最終話 本物の青い鳥

微笑ましい気持ちのまま帰宅する。

 先に帰っていた祝子がテキストを広げていた。

 家事を終え、椅子に座ってテレビを付ける。

 祝子が黙って私の膝に乗ってきた。

 そのまま二人でテレビを見る。

 これでいい。

 これでいい。

 本当に、これでいい。

 

 間もなく祝子が成人式を迎える。振袖を買ってやりたいが、うちは狭くて着物を置く場所がないのでレンタルを申し込む。

 昔は羽振りが良く、三千万円以上の貯金があったが、小田原で暮らし始めてから、鴨宮のアパートを借りる資金や、稼ぎが少なくなったが為に、毎月の生活費が足りずに少しずつ切り崩し、まして祝子を宿してからしばらく働けず、足りない生活費を貯金で補い、その上、祝子の学費やら賠償金やら母の入院費やら施設費用やら、なんやらで段々なくなり、今は一千万円ほどに減っている。

 祝子に何かあった時の為に使いたいので、これ以上は切り崩したくない。一千万円あるだけでも良い方だろう。

 レンタルとはいえ、費用は高額だ。黙ってお金を払うのも愛情のうちだと思い、支払いを済ませる。最近着物のレンタルで当日借りられないという大きな事件があった。そんな事にならぬよう、事前に着物を受け取り、ヘアメイクや着付けも近所の美容院へ頼む。色々と手配をしながら、祝子の為に出来る事がまだある事を嬉しく思う。


 そして成人式当日、華やかな振袖をまとった祝子がまばゆいばかりに輝いている。

 娘盛りだ。かつて非行に走った子とは思えないほど清楚で、美しく、艶やかで、本当に見事な晴れ姿だ。

 憂いや脆さのかけらもない、堂々たる新成人がここにいる。

 ああ、私の代わりにこの子は振袖を着て式典に参加してくれているのだ。


 咲さん、昔あなたが私の成人式をやってくれた事を思い出すよ。あの時は本当に有難う。その後、恩を仇で返してしまい、ごめんなさい。

 あなたは今も、山梨で家族と幸せに暮らしていますか?

 坊やとお嬢ちゃんの成人式には、袴や振袖を着せてあげられましたか?

 ならば良いです、私も娘に振袖を着せる事が出来ました。お互い安心ですね。


 放置されて育った私が娘を放置せずにいられるのは、小学校で六年間担任を務めてくれた先生や、中学で出会った美術の先生、咲さんや江里子ママ、そして誠心誠意込めて接客した江里子組の常連さんたちが私に愛情を注いでくれたお陰かも知れませんね。皆さんに愛情をもらえたお陰で、たいせつな人に愛情を注げるようになりました。あの店で働いて本当に良かったです。


 写真館で記念撮影をしながら、頬が緩む。

 カメラマンを務めてくれたのは、実の父親だ。

 彼とは一年前から友達付き合いしている。祝子が仲を取り持ってくれた。彼は小田原のコンサート会場でカメラマンを務めた際に私たち親子を見かけていたそうだ。やはりあの時、コンサートへ行って良かったのだ。

「逃げて済まなかった、父親になる自信がなかった」

 と詫びてくれた。そして、

「よくひとりで産んでくれた、よく育ててくれた。大変だったろう。しかもこんな良い子によく育ててくれた。有難う。有難う」

 と感謝もしてくれた。感謝されたくて産んだ訳ではないが、そう言われて嬉しかった。

 そして祝子の父親として出来る事をしたいと申し出てくれ、カメラマンとしてプロの腕を精一杯ふるってくれた。

 彼は、二十年前のクリスマスプレゼントとしてペアで買った腕時計を今も付けてくれている。私は彼を思い出すようなものは取っておくまいと決意してすぐに捨てたが、彼はたいせつに取っておいてくれていたのだ。

