クラウンゴール

管野月子

命が生まれる時

 大きな樹の根元に膨らんだ、いびつこぶに手を伸ばす。

 大人が一人、膝を抱えて丸くなった、そんな大きさや形にも見える瘤は、人肌のような温もりがあり、微かに脈動していた。


「ヴェネッサ……もうすぐ春だよ。雪もとけた。今朝はクロッカスの花芽を見つけた」


 静かな声で語りかける常磐色エバーグリーンの瞳の青年イーノックは、この森の最後の管理者だ。森から西に一キロ離れた場所に研究施設があり、そこから毎日通っては、樹々の瘤の状態を観察し、記録している。


 事の起こりは十年ほど前。

 前日まで普通に暮らしていた人が、突然行方不明になるという、原因不明の奇病が世界中で流行り始めた。

 不明になった人たちは、森の樹々の根元で膝を抱えるようにして眠る姿で発見されのだが、その身体は硬く、寄り添う樹々と同化していた。


 根頭癌腫病――クラウンゴール。


 虫や菌類、細菌などが植物に寄生し、枝や葉、花や果実が瘤状に変形する「虫瘤ゴール」に似た奇病はやがて、元々あった樹木の病害名と同じ名前で呼ばれるようになった。

 宿主の意識を操作する寄生虫がいるように、何らかの病原体に操作された人々は、森を彷徨さまよい樹々の根元に眠る。十年たった今も解明されず、八十億を越えていた地球の人口は、今や、一万分の一まで減っていた。


 補助ロボットと共に立ち上がったイーノックは、まだ緑の芽吹かない寒々しい森の空を見上げた。午後は晴れの予報だったが、一雨きそうである。


「また来るよ」


 そう虫瘤ゴールの一つに声を掛け、研究施設の方へと足を向けた。


 イーノックがこの奇病の存在を知ったのは、十代初めの頃。当時の大人たちは、非常にまれな疾患だと楽観視していた。けれど具体的な対処法が見つからないまま、指数関数的に人々は虫瘤ゴールになっていったのである。

 やがて国の維持も難しくなった頃、識者は治療方法の解明とインフラの維持を量子コンピュータのAIに任せ、消えていった。


 研究施設は今、サポートのアンドロイドがいるだけで、イーノックの他に生身の人間はいない。今年で二十一歳になるイーノックは、専門的な知識を受け継ぐ間もなく、最後の一人となった。


 まだ生きている衛星回線で、辛うじて人類は絶滅していないと知っていても、日々、連絡を取れる人は数を減らしている。

 自身も、明日にはどうなるか分からないのだ。

 この地球上で人類は生物の頂点、王のように振る舞ってきた。それが歪な「王冠クラウン」を名に持つ奇病で消えていくとは、まるで人類の末路を象徴しているようではないか。


 寂しさはおりのように、心に積み重なっていく。


 ずっと見守ってくれていた最後の女性研究員、ヴェネッサが消えた朝のことは今もよく覚えている。

 喉から血が出るほど泣き叫んで森を探し、ヴェネッサの虫瘤ゴールを見つけた時には、その側で命を絶とうかとも思った。けれど世界には、今も孤独に耐えながら、衛星回線で繋がっている人たちがいる。

 自分も虫瘤ゴールになってしまったのなら仕方がないが、自ら命を終わらせることはできなかった。


     ◆


 ぽつりぽつりと雨が降り始めた頃、イーノックは研究施設に帰り着いた。


 コートを濡らす滴を払い、しん、と静まり返った建物に入る。広いエントランスは大きなガラス窓の他、埃ひとつない白い床と壁で、いつも夢の世界に迷い込んだような気持にさせる。

 遠くで響く、ロボットたちの機械音。

 遅れて、パタパタと窓ガラスを打つ雨音が耳に触れる。


 イーノックが研究施設に来たのは六年ほど前。

 両親も兄弟も学校の友人も奇病で消え、身寄りのない人たちは徐々にこの施設で保護されるようになっていた。当時はまだ多くの研究者がいて、ヴェネッサはその一人だったのだ。

 彼女の明るい金髪は焦げ茶のイーノックとは全く違うが、「瞳は同じ常磐緑エバーグリーンだね」と笑顔で言った。七つ離れた年上の女性に、「お姉ちゃんって呼んで」と気さくに声を掛けられ、不安な思いでいたイーノックは、教会で見るマリア様のようだとも思った。

 もっとも、その大雑把な性格を知ってからは、マリア様に譬えた自分を恥ずかしくも思ったのだが。


 ヴェネッサを思う時、決まって奇病の由来となった虫瘤ゴールの話を思い出す。

 気持ち悪い瘤なんて、寄生された樹木ごと燃やしてしまえばいいと吐き捨てるのを見て、ヴェネッサはパサついたビスケットを齧りながら言うのだ。


「確かに虫瘤ゴールは不気味な形をしているし、植物を弱らせて枯らすこともあるけれど、有史以前から共生してきたのよ。人も二千年の昔から、虫瘤ゴールを活用してきたの」

「活用? あんなの、一体何の役に立つんだ」

虫瘤ゴールによって違うけれど、タンニンの含有率が高くてね。例えばウルシ科の白膠木ぬるでにできる物は五倍子ふしといって、染色や薬用に使われてきたし。ブナ科の若芽にできる没食子もっしょくしは、黒インクの原料になっていたのよ」


