バットフライ・エフェクト

しうしう

バットフライ・エフェクト

 ある日、世界中の風が止まりました。

 その日を境に大気は巡らなくなり、世界は一変しました。

 海は凪ぎ、海流は絶えました。

 雲は漂わず、定点に蓄積していきました。

 熱は運ばれず、気温は極化しました。

 気団は動かず、季節は不変になりました。

 そして、風によって遠くまで飛ばされていた陽樹の種は飛ばなくなりました。種は重力だけに従い、親たる木の根本に落ちます。木陰に落ちた種には日が当たりません。陽樹は育たなくなりました。

 陽樹が育たなくなれば、陰樹も芽吹きません。遷移は起こらず、植物は繁殖できず、枯死の一途を辿りました。

 花が枯れ、草が枯れ、草原が枯れ、林が枯れ、森が枯れようとしました。

 けれど植物たちはその末路に抵抗しました。

 種を自力で遠くに撃ち飛ばす能力を獲得したり、光合成ではなく呼吸で成長する方向に転換したり、葉の形状を変えて根本に影ができない形状に変化したりと、植物たちは進化を重ねました。

 しかし、試行錯誤は徒労に終わりました。見当違いの錯覚のままで、的外れの誤答のままで終わりました。

 なぜなら問題は、『風に乗って日が照る場所に行くことができない』ことでは無かったからです。

 時間の経過と共に、もっと深刻な問題が浮上してきたのです。進化も適応も一笑に付すような、嘲笑し一蹴するような大問題が、やがて世界を覆いました。

 風の無くなった世界では、ある場所では気温が上がり続け、またある場所では下がり続けました。ある場所では絶え間なく降雨が続き、またある場所では永遠の日照りが続きました。

 結果、ある場所はマグマのように煮え、またある場所は氷に閉ざされました。ある場所は水に沈み、またある場所は砂漠になりました。

 世界はどんどん生物が生きられない環境になっていきました。

 だから、いくら種を飛ばしても意味は無いのです。どこへ行っても燃えたり、凍ったり、沈んだり、乾涸びたりしてしまいます。

 無風は、静かに深刻に進行していました。着実に確実に世界を変えていきました。

この絶対的侵攻に、植物たちは進化をやめました。代わりに、別方向からのアプローチで対応しました。

 植物たちは酸素と有機物を盾に、植物以外の全ての生き物を奴隷化しました。動物たちに地を、鳥たちに空を、足並みを揃えて行進させることで風の役割を代替させ、世界の空気や熱を攪拌させました。

 そして、風の吹く世界には程遠くも、完全な無風状態に比べれば僅かにましな世界に、全ては落ち着きました。


 そして無風のまま経た数万年。どんな振動も蝶の羽ばたきも、風に成長できない停滞した世界は、すっかり植物たちの独裁支配の下にありました。

 植物たちは更なる進化を遂げ、知性を獲得・加速させ、支配者として充分な知的生命体となりました。

 動物たちはひたすら退化を遂げ、知性を消失・減退させ、世界を掻き混ぜる機械になり下がりました。

 しかし、そんな世界で立ち上がる革命家達も、また生まれました。

 自我を持ち、自力で考え、自立して動き、自律して生きることができる個体。つまり彼らは植物に隷属せずとも生きていけるのです。

 彼らはまた貧相ながらも知性を持ち、植物たちの支配に疑問を呈し、改革を命じるのでありました。

 これはそんな小さな革命家、突然変異のコウモリ、ウィンディンベルクの物語。


 ◆◆◆


 ウィンディンベルクはコウモリである。

 体長七センチほど、大きな耳と大きな目と鋭く小さな牙を持つ、柔らかい灰茶色の毛皮のコウモリである。

 極めて凡庸な見た目の彼は、同じような見た目の母から極めて普通に産み落とされた。

 しかし、彼の中身は他のどんなコウモリにも似つかないものだった。

 彼は分からなかった。

 何故母は行進するのか。何故全ての動く者は行進するのか。何故彼らは喋らないのか。何故笑わないのか。何故木の実や腐肉を乞うて生きるのか。何故こんな生き方に甘んじるのか。

 そして何故、自分はこれが異常だと『知っている』のか。

 何故自分は言葉を知っているのだろう。

 何故自分は笑顔を知っているのだろう。

 何故自分はもっと溌剌とした動物達の姿を知っているのだろう。

 母の毛皮を引いて尋ねても、傍をゆく鳥たちの羽をつついて尋ねても、誰も彼の問いに答えてくれなかった。応えてくれなかった。

 誰一人返答も反応もせずただ飛び、ただ歩み、時折の植物たちの施しに群がることだけを繰り返す。

 それはもう、無機質な歯車のように。

 彼らにとって、もはや生きているのは肉体だけなのだ。行動とその結果は全てプログラムされたシステムで、それを実行する肉体だけが生命なのだ。

 だから行動を命じる脳みそは、肉でできた機械でしかなく、いくら呼びかけても音声認識機能なんてついてないのだから、仕方ない。

 誰一人ウィンディンベルクの言葉に応答しないのは、仕方ないことなのだ。

 彼らの行動は、繁殖も妊娠も出産も成長も死も、全てがそのサイクルの中のついででしかない。

 ウィンディンベルクの母も、行進の途中でころりと産み落とした我が子を、振り返ることすらしなかった。

 それでも、ウィンディンベルクには縋れるものが母しか無かった。例えそれが押しても引いても微動だにせず、進行方向から視線を外しもしない、そういう母でも、彼が彼女から生まれたことだけは間違いない。

 彼は産まれてからずっと、動物達の不気味な行進に戦きながらも従い続けた。逆らい方も分からなかった。尋ねることも語りかけることも、随分昔に諦めた。

 彼は母の隣で飛び続けた。

 植物たちの前を通る時はなるべく周りに習って目立たぬ様に通り過ぎた。

 植物たちを生まれて初めて見たその瞬間、彼は直感したからだ。自分に知性があることをそれらに知られてはいけない、ということを彼は『知っていた』。それらが自分の敵だと知っていた。

 食事は他の動物たちの血を吸って生きた。睡眠は近くの動物達の体に乗って取った。機械のような彼らは、何をしても抵抗をしなかった。

 ウィンディンベルク以外の動物は、眠りも休みもしなかった。

 彼らは、植物たちに与えられる餌を食べること、時折繁殖すること以外は、生存のための努力を何もしようとない。

 もちろん発汗や瞬き、呼吸といった身体の生命維持は機能している。

 しかし、障害物があったら避けたり、傷ついたら休んだり、体温が下がったら温めようとしたり、という意識的な行動は微塵もしない。

 行進を遮るものがあれば自分が潰れるまでぶつかり続け、体がいくら傷ついてもその傷から四肢がもげるまで活動し続け、大雪の中でも凍え死ぬまで止まらない。

 生きようとしているのか、していないのか、なぜ生きるのか、その行動原理は不明瞭で矛盾に満ちている。生存本能さえ、ろくに働いてはいない。その癖、餌のために植物に従い続ける。

 それが植物の奴隷として進化した動物達の成れの果て。

 けれどウィンディンベルクの脳だけは、生きろと叫ぶ。生存しろと、明確に一貫して命じ続ける。食事を取れ、眠って疲労を回復しろ、老廃物を排泄しろ、起きて動け、健康的に成長しろ、他の何を犠牲にしてもまず生きろ、と。

 そして、本能の後ろで心がささやかに囁く。

 それから、幸せになりたいな、と。

 この『意識』が進化し損ねた結果なのか、あるいは新しい進化の形なのか、別の何かなのかは彼自身にも分からない。


 ウィンディンベルクはそうして矛盾に満ちた和の中で、意志に欠けた環の中で、生き、育ち、やがて幼体としての存在を終えようとしていた。

 なにか沢山のものを諦めた幼年期だった。それでも何も捨てられなかった幼年期だった。

 色んなものを腹に抱えたまま、ウィンディンベルクは成体になり始める。

 丁度、そんな時期だった。彼の人生にある激変が訪れたのは。世界がひっくり返った訳でこそないが、少なくとも彼の未来は今までの道から全く繋がりのない明日へ吹っ飛ぶことになった。

 分岐路にすらない未来へ繋がる出発点。ウィンディンベルクという一つの歯車が、革命家になる未来へ吹き飛ぶ発射点。

 起こったことは些細なことだった。風が止まった程度の微々たることだった。

 その日、小さな地震が起きて、道の脇の崖から行進路の真ん中めがけて岩が降ってきた。

 コウモリのウィンディンベルクから見れば、とんでもない巨石だが、それでも道を塞ぐほど大きくなかったし、避けられないほどの速度でもなかった。

 だから彼はその岩をひょいと避けた。数十センチ引き返すことで。

 しかしそれは、動物としてあるまじきことだったのだ。『行進する』だけのために進化した動物たちは、何があろうと歩みを止めることも、まして後退することも無い。

 だからウィンディンベルクのそばに居た彼以外の動物たちは、そのまま軒並み岩の下敷きになった。それがあるべき動物の姿。

 その模範から外れた異端の行動を、彼は目撃されてしまった。崖の岩間に、道端に、少し離れた小川のそばに、青く茂る支配者達がウィンディンベルクの知性を知覚した。

 一方、彼自身も気づかれたことに気がついた。植物たちにとっての不都合が、ひた隠しにしてきた不合理が露見したと、自覚した。

 瞬間、ウィンディンベルクは逃走した。羽を翻し、反旗を翻し、長く追従した行進の輪から飛び出した。

 そして道無き空へ飛ぶ。

 しかし、植物たちも遅れはとらなかった。すぐさま蔓や枝を伸ばして彼を追った。だがこれには空を飛べるコウモリの方に歩があった。彼が高く飛べば、伸ばされた追っ手は重力に囚われてやがて落ちていく。

 自身の不利を悟った植物たちは自身での追跡を諦め、代わりに鳥たちを鞭打って駆り立てた。

 たちまち鷲や鷹などの肉食の鳥達が彼を目掛けて飛んできた。自分の十倍もありそうな大きさが、食い殺してやる、という凶相を伴って突っ込んでくる。その様子に彼は悲鳴をあげて逃げた。がむしゃらに力いっぱい羽ばたくと、彼の体は空を切って前進した。それは追っ手達を振り切るほどの速度ではあったが、彼自身がそれに気づくことは無かった。

 想像以上の速さで逃げ去っていく哺乳類に、鳥たちは一声大きく鳴いてさらに追走に力を入れた。


 ◆◆◆


 ウィンディンベルクは飛び続けた。地表では植物たちが睨みを効かせていて、どこかに降りて羽を休めることも出来ない。追っ手の鳥たちはいつの間にか、大きな群れになって後方の空を覆っている。

 日は一度沈み、月が巡り、今は行く手の空が白んでいる。

 目の前に回り込んでくる体躯をかわし、掴みかかってくる鉤爪をすり抜け、襲い来る嘴から逃れ、彼は全力で飛んでいた。

 ウィンディンベルクは自分がこんなに長く、速く飛べるなんて知らなかった。敷かれた線路に囚われず、足並みを揃える必要もない空で、彼は自分の上限が平均値では無かったことを知る。

