クラウンゴール
管野月子
命が生まれる時
大きな樹の根元に膨らんだ、
大人が一人、膝を抱えて丸くなった、そんな大きさや形にも見える瘤は、人肌のような温もりがあり、微かに脈動していた。
「ヴェネッサ……もうすぐ春だよ。雪もとけた。今朝はクロッカスの花芽を見つけた」
静かな声で語りかける
事の起こりは十年ほど前。
前日まで普通に暮らしていた人が、突然行方不明になるという、原因不明の奇病が世界中で流行り始めた。
不明になった人たちは、森の樹々の根元で膝を抱えるようにして眠る姿で発見されのだが、その身体は硬く、寄り添う樹々と同化していた。
根頭癌腫病――クラウンゴール。
虫や菌類、細菌などが植物に寄生し、枝や葉、花や果実が瘤状に変形する「
宿主の意識を操作する寄生虫がいるように、何らかの病原体に操作された人々は、森を
補助ロボットと共に立ち上がったイーノックは、まだ緑の芽吹かない寒々しい森の空を見上げた。午後は晴れの予報だったが、一雨きそうである。
「また来るよ」
そう
イーノックがこの奇病の存在を知ったのは、十代初めの頃。当時の大人たちは、非常に
やがて国の維持も難しくなった頃、識者は治療方法の解明とインフラの維持を量子コンピュータのAIに任せ、消えていった。
研究施設は今、サポートのアンドロイドがいるだけで、イーノックの他に生身の人間はいない。今年で二十一歳になるイーノックは、専門的な知識を受け継ぐ間もなく、最後の一人となった。
まだ生きている衛星回線で、辛うじて人類は絶滅していないと知っていても、日々、連絡を取れる人は数を減らしている。
自身も、明日にはどうなるか分からないのだ。
この地球上で人類は生物の頂点、王のように振る舞ってきた。それが歪な「
寂しさは
ずっと見守ってくれていた最後の女性研究員、ヴェネッサが消えた朝のことは今もよく覚えている。
喉から血が出るほど泣き叫んで森を探し、ヴェネッサの
自分も
◆
ぽつりぽつりと雨が降り始めた頃、イーノックは研究施設に帰り着いた。
コートを濡らす滴を払い、しん、と静まり返った建物に入る。広いエントランスは大きなガラス窓の他、埃ひとつない白い床と壁で、いつも夢の世界に迷い込んだような気持にさせる。
遠くで響く、ロボットたちの機械音。
遅れて、パタパタと窓ガラスを打つ雨音が耳に触れる。
イーノックが研究施設に来たのは六年ほど前。
両親も兄弟も学校の友人も奇病で消え、身寄りのない人たちは徐々にこの施設で保護されるようになっていた。当時はまだ多くの研究者がいて、ヴェネッサはその一人だったのだ。
彼女の明るい金髪は焦げ茶のイーノックとは全く違うが、「瞳は同じ
もっとも、その大雑把な性格を知ってからは、マリア様に譬えた自分を恥ずかしくも思ったのだが。
ヴェネッサを思う時、決まって奇病の由来となった
気持ち悪い瘤なんて、寄生された樹木ごと燃やしてしまえばいいと吐き捨てるのを見て、ヴェネッサはパサついたビスケットを齧りながら言うのだ。
「確かに
「活用? あんなの、一体何の役に立つんだ」
「
すらすらと答えるヴェネッサに、イーノックは目を白黒させて見つめ返した。
「じゃあ……人が変化した
「今は何に使えるかではなく、どうすれば人を救えるか、を優先で研究をしているから利用
唇についたビスケットの欠片を舐めなら、ヴェネッサは微笑む。
彼女はいつもそうやって、この世の不幸すら愛そうとする人だった。
『イーノック様』
不意に近づいてきたアンドロイドが、静かに声をかけた。
ぼんやりと窓の外を見つめながら思い出に浸っていた。気が付けば太陽は西に傾き、
「あぁ……少しぼぅとしていた。何? 定時報告か何か?」
『森に異変を感知しました』
「えっ!?」
座っていたイスから飛びあがるように立つ。
『定点モニターの熱分布です。
目の前に提示するタブレットで、森の樹々の変化をリプレイする。
