ハイアルティチュード・ダイバー

鳥辺野九

第1話 目指すは世界最高高度


 富士の頂から吹き降ろされる風は富士颪ふじおろしという呼び名を持つ。冷気を乗せて、それはとても冷たい。


 水上七波みなかみななみは耐冷真空ガラスの小窓から白く荒ぶる外の景色に見惚れていた。


 富士颪が想像以上に強い。富士山五合目旧レストハウスを耐寒仕様に改装したとはいえ、あまりの暴風に建造物の基礎から揺れているように思える。隙間風すら感じてしまうが、それは幻覚だ。この堅固な建造物に隙間風などあり得ない。


「ミナカミ。あと20秒でお湯が沸く」


「うん、ありがと。あと、ナナミでいいよ」


 せっかく落ち着いて外の景色を見ていたというのに、やっぱりロボットにデリカシーを期待すべきではない。七波はジェイムソン型ロボットに一言付け加えてやる。


「できればコーヒーを淹れてから声かけて欲しかったけど」


 一辺が50cmある立方体に四角錐の突起が生えたロボットは言い返す。


「ここは観測所でありホテルではないのだ。飲みたければ、自分でどうぞ」


「サービスくらいしろっての」


「オレは観測データを収集するのに特化したロボットだからな。コーヒーの淹れ方なんて学んでいない」


 立方体ロボットの四角錐にいくつか空いたLEDパイロットランプが明滅した。あたかも人間に指示を出すかのように、空のマグカップを八本ある多脚の一本で器用に指し示す。


 そうこう話しているうちに、キャンプ用充電式ストーブのお湯が沸騰した。七波は仕方なく自分でマグカップにインスタントコーヒーの粉を適当にぶちまける。


「あんたも飲む?」


 精一杯の嫌味をぶつけてやる。


「心遣いありがとう。嬉しいが、オレにとってコーヒーを飲む機能はオプションだ。要らない」


 だめだ。嫌味を嫌味と受け取る機能もオプションなのか。


「只今の外気温は摂氏-45度。気圧は約250ヘクトパスカル。だが、観測所内部は観測機器のために室温15度、0.6気圧に調整してある。人間のためではなかったが、この気圧ならば水は約80度くらいで沸騰する。インスタントコーヒーを淹れるにはまさに適温だ」


「なんかムカつくわ」


 人間の嫌味に対して、このロボットは嫌味で返してきた。




 七波は真空ガラスの小窓に目をやった。相変わらず真っ白だ。光も、雪も、あまりの寒さに何もかもが凍り付いている。


 強い太陽光が乱反射して、七波をここまで連れてきてくれた外骨格製多脚式深海探査艇もキラキラと白く輝いて見えた。まさか深海探査艇で富士山に登ることになるなんて。探査艇操縦士の自分が、世界最高峰の極高高度観測所へ電源ケーブルを運ぶことになるなんて。


 遮るものが何もなく、太陽から直に紫外線を浴びてるような気がしてくる。あまり長く見つめていると雪眼炎になってしまう。いくら好きな景色とはいえ、長時間見惚れる光景ではない。


 ここは富士山五合目旧レストハウスを改装した気象観測所。太陽光パネルが唯一のエネルギー源であったが、七波が富士山麓から電気ケーブルを繋げて登ったおかげで、ついに電気不足は解消された。


 超極高高度に達する標高11,525メートル。外気温-45度、0.25気圧のあまりに過酷な環境に、観測ロボットがたった一機で留守番をしていた極高気象観測所。ロボットが語るには、人間がここを訪れるのは8年振りになるらしい。


 まるで巨大なヤドカリだ。電源ケーブルの巨大なリールを背負う格好の外骨格探査艇を見ながら、七波は思った。よくもまあここまで登ってこれたものだ。


 航空機よりパラシュート投下された電源ケーブルリールは数百メートルごとに転がっている。それを拾い、ケーブルを繋げ、探査艇でリールを背負い、雪と氷の緩やかな斜面を登り続ける。このプロジェクトを考えた奴の頭はどうかしてる。五合目観測所まで電源ケーブルを敷いたら、次は八合目の放棄された山小屋までケーブルを伸ばし、観測所を再建するのだとか。八合目は標高16,750メートルの彼方だ。


「さて、ナナミよ。オレはもう行くぞ」


 コーヒーを味わいながら感傷に浸っていた七波に、観測ロボットは多脚をかちゃかちゃ言わせた。


「えっ、もう行っちゃうの?」


「ああ。電源ケーブルがたどり着いたら、それをたどって降りてコースをチェックする任務がある。終わったら、またすぐに登ってくる」


 そうはいうが、七波はジェイムソン型ロボットを見下ろした。そうはいうが、体長50センチメール四方の小型ロボットの多脚で高度11,000メートルまで登るのに果たしてどれだけの時間を費やすことやら。


「いいよ。私は暇だから、山頂までちょっと行ってくる」


「富士山頂まで? ロボットも含めて前人未到だぞ」


「登頂の許可は取ってるよ。できるかどうかは別として」


 義務や責任じゃない。そこにあるものは好奇心だ。七波の声の調子から止めても無駄だと悟ったロボットに、もう何も言うべきことはなかった。


「そうか。そこがナナミのゴールというわけか」


「私のゴール? ううん、もっと向こうだよ」


 いともあっけらかんと七波は言ってのけた。


「富士山を攻略して、その向こう側、山梨県側を見てくるよ。誰も行ったことないんでしょ、山梨県って」


 ロボットが設定したゴールよりもさらにその向こう側、七波のゴールははるか遠く。ロボットは思わず笑ってしまった。人間もなかなかやるな。


 南海トラフ大地震の発生を期に、異常隆起を起こした富士山。噴火を伴う山体崩壊も起きず、その最高標高は18,886メートル。はるか頂は圏界面を突破して成層圏に至る。


 激しい電波障害のため、標高8,000メートルの生存限界高度を超えてしまった山梨県全域とは音信不通になって二十年が経過する。未だ、山梨県に登れた人間は誰一人としていない。それを、静岡県側から頂上を越えて行こうと言うのだ。


 たとえ観測に特化したロボットでも、これが笑わずにいられるか。


「愛してるぞ、ナナミ。死ぬなよ。必ず生きてここに戻ってこい。オレが待っているからな」


 金髪に染め上げたパンクヘアーを掻き上げて七波は照れ臭そうに笑って返す。


「ロボットが言うセリフじゃないよ、それ」


 外骨格探査艇操縦用の与圧スーツを脱ぎ捨て、アンダーウェア姿のままぬるいコーヒーを啜っていた七波は観測ロボットに歩み寄り、つと跪き、立方体から突き出た四角錐部にそっと触れた。


「でもありがと。やる気は出たよ」


「なあ、ナナミ。おまえは何故富士山に登るのだ?」


 減圧ハッチに向かって歩き出したロボットは、ふと多脚の歩みを止めて改めて尋ねた。人間はさらっと答える。


「そこに富士山があるからさ」

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