第五章

 翌朝、教室が騒がしかった。クラスメイトたちが、ひそひそと小声で何かを話し合っている。竜彦は不審に思いながら席に着こうとすると、いつも空席であるはずの窓側一番後ろの席に、女子生徒が座っているのが見えた。

 姫香だった。彼女が教室にいた。

 入学以来、ずっと不在だった彼女が、初めてクラスに来た。長い髪が風に当たって、揺れる。彼女は机の上に手を置いて、ぼんやり窓の外を眺めていた。

 樋水姫香が登校するという異常事態に、クラスメイトたちは驚きを隠せない。すぐさま伝書鳩が飛び、隣のクラスからも人がやって来た。教室にいる全員が彼女を話題に上げていた。しかし、誰も本人には近づこうとしない。結果、騒々しい空間の中で、彼女のいる半径三メートルだけは、台風の目のように静かになっていた。

 竜彦は姫香に声を掛けようとした。なぜ急に教室に行こうと思ったのか。理由を聞き出そうと思った。しかし、その前に望月が教室に入ってきてしまう。

「授業が始まる時間だぞ。全員席に着け」

 クラスは途端に静かになった。

 望月は姫香の復帰について、何も言わなかった。優しく接してあげてほしいなどのお願いも特にない。これまで通り、望月は"普通に"振る舞った。他の教師たちも同様だった。

 そわそわと落ち着きのない生徒たちをよそに、授業は淡々と進んでいった。

 昼休みになった。

「姫香さん、どうして急に教室に来たの?」

 いつもの踊り場で竜彦は彼女にたずねた。朝から聞きたくて、居ても立ってもいられなかった。

「見たかったの」

 姫香は階段に座ってスリッパをパタパタと鳴らす。

「なにを?」

「竜彦くんが殺したいほど憎い人間たちを」

 姫香はそう言うと、目を細めて「えへへ」と笑った。

 翌日の給食の時間、姫香は学級委員長の飛鳥に声を掛けられた。

「樋水さん、良かったらあたしたちと一緒に食べない?」

 他にも数人、飛鳥の後ろに女子生徒が立っていた。腫れ物扱いされている子にも声を掛けるあたりは、いかにも学級委員長らしかった。

 姫香はこくりと頷いて、彼女たちと机をくっつけ合い、食事を始めた。

 竜彦は、彼女が食べ終わるのを踊り場で待った。しかし、いつまで経っても姿が見えない。痺れを切らして教室に戻ると、穂高たちに取り囲まれる姫香の姿が目に入った。

「樋水さんって、なんで不登校だったの? てか、なんでいま復帰したの?」

 穂高の粗野な声が響く。姫香の小さな肩がぴくっと震えた。

「ちょっと穂高くん、ストレートすぎ」

 蝉川がにやにや笑いながら言った。

「いいだろ別に。もし誰かにいじめられてたなら可哀想じゃん」

 穂高がそう言うと、蝉川と高木の二人は大笑いした。周りでそば耳を立てていたクラスメイトたちも釣られて、くすくす笑い出す。三人を咎める者はいなかった。姫香は恥ずかしくなって、顔を伏せた。

 竜彦は義憤に駆られた。彼女を助けなければならない。いまそれができるのは自分をおいて他にいない。

 竜彦は一歩踏み出して、教室へ入ろうとした。そのとき、背の高い少年が竜彦の背後から現れ、姫香の席へ行った。修治だった。

「からかうのはやめろよ」

 修治が一言言うと、クラスメイトたちは静かになった。

「修治、むきになるなよ。おれたちただ、樋水さんと仲良くなろうとしてただけじゃん」

「いきなり男に囲まれて、彼女困ってるだろ」

 修治は厳しい口調で言った。すると、嘲笑に加わっていたクラスメイトたちは手のひらを返して、修治の側についた。樋水さんが可哀想、と口々に言い始める。

 風向きが変わり、穂高たちの立場は一気に不利になった。三人はばつが悪くなり、教室から出て行った。

 目の前の光景は、竜彦がいじめられているときとまったく同じだった。穂高たちがいじめを開始し、周囲が嘲笑し、修治が諌めて、拍手喝采が起こる。対象が姫香に変わっただけで、いつもの流れと同じだった。

 次の日も姫香は飛鳥たちと給食を食べた。食べながら和気藹々と会話した。時折笑顔も見せた。昨日の出来事をきっかけに、姫香はクラスに馴染み始めた。クラスでの彼女は地味で控えめだったが、そういう大人しい態度が、好感を集めた。次第に、彼女の席に人が集まるようになった。

