旅の終焉、渚にて
つるよしの
旅の終焉、渚にて
火が爆ぜる。
老騎士の顔を、躍る炎のひかりと影が照らし出す。ざわっ、と、真夏の夜の森を渡る風が、炎と、老騎士の髪を揺らす。その風の匂いから、微かに、でもはっきりとした潮の香りを感じて、老騎士はいままさに、自分は遠い旅の果てに位置しているのだと、自らの旅路の終焉が近いことをようやく認識した。
老騎士はそっと懐から、紫の絹の布に包まれたそれを差し出した。そっと、包みを開けて中身を見やる。銀の土台に、紫の石が三つ嵌まった髪飾りが老騎士の手に滑り落ちる。それと、蝋で封をされた一通の文。老騎士はその2つを眺めながら、これを自分に預けた友のことを改めて思い出す。
あれは長い戦いの末のことだった。いつも隣で戦っていた友は、最後の決戦で命を落とした。その命の火が消える間近に、彼は老騎士にこの2つの品を託した。息も絶え絶えの口から零れ出す言葉を、なんとか拾い起こせば、友には故郷に、婚約者がいるのだという。その髪飾りは、彼女への土産に戦いの合間に宝石屋で求めたもので、手紙は彼女に宛てたものであると、友は口から血と泡を零しながら、老騎士に告げた。そして友の最後の言葉は、こうだった。
「ヴォルフ……、どうか、ハンナにこのふたつを届けてやってくれ……頼む……」
戦いの終結後、老騎士は自らの故郷には戻らず、その言葉だけを胸に、旅を続けてきた。すべては、大陸の端にあるという、友の婚約者の住む村を訪れ、友の頼みを全うするため、それだけである。それは戦いの終結からさらに遠きにわたる長い旅であったが、老騎士には苦にならなかった。自分の故郷には、虚しいことながら、既に彼を待っている者は居ない。ならば、友の願いを叶えてやるのが、自分の人生における最後の旅であってもよかろう。彼はそう思ったのだ。
そして、その旅は明日にも終わろうとしている。彼女の住む浜辺の村まで、もう翌日には着いてしまう距離に彼はたどり着いていた。これが最後の野営である。老騎士は身を草の上に横たえた。胸にここまでやっとたどり着いたとの安堵が満ちる。老騎士は目を瞑って、暫しその溢れ来る感慨に心中を浸らせた。
……そして、それが、結果として老騎士の五感を鈍らせた。
気が付けば老騎士は、見知らぬ男たちの群れに囲まれていた。盗賊……! 老騎士はそう気づいたが、そのときにはもう、しゅつ、と空気を切裂いて飛来してきた弓矢が自分の右腕に、ぶすりと音を立てて刺さるのが、激しい痛みとともに目に入った。慌てて老騎士は、動く左腕で剣を取り、ここぞとなだれ込んでくる盗賊たちに応戦する。
だが、すべては遅かった。利き手ではない左手で振るう剣の動きは鈍く、数で圧倒する盗賊を討ち取るには無理があった。彼は、囚われた。縄で縛られたその身を、盗賊たちは容赦なく漁り尽くす。
途端に、紫の絹の包みがばさり、と草の上に転がり、中を見た盗賊より一斉に喜びの叫びがあがる。老騎士は身を捩って、それだけは勘弁してくれと叫んだが、盗賊たちが聞く耳を持つわけもない。なおも叫ぶ老騎士の頭に鈍痛が走る。盗賊の一味が棍棒で彼の頭を一撃したのである。
うるせえなあ、じいさん、となじる盗賊の1人の声が、遠ざかる意識に木霊する。このお宝があれば、この狩りの成果は十二分だぜ……このじいさんはどうする……ほっておけ、殺すまでもない、ここで野垂れ死にさせてやろう……。
……老騎士は、そんな盗賊たちの声を耳にしながら、仄暗い闇の底にその意識を手放した。
老騎士が次に目を覚ましたとき、まず彼の鼻腔をくすぐったのは、強い潮の香りであった。そして耳には波音。次いで少ししゃがれた女の声。
「気が付いた? ヴォルフ」
老騎士は寝台の上にいた。窓からは輝く海が見える、粗末な小屋のなかに彼は寝かされていた。そして彼の顔を覗き込むのは、やや年老いた銀髪の女だった。なぜこの女が自分の名前を知っているのか、と老騎士は疑問に思いながら誰何の声を弱々しく上げた。すると女は答えた。
「ごめんなさいね、あなたが持っていたこの手紙、本当はあなたより渡されてから、読むべきものだったのだろうけど。私の名が記されていたものだから……」
見ると彼女の手には、あの友から預かった手紙があった。
「するとお前がハンナか? 我が友、ゲイズの婚約者の?」
「……そうよ」
老騎士は思わず嘆息した。こんな形で、旅の終焉を迎えることになろうとは。しかも、手紙は何とか渡せたものの、肝心の髪飾りは彼女に手渡すことが叶わなかった。それが何より無念で、老騎士は、そのことをハンナに詫びた。するとハンナは、一瞬意外な顔をしたが、次の瞬間には表情を和らげ、老騎士の顔をそっと撫でながら言った。