「この腕時計は、あなたとの恋の、唯一の形見だから」

 そう言ってくれた。過去はどうでもいい。今幸せなのだから。

 友達と共同経営の会社も続いているという。本当に良かった。

 その上、私が退去した鴨宮のアパートを借り、今もひとりで暮らしているそうだ。

 いつか私が懐かしく思い、訪ねて来るかも知れないと一縷の望みを抱き、私がいつ来ても良いように表札に自分の名をフルネームで出し、待っていたそうだ。そんな、万にひとつもないような可能性に賭けなくてもいいのに。

 私は小田原に行った際に、懐かしくて会社には行ったが、アパートには行かなかった。ちらりと行ってみたい気もしたが…。

 あの時、もしアパートを訪ねていたらどうなっていたのか?それ以降、彼と二人で祝子を育てていたらどうなっていたのか?もしかして、祝子は非行に走らなかったかも知れない。補導歴も付かず、少年院に入る事もなく、普通の少女時代を送れたかも知れない。

 だが神様は、私を鴨宮には行かせなかった。そうしてくれて良かった。

 お陰で「物凄く鍛えられた」のだから。

 それこそ「普通の人が一生経験しないような事を経験出来た」のだから。

 それを「親子で乗り越えた」のだから。


 追い求めずとも、私は気づいたら幸せになれていた。

 青い鳥はいつの間にか私の人生に現れていてくれた。

 他人軸ではなく、自分軸で生きられるようになっていた。


 今日は天気も良いし、屋上なら安全だろう。母の車椅子を押して施設の屋上へ上り、大量の洗濯物がはためく中を散歩する。

 母は奥野木さんからおやつにもらったというお饅頭を手に持ったままだ。

「これが祝子の晴れ姿だよ」

 そう言って、成人式の写真を母に見せる。母が黙って見ている。孫という事が分からないのか?まあいい。写真をしまい、屋上をぐるぐるとまわる。風が心地良い。

「お母さん、公民館が見えるねえ」

 …母は黙っている。別の方角へ車椅子で移動し

「お母さん、新しい公園が出来たね」

 …やはり母は黙っている。聞いていないのか?どうでも良いのか?何の話題なら乗って来るのか?

 ふと思いついて聞いてみた。

「お母さん、お母さんのいちばん大事なものって、なあに?」

「…」

 母が何か声を発した。よく聞こえず前に回り込んでしゃがみ、目線を合わせた。

「え?なあに?」

 すると母が、しっかりと私と目を合わせてこう言った。

「みちる」

 びっくりした。私の名前さえ忘れているのかと思っていたので。

「本当?」

 と聞き返すと、真顔で何度も頷く。ヘルパーの奥野木さんとか何とか言うのかと思った。

「みちる、いちばん、だいじ」

 信じられなかった。八十二歳にして、突然正気に戻った母。

 急にお饅頭の包み紙を剥き、半分に割って大きい方を私にくれた。不意に私が幼い頃、おいしい御菓子を母がひとりで全部食べてしまい、せめて半分こだろうと不満だった事を思い出す。

「わたし、みちる、ひどい、そだてかた、した」

 半分のお饅頭を持ったまま、滂沱と涙を流す母。

 いいよ、お母さん、そんな事。私を産んでくれて、一応育ててくれたし、何年家を空けても引っ越しせずに待っていてくれたし、何度出戻っても受け入れてお帰りと言ってくれたし、誰の悪口も一言も言わなかったし、祝子の父親は誰かと一度も聞かないでいてくれたし、プライドを捨ててスーパーで働いてくれたし、文句ひとつ言わずに身重の私を養ってくれた。

「みちる、だいじ、みちる、いちばん、だいじ」

 懸命に言い続ける母。これだけは伝えなくてはとばかりに、しっかりと私を見て、それもたいせつな人を心から慈しむ眼差しで。

「みちる、うまれてくれて、ありがとう。ときこ、うんでくれて、もっと、ありがとう」

 それが最期の言葉になった。

 スッと息を引き取る母。

 人間死ぬ時は、本当に息を引き取るのだと実感した。

 ぼたりと落ちる半分のお饅頭が地面に転がる。


 温かな春の空の下、母が私の目の前で人生の幕を下ろした。

 その言葉を言う為に、退行しても、認知症を患っても、死なずに私を待っていてくれた。

 