 けれどそれでも彼の逃避行には、既に限界が見えていた。

 彼の体力は制限を破り、上限を超えるも、有限に迫る。自由はあまりに重くその羽を引いた。無風の空は、泥のようにねっとりとその腕にのしかかる。

 自然に俯いていく頭を、決死の思いで持ち上げても、彼の目に移る世界は黒ずんで、狭まっていく。

 世界は広く、彼は自由だ。

 けれど、その事実は美しくも嬉しくもない。

 歯車のように生きた日々が、幸せだったなんて言えないが、それでも彼はこんな逃亡を望んだわけじゃない。

 彼は泣きたい気持ちで、黒く醜く狭い世界を見る。

 消化できない疑問を腹に募らせて、湧き上がる違和感を胸に詰めて、機械のふりをして過ごす生き苦しさだって、痛いのよりはずっとマシだった。

 筋肉が引き裂けそうだ。

 骨がへし折れそうだ。

 体がまるで砂になったようで、今にも散り散りになって崩れそうだ。

 疲労が骨の芯から、毛の一本一本まで体の全部を支配している。

 もういやだ。

 ウィンディンベルクは思った。

 もういいや。

 ウィンディンベルクは目を閉じる。

 疎ましい物の全てをまぶたの外に追いやり、同時に彼の意識もぷっつりと途切れた。

 そしてコウモリは、墜落する。


 ◆◆◆


 目覚めると、視界は岩でいっぱいだった。

 つららのような岩がこちらに先を向けていて、目の奥が痛くなる気がした。目を逸らして横を見ると、随分広い空間だった。上下左右前後、全てが石で構成されている。景観の大半は灰色で無機質なごろごろごつごつとした岩肌で、所々に色とりどり様々な形状の鉱石の結晶が混ざっている。その結晶がぼんやりと光を放ち、洞窟の中を淡く照らしていた。

 ちょんっと、ウィンディンベルクの顔に水滴が落ちる。

「……冷た」

 その温度に彼の脳はやっと動き出した。夢の中のように幻想的なここは、どうやら夢ではないようだ、などと考えながら彼は体を起こした。

「おはよう。目が覚めたのだね、コウモリの子」

 突然、誰かにそんな風に話しかけられて、彼は飛び上がるほど驚いた。もそりと足元から何かが盛り上がって来る。

 そうして現れたのは虎の首だった。

「……っぎゃー! ぎゃーっ! ぎゃーっ! ふしゃーーっ……しゃー……」

 彼は縮み上がった喉から何とか悲鳴を絞り出し、それを何度目かで威嚇音に加工して虚勢を張った。後ずさりつつ全力で短い毛を逆立て、せめても体を大きく見せる。

「ははは、そう怖がってくれるな。この方が目を合わせて語れるかと思ったのだが驚かせたかな?」

 そう言って虎は数歩下がってその全貌を露わにした。彼は生首だった訳ではなく、岩の上に乗っていたウィンディンベルクからは、岩の下に隠れた胴体部分が見えなかっただけだったのだ。その全体像は大きな虎だった。その見事な金毛の虎は、行進の中に見たウィンディンベルクの知るどんなそれよりも大きく、何より屈強だった。

「おまえは一体……。言葉が……いや、それよりここはどこなんだ? 俺はなんで」

「落ち着け」

「ぎゅう」

 大虎は体格に見合った大きな前足で、ウィンディンベルクの頭を押さえた。彼は潰れるかと思った。

「では改めて名乗らせていただこう。私はベステレラ。革命軍の長をしている」

「革命軍?」

「説明を始める前に、君に名前を与えたい。我が軍にはコウモリも複数いる。種族名で呼び続けるのも紛らわしい」

 それがウィンディンベルクが、ウィンディンベルクという名を得た日だった。


 ◆◆◆


 ウィンディンベルクは空を駆ける。

 運命の分岐点から数か月。哺乳類でありながら完全な飛行能力を持ち、時に鳥類さえしのぐスピードを生むその羽で、彼は植物やその従属達を撹乱していた。

 革命軍行動規模拡大隊第一班隊員、などという長ったらしい肩書に基づいて今、彼は飛ぶ。


「長い間見つけてやれず、申し訳なかった」

 あの日、大虎ベステレラは会話の初めにまずそう言った。

 そして彼はゆっくりと語った。自分たちが、ウィンディンベルクと同じように知性を持つ存在であること。その知性ゆえに、自我ゆえに、風の代替品として生きる道に甘んじられず、自由と希望を求めて立ち上がったこと。そして自分たちと同じような存在を仲間に取り込み、活動を広げていること。

 そしてあの日、彼らはウィンディンベルクを見つけたのだと言う。

 逆に、彼らはその日まで彼の存在には気付かなかった。それほどに彼の偽装は鮮やかで、その上いざ保護しようと飛び出せば、あまりの速度にまさかの遅れをとった。結果、革命軍の構成員は誰一人、彼が疲れ果てて減速するまで、ついぞ追いつくことが叶わなかった。

 ベステレラは申し訳なさそうに話を続ける。

「だから、ヒーローのようにかっこよく登場してやることは出来なかったな。精々が油揚げを掻っ攫うトンビがいい所だっただろう、私たちは。とにかく落ちていく君を保護してここに連れてきた」

 あの輝く宝石の洞窟は革命軍の拠点だったのだ。そこは世界でも数少ない、植物たちが生息できず、かつ、動物は生活できる環境の一つだった。具体的には土が無く、岩石だけで構成されていて、マグマのように熱くもなく、吹雪のように冷たくもなく、さらに地下で身を隠しやすい場所で、まさに彼らに為に誂えられたような隠れ家だ。

 そして現在のウィンディンベルクの帰るべき家でもある。


 植物たちの延ばす枝葉が届きそうで届かないような、絶妙な速度と高さを演出しながらウィンディンベルクは空で踊る。仲間を得、逃げ帰る家を持った彼は、無敵な気分だった。捕まることを恐れる必要もなく、飛び続けなければならないという強迫観念もない。あの日彼の翼に絡みついた自由は、今やその心臓を強く鼓舞する。

「ウィンディンベルク、今日はもう帰ろう」

 おとり役を引き受け飛び回っていた彼の横に、先輩である鷹が舞い上がってきてそう囁いた。

「今日は三頭だ。うち一匹はまだ小さいがグリズリーだから、彼らを連れたまま仕事を続けるのは難しい。早めに切り上げて帰還する。保護対象が逃げ切るまで俺とお前で奴らを引き付けるぞ」

「わかった。どっちに飛べばいい?」

「とりあえず東だ、三十分ほど撹乱したら適当にまいて我々も帰ろう」

「おう! 今日は昼寝できるかもな」

「そうだな。早く帰れば午後は丸々休めるぞ」

「気合が入るな」

 そして二匹は東の空へ直進した。


 ウィンディンベルクは革命軍の基地、宝石の洞窟へ帰り着いた。

 基地は外から見ると中くらいのはげ山の姿をしている。ウィンディンベルクには詳しいことは説明されても分からなかったが、昔ここは火山だったらしい。ずっと昔、動物たちが植物の奴隷になるよりも前に、噴火することのなくなった山で、内部に大きく広がる空洞はマグマだまりの名残らしい。

 とにかくこの山は、内にも外にも植物の付け入る隙のない岩山で、革命家たちにとってはこれ以上なく安心できるねぐらなのだ。

 マグマが噴き出た後なのか、山には大小さまざまな入口がある。かと言って見えるものに適当に飛び込めば良いというわけでもなく、行き止まりや罠が仕掛けられたものも多く、秘密を知った仲間でなければ、最奥まで辿り着けない仕組みになっている。

 そうして宝石に照らされた大広間にたどり着くと、そこに革命軍の長、大虎のベステレラがいつも待っている。

「ベステレラ、ただいま!」

「おお、お帰り。ウィンディンベルク。今日もよく頑張ったようだね。お前に救われたという子が先ほど到着したよ。感謝された。お前の活躍は本当に目まぐるしいよ」

「えへへ」

 ベステレラに褒められることは、とても心地いいことだった。ウィンディンベルクは彼に褒められるのが特別好きだった。ベステレラはウィンディンベルクや仲間たちの上げた成果を我がことのように喜び、誇り、心から労いをくれる。

 彼は滅多に洞窟から出ない。彼は足が悪いのだ。昔は彼自身も野を駆け、自ら手ずから仲間を集めていたらしい。けれど植物たちとの戦いの中で負傷し、その後遺症ゆえに自在に動くことが叶わなくなったのだという。だからこそ部下たちの躍進は、彼の歯がゆい思いを払拭してくれるのだろう。

 その喜びが心からの感謝になってウィンディンベルク達に降り注ぐ。ウィンディンベルクはそれが嬉しかった。この居心地の良い場所で、心地の良い言葉に浸って居られるなら、彼はいくらでも頑張れる気がした。

 例え、疑問に思うことがあったとしても。

 例え、ぬぐい切れない違和感があったとしても。

 仲間を増やし、敵を倒す。そんな陣取りゲームみたいなことで、本当に世界を変えられるのだろうか、なんて不安を抱いたとしても。

 それでも彼は躊躇わないし、止まらない。

 救いあげてもらえた恩に、報いる気持ちは留まらない。


 ◆◆◆


 その日、ウィンディンベルクは豪雨の中を飛んでいた。背後には機械のように統制の取れた鳥の群れを引き連れている。いつかの逃避行を彷彿とさせる、天気までも敵に回して、いつかよりも不利な状況で彼は再び逃げていた。


 その日、彼は雨に閉ざされた土地まで赴いていた。時を重ね、彼は一隊員から、一隊を率いる隊長にまで成長していた。そして彼はベステレラの指示を受け、新たな仲間を探して、新天地の開拓という任を引き受けたのだ。

 雨に閉ざされた。その言葉は比喩というには的を射過ぎていた。

 風が吹かなくなった世界で、流されることのない雲たちは停滞し、ひたすらに積もり続け、そこに雨を降ろし続ける。そして雲は厚く厚く重なり、その下に昼夜を不明にする暗い影を落としている。故にその土地は何かに閉じ込められたように、閉じられたように、暗く区切られている。

 ウィンディンベルクと彼の部下たちは、そこで動物たちの列に紛れ地域の偵察をしつつ、知性を持つ動物なら不審に思うような不規則で自由な動きを演出し、反応が無いか探っていた。そして数匹の保護に成功したが、その帰路で手痛い誤算があった。ウィンディンベルク、ひいては革命軍にとって、その土地は正しく前人未到の未開の地で、あまりに未知だった。そして知識の不足は取り返しのつかない事態を導いた。

 僅かな足場のほかは全てが水に沈んだ景色の中に、植物たちは見当たらなかった。その光景を見た瞬間、ウィンディンベルクは直感的に「ここの植生は水草なのか」と決めつけてしまった。

 彼にとって、植物とは土に根付くものだった。だから、敵は水の底に根を張っているのだと、監視の目ははるか水中で、かいくぐるのは簡単そうだと、油断してしまったのだ。

 浮草、という概念を彼は知らなかった。それはひっくり返っても見えてこないような盲点で、想像だにできなかった。

 かくして彼らは、水面を滑ってきた桃色の花を見つけた時、驚きのあまり歩みを止めてしまった。決して止まらない列の中で立ち止まってしまった。数瞬の硬直を経て、事態は動いた。まず花が凄まじい速度でウィンディンベルク達の視界から飛び出して行った。それを受けて、間髪入れずにウィンディンベルクは部下たちに指示した。あの花は間違いなく仲間を連れて戻って来る、俺が囮を引き受けるから即時撤退せよ、と。