「いいのよ、肝心の手紙を届けてくれたんだから。それに……ゲイズが届けたかったふたつのものは、私、確かに受け取ったから……」
「ふたつ……?」
「……それはおいおい話すとして……まだ傷が痛むでしょう、ヴォルフ。休みなさい、今は」
そう言うと、ハンナは小屋から静かに出て行った。波音だけが横たわった老騎士の耳に満ちる。それがなんとも心地よく、彼はその音に身体を優しく揺さぶられながら、再び眠りに落ちた。
老騎士の傷は、ゆるやかに癒えていった。彼は、起き上がれるようになると、薪を割ったり、渚にて海藻を集めたりと、ぼちぼちとハンナの仕事を手伝った。世話になっているのに、何もしないで居られないのは彼の性格であったが、それ以上に、ハンナと他愛のない話をしながらのその作業は、孤独な旅に耐えかねていた老騎士の心をやさしく労るものであったのだ。
いつしか彼はそんな日常に慣れていった。だが、慣れていきつつも、このままハンナに甘えていてはいけない、自分の新たな旅をまた探さねば、という相反した思いが、老騎士の胸の底に降り積もった。
……自分は、また旅立たねばはいけない。
しかし、彼は懊悩した。何故なら彼には、ひとつの旅を終えてしまった今、もう自らが何処に向かうべきか、分からないのだ。自分はこれから、どう生きるべきか、何処で死ぬべきか。彼にはそれがもう、見つからないのだった。
そんなある夜のことだった。老騎士は、夜半、なにか柔らかいものが自分の胸に触れた感触で目が覚めた。手を伸ばしてみれば、それはハンナのやわらかな頬であった。起き上がってみれば、寝間着を着たハンナが老騎士の上半身をそっと抱きしめていた。
「ハンナ……」
「……ヴォルフ、行ってしまわないでね、もうどこにも。あなたは、ゲイズが届けてくれた、大切な人なんだから……」
「……ゲイズが?」
するとハンナは、すっと老騎士の胸から身を離すと、一通の文を彼に差し出した。それは彼が長年肌身離さず、あの奪われた髪飾りとともに携えていた、友の手紙であった。老騎士は、はじめてその内容を、仄暗いカンテラのあかりのなか、目で追った。
そこにはこうあった。
「親愛なるハンナ。哀しいことだが、俺はもう、この決戦を超えて、君に逢えることはないと思っている。約束を守れなくてすまない、ハンナ。
だが、俺は君の身が心配でならない。このまま俺を想って、ひとり寂しくあの浜辺の家で一生を終えていく君の姿が目に浮かぶと、やりきれなくて溜らない。
だから、俺は、君に、勝手ながら、このひとりの男、友であるヴォルフを託す。
こいつは良い奴だ。剣の腕前もさることながら、心根は優しく、何より信頼に値する男だ。きっと彼なら、この戦を超えて、長い旅路の果て、大陸の果てに暮らす君の元に、辿り着いてくれることだろう。この手紙とともに。
そうしたら、どうか、彼と添い遂げてやってくれないか。
愛するハンナ。狂おしいほどに愛するハンナ。これが俺の最後の願いだ。どうか、幸せに生きてくれ。 ゲイズ」
……夜の小屋に波の音だけが響く。
手紙を読み終えた老騎士の目には、涙が滲んでいた。友から託された手紙がまさか、こんな中身であったとは。友が届けたかった真のものは、あの髪飾りではなく、この手紙であり、そして老騎士自身であったとは。彼は友の真意を察して、涙を零した。この手紙は、ハンナに宛てただけのものでなく、このまま故郷もなく、あてもなく旅をして死んで行くであろう老騎士の身をも案じてのものだと、悟らずに居られなかったからだ。
「……ゲイズ、お前って奴は……」
そう呟く老騎士の手を、そっとハンナが握った。
暫くの後、彼は、彼女の手を握り返した。そしてそっと、彼女の耳元で、囁いた。
「俺で良いのか? ……こんな老いぼれた俺で……?」
「はい、どうか、私を、あなたの旅の、終焉の地としてください……」
その答えを聞き、老騎士はハンナの身をそっと抱き寄せた。老騎士の身と心に柔らかで温かい、彼女の身体の熱が伝わってくる。
彼は幸福に目を閉じた。ひとりで死んでいくほかしかないと想っていた自分に、最後、まさか、こんな存在が、ぬくもりが遺されていたとは。思いもかけぬ喜びに打ち震える、ふたりの男女の背を、渚に広がる波の音が打つ。
やがて、朝陽の一閃が窓から差し込み、固く抱き合ったままのふたりを照らす。
いつもの一日が、しかし老騎士にとっては、生きるに値する新しい日々が、たしかに、静かに、始まろうとしていた。
旅の終焉、渚にて つるよしの @tsuru_yoshino
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