 親に愛されずに育ったが為に、無条件に自分を愛してくれる子どもが欲しいと決意し、たった十六歳で私を産んだ。

 だがやはり愛し方が分からず、どう接して良いか分からず、放置してしまった。ただ、自分がされて嫌だった虐待はしないでいられた。

 根底では私に対し、申し訳ないと思いつつ、誰か自分を愛してくれと、泣き叫ぶような気持ちで男性を求め続けた。

 

 貫きたかった初恋を貫けず、無念な結果に打ちのめされた母。

 もしかして赤ん坊だった私を抱いて父に会いに行き、突っぱねられたのか?

 どんなに惨めだったか?

 どんなに心細かったか?

 どんなにさびしかったか?

 どんなに不安だったか?

 

 今更ながら、母が気の毒でたまらなくなる。


 父はその後どうしていたのか?

 母以外の誰かと結婚して家庭を持ったのか?

 子どもを持ったのか?

 時々は母と私を思い出してくれていたのか?

 

 母は奇跡のような人だった。

 自分を見捨てた父は勿論、助けてくれなかった自分の親の事さえ、一度も悪く言わなかった。

 母は祖父母をどう見送ったのだろう。

 介護したのか?分からない。何も言わない人だから。

 

 誰にどんな仕打ちをされても黙って耐える。

 母ほど心の広い、愛情に満ちた人がいるのか?

 

 晩年、かつての自分と同じ立場になった私を救う事で、人生をやり直そうと決断してくれた。

 それは、私をひとりで産もうと決めた時以上に大変な決意だった筈だ。

 還暦を過ぎ、体力も気力も振り絞った事だろう。

 入れ墨を隠してスーパーで働き、薄給ながらも精一杯守ってくれた。

 

 母にとって私こそが青い鳥だったのだろう。

 私に奇跡を見ていたのだろう。

 私も母に奇跡を見た。

 

 お互いに、お互いこそが、無条件に愛せる相手であり、奇跡の人だった。


 そして、私の前で更なる奇跡が起こった。

 母の死に顔がみるみるうちに若返っていったのだ。

 確か還暦の頃、こんな顔だった。

 五十代はこんな顔をしていた。

 四十代はこんな顔だった。

 三十代はこうだった。

 私が小学生の頃、つまり二十代はこういう顔だった。

 そして、まるで十代の少女のような顔になった所で止まった。

 私は職員を呼ぶ事もなく、ただ母を見ていた。


 山路栄子(やまじえいこ)、享年八十二歳。

 少女のように頬をバラ色に染め、車椅子でただ眠っているような面持ちの母。

 

 ああお母さん、やっと本物の親子になれたね。

 嬉しいよ、本当に嬉しいよ。

 これからお茶を飲みながらトランプでもしようか?

 それともシュークリーム食べながら恋バナしようか?

 

 お母さん、お母さん、私のお母さん、

 お母さん、お母さん、美知留のお母さん、

 

 今からでも甘えていい?

 今からでも美知留の頭を撫でてくれる?

 今からでも美知留を抱っこしてくれる?

 今からでも美知留を膝に乗せてくれる?


 私もいずれそっちにいくから、そうしたらずっと一緒に居よう。

 向こうにも温泉とか遊園地あるかな?

 観光旅行とか出来るかな?