 修治のおかげで姫香は助かった。彼女はいじめられずに済み、友達もできた。見事な復活だった。しかし、竜彦は釈然としなかった。結果的にそうなったのは良いこととして、彼女を救ったのが自分ではなく、修治であることに納得がいかなかった。

 翌日も翌々日も、彼女は教室に顔を見せた。授業を受け、数人の女子と給食を食べ、放課後のチャイムと同時に下校。学校生活には順調に馴染み始めているようだった。その反面、彼女は踊り場へ来なくなった。自然と竜彦と話す機会もなくなった。

 同じ場所にいるはずなのに、彼女はまるで遠くへ行ってしまったかのようだった。手の届かない遠い場所へ去っていく彼女を見ると、竜彦は疎外感を覚えた。

 教室を見渡していると、竜彦の他にもう一人、姫香に視線を送っている人物がいた。雲井まどかだった。まどかもこの事態に釈然としない様子だった。彼女の睨みつけるような視線に、竜彦は悪寒がした。




 金曜日のことだった。

 三時間目が音楽の授業だったので、クラス全員、四階にある音楽室へ移動した。姫香もそこにいた。授業といいつつ、実際は文化祭に向けた合唱練習だった。文化祭は翌日なので、これが最終調整となる。

「では明日の本番に向けてみなさんで練習を行ってください。くれぐれもうるさくして他のクラスに迷惑をかけないように」

 音楽教師はそれだけ伝えて職員室へ去っていった。残りの時間は生徒たちの自由だった。

 早速、合唱練習が始まった。教壇を舞台代わりに、下手からソプラノ、アルト、テノールの順に並ぶ。伴奏は飛鳥で、指揮者は修治だった。彼が手を挙げると、飛鳥が鍵盤を叩いた。

