逃亡モラトリアム
佐久良 明兎
逃亡モラトリアム
「逃げろ!」
誰の声だか知れない。だけれども誰かの声が、私たちを突き動かす。
「出口は、出口はどこだ!」
「分からない」
「こっちは行き止まりだ」
「右は!」
「塞がっている」
「左は!」
「既にあいつらが、いる」
「走れ。とにかく、走るんだ!」
「追いつかれる!」
銃声。爆音。ナイフが風を切る、鞭がうなる、打撲の、硝子の、音。
「…………」
「眠っていて、貰おうか」
かしゃり、と耳障りな音が廊下に響く。
+++++
「このドアの向こうには何があるのか」
閉まった扉に両手をつきながらカナは言った。
「教えてあげようか。……それは、空間だよ」
リョウが答える。
カナは振り返って彼を仰ぎ見た。ソファーに腰掛けて優雅に紅茶をすする彼は、その物腰に適う柔らかい表情をしていた。
リョウの言葉に頷いて、コタローが続ける。
「そうだ。ドアの向こうには何があるか、なんて愚問だ。その空間には何もない」
「有無」
彼の意見に賛同し、タケが相槌を打つ。
「何もない。だから、ここにいればいい」
続く言葉は、誰が言ったろうか。全員が言ったような気もするし、カナが自身で呟いたような気もした。
「だから、出る必要なんて無い」
「……そうだね。一体、何を言っているんだろう」
そう言うと、カナはドアから離れ三人のいるソファーに座った。
この世界には、私たち四人しかいないし、それはとても平和だ。
+++++
リョウはソファーに座って紅茶をすすっていた。
コタローはソファーに寝転がって伸びをしていた。
タケはカードゲームに興じていた。
カナはタケの相手をしていた。
実のところ、四人でしていた大富豪の生き残り、もとい負け組がその二人だったのだ。
タケとカナの真剣勝負も佳境に入った頃、部屋に音がした。四人が立てた音ではない。それは、外から響いてくる音だった。
ドアがノックされた音だった。
ごく静かに、成されたはずのそれは、異様なほどにその室内に響き渡る。
一瞬にして四人はドアに向き直り、タケも飛び起きた。
反射的にカナが立ち上がり、ドアに向かう。そのノブに手を伸ばした瞬間。
「開けるな!」
はっとしてカナはびくりと手を止めた。しかし。
「……何で、ドアを開けちゃいけないんだっけ?」
呆気にとられた表情でカナは三人を振り返った。その言葉を聞いて三人は硬直する。
「ドアを開けてはいけない……」
タケが首をひねる。
「確かに。そんな理由は何処にも無いよな」
「だけど! もしも開けたら、そしたら」
焦った口調でコタローが制したが、途中で言葉を詰まらせた。
彼を一瞥して、リョウは首を捻ってみせる。
「うん。そうだね、分からない。僕はカナの問いに答えられない。
ならば、あえて開けてみようじゃないか」
「まじでか」
コタローは凝視した。にやりと笑ってリョウは一声。
「開けて良いよ、カナ」
頷いて笑顔で、しかし緊張しながらカナはドアを押し開けた。
立っていたのは、彼らと同じ年頃の少女が一人。
「助けて、ください」
+++++
ここは平和だ。
なにしろ、ここには四人しかいない。
追ってくる人もいない。
隠れる必要もない。
逃げる、必要も。
……何、から?
