはずぶ濡れで登校してきた。校門の飾り付けや受付のテントも濡れて、柔らかくなっている。設営の復旧を急ぐ声は、雨音に遮られてうまく伝わらない。黒雲が日光を遮るため、外は夜間のように暗かった。
開式は体育館で行われた。整列する生徒たちは寒さに震えている。突風が吹きすさび、上階の窓を閉めても、隙間から入り込んで、激しく音を上げた。
校長が挨拶をしている途中も雷が落ちた。女子生徒が悲鳴を上げる。パニックはすぐに収まったが、重苦しい雰囲気が生徒たちの間で流れた。
開式が終わると、生徒たちは一旦教室へ戻った。竜彦は一人昇降口に出た。拳銃を取り出す。銃弾がちゃんと入っているか、指でなぞって確かめる。銃弾は装填されたものが六発、ポケットにしまった予備が六発、計十二発あった。
彼は拳銃をしまうと、外へ飛び出た。学生服を着たまま、降りしきる雨を浴びる。彼は全身を清めたかった。染みついた汚れを落とさずにはいられなかった。雨は冷たかったが、不思議と寒さは感じなかった。
むしろ熱で身体が溶けてしまいそうだった。沸々と煮えたぎった感情が竜彦の心に湧き上がる。体温が上昇し、身体から湯気が出ている。冷たい雨に打たれなければ、彼は自分自身を保つことさえ難しかった。
時刻は十時になった。体育館では合唱の準備が始まっていたが、多くの生徒はまだ校舎に残っていた。
竜彦は一階の放送室へ行った。
放送室の重い扉を開けると、蝉川と高木が放送機材に足を乗っけて雑談していた。二人は放送委員だった。
「おい竜彦、勝手に入ってくんなよ。濡れるだろ!」
蝉川が騒ぎ出したが、竜彦は相手にしなかった。胸ポケットから拳銃を取り出し、安全装置を外す。
「なにそれ、脅してんの?」
高木が立ち上がり、竜彦の進路を塞いだ。
「撃ってみろよ。そのおもちゃでさ」彼はいつものように笑った。
銃声が鳴った。
「ううっ」
高木の胸から血が流れた。銃弾は心臓のあたりに命中した。高木はぐらぐらとふらついた後、仰向けになって倒れた。
「おい高木、高木! 嘘だろ返事しろって、なあ」
蝉川が動揺する。高木は死んでいた。いくら身体を動かしても反応はなく、血が溢れるだけだった。
「本物なのか、それ?」
蝉川が恐怖に怯えた顔をする。
竜彦は答えなかった。腕の震えが止まらない。発砲の衝撃と人を殺したという事実に興奮していた。冷静を失った彼は、蝉川にも銃口を向ける。
「落ち着こう。おれらが悪かった。全部、穂高の命令で、逆らえなかったんだ。だからお願い、堪えてくれ」
蝉川はひざまずいた。
「謝ってくれよ」竜彦は言った。
「頼む、堪えてくれ......」
「謝れ謝れ!」
竜彦は発砲した。銃弾は太腿に当たった。
「痛い、痛い!」
蝉川は叫んだ。目から涙が溢れている。痛みに耐えきれず、赤子のようになっていた。
「助けて、助けて......」
「だから、謝れよ!」
銃声が鳴った。弾は頭部に当たり、蝉川は死んだ。殺す前に謝罪をさせたかったが、言うことを聞かなかったので仕方なかった。
放送室を出た。銃声を聞きつけた生徒たちが廊下にたむろしている。彼らは竜彦の学生服に付着した返り血を見ると、一斉に騒ぎ出した。パニックになる生徒、泣き出す生徒、撮影を始める生徒。
「人殺しだ!」
調子の良い、ふざけた笑い声が聞こえた。声の主は竜彦を撮影している。彼と面識はない。学年の違う生徒だった。彼はへらへら笑いながら、銃を持つ殺人鬼を撮った。
竜彦は彼の口めがけて発砲した。狙いは外れた。喉に当たった。彼は血を吐いて倒れると、うまく呼吸ができなくなり、死んだ。
群がっていた生徒たちは、もう正気ではいられなかった。生き延びようと、我先に走り出す。大半は昇降口へ逃げた。学校の外へ出るためである。しかし、一部の生徒は階段を上るルートを選択した。
竜彦は階段へ逃げた生徒を追った。一階から二階へ上る途中、一人の男子生徒を見つけた。
「お願い、撃たないで! お願い!」
必死に命乞いをしてくる。顔に見覚えがあった。しかし、名前が分からなかった。彼は足を挫いたために、一人逃げ遅れたようだった。
竜彦は銃を構えた。特に因縁などはない。ただ、銃口を向けたらどんな反応をするのか気になった。
彼は叫んだ。
「人殺し!」
竜彦は彼の背中を撃った。彼は身体をぴくっと硬直させると階段から転落した。転がりながら頭を何度も打ったので、竜彦の足元に来たときには、頭部から血を流して死んでいた。