 そして遠ざかる仲間たちを右目に、近づいてくる植物とその奴隷たちを左目に捉えて、ウィンディンベルクはこれ見よがしに飛び上がったのだ。


 雨に逆らって彼は飛んだ。体温が抉り取られていくのを感じた。気を抜けば雨粒に撃ち落されそうな飛行の中で、彼は覚悟とともに力いっぱい前進した。

 革命軍の基地は遠い。援軍は見込めないだろう。ならば生きたい等とは思うまい。せめて一秒でも長く、追っ手の気を引ければそれでいい。ベステレラに、革命軍に拾われた命だ。仲間と後輩たちの為になら彼は、喜んで死力を尽くして死ぬまで飛べる。

 失態を悔やむ気持ちも、仲間たちへの心配もとりあえず後回しでいい。そんなことは死んだ後でいくらでも嘆こう。今はただ愚直に飛ぶだけだ。力尽きるまで命尽きるまで、捕まってなどやるものか。

 ウィンディンベルクは進行方向だけをねめつける。そして、空を切って雨を振り切って加速した。


 ぶうううう……。うううううう……。

 ウィンディンベルクが囮として数時間を稼ぎ出したころ、突如として追っ手の鳥たちよりもさらに後ろ、雨に煙る背後の暗闇から異音が轟いた。

 唸り声にも似たそれに少しだけ注意を削がれたものの、すぐにウィンディンベルクは考える必要はない、とその音を切り捨てた。僅かな減速すらしなかった。敵であれ味方であれ、彼のすべきことは変わらない。飛ぶだけだ。追っ手たちに意識を逸らす暇を与えず、その視界を独占しきって飛び続けること。ただそれだけを全うすればいい。

 何よりも、敵だろうと味方だろうと、どうせ彼を追い越すどころか追いつくことすらできないのだ。なぜならウィンディンベルクは、誰よりも速いのだから。前だけを見据える彼の目で、異音の正体が確認されることは無い。

 しかし、その音は拒絶を許さなかった。

 どんどんと大きく、鮮明になり、その接近を強く知らしめた。やがてその音は鳥たちの羽ばたきをも追い越して、とうとうウィンディンベルクにまで迫ってきたのだ。

 ついに無視し続けられずに彼は振り返った。

 かくして目の前には、格子状の何かが広がっていた。

「ぶっ」

 そしてウィンディンベルクは事態を認識することもままならず、その何かに絡めとられた。全力の長時間飛行から、クールダウンもせずに突然停止したことで、心臓が悲鳴を上げる。

 意識が散っていく中で、ウィンディンベルクは混乱が行き過ぎて怒りに変わっていくのを感じた。

「なんだっていうんだよ!」

 捨て台詞のようにそう絶叫して、ウィンディンベルクは失神した。


 ◆◆◆


 ウィンディンベルクは目を覚ました。

 既視感のある倦怠感にのっそりと彼は体を起こし、辺りを見渡す。またぞろ虎の生首が現れても、驚かない自信はあった。

 当然というべきか、そこは宝石の洞窟ではなかった。つまり、彼をここに連れてきた何者かは、ベステレラ指揮下の革命軍とは無関係なのだろう。こうして彼が生かされているのは、その何者かに敵意が無いからなのか、思惑があるからなのかは、判断が難しい所だ。

 ウィンディンベルクは周囲の観察を続ける。

 そこは目に映るもの一つ一つが、未知で溢れていた。

 空間を囲っている壁は、表面が在り得ない程不自然に滑らかだ。虫の外骨格や鉱石の結晶面ならともかく、変哲の無い石が自然とこうも平らになるものだろうか。吹きさらしの岩肌なら似た姿になるかもしれないが、それでも雨に侵食されたりするだろう。なんにしてもそれは外面の場合だ。風も水も入り込まないような内側が、こんな形になることなんてあるのだろうか。

 彼の体の下にも材質不明な柔らかくふわふわした謎の物体が敷かれている。彼が知る限り、そんな形容詞で飾られるのは動物の毛皮や鳥類の羽毛位なものだが、それらのどれにも似ていない。

 天井には、白く発光する何かが埋まっている。宝石の洞窟の鉱物たちとは異なり、光を反射しているのではなくそれ自体が発光している。だからか、その空間は彼の住処の何倍も明るかった。

 壁の一面には黒く光沢のある四角いものが埋め込まれている。その表面もまた傷一つなく滑らかだ。壁のまた別の一面は、材質は同じように見えるが、一部分だけが細い窪みで四角く区切られている。

 そこまで考えたあたりで、ウィンディンベルクはなんだかムカムカと理不尽な怒りに苛まれた。閾値を超えた混乱が怒りに変わることは経験済みだ。自分の理解を徹底的に拒むこの空間に対して、彼は憤り始めた。

 とにかく、まずはこのよく分からない寝台から飛び立とう。寝心地は悪くないが、いつまでも腰を落ち着かせているのはなんだか癪だ。そんなことを考え、ウィンディンベルクは羽に力を込めた。

 瞬間、びきりと突き刺すような痛みが腕に走った。

「いっ……!」

 たまらず彼は蹲った。到底羽ばたくことなど出来そうにない激痛に、声にならない呻きを挙げる。そうしてしばらく身を縮めて悶絶していると、不意にあたりに影が差し、頭上から声がした。

「おう、こら。起き抜け早々何暴れてやがる」

 ウィンディンベルクは何とか首だけをひねって、声の発生源を視認する。

 やたら毛量の少ない白い猿が、ウィンディンベルクを見下ろしていた。


 ◆◆◆


「筋を痛めてんだよ。無理に動かすと二度と動かなくなっから、回復するまでそれ絶対取るんじゃねえぞ」

 頭部と顎部分にだけ白い毛を蓄え、手と首以外の部分はつるりとした見た目の白い毛皮で覆った白い猿は、ウィンディンベルクの腕に何か幕のようなものを、幾重にも張り付けてそう言った。それはべったりと腕から皮膜にまでくっつき、取ろうとしても取れそうにないうえに、張り付くと同時に固まり、腕の動きを封じてしまった。そのことにウィンディンベルクは不満と不信を露わに白い猿を睨みつけた。あえて何かを言ったりはせず、相手の出方を見る。この不利な状況で自分から動くのは、得策ではないと判断したからだ。

 そんな彼の様子を意に介さず、白い猿は片手に持っていた円柱状の何かを口に近づけた。ごくりと響いた嚥下の音から推察するに、何かを飲んだらしい。そこでやっとウィンディンベルクの不満げな顔に気付いたのか、彼は円柱状のそれを体の影に隠しながら言った。

「貴重なコーヒーだ、やらねえぞ」

「いらえねえよ」

 『コーヒー』が何かは分からなかったが、少なくともウィンディンベルクは何かが欲しくて不貞腐れているわけではなかった。強いて言うなら、欲しいのは説明だ。

「水くらいなら、やってもいい」

「違う! そんなどうでもいいことより、これと、ここと、てめえと今の状況について、なんか言いうことないのか! 投げっぱなしか!」

「どうでもいい? てめえ、俺がこの一杯を淹れるために、どれだけ苦労して植物たちからコーヒー豆掻っ攫ってきたか知らねえのか」

「知らねえよ! 初対面の相手にそんな個人的情報を求めるな!」

「そいつはギプステープって言うんだぜ。俺の発明品。動物の中にはギプスで固定するのは難しい構造の奴もいるからな、てめえみたいに。そこで発明したのがそれ。テープみたいにどんな形にでもフィットして、脈に反応して固まるんだ。一定期間経てば自然に剥がれる様になってる。すげーだろ」

「話題の転換が雑すぎる!」

「その上、衝撃も汗も吸収し、消臭効果もついてて、通気性も抜群。おまけに軽くて負担もかけない。流石俺の発明品、完璧すぎて涙が出るぜ」

「自画自賛が酷いな」

「さあ、そんな完璧な発明ができる俺は誰なのか! 知りたいか、そうか、教えてやろう!」

「会話をしてくれ、頼むから」

「真理を探究すること、はや数百年、生物学のオーソリティ、医学のプロフェッショナルにして科学のパイオニア! ロボット工学と脳科学の全てをこの身に体現した奇跡の男! モデル・ヒューマン、その名もドクター・アントニオ!」

「えっと、……情報量が多すぎてどこが名前か分からなかったんだけど。ガクノーソ? ショナルニー? それともイオニアか? ロバートみたいなことも言ってたような……」

「誰だよ。だからアントニオだって」

「白い猿ってあんま見ねえよな、珍しい」

「タイプ・オールドマンなんだ。見よ、このふさふさの毛髪を。白髪になっても断固禿げねえぜ」

「タイオー……なんて?」

「年寄ってことだよ。動物にも年取ると白くなる奴いるだろ。人間が顕著なだけで」

「ニンゲン? あれ、猿じゃないの?」

「猿だよ、近縁種。豚と猪みたいなもん」

「ふーん」

「なんか急に冷静になったな、お前」

「いや、冷めたというか、静まったというか……どっちかっていうと、引いてる」

「引くなよ、俺が変な奴みたいじゃねえか」

「変な奴じゃん」

「なんだと、この翼種目。誰がてめえを助けてやったと思ってるんだ」

「てめえじゃねえことは確かだよ。俺が覚えている限り、気絶する寸前まで俺は空を飛んでたんだから。猿は飛べないだろ」

「猿でも飛べるさ、度胸とテクニックさえあれば。翼なら遠い先祖が残してくれた」

「嘘つけ。じゃあその翼はどこにあるんだよ」

 アントニオは骨格も筋肉の付き方も、どう見ても飛べないそれだ。肩越しに見えるのは不自然に平らな壁ばかりで、翼の影も形も見当たらない。しかし、彼は自信満々にウィンディンベルクに顔を近づけた。

「見たいか?」

「ああ、見せてもらおうじゃないか」

「よし、じゃあちょっと揺れるが、我慢しろよ」

「え、ちょっ」

 彼は、ウィンディンベルクを寝台ごと持ち上げる。そして彼は壁の一面の四角くくぐられた場所に近づいた。すると、かしゃっと軽い音がして、その部分だけが横にすべり、大きな四角い穴が現れた。

 そしてその向こうには、僅かな足場を残して巨大な空洞が上下に広がっており、その空白を埋める様に巨大で縦長な物体がそびえていた。

 それはもう、なんとも形容のしがたいものだった。知識がないから、という理由ではなく、複雑すぎるから、という理由で言葉にできないものだった。様々な未知の材質が継ぎ接ぎに表面を覆い、ある部分には蛇のような蔓のようなものが這い、またある部分では見たこともない色の光が瞬いている。そして生きているのか、ううううう、きゅるるるる、ぶううう、とどこからともなく鳴き続けていた。

「なんだ……、これ……」

「ん? ああ、気になるか? それは『凪の塔』って言うんだ」

「なぎのとう?」

 その『なぎのとう』とやらの周りに、段々になった足場が巻き付くように設置されていた。緩やかに傾斜したそれを登りながら、アントニオは会話を続ける。

「おう。まあ建築物としての塔じゃないから、中に入ったりは出来ないんだけどな」

「けんちくぶつ?」

「それもわかんねえか。そう思うと、お前らの知能レベルは未だそんな育ってねえのな。あ、いや、どっちにしろ、俺らと全く異なる進化体系なんだから、同じレベルだとしても同じ行動に走るとは限らねえか」