+++++
菜月、と、言います。
と、その彼女は言った。
嬉々としてカナは菜月にお茶を入れようとした。
菜月は女の子で、カナも女の子だ。カナは女の子が好きだった。三人も好きだったけれど、あくまで三人は男だったから。恋人でも超えられない境界を同性の友人はいとも簡単に超えたりする。
「紅茶がいー? それとも他の何か?」
「あ、……いえ、私は、何でも」
何でもが一番困るのよーう、とふくれて、カナは紅茶を菜月に淹れることにした。続けて、折角なので他のメンバーにも飲み物を出す。元からダージリンティーを飲んでいるリョウはさておき、コタローにコーヒーを、タケにホット麦茶を。
「あー面倒くさい。面倒ったらありゃしないー。なんでこうも好みがバラバラなのさ」
言いつつ自分はミルクをそのまま飲み干した。五百ミリリットルのパックで。
冷徹な眼差しで見下すようにコタローが言う。
「黙れコーヒーも飲めないガキが」
「うるさいぃ、淹れてあげたのにつべこべ言うなぁ! 飲めないのは私だけじゃないでしょ!」
「いいやお前だけだ」
カナの台詞に異を唱えてタケが唇を歪めた。
「は、残念だな。生憎俺はカナとは違ってコーヒーは飲める。ただ趣向がホット麦茶なだけだ」
「なんだよー、だったら自分で麦茶あっためるくらいしなさいよっ!」
「え、だってやってくれたじゃん」
「むかつくー!」
むくれるカナを慰めるようにしてリョウは仏のような笑みを浮かべる。
「うん。いい子だね。カナはえらいえらい。よしよし」
「うううー、ごまかされてる……」
上手くほだされてカナは複雑な笑みを浮かべた。
そんな様子を見て、菜月は首を傾げる。
「四人は、仲良し、ですか」
「うん」
「いいや」
「勿論」
「あー」
各々答えて四人はそれぞれを見遣った。
リョウはカナに微笑んでみせる。
「仲良しだよねぇ、カナ?」
「うんっ!」
嘲笑を浮かべた口元でコタローは吐き捨てる。
「仲良しは的はずれだ。カナは下僕でタケは馬鹿で、それからリョウは」
「僕が何だって?」
ガシャンと音を立てながら受け皿にカップを置いて、でも笑顔のままリョウは聞いた。
「…………いえ、何でも御座いません」
そっとコタローは視線を反らす。
菜月にリョウは笑顔で言う。
「気にしないで。僕たちは仲良しこよしで、これはコタローの愛情表現だから」
「と……とり、とりっ、はだっ」
おぞましげに肌をさすりながらコタローは身をすくめた。
一人、悠然とホット麦茶をすすりながら最後にタケは告げる。
「見た通り、大体そんな感じで、とりあえず俺たちは平和だからそれでいい」
菜月は黙って頷くと、丁度良い温度になった紅茶をすすった。
カップから湯気が立つ。お変わりを菜月に注いだのはリョウだった。
「……それで?」
カップを手渡しリョウが尋ねた。お茶を入れるのはカナが多かったが、実際のところ美味しい紅茶を淹れられるのはリョウの方だった。
しかしリョウは紅茶以外に余り興味がないので、カナのミルクはともかくコタローのコーヒーを淹れたりタケの麦茶を温めることは殆どしなかった。
もっとも、その二人は更にリョウよりも頻度が下がる。基本的にコタローは誰かの為に働くことはしなかったし、タケがそういう事をすると不器用な彼は更なる仕事を増やすだけだからだ。
ぽつりと小さな声で彼女は呟く。
「逃げて、きました」
「どこから?」
「……分かりません」
そう答えて彼女、菜月はダージリンティーをすする。
「それしか、覚えて、いません」
+++++
そこは薄い薄い膜に覆われた、暖かい世界だった。
ぬるま湯。
丁度良い温度のお湯で満たされた気持ちの良いところで、ぷかぷか浮いて何も考えずに過ごせた。
そこには自分を害するものもなく、恐いものなど何一つ無い。
だから、何を考える必要も気に病む必要も、不安要因など無く。
逃げる必要はないし、隠れる必要もない。
日常。
四人の日常が五人に増えた。
たったそれだけ。
薄い膜に針が刺され、ぷすりと小さな穴が空いた。
些細なことだ。気に留める必要もない。
だがしかし、その穴からぬるま湯は漏れていく。
心地よかった暖かさから段々穴から入ってきたすきま風を感じるようになった。
ここは、微かに寒い。
+++++
菜月は機械的だった。
といえば、自称フェミニストのタケに叱責される。しかし実際彼女はどこか虚ろで、話しかけなければ答えないし、その代わりに頼めば何でもやった。