 すらすらと答えるヴェネッサに、イーノックは目を白黒させて見つめ返した。


「じゃあ……人が変化した虫瘤ゴールも、何かに使えるのか?」

「今は何に使えるかではなく、どうすれば人を救えるか、を優先で研究をしているから利用云々うんぬんは奇病を克服してからの話ね。けど……こんなふうに考えると、虫瘤ゴールもただの厄介者じゃなくなるでしょう?」


 唇についたビスケットの欠片を舐めなら、ヴェネッサは微笑む。

 彼女はいつもそうやって、この世の不幸すら愛そうとする人だった。


『イーノック様』


 不意に近づいてきたアンドロイドが、静かに声をかけた。

 ぼんやりと窓の外を見つめながら思い出に浸っていた。気が付けば太陽は西に傾き、黄昏たそがれ時の気配を見せている。


「あぁ……少しぼぅとしていた。何? 定時報告か何か?」

『森に異変を感知しました』

「えっ!?」


 座っていたイスから飛びあがるように立つ。


『定点モニターの熱分布です。虫瘤ゴールの表面温度が上昇し、著しい変化が起こる前兆と、我々は判断しました』


 目の前に提示するタブレットで、森の樹々の変化をリプレイする。

 確かにイーノック自身も、昼過ぎに触れた時は温かいと感じた。けれど、これほどの温度変化は今までに無い。


「分かった。引き続きモニターを。今連絡がつく他の研究施設にもリアルタイムでデータを送って。各国の虫瘤ゴールに異常はないか情報を共有するんだ」

『実行いたします』

「それと補助ロボを二台、僕につけて。今すぐ森に行く」


 言うと同時にコートを手に取り外に向かう。

 雲の流れが速い。雨は上がっている。

 補助ロボットが外気の温度湿度と風速を告げ、日の入り時間まであまり余裕が無いことを警告した。必要最低限で電力を回しているため、陽が沈むと辺りは真っ暗闇になる。補助ロボットのライトは頼りなく、月明かりが無ければ簡単に方向を見失う。

 夜はまだ華氏五十度――摂氏では十度以下になる季節。

 研究施設に戻れなければ朝には低体温症に陥り、命の危険すらある。

 地上に人が溢れ、あらゆる安全が確保されていた時代ではないのだ。それでもイーノックの足に迷いは無かった。


「ヴェネッサ!」


 息を切らして駆けつけた、誰も答える者の無い森に向かって声を上げる。

 鳥や獣の気配も無い。肌寒い風は枝ばかりの樹々を揺らし、くすんだローズピンクの陽が、夕暮れの雲を割る。


 何の変化も無いまま、自分だけが年老いて死んでいくのか。それとも森で眠る人々と同じように、いつか醜い瘤の一つになり果てるのか。未来はそのどちらかだろうと、イーノックは思っていた。

 けれど、どちらでもない現実が押し寄せようとしている。


 たどり着いた森の樹々の根元で、王冠クラウンのように膨らんだ虫瘤ゴールに亀裂が入っていた。支援ロボットが記録を撮る。イーノックは触れることもできず、息を詰めて見つめる。

 中で、仄かに光り輝くものが動いていた。

 静かにゆっくりと息づく、生物のようなものが生まれようとしている。それは蝶を始めとした、虫たちの羽化のようにも見えた。


 割れ目から輝く細い肩が現れ、首、頭と腕と続く。


 人だ。


 人が生まれようとしている。


 けれどイーノックと同じ「人間」ではない。


 肩甲骨の内側、背骨に沿う辺りに、セロファンのようにも見える半透明の物質が張り付いている。早回しの映像のように伸びていくセロファンは、やがて向こう側を透かす、長く大きな羽となった。


「妖精……?」


 手を伸ばしかけ、そのまま、触れることができずに見守り続けた。


 ヴェネッサだった虫瘤ゴールから出てきた、美しい生き物が胸を反らす。滑らかで瑞々しい横顔は、彼の人を生き写したようだった。


「ヴェネッサ……」


 イーノックの声に、ゆつくりと、こちらを向いた。

 わずかに首を傾げる。見えているのか、聞こえているのかは分からない。けれど、口の端をわずかに上げた顔は、懐かしい「お姉ちゃん」そのものだった。


 陽が沈む。


 声を発しないまま、すぃ、と指先を空に向けた。

 周囲を見渡すと同じような姿の生き物が次々と虫瘤ゴールから生まれ、一人、また一人と茜色の空に飛び立っていく。


 一体、何が起こっているのか。

 原因不明の奇病は繭のようなもので、そこから新たな生物が誕生したというのだろうか。

 専門知識の乏しいイーノックには、目の前の現象を科学的に理解する術は無い。今は付き従う補助ロボットが全てを記録し、いずれの後、生き残った人々とAIで、一つずつ解明していくより他に無いのだ。


 ヴェネッサの姿をした妖精が、羽を震わせる。

 視線は空の彼方――このまま飛んで、どこかへ行ってしまいそうだ。


「まって……」


 伸ばす手に振り返る。

 妖精は「大丈夫」とでもいうように頷き、細い指でイーノックの手を軽く握った。

 少し冷たくて、柔らかい。

 そして「ここで待っていて」とでもいうようにもう一度軽く握ってから、大きく羽を広げて飛び立った。鮮やかな夕暮れの空に舞う妖精たちは、星の瞬きに似て、イーノックの胸に深く刻まれていった。


     ◆


 後に時間を追って世界各国で観測された現象は、「新たな生命体の誕生」として記録された。

 クラウンゴールから生まれた、妖精との共生。

 人とは異なる姿ではあっても、もはや、イーノックは孤独ではない。






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クラウンゴール 管野月子 @tsukiko528

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