結局、名前は思い出せなかった。しかし、それはどうでもよいことだった。
竜彦は階段を上った。
階段を上っていると、自分自身も上昇していく感覚があった。一段一段踏むごとに、人間としての一線を越えるごとに、失っていた力が戻ってきた。怯えや卑屈さはもうどこにもない。このような感覚は、小学生のとき以来だった。
二階から三階へ行く途中、竜彦は女子生徒を一人見つけた。委員長の飛鳥だった。
竜彦は壁際に飛鳥を追い詰める。踊り場の壁には、衝突防止のための鏡が設置されている。鏡に銃口を突きつける自分の姿が映った。
「竜彦くん、ごめんなさい」
「なんで謝るの?」
「悪気はなかったの。それに悪いのは穂高くんたちよ。あたしは前から良くないと思ってた。だからお願い許して」
「謝らなくていいから質問に答えて。僕は理由が知りたいんだ」
「ごめんなさい、ごめんなさい」
「だから、答えろよ!」
銃声が鳴った。
飛鳥の身体は鏡にもたれ、ずるずると床へ崩れ落ち、動かなくなった。即死だった。
竜彦は鏡に映る自分の姿を見た。低身長、線のように細い目、鋭角に落ちたなで肩。どこにでもいるごく平凡な――あるいは平凡以下の――少年の顔に返り血が掛かっている。彼を映した像の右側には、殺した飛鳥の血が付着している。血飛沫は赤黒く変色して、鏡の上端まで伸びている。竜彦の目には、それが天へ昇る竜に見えた。
なぜ人を殺してはいけないのか。
竜彦は世間で当たり前とされる、この言葉の真の意味をいま理解した。人間は殺せば殺すほど、また別の人間を殺したくなるからである。本能がそのようにプログラムされている。最初の一線を越えるとき、誰でも恐怖を覚える。しかし、そこを突破してしまえば、もう歯止めは効かない。殺人が殺人を呼び、凶行は加速する。
ここまで殺した人間の数は五人。竜彦は空になった弾倉に最後の六発を込めた。彼にはまだやることがあった。
二年三組の教室へ入った。
窓際に、クラスで制作した立て看板が置かれている。クラスの団結を示した一枚の絵。どこにでもある普通の絵で、微笑ましいくらい無個性だった。
立て看板の背後に人の気配があった。誰かが息を潜めて隠れている。試しに竜彦は看板に向けて発砲した。脅しのつもりで命中させるつもりはなかったが、運が良いことに弾は命中した。
「ううっ痛い、痛い!」
看板の陰から出てきたのは穂高だった。泣いている。銃弾は右の太腿に当たっていた。
「助けて、助けて……」
穂高は情けなく声を出した。地べたに齧り付いて泣き喚く。
竜彦は弾を節約したかった。弾は残り五発。瀕死の人間に使うのはもったいない。彼は代わりとなる凶器を探した。教室を見回す。穂高の机にエナメルバックが掛かっている。そこにちょうど金属バットが入っていた。
彼の太腿めがけて、竜彦はバットを振り下ろした。悲痛な、声にならない叫びが聞こえた。骨の軋む音も聞こえた。穂高の股間が濡れ始める。失禁していた。
「ううっ痛いよう、やめてくれよう」
「堪えろよ、我慢できるだろ!」
竜彦はバットを振った。
「堪えろよこのくらい、堪えろよ!」
穂高の身体のあちこちにバットが振り下される。太腿、お腹、肩、そして頭。頭蓋骨はなかなかの頑丈さだったが、中身は三、四回殴ったところで壊れた。
穂高は死んでいた。
竜彦は死体を観察した。坊主頭なので陥没した頭部の様子がありありと見える。静かに横たわる穂高。彼は観察を終えると教室を後にした。特に何の感情も抱かなかった。
次に、音楽室へ行った。
音楽室は見晴らしが良かった。なので、雲井まどかがピアノの陰に隠れているのもすぐに分かった。
「来ないで」
まどかは眉間に皺を寄せて言った。かつてないほどに生理的嫌悪を放っている。
竜彦は銃口を向けたまま彼女に接近する。逃げ場のないまどかを部屋の壁まで追い詰めた。
「なんであたしなの? あたし、何もしてない。悪いのは全部穂高くんじゃん。あたし悪くない。どうしてこんな目に遭わないといけないの?」
まどかが声を荒げる。彼女の大きな瞳から美しい涙が流れる。
「悲しいの?」
竜彦はたずねた。
「悲しい? 何言ってるの、そんなわけないじゃない」
「じゃあどういう気持ちなの、教えて」
「嫌。教えない。なんであんたに言わないといけないの。あたしの気持ちが分かるって言うの?