確かにイーノック自身も、昼過ぎに触れた時は温かいと感じた。けれど、これほどの温度変化は今までに無い。
「分かった。引き続きモニターを。今連絡がつく他の研究施設にもリアルタイムでデータを送って。各国の
『実行いたします』
「それと補助ロボを二台、僕につけて。今すぐ森に行く」
言うと同時にコートを手に取り外に向かう。
雲の流れが速い。雨は上がっている。
補助ロボットが外気の温度湿度と風速を告げ、日の入り時間まであまり余裕が無いことを警告した。必要最低限で電力を回しているため、陽が沈むと辺りは真っ暗闇になる。補助ロボットのライトは頼りなく、月明かりが無ければ簡単に方向を見失う。
夜はまだ華氏五十度――摂氏では十度以下になる季節。
研究施設に戻れなければ朝には低体温症に陥り、命の危険すらある。
地上に人が溢れ、あらゆる安全が確保されていた時代ではないのだ。それでもイーノックの足に迷いは無かった。
「ヴェネッサ!」
息を切らして駆けつけた、誰も答える者の無い森に向かって声を上げる。
鳥や獣の気配も無い。肌寒い風は枝ばかりの樹々を揺らし、くすんだローズピンクの陽が、夕暮れの雲を割る。
何の変化も無いまま、自分だけが年老いて死んでいくのか。それとも森で眠る人々と同じように、いつか醜い瘤の一つになり果てるのか。未来はそのどちらかだろうと、イーノックは思っていた。
けれど、どちらでもない現実が押し寄せようとしている。
たどり着いた森の樹々の根元で、
中で、仄かに光り輝くものが動いていた。
静かにゆっくりと息づく、生物のようなものが生まれようとしている。それは蝶を始めとした、虫たちの羽化のようにも見えた。
割れ目から輝く細い肩が現れ、首、頭と腕と続く。
人だ。
人が生まれようとしている。
けれどイーノックと同じ「人間」ではない。
肩甲骨の内側、背骨に沿う辺りに、セロファンのようにも見える半透明の物質が張り付いている。早回しの映像のように伸びていくセロファンは、やがて向こう側を透かす、長く大きな羽となった。
「妖精……?」
手を伸ばしかけ、そのまま、触れることができずに見守り続けた。
ヴェネッサだった
「ヴェネッサ……」
イーノックの声に、ゆつくりと、こちらを向いた。
わずかに首を傾げる。見えているのか、聞こえているのかは分からない。けれど、口の端をわずかに上げた顔は、懐かしい「お姉ちゃん」そのものだった。
陽が沈む。
声を発しないまま、すぃ、と指先を空に向けた。
周囲を見渡すと同じような姿の生き物が次々と
一体、何が起こっているのか。
原因不明の奇病は繭のようなもので、そこから新たな生物が誕生したというのだろうか。
専門知識の乏しいイーノックには、目の前の現象を科学的に理解する術は無い。今は付き従う補助ロボットが全てを記録し、いずれの後、生き残った人々とAIで、一つずつ解明していくより他に無いのだ。
ヴェネッサの姿をした妖精が、羽を震わせる。
視線は空の彼方――このまま飛んで、どこかへ行ってしまいそうだ。
「まって……」
伸ばす手に振り返る。
妖精は「大丈夫」とでもいうように頷き、細い指でイーノックの手を軽く握った。
少し冷たくて、柔らかい。
そして「ここで待っていて」とでもいうようにもう一度軽く握ってから、大きく羽を広げて飛び立った。鮮やかな夕暮れの空に舞う妖精たちは、星の瞬きに似て、イーノックの胸に深く刻まれていった。
◆
後に時間を追って世界各国で観測された現象は、「新たな生命体の誕生」として記録された。
クラウンゴールから生まれた、妖精との共生。
人とは異なる姿ではあっても、もはや、イーノックは孤独ではない。
クラウンゴール 管野月子 @tsukiko528
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