「一人で自己完結されると、俺、置いてけぼりなんだけど」

「悪い悪い。自然現象っていうのは、とかくコントロールの難しいものだなって話。誘導は出来ても制御は効かない、方向は決められてもゴールは決められないってこった。俺も、この塔を建てたやつも、数百数千数万年越しで、それを思い知ってるところだ」

「はぐらかそうとしてるのか?」

「心を尽くして説明してやってるつもりなんだがな。種族差じゃなくて個人差か。お前のような愚直盲進の馬鹿には、俺のような天才の考えなど理解できまい」

「耳元で叫んでやろうかな、頭の中身をエコーロケーションしてやろうかな」

「やめろ馬鹿、耳には結構大事な回路が集中してんだぞ。直結する俺の脳に影響が出たら、どう責任を取るんだ」

「どうも取らねえかな、そのまま放置して帰る」

「帰るってお前、その羽じゃ無理だろう」

「……まあ、長い道のりなら飛べないと難しいけど、休み休み行けば無理ってことは無い。這ってでもいつかは帰れるさ」

「あー、いやいや、そういうことじゃなくて」

 やがて足場の終わりに、あの部屋に合ったような区切られた四角が現れた。アントニオが近づくと、やはりそれはかしゃっという音とともに、大きな穴を露わにした。

 アントニオがその穴をくぐって一歩踏み出す。

 瞬間、視界が突如、明確な二色に塗り分けられた。上半分が青、下半分が白。

 空と雲の狭間に彼らは立っていた。彼らの足元からはるか遠くまで、真っ白な雲海が果てしなく広がっていた。

「……」

 ウィンディンベルクは絶句した。

「ほら、ここから下りるのには羽が無きゃあ。墜落して潰れて死んじまうぜ」

 そんなことを軽妙に言いながら、アントニオは雲の上を当然のように歩いて行く。その足は僅かに沈み込むが、確かな弾力によって弾き返されている。突き抜けてそのまま落ちてしまうなんてことは無かった。

「……なんで」

「ん? 何が?」

「どうして、雲の上を歩けるの、だって雲は……」

「ああ、そうだな、雲は気体の塊みたいなもんだから、上に乗ろうたってすり抜けちまうよな。そう思うのも仕方ない。だってそれはほんの数万年前まで世界の常識で、今でも大体のところで常識なんだから。世界広しと言えども、ここだけだろうな、こんな不思議なことになっちまってんのは」

「どういう理屈でこうなっての」

「さあな」

「さあなって」

「だって興味ないもん」

「老人がもんとか言うな、可愛くないとか飛び越えて怖いよ」

「アラエイのおじーさんにだって、もんっていう権利はあるもん」

「凄まじいキャラになるな。戻せ、元の口調に。戻れ、元の人格に!」

「人を多重人格みたいに言うんじゃねえ」

「似たようなもんだろ、なんだアラエイって」

「アラウンド・エイティ」

「八十前後の爺様がやっていいはっちゃけ方じゃねえぞ。年相応の落ち着きを見せろ!」

「ふっ、年相応? そんな既成概念に縛られてちゃあ、可能性を切り開けねえぜ」

「うるさい、いいから説明しろ」

「要するに、雲がここに溜まり続けたからなんだよ、多分。何万年もかけて集まり続けることで密度が変化して、気体とも液体とも個体ともつかない第四形態になったんだろ、恐らく。いろんな要因が絡み合った結果なんじゃねえの、きっと」

「なんだその確定要素が一つもない説明文」

「いや、ほんとあんま興味ないんだよ。もちろん天才な俺は、気象学も完全にマスターしてるけどな? 今この世界で天気予想なんてしても何の意味もないし。『雨が降る地域では明日も雨が降るでしょう、降らない地域では明日も降らないでしょう』でお終いじゃん」

「んん? はあ、なんかよくわかんねえけど……」

「ほらそんなことより見ろ! こいつが俺の翼だぜ!」

 アントニオは少し盛り上がった雲の小山を前にして、ウィンディンベルクの乗っている寝床を地面に降ろした。そしてその小山をかき分けるようにして散らす。

 するとその中から、鳥のような何かが姿を現した。しかし、鳥というには目も無く嘴も無く、嫌に重そうな上、胴体には大きな穴が開いている。何よりも鳥としては在り得ないほど大きい。

「これこそ人類の英知の結晶、飛べない猿が空に憧れるあまりに生み出した、進化を超える進歩の顕現、人工の翼……飛行機だ!」

「ひ、こうき」

「そう、飛んで行く機械、つまり飛行機。安直かつ実直なネーミングセンスだが、悪くない。『飛びたい』。ただそれだけの熱く止めどない思いが、猿を猿のまま空へ誘った! すごいだろう、人類はこういうことができる奴だった! コウモリと人、どちらも哺乳類でありながら空を飛んだ。しかし、コウモリが進化を重ね、言わばスマートかつ正統に翼を獲得したのに対して、人類は不格好で滑稽に、どたばたと理屈もわからずに、こういう物で飛んだのさ」

「飛ぶのか、これが……」

「ああ。信じられないか。無理もない、軽量化を突き詰めたお前らにとって、こんなものが飛ぶなんて想像もできないだろう。人類も初めは信じなかったさ。飛びたいと言ったやつは笑われた。そんな神話まであった。飛んだ時だって皆信じられなかった。でも見ろ、飛んださ、飛べるのさ! 俺は今雲の上に居る!」

 アントニオは両手を広げて空を仰ぎ、興奮したように語った。とても楽しそうに、豪快に笑った。

「太陽充電式だからな、一度飛ぶとしばらくは飛べないんだ。まあ曇りもない空の上だ、五日もあればすぐまた飛べるようになる。見ろ、ここに乗ってここを操縦すれば飛ぶんだ。おお、片づけ忘れてた、この網でお前を掬い取ったのさ。こっちを押すとライトがつくから、暗い中でも飛べる。これはマシンガンだ、植物に見つかった時ぶっ放す。それでこっちは……」

「これ、とか言われても、ここからだと見えねえよ」

「あん? ああ、これはすまん。ほら、これで見えるか」

「お、うん、見える見える。そっちはなんだ」

「いい目の付け所じゃねえか、それはな……」

 アントニオはウィンディンベルクを持ち上げると、飛行機がよく見える様に近くに連れていく。意気揚々と自慢を重ねる彼は若々しく、自称の通りの老人には見えなかった。夢と希望にあふれる少年のようだ。ウィンディンベルクもその雰囲気にあてられて、帰り道も忘れて質問を繰り返した。

 とても楽しい時間だった。


 ◆◆◆


「あれだ、お前の手でも動かせるように、今度改造してやるよ」

「マジで? できんの?」

「当り前さ、俺に不可能はない! 小さくまとめて軽い力で反応するように、上から転換カバーをかけて……うん、これでイケるはずだ。椅子も設置しなきゃだな。ああ、いやぶら下がり棒の方がいいか? コウモリだし」

「うん、その方がいい。逆さまでも俺、ちゃんと見れるし」

「オーケー、これはやりがいが有りそうだ。一番早くて飛べるのは、四日と少し後……って言っても分からねえか。よし、これを見ろ。この二十四時間砂時計……時間を図る道具なんだが、とにかく、この中の砂が全部下に落ちたら一日だ。それが四回終わるまでには、とりあえず仕上げてやる。そしたら試し乗りをしてみろ」

「おお! 楽しみにしてる!」

「任せとけ、一回砂が落ちきったらひっ繰り返すんだぞ。ここを押すと自動で回転するからな」

 再び部屋に戻り、食事をとりながらウィンディンベルクとアントニオは、すっかり意気投合して会話に花を咲かせていた。

 ウィンディンベルクの主な食事は動物の血液だと伝えると、アントニオは一度部屋を出て、中に赤い、恐らくは血だと思われる液体が入った、細長く透明な物体を持ってきた。そしてその中身を、中央が凹んだ白い円形の物体に注いでウィンディンベルクに振舞ってくれた。

 一通りそれらの謎の物体や、起きた時に気になったものについての質問と説明を終えた後、二人の話題は再び飛行機のことになり、アントニオは気前のいい約束とともに砂時計をくれた。

「じゃあ、俺は仕事と飛行機の改造があるから、ここで大人しく待ってろ」

「わかった……あ、待ってアントニオ」

「なんだ?」

「革命ぐ、あー、えっと俺の仲間のところにできるだけ早く帰りだけど、いつまで俺はここでこうしてればいい?」

「うーん……、そうだな、今後のためにも、最低でも二週間は大人しくしてるべきだ。そのあと一週間かけてリハビリと様子見をしてからが良いと思う。筋繊維の損傷が激しいから、充分時間を取った方がいい。後遺症が残ったりしたらことだ」

「えっと……」

「三週間、つまり二一日間だ。その砂時計が二一回落ちきるまでだ」

「そんな! 長すぎる!」

「仕方ねえだろ、これはドクターストップだ! 安心しろ、飛行機の試運転とかリハビリとかしてれば、あっという間だよ。あ、飛行機が改造終わるまでは、これでも読んでろ」

「え、ちょ」

「字は読めただろ。適当に待ってろ。眠くなったらすぐに寝ろよ、睡眠は万厄を廃すからな!」

 アントニオはそういうと、ウィンディンベルクの前に小さなタブレットを置いて去って行った。

 そんな彼の後ろ姿にため息をつき、ウィンディンベルクはタブレットを操作した。小さいとはいえ、ウィンディンベルクの身長ほどもある。しかし、操作感は快適だった。使い方と名称は、壁に埋まっている黒い板について質問した時、ついでに教えてもらった。

 あの愉快で賑やかな老人に害意がないことは、出会ってわずかな時間だが、もう彼にもなんとなくわかっていた。固定された腕に危機感ももうない。何にしろ、まだ飛べないことは確かだ。大人しくしていた方が回復も早まるだろう。

 そう諦めて、ウィンディンベルクはタブレットに、イソップ物語と題された書籍を表示させて、読書を始めた。


 ◆◆◆


 二日経ち、部屋に戻ってきたアントニオは、壁に埋め込まれたディスプレイを立ち上げる。リンクしたタブレットから送られてくるウィンディンベルクの閲覧履歴を見て、彼はひゅう、と感嘆の口笛を吹いた。

「お前上達速いな。最初絵本みたいなの呼んでたのに、たった二日でもう『カラマーゾフの兄弟』とか読んでんのかよ」

「お、アントニオお帰り。だって面白いんだもん。気づいたらどんどん読んじゃって」

「ちゃんと寝てんのか」

「寝てるよ。最初は動物が主人公のが読みやすいかなって思ったけど、コウモリってなんか悪役ばっかでつまんねえ」

「あー、確かになあ。鳥と動物の戦争じゃ両軍にいい顔してハブられるわ、神様から色とりどりの羽を貰やあ、自慢しまくって剥奪されるわ……」

「その二つ目の話だと、コウモリの羽が禿げてるみたいじゃん。むかつく」

「それにしても、お前人間物だと、知らない概念も多いんじゃないか?」

「辞書と画像検索を駆使してる」

「使いこなしやがって」

「けど、なんで俺字が読めるんだろ。こんなの一度も見たことないのに、見た瞬間これがどういう物なのか分かったんだ」

「ああ、それはお前らの知能が、そもそも俺がばらまいた人間の知識から発生してるからじゃねえの?」

「え? どういうこと?」

「一時期、他に生き残ってる人類が居ないか、調べてた時があるんだよ。けど大きな音とか視覚情報だと、植物たちに気付かれるかもしれないから、電波に乗せていろんな情報をばらまいてたんだ。それなら、『科学』で受信機を作れる人間だけに届くだろうと思って。その目論見は失敗したんだけど、ちょうどその時期に、動物の中に突然変異種が現れたらしくて、そいつらの脳みそが人類の垂れ流した電波に触れて、人類の知恵を持った動物爆誕って感じだな。今も俺がその電波を発信してるから、時々お前みたいなのが生れるんだよ」

