REINBOU
佐久良 明兎
REINBOU
僕と彼女との間には三つの境界線が存在する。
一つ目は、男と女。
二つ目は、創る側と模倣する側。
そして三つ目は、
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灰色の閉鎖空間、とは一体誰が言ったものか。
厳密にそういう単語を使用した人間は居ないかもしれないけれど、ともかく、学校という場所を灰色で表現するのはなかなかどうして良いセンスをしていると思った。とりわけ梅雨の厚く重々しい雲が覆った空の下登校する身となってみれば尚更それが感じられる。別に、学校が嫌いなわけでも反抗したいわけでもないのだけれど。
電車を降りた僕は、やはり灰色の空を確かめてから肩をすくめた。何とも灰色とは、逆らうのも面倒な怠惰さそのものだ。しばらくは人混みのまま流れのままに逆らうことなく歩いていたが、改札を出てからふと意図的に歩く軌道をずらす。
携帯電話が使われるようになってからは見向きもされなくなった駅の掲示板。一体誰が何の為に使用するのだかは分からないが、今だにそれは駅構内にしぶとく存在して、落書きとも伝言ともつかない白い文字が躍っていた。
通り過ぎざまに僕はさりげなくそれへちらりと目をやる。目線は掲示板の右下だ。隅の方へごく小さく申し訳なさそうに書かれた数字、『530』。これを確認して僕は目線を前へ戻すと、何事もなかったかのように歩みを進めていく。
今日は五時半。
ざあざあと音をたてて降る雨に再度肩をすくめてから、灰色の空の下それよりも暗い黒の傘を広げて僕は外へ出た。
+++++
お昼休みにいつもの変わり映えしない連中と暢気に喋っていると、不意に一人が憂鬱そうな色を滲ませながらこう提案した。
「なぁ。今日さ、放課後に勉強会しないか? マジで数学が解けなくてさ」
試験は間近に迫っていた。いよいよ深刻味を帯びて忍び寄ってくるそれは受験生にとって死活問題だ。面白い事に僕らの仲間内では得意科目がそれぞれ異なるので、たまに脱線する事はあっても互いの弱点を補い合う事が出来、意外に効率よく勉強出来る。
だからいつもなら僕だって喜んでそれに参戦したはずなのだ。しかし。
口々にいいなと賛同して名乗りを上げる仲間を横目に、僕は申し訳なさそうに右手を挙げた。
「悪い、今日はちょっと気分が乗らなくてさ」
ええ、と不服そうな声と共にあがるのは、さてはお前またかよ、という呆れ半分からかい半分の声。ああ、と苦笑混じりに頷いて、僕はそれを肯定した。僕は放課後歌いに行く。
「一人カラオケが好きなんだ」
僕はカラオケが好きで、知り合いが経営する行きつけのカラオケは一人なら安くしてもらえるので、よくストレス発散にふらりと一人カラオケに行く、そういうことになっている。
実際は安くなるどころか、一人でカラオケに行くよりよほど高くついてしまうのだけれど。
まったく、言い訳にしても一人カラオケとは、些か出来過ぎている。
なにしろその歌を知るのはこの世でたった一人だけなのだから。
+++++
高校の最寄り駅から電車に揺られ、実家の最寄り駅より手前で降りる。いつもなら使用する事のない駅で降りるのは、決まって「一人カラオケ」と言いわけて友人の輪から離れる時だ。
例によって改札から出て数歩進んだ右手の死角、そこに私立のお嬢様学校の制服を着た彼女がいた。古びた型のセーラー服、だが紺色ではなくくすんだ銅色で、その少し異色なところがなんとも私立らしい。
学ランを着た進学校の男子高生と、私立の女子高生との組み合わせは、ほど良く田舎のこの街で否応なく目立つ。アベックとみられても文句は言えない。その辺を配慮して知り合いの少ない駅を使わざるをえないのだ。面倒な年頃である。
「お帰りなさいませ、ご主人様」
「御機嫌麗しゅう、お嬢さん」
冗談めかして、肩をすくめた。
友人への言い訳は『一人』という部分が異なっているだけであって、実際にカラオケに行っている事には違いがない。いつものカラオケは夕方でも空いていて、待つことなく入れる。
その制服と同じように彼女の存在もまた少しだけレトロで、彼女は携帯電話と呼ばれるシロモノを所有していなかった。
だから僕達は逢い引きの際、今どき誰も振り返らない掲示板を使用する。彼女が一方的に。
記された数字、それがいつもの合図。そこには僕の意見や都合の介入する余地はない。
主体は彼女なのだ。僕は付属物である。
中世の姫と騎士という表現は、大分陳腐で滑稽ではあるが、しかし的外れでもないのだと思う。
「と。五曲ぐらいで良いかな」
「充分」
手にリモコンを取り、彼女は適当にランキングの上位五曲を予約していく。聞き覚えのあるメロディが流れ出すが、双方ともマイクは手に取ろうとしない。手に取ったのは持ってきた幾枚かの紙。
「これ、この間の分」
「わあ」