 最初にピアノの伴奏が何小節か流れ、その後ソプラノから歌に入っていく。アルト、テノールもそれに続いた。

 曲が盛り上がっていき、いよいよというところで、演奏が止まった。

「いまのところ全然駄目。もう一回最初から」

 演奏を止めたのは、まどかだった。彼女はソプラノのリーダーを務めていた。

 最初からやり直しになる。今度も途中までは順調に進んだ。しかし、二度目も同じ箇所で音が不安定になった。一人だけ音程がずれているようだった。

「もう一回!」

 まどかは苛立った様子で言った。明日の本番で恥ずかしい合唱をすることは、リーダーとして許せないようだった。

 三度目も同じ箇所でミスをしたとき、まどかは大声を上げた。

「もういい加減にしてよ! さっきから音程ずれっぱなしなんだけど」

 彼女の怒声にクラス全員が黙った。

 竜彦はじっと下を向いていた。合唱は苦手だったので、いつも歌っているふりをしていたので足を引っ張ることはなかった。

 クラスメイトたちがひそひそと探っている。犯人探しが始まった。音痴は誰なのか。声のした方向を手掛かりに犯人を炙り出していくので、特定は時間の問題だった。

「ねえ樋水さん、聞いてる?」

 まどかはソプラノの列で一番端に立っていた姫香を見た。犯人は姫香だった。

 彼女は下を向いていた。音程がずれていた自覚があるのか、前髪に隠れて表情は見えなかったが、申し訳なさそうだった。

 姫香は重度の音痴だった。音程がまったく取れない。必死に挽回しようと元気よく歌ったが、かえってそれがみんなの足を引っ張る結果になってしまった。

 無論、情状酌量の余地はあった。二年振りに授業に来て、まだ緊張しているのである。うまく歌えというのは酷な要求だった。しかし、そのような言い訳をまどかは許さない。

「樋水さん、さっきから全部音外してるよ。ソプラノなんだからしっかりしてほしいんだけど」

 まどかは眉間に皺を寄せて言った。睨みつける表情から心底苛立っていることが伺えた。

「ご、こめんなさい」姫香は小声で言った。いまにも泣き出しそうな雰囲気だった。

「ちょっと音程合わせる練習しようか? 飛鳥ちゃん、ドの音出して」

 飛鳥は不安げな顔をしたが、まどかには逆らえないので、そっと鍵盤を叩いた。

「樋水さん、せーの」

「ドー」

「違う違う、それはファの音。もう一度」

「ドー」

「また違ってる、それはラの音。樋水さん、ちゃんと歌ってくれないかな?」

「ごめんなさい」

「樋水さんの声ってすごく個性的だよね。アニメの声優さんって感じ? すごくかわいいと思うの。だけど、いまはみんなで合唱してるから、少し遠慮してほしいかなって」

「ごめんなさい」

「別に無理しなくてもいいんだよ? 学校久しぶりで大変だろうし」

「ごめんなさい」

「別に謝ってほしいわけじゃないんだけどな。本当に明日が本番だって分かってる?」

 重苦しい雰囲気が部屋中流れる。女子同士の諍いほど目を逸らしたくなるものはない。これ以上、姫香を放っておくわけにはいかない。ここ数日、彼女に声を掛けられなかった後悔を晴らさなければならない。

 竜彦は胸ポケットに手を当てた。拳銃の硬い感触。彼はその手触りから勇気をもらうと、一歩前へ出た。

「そ、そこまで言わなくても、いいんじゃないかな……」

 竜彦は聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で言った。

 場が一瞬凍る。突然の事態に誰もうまく反応できなかった。

「なにそれ?」

 まどかは驚いたような顔をして竜彦の方を見た。

「あんまりきつく言うのは良くないと思って......」

「あたしのせい? きつくなんて言ってないよ。ただみんなで文化祭を成功させてたいだけだよ。なんでそんなこと言うの? あたしが悪いみたいじゃん」

 まどかの大きな瞳が潤んだ。

「竜彦、やめろよ」

 修治が指揮台の上から言った。声音の厳しさからいつもの優しさは消え、怒りが前面に表れていた。

「そんな言い方ないだろ。これはクラス全員の問題。誰か一人のせいじゃないんだ」

 クラスメイトたちは修治の言ったことに納得した。このトラブルは全員の責任であると。そして、竜彦一人が悪者になった。

 まどかが泣き出すと女子たちが輪になって囲んだ。練習は一時中止となり、大泣きするまどかを慰める儀式が始まった。

「まどか、大丈夫?」

「まどかは悪くないよ。みんなのために頑張ってるもんね」

「てかあいつなに? キモいんだけど。最低。ほんと無理」

 取り巻きたちが非難の声を上げる。彼女たちの視線が刺さるように痛かった。竜彦は存在そのものが罪であるように感じられた。女子たちの向こう側で姫香が一人うずくまっている。肩を震わせて彼女もまた泣いているようだった。竜彦は学ランを脱いで、姫香に羽織らせようとした。しかし、歩み寄ろうとした瞬間、背後から足蹴りをくらった。

「竜彦、逃げようとすんな!」

 蹴ったのは穂高だった。木本と大瓦も行手を阻むように立ち塞がる。

「まどかに謝れよ」

 竜彦は腕を穂高に踏まれた。身動きが取れずにいると、姫香はすっと立ち上がった。そして、ちらっと竜彦の方を振り返った後、音楽室から飛び出していった。

「ああっ......」

 竜彦が情けなく声を上げると、三人はげらげら笑い出した。クラスメイトたちはまどかに付きっきりで、誰も止めようとしない。むしろまどかを傷つけた報いだと思っている人間が大半だった。彼は三人の気が済むまで蹴られ続けた。

 チャイムが鳴って四時間目が終わると、竜彦はようやく解放された。彼は急いで姫香を探した。廊下にはもういない。美術室にもいない。階段を上って、いつもの踊り場へ行ったが、彼女の姿はなかった。

 念のため、保健室に行ってみると、彼女はすでに体調不良で早退したとのことだった。

「もう少し早ければ会えたのにね」

 保健教師がぽつりと呟く。何気ない一言に深い意味はなかったが、竜彦には責めているようにしか聞こえなかった。




 教室へ戻る途中、竜彦はあることに気づいた。学生服を音楽室に置いたままにしていた。拳銃の入った学生服。彼は急いで音楽室に行った。部屋のどこを探しても、服は見つからない。嫌な予感がした。

 教室の扉を開けると、やけに騒々しかった。クラスメイトたちが輪になって、奇声を上げている。主に声を上げていたのは穂高たちだったが、まどかや飛鳥もいて、輪の中心には修治の姿があった。