「俺が産まれたのはお前のせいってこと?」

「お前が産まれたのは、お前の母親とお前の責任で手柄だ。進化自体は俺がいなくても自然に起こってた。けどその方向を俺が変えちゃったってこと」

「はあ……、よく分かんねえけど、俺の頭ン中の知識がもともと人間の物だから、人間の文字も読めるってこと?」

「そんな感じそんな感じ」

「世界の裏設定に触れてしまった……」

「だいぶ物語脳になってやがんな」

「ま、いいや。次『資本論』読む」

「いいのかよ、軽っ。ていうかラインナップが相当な乱読だな」

「もとを正せば全部お前のだろ」

「俺はオールマイティな天才だからな」


 ◆◆◆


 ウィンディンベルクが読書にふけること四日目、アントニオが楽しそうに部屋に飛び込んできた。

「ウィンディ、飛行機がとりあえず完成したぜ、乗ってみろ!」

 その知らせに、ウィンディンベルクは喜んで跳ね起きた。

「マジか、早く連れてってくれー!」

「おう、ドクター・アントニオの天才っぷりに驚くなよ」

 アントニオはウィンディンベルクの乗ったクッションを掴み上げて、凪の塔を回る螺旋階段を駆け上がる。

「早く早く!」

「そう急かすな飛行機は逃げやしねえ! お前専用の取り外し可能なコントローラー作ったんだぜ。それを操作すると、俺用つまり人間用の操縦機械が連動して動くんだ!」

「楽しみだ!」

「それから操縦席も凝ったぜ、ぶら下がれるようにしつつ、機体の揺れに影響されないようにしたんだ! さあ、乗ってみろ!」

「おう!」


「改善を要求する」

「悪かったって。次はもっとちゃんと動くようにしとくから」

 結果から言うと、飛行機は新たに付け加えられた外部端末からの情報を処理しきれなかったらしく、途中でフリーズして雲の上に突っ込んだ。全てがふわふわの雲の上だったからこそ、ウィンディンベルクも飛行機も無事で済んだが、操縦士の恐怖たるや、他に類例を見ない程だった。

 そんな理由で少し不機嫌になったウィンディンベルクも、すぐに『飛行機が飛んだ』という感動を思い出して、興奮気味にアントニオと語り合った。

「けど本当に飛ぶんだな! 羽とは違って生身に受ける負担は少ないのに、なんなんだろうな、あのプレッシャー!」

「高揚感って奴さ、エキサイトさ、ロマンって奴さ! ぞくぞくするだろう、最高だろう!」

「ああ! いったいどういう仕組みで飛んでんだ?」

「さあ? よくわからん」

「え」

「ああいうエンジンを積んで、ああいう風に羽を付けて、こうすれば飛ぶ、みたいなことは分かるんだが、なんで飛んでるのかはよく分からん」

「なんだそりゃ」

「飛べればいいってことだよ! お前も自分が羽を動かしゃ飛ぶってことは知ってても、それがどういう仕組みかはよく分かっちゃいないだろう?」

「うんうん、なるほ……ど?」


 ◆◆◆


 アントニオとウィンディンベルクがはしゃいでいるうちに、十四日間はあっという間に過ぎていた。

 信じられないほど楽しい時間が、信じられないほど濃密に、気づけば過ぎ去っていた。ウィンディンベルクは以前の生活に比べて体を動かすことは極端に減ったが、退屈することは無かった。むしろ毎日、興奮と喜びに疲れ切る日々を送った。

 たくさんの物語を読み、世界的名探偵に心を奪われ、絶世の美女の悲恋に涙し、勇ましい勇者の冒険譚に手を震わせた。

 様々な思想家や探究者の論文に触れ、悠久の時の彼方に過ぎ去った、偉大なる先駆者たちの、確かな存在の名残を感じた。

 アントニオの改造した飛行機に乗り、いくらかの欠点を見つけつつも、人類が生んだその奇跡に酔いしれた。

 アントニオと食事をし、会話をし、いろんなことを教わり、自分達の事を語り合った。

 そしていよいよ迎えた十四日、つまり二週間目。ウィンディンベルクの腕に張り付いていたギプステープが、きれいにぽろりと剥がれ落ちた。

「よーしよしよし、もう動いても平気だ。ただ、あと七日は様子見だぞ。急に動いてまた痛めても笑えねえ。何より、そんな羽で帰ろうとして、植物に捕まったら逃げられねえからな」

 アントニオは彼の腕を診察しながら、神妙にそう言った。

「なんとか三日位に縮められねえ?」

「駄目だ、ダチをみすみす危険に晒すなんて、この俺のプライドが許さねえ。せっかく飛行機が無くても飛べる立派な羽なんだ、大事にしろ」

「……分かった」

「とりあえずこの建物の中は好きに飛び回ってろ。ドアは全部自動ドアだから、近づけば開く」

「触っちゃいけないものとか、入っちゃいけない場所とかないの? 美女と野獣のバラとか、眠り姫の糸車とか、鶴の恩返しみたいなやつ」

「ないない、一応下手に触ったらヤバいやつは、お前の力じゃ絶対開けられないような保管場所にしまってあるから」

「りょーかい」

 ウィンディンベルクは久しぶりに羽ばたく。少しよろついたものの、すぐに安定した飛行ができるようになった。痛みは全くないが、僅かに筋肉が引き攣っているような感じがする。確かにこれが元通りになるまで、多少の時間はかかりそうだ。素直にアントニオに従うのが利巧という気がした。

「じゃー、せっかくだから、建物一周探検してくる」

「おう、気をつけろよ……あ、待て、これ付けとけ」

 アントニオは服のポケットから、赤いリボンを取り出した。彼はウィンディンベルクを手に留まらせると、その首にリボンを巻き付けた。

「発信機だ。通信機も入ってるから、具合が悪くなったら、無理せず休んで俺を呼べ」

「発信機って探偵が犯人の尾行に使うやつ?」

「誰が探偵で誰が犯人だ。一応広いからな。腕が痛くなった時、戻って来るのが辛いかもしれねえ、用心だ」

「ありがとう、じゃあ行ってくる!」

「おう」


 ◆◆◆


 ウィンディンベルクは部屋を飛び出し、螺旋の階段に沿って、建物の下部に向かって降りていった。そして色々なものを見、いくつかの部屋を覗いた結果、建物がどうやら円柱状になっているらしいことが分かった。真ん中が吹き抜けで、そこに『凪の塔』が建っている。その周りを取り囲むように螺旋階段があり、その外側にいくつか部屋がある、という構造だった。螺旋階段の一番上の扉から、外の雲の上に出られることを考えると、それ以外の部分は雲の下に埋まっているらしい。

 そんなことを考えながら最下層まで下りたウィンディンベルクは、今度は上を目指した。アントニオと彼が過ごした部屋は、建物の比較的上部に位置していたので、とりあえずそこまで戻ろうと考えたのだ。

 ちょうどその帰り道で、ウィンディンベルクは階段に座り込み、凪の塔の一部分に向かい合っているアントニオを見つけた。

「アントニオ?」

「お、ウィンディ、早かったな」

「うん、一番下まで行ったから戻ってきた」

「もうか! 早いな、流石コウモリだ」

「コウモリと何か関係あるの?」

「知らないのか? どれかの本で読んだりはしなかったのか。まだ人類がわんさか居たころ、コウモリの一種がどんな鳥をも凌いで、水平飛行世界最速の記録を出したんだぜ。なんと時速一六〇キロ! 今は進化も進んでるから、その種も変化しただろうし、お前もかつてのコウモリとは違うんだろうけど、もしかしたら繋がりが有ったりしてな」

「へえ! なんだか誇らしいな」

「いい響きだぜ、最速! 最強とかもかっこいいが、負けてねえよな。男のロマンさ」

「えへへ。……ところで何してたんだ?」

「んー……ああ……」

「なんだ? いやに歯切れが悪いな。らしくない」

「まあ、ちょっとな。この凪の塔を修理してたんだ」

「ふーん、そういえば、凪の塔って何なんだ? どんな本にも乗ってなかったんだけど」

 ウィンディンベルクの問いかけに、アントニオはしばらく躊躇うように視線を泳がせ、それから凪の塔に向き直った。そして、ぽつりと呟いた。

「…………こいつは機械だ。何万年も昔に、とある人類の科学者が創り出した。半永久的大気流動現象無効化装置『凪の塔』っていうのが正式名称だ。通称は……無風装置」

 凪の塔の表面に触れるアントニオは、豪快さも快活さもない、疲れた寂しい老人の顔をしていた。

「そして、世界をこんなにした元凶だ」

「え?」


 ◆◆◆


「そいつの故郷は小さな島で、毎年酷いハリケーンと竜巻が襲ってくるところなんだ。毎年家と人がいくつか吹き飛んで、二度と帰ってこなくなるらしい。島を出て働きに出てる若い奴が、その時期になるとこぞって帰郷して家を強化するんだが、それでも死者をなくせねえんだと。それをガキの頃から長らく憂えてきたそいつは、やがて学者になり、島を守るために生涯をかけて研究を重ね、ついにこの塔を完成させた」

 アントニオの語り口調は淡々としたものだった。人類が生んだ飛行機という発明を誇る時に比べて、興奮も高揚もないのは、それが誇れるものではないからだろうか。

「そいつは何も世界中の風が無くなればいい、なんて思ってた訳じゃねえ。故郷に襲来する風だけが無くなれば、そうでなくとも弱まればいいと、ただ心から願っただけだ。けれどこの装置は稼働と共に世界中の風を消してしまった。まるで、世界の息の根を止めてしまったかのように。そしてそのまま、停止した。最初は誰も気にしなかったさ。『一度効果が出れば、半永久的に続く』名称の通りの機械なんだ、機械自体が停止したって問題はない。みんなそう思った」

 けれど、無風はじわじわと、真綿で首を締めるように世界を苛んだ。世代を超えて、時代を超えて、緩やかに世界は変わっていった。目に見えない程微細な破れ目を、些細な綻びを、見逃すうちに、やがて世界は決定的に破綻した。

「その弊害が、どんな風に影響したかは想像に難くないだろ。気温に、気象に、生態に、海に、空に、地に、異変が起きた。そして異常は、取り返しのつかない不変に、ありふれた通常になり、世界は恒常的にこうなっちまった。たった一人の、優しい願いが、無私の愛郷心がこんな結果を導くなんて、一体だれが思ったよ。戦争に使われた技術ですら、人類の功利になることもあったっていうのに、ただ人命を守ろうとした誇り高き決意が、どうしてこんな結末に繋がらなきゃならねえ!」

 やりきれないと、悔しいと、感情を露わにアントニオは吐き捨てた。そんな見たこともない彼の横顔に、ウィンディンベルクは言葉を失った。しばらく、どんな言葉をかけるべきか考えたが、何も思いつかなかった。慰めも鼓舞も激励も同情も、違う気がした。