嬉しそうな声を挙げ彼女はそれをそっと受け取る。しげしげと眺めて見遣るが、並ぶ五線譜を理解している様子はない。ただただ並ぶ音楽記号を不思議そうに眺めているばかりである。
「すごいって、理解してる?」
指を組んで彼女に尋ねれば、
「ああ、うん、すごく綺麗だよね」
と見当違いの回答が返ってくる。綺麗なのは楽譜ではない。否、本質と外見もそれに伴うのならば、楽譜も確かに綺麗なのかもしれないが。
じっくりと時間をかけた吟味が終わり、ぺらぺらと紙をめくる音が途絶えると、彼女は輝いた瞳のままで僕を見上げる。いつものことなので、理解して頷いて両手を広げた。
「コピー済みです、保存済みです。どうぞ原本はお持ち帰り下さい、お嬢様。貴方のお好きなように。別に君には必要ないだろうけどね」
「ううん、必要だもの。コレクション」
「データベースか」
「目に見える喜び」
「それは、本質じゃない」
真実を再現する為の、足がかり。方法が示された記号に過ぎないというのに。
一仕事終えてソファーに寄りかかった僕と交代に、今度は彼女が姿勢を整える。
「もしかして、もう?」
「うん。次の、出来た」
「予想はしてたけど、予想外だよ」
苦笑して言いつつ、僕はボイスレコーダーを取り出して室内に流れる音楽を切った。機械の音量を0にすれば静寂が部屋に訪れる。
その刹那流れ出す、新たな音色。
淀みなく響き渡る彼女の歌声。
アカペラでも一人だけでも十二分に人を揺り動かす音楽が存在すると知ったのは、彼女と出会ってからだった。
彼女が歌うのは既存の曲ではない。
彼女の世界に流れる、彼女だけの音楽である。
彼女は彼女の歌を歌う。
が、その音を、そのまま流れ去るだけではあまりに惜しいその音楽を、繋ぎ止める術を知らない。
いや、僕のような凡人からしてみたら目に見える記号で記す必要があるだけで、彼女の脳髄には絶えることなく旋律が流れているのだろうから必要は無いのだろうけれど。
それでも僕は残したかったのだ。彼女の歌う繊細な旋律を、律動を、目に見える形に。
それが僕以外の誰も耳にする事はなくても。
彼女は歌う。彼女の歌を。
僕は彼女の歌を、黒と白で譜面に記す。
そして、僕は歌う。彼女の歌を。
彼女の出せない低音は僕が奏でた。彼女の世界を記号化したその後で。
彼女の歌を二重に模倣して色褪せたそれは、いくらあがこうと彼女の歌ではなかった。それでも彼女は喜んで、旋律と律動と一人では奏でられぬ和音を抱きしめる。
男の低音、女の高音、絡み合った和音は踊る。
僕は歌を歌う。彼女は歌を歌う。
この世のものではない、凡人たる僕とは隔絶された彼女の音楽。
洗練され選び抜かれた世界。
限りなく近付いた
そこに、後悔もないけれど。
+++++
一時間は短い。しかし外に出れば景色は違っていて、いつの間にか薄くなった雨雲は僅かに水滴を垂らすのみであった。夕日の差し込んだ空を見上げて彼女は静かに伸びをする。
「今日の。タイトル、何にする?」
録音を終えたレコーダーを手で弄びながら訪ねる。タイトルもまた備忘録で整理整頓に必要なだけ、さして重要な問題ではない。ただのデータベース、それだけの意味。
「ん。じゃあ、虹、で」
「なんで」
「虹。出そうだから」
ほとほと適当、である。僕は、肩をすくめる。しかしそれがどんなに適当なものであったとしても、それなりの人間がそれなりの事を言えば、それはそれなりに聞こえるものだ。
「虹、かからないかな」
一瞬、『虹』を『二次』、ととらえてしまった僕は、どきりとしてから苦々しい表情で微笑む。まったく、終わっている。
二次は僕という存在だけで充分で。
REI、と柄の部分へ名前が書かれた傘をくるりとまわし、彼女はその場で一回転回ってみせた。ふわりと揺れたスカートが広がって静かに集束する。
その中心体に秘められた世界は計り知れない。けれどそれでも彼女の存在は有限で、創り出した音楽に較べ酷く儚い。危なっかしい足取りで数歩歩いた彼女を夕陽が照らす。
僕と彼女、彼女と僕。
対になる一方を光と称するのならば、もう片方はきっと影と称されるべきで、僕らをそれに当てはめるとしたならば、本質は紛れもなく彼女が光となるべきなのだろう。しかしながら外面を取り繕うには、彼女が光ではあまりに脆く儚すぎるのだ。
だから僕は傀儡、彼女は奏者。
僕という傀儡を経て、彼女の存在は外に現れる。
一体全体、どちらが光でどちらが影か。かえすがえすも、飛び越える事の出来ない永遠のライン。
二つが並び立つ事はきっと、……出来ない、のだろう。
それは、酷く皮肉混じりの解答で。
雨上がりの虹の下、振り返った彼女は。
透き通ってきらめき、僕へ微笑んだ。
REINBOU 佐久良 明兎 @akito39
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