「竜彦やべえな。制服にこんなの忍ばせて。犯罪者じゃん」

「さっきもこれでおれらを殺そうと思ってたのかな。まじうける。てかこれ本物なの?」

 蝉川と高木が愉快そうに会話をしている。

「修治、どう思う?」

 穂高が修治に尋ねた。いつもと異なり、二人の距離は親密だった。

「うーん、そうだな」

 修治は考えながら、手に持っていた黒い金属の物体をくるくると回している。

 竜彦の心臓が一瞬、止まりかけた。

 修治が握っていたのは拳銃だった。竜彦の拳銃だった。彼は自分の目を疑った。事態が飲み込めず、言葉が出ない。

 なぜ穂高がそれを手に持っているのか。

 答えは修治たちの足元にあった。竜彦の学生服が床に放置されている。何度も踏まれて上靴の跡がついているが、間違いなく彼のものだった。

「本人に聞いてみよう」

 修治はそう言うと、クラスメイトの視線が一斉に向く。

「おい竜彦、こっち来いよ!」

 穂高が強い口調で煽ってくる。

 竜彦は唇を震わした。さすがに一言言い返してやろうと思った。しかし、彼の口は震えるだけで何もも言うことができない。彼は無言のまま修治たちの方へ近づいた。

「これお前のおもちゃだろ? 誤魔化しても無駄だぞ。お前の制服から出てきたんだからな」

 穂高が強い口調で追求してくる。

「返してよ」

 竜彦は弱々しい口調で言った。彼の頭の中は思考停止していて、うまい返しなど思いつく状態ではなかった。

「駄目だ。先生にチクって警察に見てもらわないといけないからな。銃刀法違反だっけ? お前はこれから逮捕されるんだよ」

「その必要はない」

 修治は拳銃を取り上げると、竜彦に差し出した。

「竜彦、撃てよ」

 修治は微笑んだ。

 竜彦は拳銃を受け取った。その手触りはずっと胸ポケットに隠していたものと一致していた。教室に嫌な緊張が走る。クラスの人間たちは固唾を飲んで竜彦の挙動を見守っている。次に何をしでかすのか、期待と不安でいっぱいのようだった。

 無論、銃弾などない。空っぽの拳銃で撃つこと何の意味があるのか。竜彦は理解できなかったが、照準を修治に合わせる。いざ銃を人間に向けるとなると、腕の震えは止まらなかった。修治の方はいたって冷静だった。むしろ表情からは余裕さえ感じられた。小馬鹿にしたような、澄ました顔が彼の目に映った。

 竜彦は引き金を引いた。カチンと拳銃が鳴る音が響く。しかし、それ以上は何も起こらなかった。

「弾無しかよ!」

 穂高が突っ込むと周りの人間は一斉に笑い始めた。緊張が一気に緩和され、教室が馬鹿笑いに包まれる。男も女もげらげらと下品な声を上げた。

「いまの空気なに? ビビったわー」

「おもちゃでいきってんのだせえ」

 彼らは嬉しそうに竜彦を貶した。執拗なまでに馬鹿にした。まどかは先ほどの鬱憤を晴らすように、大声で笑った。姫香と仲良くしていた飛鳥も笑いを堪えきれないようだった。

 竜彦はじっと彼らを見つめた。瞬き一つしなかった。ふざけて笑う彼らの姿を目に焼き付けるために。

 チャイムが鳴った。五時間目の授業が始まる。修治たちは笑うのを止めて席に戻った。喧騒が嘘のように静かになる。

「竜彦くん、あなたはいつまで遊んでいるつもりですか? 昼休みは終わっていますよ。早く席に着きなさい」

 一人突っ立ている竜彦に、望月が注意をする。

 クラスメイトたちはくすくすと笑う。散々いじめられた挙句、教師の叱責まで受けるのは泣き面に蜂だった。しかし、彼の身体の奥底から湧き上がったのは、これまでのような悲しみや惨めさではなかった。とうの昔に死んでいたはずの、底の見えない暗い感情だった。この感情は、言語を絶する苦しみから生まれたために、名状しがたいほど残酷で、巨大なエネルギーを有していた。





 放課後、竜彦は昇降口へ行った。姫香の下駄箱が目に入る。引き戸を開けて中を確認すると、小さめの赤い上靴が置かれていた。彼は何もせず、そのまま静かに閉めた。

 竜彦は自分の下駄箱を開く前に一度、深呼吸をした。大きく息を吸い、ゆっくり時間を掛けて肺に溜めた空気を吐き出す。心臓の鼓動がゆっくりになったタイミングで取っ手を引いた。

 完全下校を告げるチャイムが流れる。

 下駄箱の中には、銃弾が置かれていた。

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