 数秒の絶句を経て、やっとどうにかウィンディンベルクは呟いた。

「……直るの? 直れば、風は、吹くの……?」

「吹くさ」

 アントニオは反射のように叫んだ。その言葉の向かう先は、自分じゃないような気がして、ウィンディンベルクは押し黙った。

「吹くさ、吹かせるさ。直してみせる、絶対に。その為に、そのためだけに俺はここにいるんだから……」

 暗示のように呟いた後、アントニオはパッと顔を上げた。そして『彼らしい』笑顔でウィンディンベルクを振り返って言った。その声は、今度こそ自慢のように、自信に満ちた口調だった。

「ウィンディ、見てきたんだろ、下まで。あそこから、ようやくここまで来たんだよ。人類がここまで来るのに何万年かかったか分かるか? 世界がおかしくなり始めた時、やっぱりみんな、この装置をどうにかしようと考えたんだ。初めは、人類の科学の粋を極めた研究所で修理が行われた。けれど、くだらない戦争や、とてつもない天変地異、極めつけに際限のない植物たちの異常進化ときて、人類の文明はあっけなく絶えた。当然研究所も無くなった。人類は先細りだった。文明と引き換えに野性を失ったんだ、自然の暴挙の前にあっさりと屈したよ」

 それでも、今ここで塔を直す人類がいる。

「そうさ、絶滅に向かいつつも、人類はこの塔の修理を諦めなかったんだ。正規の手段で、世界に行われた改変を取り消せれば、まだきっとやり直せると馬鹿みたいに信じて、コツコツコツコツ修理を続けた。高度なテクノロジーはなんも残っちゃいねえのに、涙が出るほど頼りねえ道具で、何代も何代もバトンを繋いでここまで来たんだ。途中植物たちに見つからねえよう、この空にラボを移築したりもした。ああ、涙ぐましいじゃねえか、いじらしいじゃねえか、誇らしいじゃねえか!」

 アントニオはばっと腕を広げて高らかに叫ぶ。

「人類は間違えた。いろんなものに迷惑をかけた、今でもそれは尾を引いている。けれどそれでも俺は、人類最後の男だったことを誇りに思う。そしてその誇りにかけて、必ず塔を直してみせるさ。なあに、今直ってる部分の半分くらいは、俺一人で数百年かけて直してきたんだ。残り後少しだ」

 そういうと、アントニオは再び修理に取り掛かり始めた。その背中を見ながら、ウィンディンベルクは考える。人類最後の男というのなら、もう彼に仲間は居ないのだろうか。寂しくなかったのだろうか。

「なんで……なんでそんなに頑張れるの? だって、もう人類がいないなら、いくら頑張って直しても、未来に何か残せるわけじゃないのに……。何か理由があるの? その装置を作ったのは、実はアントニオの祖先で、だから責任を感じてるとか……?」

「いいや? まあ、何十世代か遡れば祖先の数っていうのは夥しいことになるから、もしかしたら繋がりはあるかもしれねえが、特筆する程に血縁関係も、それ以外もねえよ。産まれた場所も、生きた時代も、国籍も、言語圏も、人種も、性別も違う」

「じゃあなんで……」

「尊敬してんのさ、俺が、そいつを」

 アントニオは歌うように言った。

「ガキの頃、そいつが凪の塔を完成させた当時の、数万年前の記者会見のデータを見たんだ。初恋だった。つっても見た目は、贔屓目に見てもしわくちゃの婆さんだったがな。思想に惚れた、心意気に落ちた。心臓を射抜かれた。ときめいた。あいつの願いを、失敗で終わらせたくねえ。理由はそれで充分だろ?」

 その事実は、きっと彼の心を弾ませるのだろう。なんでも頑張れてしまうくらいに。ウィンディンベルクにとってのベステレラの賞賛のように。

「ねえ、見ててもいい?」

「ああ、良いぜ。けどリハビリはさぼんなよ」

「分かってる」

 それ以上会話はなく、二人の間に静謐が下りる。穏やかに作業の音だけが響いていた。


 ◆◆◆


 ウィンディンベルクがアントニオの作業を観察すること丸一日。ウィンディンベルクはふと疑問に思って質問した。

「なあ、アントニオ。なんでいちいち、外装はがして分解するんだ?」

「そりゃお前、どこに異常があるか分かんねえから、中まで総点検して設計図と違うところがないか、確認するんだろ」

「でも、それって問題が無かったときは時間の無駄じゃん。外から調べて問題のあるところだけ直した方が楽じゃねえの?」

「それができたら苦労してねえよ。レントゲンとか超音波装置みたいな、分解しなくても内部構造調べられるような技術は、ずっと昔に失われたっきり再現出来てねえの」

「超音波なら、俺の声があるじゃん」

「…………」

 ウィンディンベルクの発言に、アントニオは真顔で彼を見つめた。

「……そうじゃん」

 そして相好を崩して、ウィンディンベルクを両手で包んで掲げ挙げた。

「そうだよ、お前がいるじゃねえか! いま世界中のどんな種の動物を差し置いても、ここに居てほしい動物だよ、お前は! お前かイルカくらいだよ! すげえ話じゃねえか、たまたま興味本位に助けた動物が、ただ面白おかしい良い奴だっただけならず、寄りにもよってコウモリだなんて! さすがの俺の豪運だ! 運命的な出会いだとは思っていたが、これほどまでとは! 天よ、神よ、いいや俺様よ、感謝するぜ、この恩恵に!」

「そろそろ目が回る! 降ろせ! あと、面白おかしいって言ったかこの野郎」

 華麗なステップでターンを決め、ウィンディンベルクを振り回しながらアントニオは叫んだ。それに重ねて、ウィンディンベルクの悲痛な絶叫も轟いた。


 ◆◆◆


 そして満を持して迎えた三週間目。全快したウィンディンベルクは、アントニオに別れを告げていた。もちろん、次の約束と共に。

「じゃあ、ベステレラに報告を済ませたら、すぐ戻って来るから」

「ああ、待ってるぜ、相棒。お前のおかげで、この先棒に振られるはずだった俺の数百年が、たったの一週間足らずで報われようとしてるんだ。信じられねえ奇跡だよ」

 アントニオも雲の端からウィンディンベルクを見送った。彼の言葉通り、ウィンディンベルクの超音波とアントニオの発明品などを駆使した結果、塔の修全速度はすさまじく加速し、残り僅かな修正を待つのみとなった。

 ウィンディンベルクは自分の生存を仲間に知らせる必要があったのだが、基地までは彼の羽があれば往復三日かかる程度だ。行ってすぐに帰ってきて、また二人で塔を直そうという話になった。

 何なら塔を直してからでもいいのだろうが、ウィンディンベルクはベステレラ達に、自分の生存は元より、この塔のことを教えてあげたかった。世界はもうすぐ変わるから、もう危険なことはしなくていいと、一刻も早く伝えたかった。

「それじゃ、行ってくる!」

「ああ、気を付けろよ!」

 さっぱりとした挨拶と共に、ウィンディンベルクは空へ飛び出した。


 ◆◆◆


「そうか、そんなことがあったのか……」

 ウィンディンベルクは宝石の洞窟に帰り、ベステレラ達に自分が体験した数週間と、凪の塔のことを、掻い摘んで説明した。ウィンディンベルクの生還に沸いていた洞窟は、彼の語った奇妙な体験談に聞き入り、水を打ったような静けさだった。

「それで、風が吹いたら何か変わるのか? 風が吹くから、俺たちが活動しなくていいという理屈が、いささか分からなかったのだが……」

 静けさの中から、誰かがウィンディンベルクに問いかけた。

「うん、もちろん全てがいきなり良くなる訳ではないし、革命軍がやるべきことはまだあると思う。けれど少なくとも動物たちは行進し続ける意味を失う。そのシステムが自然に崩壊する以上、今までみたいに危険を冒して植物たちに抵抗する必要はなくなるんだ」

 ウィンディンベルクの返答に、それなりに納得した、というような嘆息が聞こえてきた。

「ふむ……、ところでウィンディンベルク、お前は随分と喋り方がしっかりしたな。説明もとても分かりやすかった」

 ベステレラが興味深そうにウィンディンベルクを見る。

「うん、この三週間でいろんな文章に触れたからかな」

「なるほど……お前が無事に帰ってきたうえに、有益な知識まで学んできたところを見ると、確かにそのアントニオという男は信頼に足る人物のようだ」

「ああ、そうなんだ。それで、俺はアントニオの仕事を手伝いたいから、しばらく革命軍の方を休ませてほしいんだ」

「もちろんだ。凪の塔とやらが完成すれば、風が吹くというのなら、反対する理由はない。一人では大変だろう、他にも何匹かコウモリを連れて行くと良い」

「いや、それは平気だ。完成はもう少しだし、俺一人で充分だ。それに大勢で行って植物に見つかっても大変だから」

「そうか……そうだな。では頑張ってきておくれ、全ての動物に未来の為に」

「ああ!」

「ところで、その首に巻いている飾りは、その男からもらったのかい?」

「え?」

 ベステレラに言われて、ウィンディンベルクは自分アントニオからもらった発信機をつけっぱなしだったことに気が付いた。

「あー……外すの忘れてた。まあ、そんなところ」

「仲がいいのだな」

「おう!」

 そして再びウィンディンベルクは、仲間たちに惜しまれつつ宝石の洞窟を後にした。


「目指すべきは空だったとは……。これは盲点だったな……」

 動物たちが皆ウィンディンベルクを見送りに出て行った大広間で、ベステレラは一人呟いた。


 ◆◆◆


「これで、終わったのか?」

「ああ、とりあえず点検は全部終わった」

 ウィンディンベルクがアントニオのもとに舞い戻り、数日が経った。様々な艱難辛苦を乗り越え、万難を排し、ついに二人は凪の塔の総点検を終え、その修理の完了を目前にしていた。

「あとは、いくつかの破損したパーツを直して組み立てれば動くはずだ。稼働に必要なエネルギーは太陽光発電で充分に貯めてある。明日にでも動かせるぜ!」

「そうか、あと少しなんだな……」

「ああ、ここまで本当に長かった。お前のおかげだぜ、お前がいてくれたから、完成させることができたんだ」

「そういうのは、全部終わってから言え。今言うのはフラグだ」

「ほんとすっかり物語脳になってるなあ、お前」

「俺に他に何かできることはあるか?」

「いや、あとは俺の仕事だ。お前はゆっくり休んでろ」

「わかった、じゃあいつもの部屋にいるから」

「ああ、本でも読んでろ」

「でもほとんど読み尽くしちゃったからなあ」

「それもすげえ話だな」

「シェイクスピアの喜劇でも読みなおそうかな」

「ははは、してろしてろ」

 そうしてウィンディンベルクはもう一か月以上前に、アントニオと出会った部屋へ戻った。アントニオは別の部屋で、細かな修理を行うらしい。後は彼の仕事を待つばかりだ。

 ウィンディンベルクは無造作に置かれているクッションに飛び込んで、過去と未来に思いをはせた。

 ベステレラ達に救われるまでの長い窮屈さや、辛い逃避行。あの日離れ離れになった母とは、もう会えないのだろう。彼女は行進に流されるまま、どこかに行ってしまった。せめてその体を傷つけるものが無いよう、祈ることしか彼にはできない。