 こっちであまり一緒に過ごせなかった分も、ずっとずっと一緒に居よう。

 こっちで出来なかった事を、向こうでたくさんしよう。

 こっちで出来なかったお話を、たくさんしよう。

 

 お母さん、たくさんお話しよう。


 もっとずっと先の話、祝子も来たら三人で過ごせるね。

 母と娘の両方から支えて貰っている自分を想像して頬が緩む。


 ああ神様、この母のもとに生まれさせてくれて本当に有難うございました。

 こんなに感動する瞬間の為、今この時の為に、これまでがあったのですね。

 今、人生のピントが、ドンピシャリと合いました。

 今、愛されていると、しっかり実感しています。


 青い鳥は、坂戸にいたんですね。

 随分と、あちこち探したんですけど。

 本物の青い鳥は、この母だったんですね。


 お母さん、もっと生きていて欲しかった。

 お母さん、もっと会話がしたかった。

 もっとお母さんの話を聴きたかった。

 もっと美知留の話を聴いて欲しかった。

 お母さん、まだ逝かないで欲しかった。


 ああママ、逝かないで。


 けれど、いちばん大事な言葉を言ってくれたからこそ逝ったんだね。

 

 お母さん、どうしたい?

 美知留と何したい?

 ミュージカル、観に行く?

 陶芸やる?

 テニスする?

 一緒にやろう。

 一緒に色々な事しよう。


 お母さん、今からでもそうしよう。

 ね、お母さん。


 ねえ?

 お母さん。




      ★




     エピローグ




 ああ天国って案外こういう場所だったのかも知れない。

 もっとお花畑のような所かと思っていたけど。

 様々な国籍の人が自由に穏やかに好きなように過ごしている。

 みんな若くて、みんな仲が良くて、穏やかで、争いなんてみじんもない。

 大きな崖の中央に巨大なスクリーンがはめ込まれていて、映画が上映されている。

 本当にここは天国なのか?

 新参者の私は勝手がよく分からないでいる。


 あ、あれは私のお母さん。

 お母さんが普通の化粧をして、普通の格好をして、真面目に働いている。

 あれは天国から現世に降りて行く滑り台のようなものでしょうか。

 生まれ変わる予定の人が、談笑しながらたくさん並んでいますね。

 ここでじゅうぶん休んで、新たな使命を果たす為に現世に生まれ変わるのでしょうね。

 お母さんが真剣な顔で、あなたはこの滑り台、あなたはこっち、と案内しています。

 ああ、お母さん、ホステスより、そういう仕事の方がずっと合っていますよ。

 まあ、お母さんったら、こっちに来てからずっとそういう仕事していたんですね。

 やりがいもありそうだし、良かったですねえ。


 …あれ?向こうから歩いてくる男の人、初めて会うのに、顔が私に似ている人ですね。

 私の前で立ち止まってニコニコしている。

 …ん?もしかしてあなたは私のお父さんですか?

 あ、本当にお父さん?

 まあ、初めまして。山路美知留と言います。本当に初めまして、ですね。

 わざわざ会いに来てくれたんですか?有難うございます。

 現世ではともかく、こちらでは親子三人で過ごせるんですね。

 嬉しいです。本当に。

 お父さんって呼んでも良いですか?

 どうぞ私の事は、美知留って呼んで下さいな。

 いえいえ、ちゃん付けなんてしなくていいですよ。

 

 そう言えばお父さん、お母さんと別れた後、どうしていたんですか?

 あ、結婚はせずに独身を貫いたんですか。

 まあ、誰かと結婚して家庭を持ったのかと思っていました。

 あら、だったら母に逢いに来てくれれば良かったのに。

 え、逢わす顔がなかった?

 まあ気持ちは分からなくもないけど、母はきっとお父さんを待っていたんですよ。

 私もお父さんに逢いたかったし。

 私は二人に育てられたかったんですよ。

 

 所で、お父さん仕事は何をしていたんですか?

 あ、高校を卒業後、色々な職業を転々としていたんですね。

 ああだから収入面で自信がなくて、母を迎えに来られなかったっていうのもあるんですね。まあ、それはそれで大変でしたねえ。

 晩年は?

 へえ、スーパー勤務でしたか?

 あれ、母も晩年はスーパーで働いていましたよ。

 あらあ、同じ選択をするとは、ぎりぎり気が合っていますね。

 

 住まいはどこだったんですか?