「助けを呼ばないの?」
「呼んでも来ないわよ。あたしのところには来てくれないもの……ねえ、どうして?」まどかは溢れ出す感情を必死に堪えた。「どうして、あんたしかここに来ないのよ」
また一粒、美しい涙が流れた。竜彦は拭ってあげようと、そっと頬に手を差しのべる。
「触らないで!」
まどかは竜彦の手を払った。彼を見つめて、眉間に皺を寄せる。
「気持ち悪い」
銃声が鳴った。まどかの胸から血が流れた。
彼女の身体は、壁に寄りかかるようにして動かなくなる。瞳から光が失われている。即死だった。
竜彦は音楽室を出ると、美術室へ行った。室内には誰もいない。人気も感じなかった。
オフィーリアの絵の前に立つと、彼は深呼吸をした。相変わらず美しい絵だった。整った顔の少女とリアリティのある背景。しかし、竜彦は絵に違和感を覚えていた。
オフィーリアが笑っている。
竜彦は最初、錯覚だと思った。何度も目をこすり、至近距離で確認したが、彼女の口元は歪んでおり、それが笑っているようにしか見えなかった。
「笑うな......」
竜彦は呟く。次第に彼女の顔が単なる笑みではなく、嘲笑のニュアンスを帯びてきているのを感じた。隣に並ぶダリとマグリットの絵も歪み始めている。
そのとき、くすっと笑い声がした。部屋には誰もいないはずだが、彼の耳にははっきり聞こえた。絵の奥からだった。オフィーリアが竜彦を見ている。軽蔑するような、見下して馬鹿にするような眼差しを向けて。
「笑うな!」
竜彦は発砲した。少女の顔が潰れた。
彼は急いで美術室を出た。
階段を上っていると、声が聞こえた。踊り場の方からだった。誰か人間がいた。竜彦は耳を澄ませた。衣擦れの音と荒い息遣い。その中に、微かに聞き覚えのある声がした。姫香と修治の声だった。こんなところで二人は何をしているのか。竜彦は階段の下からそっと覗き見した。
踊り場の上で、修治と姫香はある行為をしていた。竜彦は直接その行為を見るのは初めてだった。
小刻みに動く修治とされるがままの姫香。二人は行為に夢中で、竜彦の存在に気づいていない。
竜彦は銃を構えた。腕が震えて、狙いが定まらない。まだ彼は、現実を受け入れられていなかった。眼前のおぞましい光景が、全部嘘であると信じたかった。
行為の終わりに何が起きるのか。竜彦は理解していなかった。しかし、絶対に阻止しなければならないと直感することはできた。もしそれを許せば、二人は一線を越え、手の届かない場所へ行ってしまう。そんな絶望が彼に銃を握らせていた。
「姫香、姫香」
修治の切なそうな声が聞こえる。二人は互いに見つめ合い、キスをした。修治は彼女に覆い被さると、動きを激しくした。控えめだった声が大きくなる。行為に終わりが近づいているようだった。
竜彦は発砲した。突発的に指が動いた。
「うっ」
銃弾は修治に当たった。彼は短い断末魔を上げると、背中から階段を転げ落ちた。三回転ほどして竜彦の足元に来ると、もう死体だった。即死だった。
竜彦は姫香の前に立った。
「姫香さん」
彼女は床に座ったまま静かにしている。格好は裸の上に一枚羽織っているだけで、それ以外何も身につけていなかった。サイズの合わない黒の学ラン。修治のものに違いなかった。
「姫香さん、いま何してたの?」
「......」
「どうして修治と一緒にいたの?」
「......」
「ねえ姫香さん」
何度問いかけても、姫香は黙っている。目の前の竜彦が視界に入っていないようだった。無表情に虚空を見つめたまま、目を合わせようとしない。彼との意思疎通を拒否していた。
「何とか言ってよ!」
竜彦は壁に向かって発砲した。
数瞬、沈黙が流れる。二人の静寂を切り裂くように、雨音と雷鳴が響いている。姫香はようやく重い口を開いた。
「何をしているんですか?」
ひどく他人行儀な口の利き方だった。彼女と敬語で話したことは一度もなかった。まるで、いままで築き上げた親密度はゼロになっているようだった。彼女にとって竜彦は、赤の他人あるいはそれ以下の存在になっていた。
「助けに来たんだよ。姫香さんをいじめる奴は僕が許さない」
「だから、殺したの?」
「そうだよ。高木も蝉川も穂高も殺した。学級委員長も殺した。姫香さんにひどいこと言ったまどかも殺したよ。修治だって、いま殺した。姫香さんに言われた通り、邪魔をする人間は全員殺したんだよ」
「姫香、そんなこと言ってない」