 名前と肩書を得て、革命軍と自分のような思いをしている者の為に、空を駆けた日々。彼の目から見れば、とても偉大に見えるベステレラたち先達も、世界を救う方法なんて分からなくて、できることを精一杯やる以外なかったのかもしれない。そう思うと、感じてきたあの違和感もなんだか親しみを覚えさせた。そして彼らに一筋の光明を持ち帰れたことが、心から誇らしかった。

 アントニオと過ごした時間は、短いがとても重厚だった。お祭り騒ぎのような毎日の中では、二人は常にハイで、くよくよ、うじうじした空気は一切無かった。雲の上で見る空のように、気持ちよく晴れ渡っている。自信と自尊と誇りに満ち溢れた彼といると、ウィンディンベルクまで、なんだか世界の全てが素晴らしいもののように思えてくるのだ。

 思い返す半生は、辛苦にも幸福にも色とりどりに彩られて鮮やかだった。

 どれかの本で、禍福はあざなえる縄のごとし、と書いてあったが、ならば絡まる縄が組み上げるのは、織物や刺繍のような人生だろうか。

 未来もそうなのだろう。悲しいことや苦しいことが、痛ましい悲劇がきっと避けがたく彼を待ち受けている。けれど、より取り見取り色とりどりの希望や幸福もまた、間違いなくそこにある。ただ、今までと同じ苦痛を繰り返すことさえなければ、それは痛かろうが苦しかろうが、前進と言えるのだろう。

 少なくとも明日吹く風は、いくつかの変え難い悲劇を必ず吹き飛ばしてくれる。


「おい、ウィンディ、起きろ!」

「んあ……?」

 いつのまにか寝ていたらしいウィンディンベルクは、アントニオに呼び起されて目を覚ました。それを自覚した彼は、自分が寝ている間に日付が変わり、全てが終わってしまったのか、と焦って飛び起きた。しかし、杞憂だったようで、その心配を口にするとアントニオに笑い飛ばされた。

「安心しろ、まだ夜だ。さて、ウィンディ、悪い知らせがある」

「な、なんだよ、怖いな……」

「実は部品が一つ足りないことが判明した」

「はあ!」

「小さな歯車なんだが、相手は精密機械だ、その程度の部品が無いだけでも動かない。しかも、複雑な構造をしていて今の技術で一から作り直すのは不可能だ」

「嘘だろ! どうすんだよ!」

 冷や水を浴びせられたような気持ちで、ウィンディンベルクはアントニオのセリフに噛みついた。しかし、すぐに冷静になる。アントニオはにやついていた。その表情から彼がこの状況に全く焦ってないことが伝わってくる。

「……解決策、あんの?」

「ああ、もちろん。むしろ、もう見つかっている」

「見つかってるって……歯車がある場所が?」

「そう! お前が俺のプレゼントを気に入ってくれたおかげだぜ。その発信機はもとは、凪の塔が所在不明になった時に使われた探知機だったんだ。凪の塔の部品に使われた、特殊な人工鉱物だけが反応する電波を発信して、その応答を感知する仕組みのな。俺が改造して普通の発信機にしたんだが、昔の機能が少し残ってるんだ。そして、なんと! お前が一度帰った時に、しばらく滞在した場所……察するに革命軍の基地とやらで反応があったんだよ! その時は見間違いかと思ったが、こうなりゃ間違いねえ!」

「……なんか、物語だったら怒られそうなご都合主義だな」

「いいんだよ、それを言うなら俺とお前との出会いだって大概さ。全ては俺の豪運ゆえに違いない! そんで悪いんだが、もう一回基地まで戻って歯車を探してきてくれ」

「んん、まあ、とにかく分かった。もう一回基地に行けばいいんだな」

「ああ、忙しなくて済まねえな」

「いや、かまわねえ」

 アントニオの頼みを快諾すると、ウィンディンベルクはすぐにクッションから飛び上がって、部屋を出た。

「じゃあ、今からでも行ってくる」

 アントニオも、そんなウィンディンベルクを追って部屋を出てきた。二人で螺旋階段を上がる。

「今からか? 夜だぞ」

「コウモリは本来、夜行性じゃねえか。それに今の今まで寝てたんだ。体力だってばっちりさ」

「頼もしいな、流石は俺の相棒」

「お前の相棒だからじゃなくて、俺が俺だから頼もしいんだよ。えへん」

「なんかふてぶてしくなったな、お前」

「そうか? だとしたらアントニオがうつったんだろ」

「人を感染症みたいに言うんじゃねえ。ま、俺はウイルス並みに影響力が強いからな。あの極小さで、人ひとり潰すこともできるんだ」

「言ってろよ」

 そして笑いながら、外へと繋がる扉をくぐった。

 満天の星が眩しいほどに広がり、冷たい空気が心地いい夜だった。

 そうして機嫌よく外に飛び出したウィンディンベルクは、しかしその向こう、雲の端に、よく見慣れた、だが在り得ないものを見て、笑顔のまま硬直した。アントニオもその異様さに立ち止まって目を見開いた。

 雲の上に在り得ないもの、すなわち羽を持たない虎の後姿を、二人は見たのだ。

「なん、なんで……、ベステレ、ラ……」

 金毛の巨虎が、ゆっくりと振り返る。

 それに呼応するように、けたたましい鳥の鳴き声と、翼が風を切る音が響き渡った。二人の目の前にバサバサと抜けた鳥の羽が降って来る。気付けば一面に鳥たちが犇めいていた。二人を取り囲んで監視するように見つめる彼らは、まるで個を感じさせない機械めいた雰囲気があった。それは植物に支配された動物の行進を想起させる。

 しばらく絶句した後に、アントニオが苦々しく笑った。

「……なるほど、鳥も数百数千集まれば虎くらい持ち上げられるか。全員が一糸乱れぬ動きをしなきゃ在り得ねえ話だが、それも自我が無ければ問題ねえからな」

 彼は余裕を演出しているのだろうが、しかしその口角は不測の事態に引き攣っていた。ウィンディンベルクは、しばらく彼の分析を脳内で噛み砕いた後、同じように無理をした笑みで反論した。

「な、なに言ってるんだよ。そんなのまるで、ベステレラが植物の支配下の鳥を使って、ここまで来たみたいじゃないか」

 しかし、ウィンディンベルク自身も理解していた。アントニオへの反論は、しょせん現実逃避でしかないことを、彼は自覚していた。むしろ彼の方が、アントニオの正しさを分かっている。この鳥の群れの中に、一匹たりとも彼の知る革命軍のメンバーの顔のないことが、答えのようなものなのだから。

「だから、そうなんだろ」

 ごくり、と唾を飲み込んでアントニオは続ける。

「世界を変えようって革命軍の、その総大将が誰よりも裏切り者だったってこったろ」

 ウィンディンベルクはその言葉に、とうとう現実を受け止める。そして絶望と共に、いまだ沈黙を貫く恩人に視線を向ける。

「ベステレラ……」

 虎は、まだ何も言わない。

「ねえ、ベステレラ……なんとか言ってよ、なんでここに来たんだよ、こいつらは何なんだよ、せめてなんか、言い訳してくれよ!」

 虎はようやく顔を上げる。そして悠然と語り出した。

「この世界は悪くない」

 その声は確かにウィンディンベルクの良く知るベステレラのもので、しかし喋る彼は、まるで知らない別の虎のようだった。

「なぜ変えようとする? こんなに都合のいい世界を。こんなに調和した世界を。自制の効かない動物どもに、際限なく食い散らかされることもない。つけあがった猿どもも滅び、むやみに切り倒されることも無くなった。空気も水も、随分と綺麗になった。素晴らしいじゃないか。なぜ、戻る必要が、後戻る必要が、退化する必要が、あるというのだ。風など吹かなくていい、今のままでいい、今が正しい」

 そして彼は、ぐるりとウィンディンベルクを見た。よく知るはずのその顔が、彼には今、とても怖かった。

「ウィンディンベルク、ありがとう。お前のおかげでソレをおびき出せた」

 ベステレラはアントニオを顎で指して笑った。

「どうせ生き残っているだろうと思っていた。弱いくせにしぶとい、姑息で見苦しい存在だ。風が止まったのも、どうせ貴様ら人類の仕業だと分かっていた。だからこそ、そこに懸念があった。貴様らを野放しにしておけば、またいつ風を吹かされるか知らん。根絶やしにせねばと思っていた。だから革命軍を利用した。自分だけが賢いと思っている奴らだ、革命軍を見れば、その動きの不自然さに釣られて、のこのこ出てくるだろうとな。実際それで何匹か絶やせた。その過程で、無風装置のことも知った」

「…………っ嘘だったの、ベステレラ。世界を変えたいといったのも、動物を救いたいと言ったのも……俺を助けてくれたのも……全部、嘘なの?」

 ウィンディンベルクは堪らず叫ぶ。脳がどれほど理解しても、心はまだベステレラを信じたがっている。その乖離が身を引き裂くようだった。

「いいや、違う!」

 しかし、その苦しみをアントニオが否定する。

「落ち着けウィンディ、詳しくは分からんが、あれはお前の知る虎じゃねえ!」

「アントニオ……?」

「そうだろ? お前の発言はさっきからずっと『植物目線』だ。まるでお前が、虎ではなく植物であるかのように」

 ベステレラの瞳孔が僅かに細くなる。そう、彼は『動物に食い散らかされる』と言った。それは、食物連鎖の上位に位置する大型肉食獣が使う言葉ではない。

「いい加減正体見せろ。その面でいつまでも喋ってると、そろそろウィンディが泣くだろうが。なあ、寄生植物」

 瞬間、ベステレラの右耳から嫌な音とともに、一本の花が現れた。いくつかのつぼみを付けたそれは、するすると蔓のような茎を伸ばし、一輪白い花弁を広げた。

「図に乗るなよ」

 きっと鼓膜は破れただろうに、まるで気にせずベステレラは話し続ける。まるでただの人形のように、傀儡のように。

「別に隠そうと思っていたわけでもない。見抜かれるのも想定の内だ」

 花は虎の首をするりと振る。途端、辺りを囲んでいた鳥たちが飛び立った。

「本来の姿で乗り込んでもよかったくらいだ。どうせ貴様らは塔を完成させられないのだから」

 そして、まだ閉じていた花弁の一つを、花は開く。そこには、不思議な形状をした歯車が包まれていた。

「殺した人間の一人が持っていた。大事なパーツらしいな。これを押さえている限り、お前らは塔を動かせない。しかし、相手は悪知恵だけが取り柄の猿だ。万が一ということもある。私が先に乗り込んで、人間だけは先に始末しておこうと思ったのさ。その為には虎の姿の方が都合がいい」

「なるほど。そして俺を食い殺している間に、今飛んで行った鳥たちが、仲間の植物や奴隷たちを引き連れて戻ってくるってわけか」

「そう、そして貴様が死んだ後ゆっくり塔を破壊する。そういう寸法さ」

 それでは。そんな前置きを残して次の瞬間、ウィンディンベルク視界の中心から虎は消えた。そして視界の端から、アントニオの横顔も消えた。ウィンディンベルクが気づいた時には、虎はアントニオを押し倒し、その上に乗り上げていた。その凄まじい跳躍力から察するに、足が悪いというのも嘘だったらしい。

