レースのゴール
ぎざ
一階の部屋に住んでいたことがありました。
五十年も前に建てられたそのボロボロのアパートで、壁もたたみの下も、すきま風が吹いて、換気という観点でみたら素晴らしい物件でした。セキュリティという観点でみたら潔い物件ではありましたが。というのも、窓やたたみの下から友人がたまに遊びに来ることがあったからです。たたみの下から来てくれたのはモグラ君だけでしたが、窓からはたまに二階に住んでいた先輩が遊びに来てくれました。
窓から入ってきた桜の花びらを見て、桜が満開なことに今までどうして目に止まらなかったのだろうと思いました。桜だって、いきなり突然満開になることは無いというのに。心の余裕が無いから、咲いた桜に気づかないんだ。そう先輩はよく言っていましたから、桜の花が咲いているこの時期になると、先輩のことを思い出します。僕がまだ一階に住んでいて、ちょうど『夢工学』の課題に取り組んでいた頃の話。先輩もまた、僕が勧めた『夢工学』の課題に苦しんでいたようでした。
◆
この手紙を読む頃には俺はもう二階にはいないことと思う。さよならは言わない。旅立ちとはそういうものだ。
俺は二階が好きだった。まず景色がいい。一階よりも家賃が安い。冬の寒い時期は階段を昇り降りしているだけで暖まるし、夏の暑い時期はお前の部屋に厄介になれば冷たい地べたに横になれる。良いとこ取りだ。
実は、技術学校の学生だった俺には、後輩と呼べる存在はお前だけだった。俺はサークルにも所属せずに、日々自堕落に生きていた。卒業して、なんとなく会社に勤め、なんとなく美女と出会い、そう、毎日家の前を通るあのキレイな娘さんのような。結婚して、幸せな家庭を築く。結婚式は呼んでやろう。盛大に咽び泣け。俺のような偉大な先輩の後輩になれたことに誇りを持て!
というようなことを考えていた。いや、実は何も考えていなかった。考える時間は無限にあったというのに、俺は何も考えずに技術学校の卒業を迎えてしまったのだ。
卒業の単位は足りていた。しかし、最後にお前がどうしても取れないと嘆いていた『夢工学』の授業が気になった俺は、お前に隠れて俺もその授業を取っていた。
工学科の授業は幅広い。工学とは、数学と自然科学を基礎とし、安全で快適な環境を構築することを目的とする学問だ。人間のみならず、ありとあらゆる生き物の快適性の追求は果てが無い。
夢工学は、その工学の中でもとりわけ「可能性」という範囲が大きい。実現できるか否かは問わないからだ。ブレーンストーミングのような自由性、奇抜な案を歓迎する。実現できるか否かという現実性よりも、工学の「本来の目的」を重要視した学問だ。目的を見失ってはいけない。俺はこの点に感銘を受けたものだ。
一転、この学問の難しいところは、「明確な
とまぁ、俺の中で「夢工学」のテスト対策はあらかじめ済んではいたのだが、窓からの闖入者からの緊急クエストに俺はテスト対策どころではなくなってしまったのだ。
「もしもしだんなさん」
「だれだ」
「私はウサギです」
夢工学を取るときに、一緒に選択した方が良いですよとお前が言っていたあの授業のおかげで彼女の声を聞き洩らさずに済んだ。
「実はお願いがあってきました。ここには優しい人が済んでいるとモグラ君に聞いていたのです」
優しい人というのは後輩、お前のことだろうとアタリはついていたが、お前は既にモグラの課題とテスト勉強で忙しいと知っていた。俺はウサギ嬢の話を聞いてやることにした。
「実は、今度友達のカメ君とレースをするのですが……」
「絶対に勝ちたい、と?」
「いえ、カメ君にレースを楽しんでもらいたいのです。この私に勝つために、必死にトレーニングをしている彼を見ると、応援したい気持ちと同じくらい、見ていて辛く悲しくなります。もっと彼にはレースを楽しんでほしいのです」
「それで、俺には何ができるんだ?」
「私が聞きたいのです。私には何ができるでしょうか」
課題が広く、答えが無い。現実のように難解で、夢のような依頼が来た。
レースのコースを変更はできないか? カメにスピードを底上げするパワードスーツを考えたが、それを彼は着てくれるだろうか。勝つか負けるか。早いか遅いか。求める者が「楽しませたい」ということなら、俺にできることは、まずは彼らを知ることからである。
その後、ウサギからウサギの手足の動きを工学に応用したウサギ工学、カメの手足の動きを工学に応用したカメ工学、レースのコースは看板を立てた簡単なもので、周回コースではないだとか、ウサギ嬢とカメ君との出会い、いつも何をして遊んでいるか、どうしてレースするに至ったのか。カメの足の速さ。ウサギの足の速さ。体力。坂道の多さ。当日の天気予報。地形。最近あった楽しかったこと。最近あった悲しかったこと。などを聞いた。たっぷり2時間ほど聞いただろうか。ウサギ嬢の口から語られたカメ君はとてもイケメンで、勇敢だった。