 へえ鶴ケ島にいたんですか。

 あら、坂戸と凄く近いじゃないですか。

 あ、だから母は坂戸にアパートを借りたんですね。

 謎が解けたような気持ちです。

 やっぱり母は、お父さんがずっと好きで、お父さんの近くに居たくて、お父さんに迎えに来て欲しかったんですよ。

 

 そうそう、私の娘の父親も、妊娠した私を置いて逃げてしまいました。

 お父さん、あなたと一緒ですね。あはははは。いえ、良いんですよ。

 母に私の命を授けてくれたのですから。あなたのお陰で私は生まれたのですから。

 私は決して若気の至りの子ではなく、きちんと使命があって生まれました。

 その彼にしても、私に最高の娘を授けてくれた訳ですから良かったんですよ。

 私と娘のその後を心配してくれて会いに来てくれたし。

 親子二代で同じ経験した訳ですね。

 いえ、お父さんが私と母に会いに来なかった事をどうこう言うつもりはありませんよ。

 仕方なかったのだから。

 

 ただ、私は母のように娘を育てないで済んだのですから、幸運でした。

 母も協力してくれましたし、思いがけないくらい良い子に育ってくれました。

 名前?祝う子って書いて、ときこと言います。祝子も今はお母さんです。

 坂戸に大きな家を建てて、家族で仲良く暮らしていますよ。

 成人式も、結婚式も、坂戸で行ないました。

 カメラマンは実の父親である彼が務めてくれたんですよ。良いお式になりました。

 旦那さんも優しくて穏やかでしっかりしていて、安心して祝子を任せられる人なんです。

 祝子の青い鳥も坂戸にいたみたいで、本当に良かったです。

 仕事?はい、旦那さんと一緒にイタリアンレストランを経営しています。

 自分の店を持つって夢を叶えたんですよ。凄いでしょう?

 一階部分が店舗で、二階と三階が住居になっています。旦那さん本人と、親御さんが七百万円ずつ出してくれて、祝子自身も三百万円くらい貯めていたし、私にも一千万円の貯金があったので、開業資金に使ってもらいました。まだ祝子の為に出来る事があって良かったです。

 坂戸が好きなんでしょうね。祖母の代から暮らしているし、愛着もあるんでしょう。

 

 そうそう、この家に関して凄いサプライズがあったんですよ。

 完成した時に、祝子と旦那さんが見に来てくれって誘ってくれて、ウキウキと行ったんです。

 駅から近いし、陽当たりは良いし、立地も良いし、店も明るくて綺麗だし、二階にあるリビングも広いし、水回りも清潔だし、収納も豊富だし、広い庭まであるし、動線もよく考えて設計してあるし、三階にある部屋数も多いし、なかなか好物件だと感心していたら、三階の東南角部屋の可愛らしい洋室に来た時に、旦那さんがこう言ったんです。

「この部屋、誰の部屋だと思います?」

「さあ、孫たちの誰かの部屋でしょう?」

 って答えた所、

「ここは、お義母さんの部屋です。ここで僕たちと暮らして下さい」

 って言ってくれたんです。

「本当に良いの?」

 って聞いたら

「勿論」

 って、笑顔爛漫で頷いてくれて、あんまり幸せで涙ぐみましたよ。

 後で祝子に聞いたら

「設計の段階でお義母さんの部屋も作ろう。一千万円も出してくれたんだから、勿論同居して貰うんだよって、パパが自分から言ってくれた」

 って、祝子も涙ぐみながら話してくれたんです。

 長年暮らしたアパートが、もう築年数いき過ぎてボロボロで、とても住めない状態で困っていた所だったので、本当に助かりました。

 今どき同居してくれるなんて、こんな有難いお婿さん、滅多にいませんよ。

 誰も嫌な顔ひとつせずに私と仲良く暮らしてくれました。

 みんなが私を大事にしてくれました。

 だから私も、家事や育児や店の手伝いを精一杯したんです。

 あの大きな家で暮らせた日々は、私の人生でいちばん幸せな、最高の時間になりました。

 

