ビター・シュガー・ソース

佐久良 明兎

第1話

 夕暮れ時の街並みは忙しない。

 車も人も大通りをひっきりなしに行き交う。あの渦の中にいれば、自然と自分の足取りもせかせかと動き始めることだろう。だがガラスのドアで隔てられた喫茶店の店内からは、まるで映像を見ているかのようで、珈琲の湯気に鼻孔をくすぐられながら、ゆったりした空気を保持できていた。


 静まり返った店内から街を眺めていると、時間や世間の流れに取り残されたような不思議な感覚に襲われる。大通りに面しているにも関わらず混雑することはほとんどなく、いつ行ったって落ち着いた空間を提供してくれる、この忘れられたような喫茶店が僕は好きだった。

 もっとも、佇まいこそは古い日本家屋を改築したものであり、現代社会と隔絶されたような風情を持ち合わせているが、中はモダンで新しく、知る人にはそれなりに人気のある喫茶店であり、『忘れられたような』と表現するのはいささか失礼だった。

 視線を店の外からテーブルに戻すと、目の前には暖かいコーヒーと添えられたクッキーが置いてある。この店ではカプチーノを頼むことも多かったのだが、今日は別の店ではいつもそうするように、ブラックのコーヒーだった。


 視線を少し前へ動かせば、対面する側にはミルクティーと、やはり添えられた手製のクッキー。

 そして正面には、彼女が座っていた。


 物静かな空気を全面に纏った彼女は、恐ろしくこの店に溶け込んでいる。滑らかな髪が肩までかかるが、決して邪魔な長さではない。仕事帰りの彼女は、白いブラウスにカーディガン、スカートというすこぶる上品な身なりだが、かといって地味すぎるでもなく、上司へも後輩へも好印象を抱かせるだろうと思わせる。伏し目がちな目が微かな憂いを湛えて見え、清楚という言葉が人間の形をとっているようだった。


 けれども僕は、彼女の本性を知っていた。それだけが最大の問題点だった。

 彼女がかたりとスプーンを置いたのを見て、僕は頬杖をついた。


「まど」

「なぁに」

「今の相手は、」


 そこまで言って、僕は言葉を飲み込んだ。

 言わずとも彼女には分かったようで、にっこり笑って、こう答える。


「二桁とちょっと」

「最早、人数があやふやとかね」

「お前は今までこのお店で飲んだミルクティーの数を覚えているのか」

「中途半端な上に回りくどい引用はやめろ」


 まど、もとい早川円佳は、悪びれるでもなく言ってのける。

 なんとも言えない悶々とした感情を目いっぱいに吐き出そうとしたところ、今度は彼女が質問を投げた。


「とき」

「何」

「とき、まだ付き合ってるの?」

「悪いですか」

「何年」

「もうすぐ、四年目だけど」

「違う」


 意地の悪い笑みを浮かべ、彼女は両手を組んで僕と同じく頬杖をつく。


「苦しみ始めて何年目?」

「うっせ」


 何事か反撃しようとしたところ、傍らで僕の携帯電話が唸りを上げた。数回バイブレーションが鳴って大人しくなったところをみると、電話ではなくメールのようである。

 ちかちかと光るライトの色で分かる。誰からの着信か。 


「呼んでるよ、のりちゃん」

「それで呼ぶなバカ」


 まども把握しているのだ、このライトの色が誰を示しているのかを。


「淋しいよ淋しいよ、のりちゃんのりちゃん構って構って」

「……殴るよ?」

「殴れるもんなら殴ってみろ」

「殴らないよ僕が悪者になる」

「ですよねーできないですよねー、女の子一人フれない人ですもんねー、ときは」

「うっせ」


 思わずまどのペースにつられて、口を歪める。


「このビッチが」


 出来るだけ感情を込めずに、真顔で吐き捨てた。

 僕の言葉を受けて、からからと彼女は笑う。


「ありがとう。最高の褒め言葉だ」


 すっと目を細めて、彼女は自分の両手で両頬を包んだ。






 岩瀬いわせ紀刻のりとき早川はやかわ円佳まどかは、お互いにお互いの本性を知っていた。


 早川円佳は、彼氏をいつまで経っても定められない。

 岩瀬紀刻は、彼女といつまで経っても別れられない。


 ただし、まどは見たままに清楚なキャラで通っていたし、

 僕は、すこぶる幸せなカップルということになっている。


 まどはむしろ、悪い男に引っかかり続ける可愛そうな人物として認識されている。(ただし世間の皆が把握している元彼は本当の人数ではない。)


 僕は、長いこと付き合っている彼女と、いずれゴールインするものだと思われて憚らない。メールや、電話で、どんなやりとりがなされているかなど、知る由もない。(たとえ言ったとしても、ただの惚気の一種と思われたことだろう。)


 たまに、まどとこの喫茶店で静かなしょうもない時間を過ごしているときには、少しばかり、気楽になれた。

 幸せであるフリをし続けるというのは。

 大層、疲れる。


「あぁ」


 不意に彼女が声を漏らした。


「やめちゃおうかなぁ」

「何を」


 てっきり、「今の相手を」という返答が返ってくるかと思ったが、


「なんでもなーい」


 と彼女はカップを手に取り、ミルクティーを口にした。






 ああ。

 僕らは、どこかで、何かを間違えてしまった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ビター・シュガー・ソース 佐久良 明兎 @akito39

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