カナは喜んで菜月の相手をし、菜月も一番カナと親しげにしているようであった。タケは好意的に菜月に接して、コタローも対等に菜月を扱った。対等でないのはむしろカナとタケに対してである。
そしてリョウは他の三人と変わらず柔和な笑顔を菜月に見せていた。上手く菜月は四人の日常に溶け込んでいた。筈だった。
「ねぇ。どうして、ドアから出てはいけないんだろう」
カナの問いにぴくりと反応し、三人は動きを止める。
コタローが確認するように呟く。
「……俺たちは、ドアを開けた」
「そうだ。そして、菜月ちゃんが入ってきたんだ。僕らの所に」
リョウの言葉を受けてタケが付け加える。
「だから。ドアの向こうには、何かがある」
三人はタケを凝視した。その視線に耐えかねて、タケはテーブルの上のスコーンを頬張る。
「……俺たち、この中に閉じこもって、で、何で普通に生活出来るんだ?」
カナは何か言おうと口を開けたが、迷って暫く視線を泳がせる。やがて苦いものを噛み潰したふうに顔をしかめて、言葉を吐き出した。
「ご飯。……お腹、空かない。お菓子は食べるけれども、でもそれはどうして? なんでお菓子があるの? 私は作ってないし誰も作っていない、キッチンもないけど、このスコーンはどう見ても手作りだよ」
つまみあげて、スコーンを口に頬張ったリョウは一瞬妙な表情を浮かべた。だがすぐにそれを打ち消して皆を見回すと、それぞれに飲み物を入れてまわった。珍しいことだった。三人にはそれぞれの嗜好物を、菜月には自分と同じ紅茶を淹れた。お茶を入れる係と同じものを大抵菜月は口にした。
「忘れているよね」
リョウの言葉に菜月はびくりと反応した。その様子に自分自身でびっくりしてから、きょろきょろと落ち着かない風でせわしなく菜月は辺りを見回す。
じっとリョウは菜月を見つめる。
「何を、忘れてる?」
眉をひそめてコタローが尋ねた。リョウは軽く眉を上げて、悪戯めいた眼差しを向けた。
「時間の概念を、さ。ここは、今どれくらいなんだろうね。
僕らはちっとも眠っていない。うたた寝していることはあるけれども、それだけだ。本当に眠ってなどないよ。だけれど、随分長いこと僕らはここで暮らしている気がする。そして、本当に長時間なのか実は僅かしか経っていないのかさえ、僕らには分からない。そうなんじゃないかな?」
スコーンは一向に減る気配がない。
菜月がそっと一つ手にとって、口に含んでみた。ほろりと砕けて口の中で広がるスコーン。
菜月を眺めながら静かにタケが呟く。
「じゃあ、さ」
頭をかいてタケは順々に三人、いや四人の顔を見回していく。
「なんで思い出したのかな」
「思い出してなんかいないよ」
ティーポットの蓋を開けてリョウは中を覗き込む。ポットの中からは暖かそうな湯気が立ち上っていた。
「思いだしかけているのさ、僕らは」
物の裂ける音がした。コタローが本のページを破っている。引き裂いて、破いた本のページははらりとカーペットに落ちた。苛立つと、コタローに出る悪くて分かり易い癖だ。
「時間が、動いたからだ」
びり、と本の背表紙が破れる。
床に落ちたはずの紙はいつのまにか片づけられていた。
菜月は何も言わない。
ただ、受け取ったカップの紅茶を大人しくすするばかりだった。
そんな菜月をリョウは、見る。弱々しくカナは菜月にもう一杯を注いだ。
+++++
ソファーに座ったリョウはナイフを磨いていた。
「いつも、時々、そうしている」
誰にともなく彼は呟く。側にいたのはコタローだけだった。
「いつの間にこの部屋は4LDKになったのだろうね」
「よ、よんえるなのか」
ぎこちなく反芻してコタローはリョウに尋ねる。
いや、知らない、キッチンはやっぱないんじゃね? と含み笑いでもって答えて、僕らが別の部屋に分かれたことがあったかな、とリョウは続けてコタローに投げかけた。いらいらと頭を抱えてから、コタローは勢いよく空へ腕を振り下ろす。手応えのない感触。
「そして、お前は必要もないここで使ったこともないナイフを何故か持っていて、それを丁寧に磨いている。それに気付いた俺がいる。……一体、どうしてなんだ」
「それはね」
手首を動かし、リョウは前方の壁にある的に向かってナイフを投げた。的中。
「……うん。多分、準備なんだ」
飛んだナイフの行方を見つめながらコタローは呆けたように呟く。
「準備。何の、準備だ?」