 虎が口を開く。ずらりと並んだ牙が、その形をなぞる唾液が、嫌にはっきり見えた。全力で動いているはずなのに、ちっとも前に進まない。遅すぎる時間の中を、ウィンディンベルクは藻掻くようにして、必死にアントニオのもとへ羽ばたいた。

 虎の牙が、無慈悲にアントニオの喉元を覆い隠す。

「アントっ」

「ぎゃあああああああああああああ!」

 あたりに悲痛な絶叫が響き渡る。ウィンディンベルクは茫然と虎とアントニオを見つめていた。あまりの混乱に、言葉を失う。

 だって、今のはアントニオの声じゃない。今のは……。

 混乱するウィンディンベルクを他所に、虎の下からアントニオの浮かれた叫び声が上がる。

「喜べ、ウィンディ! こいつは脳に根を張って壊すタイプの寄生植物じゃない! 耳の奥から脳に電気信号を送って思考を誘導するタイプだ! 良かったな! ベスだか何だか知らんが、この虎の人格も記憶も、お前が知ってる通りのまま残ってるぞ! あ、人格じゃなくて虎格か!」

「え? ええ、え? あの、あ、アントニオ、平気なの……?」

「ああ、当り前さ」

 アントニオが上体を起こすと、その上に圧し掛かっていた虎が、がくんと脱力し崩れ落ちた。自分の上からその巨体を押しのけて、アントニオは立ち上がる。

 そうだ、あの悲鳴はベステレラの声だった。アントニオの右手には、ベステレラの耳から生えていた植物が握り取られている。その蕾を毟り、歯車を取り出しながらアントニオは笑う。

「なるほど、基地で発信機に反応したのはこれだったんだな。おかげで手間が省けたぜ」

「な、なぜ……」

 アントニオの傍らに横たえられ、ぐったりとしていた虎が、苦しげに呻く。

「おーおー、もう根っこくらいしか残ってないだろうに、まだ動くか。しぶといやっちゃな」

「なぜ……貴様、その皮膚は……いや、それよりも、あの焼き切れるような痛みは……」

「ったく、鉄に噛みつきゃ歯を痛めるのは当然だし、おまけにちょっと感電しただろ。ウィンディンベルクの恩人の体で無茶してんじゃねえ」

「っき、貴様、人間ではないのか!」

 虎は震える声でそう叫んだ。

「ああ、そうさ」

 アントニオは虎を見下ろして不敵に笑う。自分の目線の高さに彼の首が来たことで、ウィンディンベルクも気付いた。彼の首に、虎の牙が食い込んだであろう穴が開いているのを。そしてそこから、出血ではなく、漏電していることに。彼は、生物ではない。

「俺はドクター・アントニオ。本人にしてその遺作。数百年前に死んだ人類最後の男が遺した希望。ロボット工学と脳科学の全てを体現した男、老人型ヒューマンモデルのアンドロイドだ。安心しろ、お前が毛嫌いしてる人類は、とっくの昔に絶滅してる」

 

「さあ、とにかく役割分担だ。時間がねえ、鳥どもが植物たちを連れてくる前に、風を吹かせてとんずらこくぞ。お前は歯車を組み込んで塔を稼働してこい。後は嵌め込めば動くようにしてる。音声入力式だから、起動したら無風状態を解除して風を吹かせるように言え。その間に俺は虎の耳に残ってる植物の後始末と、飛行機の準備を済ませる」

 電流で気絶させたベステレラを背に担ぎ、螺旋階段を駆け下りながらアントニオが指示する。

「わかった、どこに嵌めればいい?」

「天辺から約二メートル下、北側面だ! 表面部だから見りゃわかる!」

「おう、ベステレラを頼む!」

「任せろ!」

 アントニオに示された場所へ、歯車を掴んでウィンディンベルクは、飛び上がる。

 塔の北側へ回り込むと、ちょうど月の明かりが一面を照らしていた。指示がざっくりしていたので少し戸惑ったが、そう時間もかけずにアントニオの筆跡で『HERE!』と書かれたメモが見つかった。そのメモが張り付けられた少し上に、確かに歯車がはまりそうな窪みがある。

 カチン、と丁寧に歯車を嵌め込む。

 そっと羽ばたいて塔から距離をとり、ウィンディンベルクは成り行きを見守った。

 痛ましいほどの静寂が続く。

 彼は祈るような気持ちで目を閉じた。

 まさか駄目だったなんて言わないでくれ。この塔を完成させるためだけにアントニオは頑張ってきたんだ。八十歳で亡くなってからもずっと、数百年間、たった一人で。彼の努力を、神様、どうか笑わないで。

 ぶうぅん。

 そんな機械音がした。目を開くと遥か下方、塔が底の方から息を吹き返すのが見えた。

 下部から順に、ぽつ、ぽつ、ぽつ、と明かりが灯り、どんどんと速度を増してウィンディンベルクの居る高さまで近づいてくる。

 次の瞬間、ぱっと光が建物を貫いた。塔全体が優しい乳白色に淡く輝いている。そして所々カラフルな色が瞬いている。溢れた光は降り注ぐようにウィンディンベルクを圧倒した。

『凪の塔、起動しました。ウイルスチェック、異常なし。状態スキャン、異常なし。エラーコード、ゼロ。正常に利用可能です。コマンドを入力してください』

 抑揚のない声が響く。これがSF小説で読んだ機械音声という奴だろうか。そんなことを思いながら、ウィンディンベルクは叫んだ。

「風を! 風を吹かせて! えっと、その、無風状態! 無風状態を解除して、風を! もう一度吹かせて!」

 力の限りの絶叫が、建物の中に轟く。

『コマンドを認識しました。無風状態を解除します』

 光が空を貫いた。塔の頂上から、まっすぐに伸びた光が空高く伸び、やがてその光の筋は、ゆっくりと細まり、糸が切れるように途切れた。

 そして塔はまた、ぶうんと音を立て、明かりを落とし沈黙した。

「……せ、成功なの、か?」

 ウィンディンベルクは呟く。その瞬間、彼の言葉に応える様に、建物全体が大きく揺れた。それを皮切りに、窓ががたがたとなり、ごうごうと怒鳴り声に似た音が轟き始めた。

「え? 何、何!」

 何事かと慌てふためく彼に、アントニオの呼ぶ声が聞こえた。

「ウィンディ! 急げ、ここは堕ちるぞ!」

 見上げると、建物の出口で手を振っている彼が見えた。ウィンディンベルクは彼のもとに、急いで飛び寄り、爆音に負けないように叫んだ。

「堕ちるってどういうこと!」

「そのまんまの意味さ! お前のおかげで風が吹いた! 聞こえるだろう、解放された風たちのこの雄叫びが! とにかく、風が吹きゃあ、無風状態で辛うじて保たれていた、この謎状態の雲なんかすぐに吹き飛んじまう。早く脱出しろ!」

「わ、わかった!」

 確かに、雲の表面はもう霞始めている。アントニオは飛行機に走りよると、ウィンディンベルクを操縦席に突っ込んで、まくしたてる。

「いいか、虎は治療をして積んである。後ろだ。到底、席に収まりきらなかったから、機体に縛り付けてある。途中で起きて暴れられても大変だから、麻酔を打ってある。死んでるわけじゃないから気にするな!」

「わかった」

「操縦方法は覚えているな? 植物たちに見つかったら、そのボタンでマシンガンだ」

「おう」

「それから、基地についたらすぐ引っ越せ。分かってるとは思うが、あの寄生植物越しに、他の奴らにも知られてる」

「ああ、そうだな」

「じゃあな! 達者で暮らせよ!」

「わかった! ……?」

「それじゃあ、行ってこい!」

「ちょっと待て! なんでそんなお別れみたいなこと言うんだよ! アントニオも一緒に行くんだろ?」

 アントニオの発言の節々に感じる見送りのようニュアンスに、ウィンディンベルクは慌てて彼を振り返る。しかし彼の顔は、真剣そのものだった。

「そうだ。ここでお別れだ。俺はここに残る。ここからはお前ひとりで行くんだ」

「嫌だ! なんで!」

「その飛行機に俺の席はねえ」

「俺が飛ぶよ! アントニオが操縦すればいい!」

「重量オーバーなんだよ。虎を乗せたら、あとは精々コウモリ一羽が限界だ」

「そんな……でも、でも!」

「聞き分けろ、ウィンディンベルク! 何もかも全部は無理なんだ!」

「やだ、やだよ! 待って、何か方法が……」

「方法なんてねえ。ウィンディ、俺はこの塔を直すためだけに造られたんだ。役目を終えた今、機能停止するようにプログラムされている。もうすぐ、俺は動かなくなる」

「……っ!」

「最期に最高の思い出をありがとう、楽しかったぜ」

「なんで、そんなの……そんなの、嫌だ……アントニオがいなけりゃ、生きてても楽しくない!」

「そう言うなよ。今迄の世界ならともかく、これからやってくる世界は最高だぜ? お前はきっと、俺が居ない世界を好きになれるさ」

 ぐらりと、地面が揺れた。雲が形を失い始めている。

「ほら、そろそろ時間だ」

「……」

「何もかもがいっぺんに変わる訳じゃない。世界にはまだ革命軍が、お前が必要だ」

「……」

「ウィンディ」

「……、おれ、いくよ」

 顔を伏せたまま、ウィンディンベルクは震える声を絞り出す。アントニオに背を向け、飛行機のコントローラーを強く握る。

 そんなコウモリの姿に、アントニオはニッと笑った。エンジンがかかる。飛行機が滑り出す。その横を歩きながら、アントニオは言った。

「最期にこれだけ言わせてくれ。俺が機械を直してる理由、初恋だとかリスペクトだとか、いっぱい言っただろ。あれな、実は全部嘘なんだ」

 少しずつ速度を上げる飛行機に合わせて、アントニオも走り出す。

「あんなのは、生身の俺が遺したデータでしかない。生身の俺が感じた胸のときめきを、俺は知らない。あんなのは、ただの問題に対する正解でしかない」

 とうとう、機体が僅かに浮遊する。

「本当はな、ずっと一人で、なんでこんなことしてるのか分からなかったんだ。寂しかった、空しかった、辛かった」

 アントニオの全力疾走を、飛行機はゆっくりと引き離す。

「お前と出会えて、やっと俺にも理由ができた! お前と出会えたから、お前の未来を、お前の生きる世界を、少しでも自由にしてやりてえと思えた!」

 雲の端から、星空へ、飛行機は遂に飛び出した。アントニオを置いて飛んでいく。

「ありがとう! ウィンディンベルク! 俺は」

 暴風に飲み込まれて、返事はきっと届かないだろうけれど、それでもウィンディンベルクは泣きながら叫んだ。

「俺も幸せだったよ、アントニオ」


 ◆◆◆


 巨大な積乱雲が、風に煽られてゆっくり形を失っていく。真綿から零れ落ちる様に露見した建物が、地面に向かって静かに落ちていく。人類の終わり、最期の文明が、朝と夜の狭間で失われていく。小さなコウモリの脳にだけ、その存在を残して。

 星は後方へと散り、真っ白な朝日が世界を照らし出す。風がごうごうと唸り、鳥をよろめかせ、動物の毛皮を逆立て、木の葉を攫っていく。風は、空を駆け、地を転がり、波を逆立てながら、世界の全てを、荒々しく、そして優しく撫でていく。

 世界のすべての動物たちが、足を止めた朝だった。

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バットフライ・エフェクト しうしう @kamefukurou

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