「嘘だ。姫香さん言ったじゃないか、きみを傷つける人間を、きみは許してはいけないって。邪魔する人間を排除して、二人きりの世界へ、安らぎの場所へ行こうって」
「知りません」
「知らないわけない。姫香さんが言ったんじゃないか。忘れたなんて言わせない。僕はきみとの約束を果たすためにここに来たんだから」
「覚えてません」
姫香はそう言って、目を細めた。
竜彦は彼女に近づいた。彼女の言ってることが理解できなかった。理解するためには、もっと話をする必要があった。拒否でもいいから反応を引き出したかった。しかし、彼女は頑なに口を閉ざしている。顔を近づけたり手に触れたりしても、無反応だった。
ふと、邪な感情が彼の脳裏をよぎった。今ならどんなことをしても姫香は何も言わない。周囲には誰もいない。
竜彦は姫香を押し倒した。彼は修治と同じことをしようとした。服がはだけて、胸が露わになる。未熟だが膨らみのある乳房だった。
すぐさま行為に及ぼうとした。しかし、うまくいかなかった。初めてだから緊張していたのもあったが、原因は他にあった。姫香の羽織っていた上着である。修治がいつも着ていた、サイズの大きい黒の学ラン。それを見た瞬間、竜彦は彼女に修治の陰を感じた。
途端に全身から力が抜けた。性欲や暴力衝動、その他彼を駆動するあらゆる感情が冷却され、萎えていく。彼は不能になった。
竜彦は必死に力を取り戻そうとした。しかし、焦れば焦るほど力は萎えていく一方だった。
「くすっ」
そのとき、姫香の声が聞こえた。顔を上げると、彼女の口元が歪んでいる。いつもの「えへへ」と言って目を細める微笑みではなく、他人を馬鹿にしたような笑み。格下の人間に向ける冷笑だった。
銃声が鳴った。
音が静かな踊り場に反響する。姫香は仰向けに倒れた。そして、本当に何も言わなくなった。
竜彦は死体となった姫香を観察した。彼女は美しかった。手足は青褪め、顔には一瞬刻まれた苦悶が時を止めたように残されている。格好も背景も違っていたが、雰囲気はオフィーリアに似ていた。
竜彦は冷たくなった彼女の下半身に手を出した。彼女は抵抗も歓迎もしない。ただ静かに行為が始まるのを待っているようだった。
時間をかけて、彼はもう一度行為に及んだ。失った力はまだ少ししか取り戻せていなかったが、修治の学ランをどけることで、行為を成立させた。中は温かく、冷たかった。
事は数秒で終わった。快感はなかった。
竜彦は、屋上の扉の前に立った。鎖は劣化で茶色に変色していて、ぼろぼろになっている。試しに強く引っ張ると、あっけなくちぎれた。扉が開いた。隙間から光が差し込む。
竜彦は取っ手を引いて屋上へ出た。
屋上の景色は想像していたものと違った。朝から降っていた大雨が嘘かのように、空は晴れている。嵐は過ぎていた。
竜彦は前へ進み、柵を乗り越えると、屋上の角に立った。下を覗く。人が死ぬには十分な高さだったが、頭が痛くなるほどの、気圧が変化するほどの高所ではない。周囲の建物がみな低いから相対的に高く感じるが、高みに昇り詰めたわけではなかった。幼き日に感じた全能感はここにはなかった。
銃弾は一発だけ残っていた。
竜彦は空を見上げた。雲一つない澄み切った青空。彼はどうしようもない虚しさに襲われた。理由はわからなかった。ただ、本来ここにあるべきものが無く、その不在に対する喪失感が込み上げていた。
銃弾は残り一発だった。彼はすうっと深く息を吸い、こめかみに銃口を当てた。目を瞑ると、風と街の音が聞こえてくる。いま竜彦の心の中には何もなかった。
そのとき、誰かが呼ぶ声が聞こえた。声は扉の方向からだった。彼は後ろを振り返る。声の主が誰なのか確認しようとした。
銃声が鳴った。
晴れ渡った空に、音の波紋が広がってゆく。
竜彦は屋上から転落した。頭を下にする形で落下していく。彼はすでに意識を失っていた。
数秒後、雨上がりのアスファルトに骨と肉が叩きつけられる音がした。泥水が跳ね上がり、壊れた肉塊に降り注ぐ。泥まみれになった彼の肉体は、もう動かなくなっていた。
正午を告げるチャイムが鳴った。静かになった校舎に放送音が鳴り響く。チャイムが終わるとまもなくして、西の方向からパトカーのサイレンが聞こえ始めた。
闘う中学生 楠木次郎 @Jiro_2020
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