「さあて、ね」
コタローは自らの手にじっと視線を落とした。
菜月は別の場所にいた。そこにいなかったから、きっとそうだった。
カナとタケはそれぞれ自分の好む飲み物を用意し口を付けたところだった。タケのホット麦茶はカナが用意し、カナのミルクはタケが用意した。
別に意味はない。火を扱わせるより注ぐだけの方が、タケが失敗しても被害は少ないからだ。こぼしたミルクも気にならない。火は目立つ。
「ぐるぐる、する」
カナの言葉にタケは視線を宙に泳がせた。彼のよくある癖だ。
「有無。どうやらカナ、俺たちが異変に気づいたのは何故かっていえば、それは紛れもなく菜月ちゃんの御陰で、所為だよ」
「うん。知ってるって。だから、ぐるんぐるん」
慣れない様子でコタローのように眉を寄せながら、タケの注いだミルクをカナは口に含んだ。
「……ねぇ、タケ」
「何?」
カナはごくり、とそのミルクを喉に押し込み、丸い瞳で首を傾げた。
「このミルク、……味、無いよ?」
タケはカナの飲むミルクをじっと見つめた。
続けて自分の手にするホット麦茶に一口口を付けてみる。
「…………」
黙ってタケは床にその麦茶を注いだ。
「……なぁカナ、こぼした麦茶は何で染みをつくらないんだろうな? この床はカーペットの筈なのに。ま、ミルクもだけどさ」
+++++
「なーづーきーちゃん」
一瞬その気楽な声の感じからタケに話しかけられたと思った菜月は、その声がタケの高いそれではなくリョウの落ち着いた低い声だということに気づいて立ち止まる。声の高低からカナでないことは分かり切っていたし、いつも鋭いひんやりとした声色のコタローでないことも明らかだった。驚いた。
振り向けばそこにいたのは声の記憶と違わずリョウで。
「御免ね。俺は想像以上に優しくないから」
俺。
いつもと違う様子のリョウに菜月は彼の表情を仰ぎ見た。その笑みから彼の表情の裏側を伺い知ることは出来ない。そうやってリョウはいつも和やかだった。けれども。
「何を企んでるの? 菜月ちゃん」
菜月の首元には後ろからリョウの小振りなナイフが突きつけられている。少しでも変わった素振り、身動きをすればすぐに裂かれる距離だった。
「…………」
ぱくぱくと菜月は口を開閉した。声を出そうと思っても出ない。その隙に、リョウは先手を取る。
「あいつら、……に」
リョウは囁く。
ゆっくりと、じわじわと、リョウの声は菜月を蝕んだ。
「……あいつらに差し向けられた?」
何かが弾けた。ような気がして、菜月ははっとリョウを見遣った。
「ああ、あ」
菜月の声から今までの無機質な感じとは違う、生きた声が零れ出た。
「ああ。……
そう言って菜月は両手を組み合わせた。リョウは菜月の真意がつかめず無表情で手を止める。ナイフは当たらないように、すぐに攻撃出来る距離にしつつもすぐには彼女を傷つけないよう背けておく。
「私も、一緒ですよ。ここに来たのは、私の意志ですが。
ですが、私も一緒になってやられてしまったようですね。思い出が、流れて」
妙な顔で考えて菜月は訂正する。
「いいえ。思い出、でなく記憶、です。思い出は重いです。そう簡単に流れるはずがありません」
リョウを見上げて菜月は勝ち気な笑みを浮かべてみせた。
「貴方の御陰で私も、思い出せました。私のことが」
嘲るようにリョウも笑みを浮かべ、吐き捨てる。
「君の御陰で漸く思い出した。僕は僕らのことが」
「ならば」
菜月は今まで向けたことのないまっすぐな瞳でリョウを見つめた。
「他の三人にもそう喚起したらどうですか」
「僕が」
頬に冷たいものが当たった、と思ったらそれはリョウのナイフで、菜月は無感動にそれを見つめた。
「それを望んでいたら、この行動に出るはず無いなんて事、今の君ならまさか理解していると思うんだけど」
素手で菜月はナイフを握った。
手の平からは、血が、でない。
「カナさんは、気づいていませんが察しています。ここから、出なければならない、事を」
初めてその顔に翳りを見せてリョウは微かに俯いた。
「だけど、ここは安全なんだ」
「……本当に、そうだと思っているのですか」
菜月は微笑んでリョウのナイフをかき消した。
「逃げる。それは優しい。けれど、怖い。怖がり続けて、優しい痛みは永遠です」
+++++
「ドアを、……出なければならないらしい」
不精不精リョウは言ってみた。