 孫?三つ子の女の子です。可愛い子たちですよ。今年二十四歳です。

 孫たちの成人式の時も彼がカメラマンを務めてくれました。彼にも感謝するばかりです。

 色々な人のお陰で、本当に良い子たちに育ちました。

 名前?はい、それが凄いんですよ。

 長女が美砂栄(みさえ)、砂の数ほどの美しさと幸運を持ち、栄える人生って、願いがこもっています。

 次女が知寿栄(ちずえ)、知識と寿、つまり幸福に満たされながら栄える人生って、願いがこめられています。

 三女が留里栄(るりえ)、里、つまり家族に恵まれ、その幸せを留めながら栄える人生って、願いがあります。

 お父さんお気づきでしょうか?私の美知留って名前を一文字ずつ孫の名前に付けてくれたんです。そして母の名前である栄子の栄でおさめることによって、家族全員の愛情を限りなく注ぐって決意を表しているんです。

 母も私に美知留って付ける時に、孫の事まで考えなかったでしょうけど。

 ただもしかして、青い鳥を見つけて幸せになって欲しいって願いがこもっていたのかも知れないし、名前がその子の人生に与える影響は全体の一パーセントと言いますから、一パーセントもあるなら良い名前を付けたいと思ってくれたのかも知れませね。美知留って名前は、母から私への最高のプレゼントでした。

 

 そうそう、祝子は旦那さんの福光(ふくみつ)姓を名乗っています。夫婦別姓にこだわる人もいるけれど、祝子は自分も子どもたちも福光を名乗る事で、家族がひとつになる事を願ったんです。良い子でしょう?

 あなたの孫は、初恋を貫いたんですよ。健気でしょう?

 母が貫けなかったお父さんへの初恋を、孫である祝子が代わりに貫いたんです。

 

 もうひとつ、お店の名前がブルーバードって言います。店先に青い鳥のオブジェが飾ってありますし、店内の壁紙にも、テーブルクロスにも、食器にも青い鳥があしらわれているし、常連さんも多いし、結婚パーティーで使われる事もあるし、雑誌に載った事もあるし、なかなか繁盛しています。夫婦で本当に頑張っているんですよ。凄いでしょう?立派でしょう?

 お店に何回か、私が昔とてもお世話になった江里子ママという人が、お客さんとして娘さんと一緒に来てくれました。江里子ママは、バブル経済の崩壊で自分の店が閉店になった後、第二の人生として、少年院で配膳の仕事をしながら、非行に走った若者の立ち直りを支援する活動をしていたんです。祝子が私の娘と知って、目をかけてよく面倒を見てくれました。出所後も何かと気を配って、応援してくれました。祝子も江里子ママに懐いて、第二のお母さんって呼んでいたんですよ。勿論、第一の母は私ですけどね。江里子ママの娘さんは、江里子ママと一緒に少年院で働きながら、会えなかった十年以上の時間を埋めるように親子で寄り添って生きていました。まるで私と栄子お母さんのように。

 ブルーバードには、私と祝子の恩師である小学校の教頭先生も、中学校の校長先生もよく家族連れで来てくれました。私も祝子も、色々な人のお陰で本当に良い人生を送れたんです。

 

 美砂栄は中学校の先生になりました。何と美術担当で、しかも私と祝子の母校で働いています。本人も絵が好きで、コンクールで入賞した事もあるんですよ。凄いでしょう?

 知寿栄は小学校の先生です。知寿栄も私と祝子の母校で働いていて、家庭に問題がある児童の面倒をよく見ています。運動会のたびにお弁当を作ってあげて、他の子に苛められたりしないよう、教室で一緒に「笑顔で」食べているんですよ。優しいでしょう?

 留里栄は市役所勤務です。婚姻届けや出生届を受け付ける係員をしていて、届けに来てくれた人に、おめでとうございますって言うのが楽しみだそうです。素敵でしょう?

 本当に良い子たちでしょう?三人とも大学を卒業して、堅実な道を選んでくれて、感謝しています。

 祝子が忙しいながらも一生懸命育ててくれて、母と私が二代続けてしまった水商売の連鎖を断ち切ってくれたんです。三人同時に愛情を注ぎ、三人同時に勉強を教え、店もあるし、家事もあるし、なかなか大変そうでしたけど、本当に頑張ってくれました。こんな良い娘が他にいますか?

 祝子は小さい頃に甘え足りなかったのか、十九歳まで私の膝に乗るような子でしたが、成人式を迎えてからはそういう事はしなくなって、色々な事をしっかりとこなしていくようになってくれました。

 結婚を決めてからも、旦那さんは勿論、あちらのご両親も大事にして、こんな良いお嫁さんはいないって可愛がってもらっていましたよ。誰ひとりとして、祝子が昔、事件を起こした事をとやかく言う人はいませんでした。周りのみんなが祝子を支援し、応援し、擁護してくれたんです。祝子も奇跡のような人生でした。

 毎年私の誕生日には、旦那さんと一緒に大きなホールケーキを手作りしてくれて、「たいせつなお母さん」ってチョコレートプレートに書いてくれたり、私が老衰して動けなくなり、老人ホームに入ってからもよく面会に来てくれて、

「何度生まれ変わっても必ずお母さんを母親に選ぶ」

 と言ってくれた事もありました。

 本当に心が温かくなる、幸せな思い出をたくさん作ってくれたんです。誕生日だけでなく、クリスマスも雛祭りもバレンタインも、必ず手作りのケーキを作ってくれました。私、行事ごとが昔は嫌いでしたが、祝子のお陰で大好きになれました。

 祝子がまだ私のお腹にいた頃、女の子という事が分かった際に母が

「良かったね、三人分、雛祭りだ」

 と言っていたのですが、三人どころか、五人分も雛祭りになりました。

 

 祝子は保育園の卒園式で

「私は大きくなったら、お母さんを助ける人になります」

 と宣言してくれたのですが、それを実行してくれたんです。

 また、私の友達の結婚式で

「私もお母さんを支えるからね」 

 と言ってくれた事もありました。

 晩年、家事や育児、店の手伝いを出来なくなった私を、それでも

「親なんだから、重くても何でも支える。支えてなんぼだ」

 と言ってくれた事もありました。

 宣言通り何度も支えてくれ、たくさんの気付きを与えてくれ、先生のように学ばせてくれ、溢れるほどの幸せをもたらしてくれました。

「お話しよう」

 そう言って、何度も私と会話をしてくれました。私は母とはあまり会話がなく育ったのですが、娘とは本当にたくさん会話が出来ました。

 人と会話がしたいという幼い頃からの願いを、誰よりも祝子が叶えてくれたんです。

「私、お母さんに育てられて良かった」

 とも、私がこちらに来る寸前に

「ママ、逝かないで」

 とも、言ってくれました。

 そうそう、私の最期の言葉は

「ときこ、うまれてくれて、ありがとう。みさえ、ちずえ、るりえ、うんでくれて、もっと、ありがとう」

 になりました。息が苦しくてやっと言いました。

 それで息を引き取ってこちらに来ましたよ。

 

 私は高校は中退したし、馬鹿な事もしましたが、それでも本当に学びの多い、かけがえのない、有り難くて尊い九十三年の人生を送れました。しわくちゃのお婆さんになっても、それでも晩年の方が幸せでした。若さや美しさを失えば失うほど、老いれば老いるほど幸せだと実感していました。

 

 生まれ変わっても、また自分になりたいです。

 生まれ変わっても、また母と祝子と家族になりたいです。

 その時はお父さんも是非一緒に、家族になりましょう。


 …現世でどんな事があったか、もっとお話ししましょうか?

 そうですね、時間はたくさんありそうですし…。


 お父さん、

 あのね…。

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ママ、いかないで。 おもながゆりこ @omonaga

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