「それではよろしくおねがいします」
ウサギ嬢は窓からぴょんっと降りていった。今度からは玄関のドアを開けておこう。どうせセキュリティ的にはカギなどあってないようなものだからだ。
それから、俺は「夢工学」のテスト勉強をそっちのけで、ウサギとカメのことばかり考えていた。たまに食堂でお前を見たが、ずっとぶつぶつと何かを呟いていたな。よくよく聞いてみると、あれはモグラ語で「クッサクギジュツのカイハツ」と呟いていたようだ。俺はそっとしておくことにした。
俺は三日後に再びやってきたウサギに、三日三晩適度に寝て考えた作戦を伝えて、依頼を完了とした。ウサギは「これで大丈夫かなぁ」と首をかしげていたが、俺は大丈夫だ、と太鼓判を押した。やってみなければわからないが、自信だけはあった。
俺は、ウサギにレースでカメを先導しろと伝えた。レースのコースを事前に変えることができないのなら、当日にコースを変えてしまえと言ったのだ。「ゴールはこっち」の看板の向きを変えて、ウサギとカメの思い出の場所をぐるぐると回っていけと伝えた。にんじんばたけでカメに助けてもらったこと。飛び石の川でカメに助けてもらったこと。大きな声の森でカメに助けてもらったこと。メロンパン山でカメに助けてもらったこと。
助けてもらってばっかだな!! ウサギの話を聞いていると、今回のレースの本来の
俺は、レースをデートというコースに変えたのだ。
出来レースだったわけだ。
ゴホン。
ともあれ、あれからウサギ嬢は数回、カメとのデートののろけ話を話しに来た時以来、あまりこちらには来なくなった。二人でいる時間が大切なのだろうと俺は判断した。ニンジンのたねが窓のサッシに三粒挟まっていた。関係ないが、ウサギがニンジンが好きなのは本当だったんだな。
夢工学のこの間のテストはどうだった? 俺は散々だったよ。夢工学のテストそっちのけで、俺は夢工学の無限の可能性に気付いてしまったからだ。
「本来の目的」を追い続ける。その課題に、答えを出す必要はないんだ。答えは新たな目的に繋がる。学問には答えがつきものだ。現実にも答えを求められる時があるように思える。だが、答えはゴールだが、新たなスタートでもある。夢工学のテストの答えを書いたら、その答えに新たな疑問がわいてきて、答案への回答を書き終わらなくなってしまった。いつまで経っても書き終わらない。俺は答案を未完で提出せざるを得なかったんだ。
結果は点数をつけられないと言われたよ。単位は取れなかったが、卒業はできた。心配するな。卒業はしたんだぜ、これでも。そして、俺は旅に出ることにした。俺は俺の夢工学を追い求めることにする。この学問には果てが無い。ゴールが無い。だからこそ素晴らしい。素晴らしい授業を教えてくれてありがとう。
俺の
にんじんのたねをひとつぶ分けてやろう。同封した。受け取ってくれ。
あと、あのキレイな娘さんによろしく言っておいてくれ。敬具。
◆
ふふっ。思い出すなぁ。あの頃のことを。
心の余裕が無い時は、空を見上げても何も見えない。下を見ていても何も見えない。だから桜を見逃すんだと、先輩は言っていました。
どうしてですか? 僕は足元を見ていただけですと言ったら、
「上を見上げれば桜が見えるし、足元を見れば桜の花びらが落ちているのが見えるだろう。それすらも見えないから、余裕がないんだって言っているんだ」そう小突かれたものです。
深呼吸して周りを見渡せば、いろんな物語が見えてくる。桜、風、空、雲、光、笑顔。にんじんのたね。ふふっ。キレイな石が、僕の机の上で転がった。光を反射して、空の色が見えました。
先輩はどこで何しているだろうか、と僕はまったく心配に思いませんでした。先輩は、先輩だから。きっと楽しくやっているだろうから。
一階の部屋は、地面にも、空にも、どこにだって繋がっていました。窓から床下から、風も友人も先輩だってやってきたものです。
僕は今、遠くの街に引っ越しました。相変わらず貧乏ですが、気楽です。
窓の外を通っていたあの娘さんは元気でやっているでしょうか。
あのなつかしい一階の部屋は、だれかの夢を繋いでくれているのでしょうか。
(おわり)
レースのゴール ぎざ @gizazig
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