コタローはびくりと震える。タケはカップを取り落とす。あーあ、綺麗な薔薇柄の高そうなカップが、でもどうせこの部屋ではそんなこと関係ない。
カナはじっとしていた。じっとしたまま、ひっそりと言ってみた。
「ねぇ気づいた? 戻ってきてるよ」
カナの言葉にコタローは殺気だった目で睨み付ける。
「何をだ」
「僕らが、だ」
リョウがカナの言葉に続けた。
「僕らがここにいた最初の頃とは似ても似つかないくらい、戻ってきている。元の僕らに。……なぁ、覚えているかい。菜月が来る前は、僕らだって菜月がそうだったみたいに虚ろで幽かだった」
タケは黙って菜月を見た。今の菜月は、少し前の菜月とは多少違っているように見えて、徹底的に異なっていた。
しばらく部屋を沈黙が支配して、それを破ったのはカナの淡々とした声だった。
「私たちは、逃げ切れずに閉じこめられた」
四人はカナを見た。リョウと菜月は分かっていた。コタローとタケも、分かった。元から分かっていたことだった。忘れていた。時間もろとも記憶が流れていたから、その為に思い出は出てこなくなった。だから全部が虚ろだった。
ドアを押し開けると、中の明るさに比べて外は酷く不明瞭で暗かった。
躊躇した四人は、後ろから受けた衝撃でドアの向こうへ転がる。菜月が四人を押しやった。カナは急いで立ち上がり、菜月に手を伸ばそうとした。けれども菜月は首を振って、初めに現れたような様で儚げな笑みを浮かべた。
……私は、所詮プログラムですから。
菜月はそんな事を言って微笑んだ。
「うん。これ、言ってみたかったの」
そしてカナを向こうへ押しやり、力一杯ドアを閉めた。追い出すように、送り出すように。
「菜月っ!」
ばたん、とドアが閉まる。
カナはドアに取り付いた。引いてみても、それは開かない。
「カナ」
リョウの言葉にカナは顔を上げる。
「もう、ドアはない」
その通りだった。いつの間にかノブもなくなったそれは、辺りの闇と一体で何処が出てきた場所かも分からない。
「……出口は」
不機嫌そうにコタローが言う。彼は不機嫌なのではなかった。内心に隠した人に見せたくない様々な感情が彼を支配する時、コタローは周りからそう見えてしまうのだった。三人はそれを知っていた。
「無い?」
「有る」
タケの言葉をリョウは断定で打ち消した。
「入ってきたんだから出られるだろ。こうなったら、もう出てやるしかない」
辺りの闇は、しかし闇と形容するにはあまりにも奇妙だった。真っ暗ではなく、お互いの顔を認識することはできたし、暗いとは感じない。しかし先を見渡そうとすれば、それは何も見渡すことが出来ないのだった。地面もどこか定かではなく、かといって浮いているわけでもない。そして最早四人が出てきたドアがどの方角にあったのかさえ分からなくなっていた。
リョウはカナに手を伸ばした。
「カナ。……どうする。出るか?」
カナは後ろを振り返った。何もない。ドアもない。前を向いてみれば、その先には何もなかったが近くには三人がいた。
「い……く。行く」
カナはリョウの手を握りしめる。
「行く。菜月が来た道だもの。菜月が教えてくれたんだもの」
頷いて、リョウはコタローとタケに目を向けた。
「リョウ、野暮だろう」
肩をすくめてタケは言う。
「おい行くよなコタロー?」
「行こう」
タケの声に重ねるようにしてリョウが言う。
「ここで僕らが行かなけりゃ、何の為に菜月が助けてくれたと思っているんだ」
「……分かったよ、行けばいい、……ん?」
変化が起こったのは空間だったのか、それとも。
どちらにせよ変化は急に起こるものではない。変化に気づいたのがこのときなのだ。
目の前に、開けた。
光と呼ぶには怪しくて信用しがたい。けれども確かに出口らしきものが目の前にあった。
「……戻るか」
「……戻ろっか」
「……戻ってやるか」
「……戻ってやりますか」
四人は互いに見つめ合って、意図せずに深呼吸する。
そして一歩。
停滞と撤退と後退を止めて、試しに前進してみた。
逃亡モラトリアム 佐久良 明兎 @akito39
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
日記と呼ぶには烏滸がましい/佐久良 明兎
★4 エッセイ・ノンフィクション 連載中 19話
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます