長く暗いトンネルの入り口

クロロニー

長く暗いトンネルの入り口

 幼い陽太を連れて実家に逃げ帰ったら父も母も意外と歓迎の雰囲気で「ゆっくりしていきなさい」なんて言うもんだから「お言葉に甘えさせてもらうよ」とか言ってみるけど今のご時勢仕事はもちろんリモートなので滞在している間にも着々とタスクはこなしていく。かたや父も母も陽太が生き甲斐と言わんばかりにかつてないほどの世話焼き具合を見せており、溜め込んでいた色んなお菓子やおもちゃを次から次へと持ってくるし、陽太がかくれんぼやらキャッチボールをやりたがると二人揃って延々と相手している。普段はお互いに仲の悪い父と母だが間に陽太を挟むと途端にニコニコとしだすものだから随分と丸くなったなと思うし、少しだけ陽太に嫉妬する。陽太も満更ではないようで家に居る時よりもよく笑顔を見せるし、これが本当の家族の姿だったらどれだけ幸せだったかと思うも実際に陽太の母は加奈で父は僕なのだから今のこの形も所詮仮初めの形だ。だけど夜になっていざ寝かしつける時に母が「これからばぁばと暮らしましょうね~」なんて陽太に言ってしまって「加奈が可哀想だろ」と窘めようとしたが「可哀想なのは陽太くんの方でしょ!」と言い返されて咄嗟に言葉が出てこなかった。でもそれは納得したからではなくてどっちとも言えないからだ。

 確かに加奈はスマホ依存になって育児放棄したしそれだけ見れば加奈は悪い母親だったかもしれないが、それでも最初からそうだったというわけではなかったしむしろ生まれたばかりの頃は僕よりも育児に積極的で、それを見て「僕もあまり仕事ばかりにかまけてられないな」と父親であることを自覚するようになったのだ。ただ僕の育児方針は寛容的で加奈の育児方針は教育的だった。すると陽太は僕に懐いてしまって代わりに加奈には全然寄り付かなくなってしまった。加奈が陽太に少しでも触ると蹴る泣く物を投げるといった行動を示すようになり、言葉を覚えてからは「イヤ!イヤ!」と叫ぶようになった。僕があやすと途端に落ち着いてしまうのも加奈にとってはよくなかった。陽太が公共の場で泣いた時も加奈は全く落ち着かせることが出来ず僕が電話越しにあやすなんてこともあったが、電話を切る時に加奈は「ごめんなさい」とまるで叱られた女の子のように消え入りそうな声で呟くのだった。そんな生活が何十日も何百日も続くものだから加奈は日に日に憔悴していった。スマホも最初は育児に関する情報を集めるための活用だった。それがいつの間にか加奈の依存先になってしまっていた。陽太を連れて実家に帰ってきたのは陽太のためというよりは加奈のためという意味合いの方が強かった。ほとぼりを冷まし、陽太の加奈に対する恐怖を和らげるため。加奈にはそれが伝わっているだろうかと不安になるけど、家族なのだ、今は信じるしかない。

 深夜になって母も父も眠りについた頃にヴーヴーとスマホが振動してディスプレイに加奈からの着信が表示される。僕は誰も起こさないようにこっそり家を出てそのまま坂の下の自販機の前まで歩いてこうとしたが途中でスンっとスマホが振動をやめてしまったのですぐにかけ直す。「なに?」「なにってそっちこそどうしたの」「どうしたのってあんたが置いてったくせに」それとこれとは別の話だが、困ったことに二つは密接に関係しているのだ。「そうじゃなくて何か言いたいことあって電話してきたんでしょってこと」「なに? 謝れって言いたいわけ?」「そうじゃなくて……」いや、もしかするとそうだったのかもしれない。僕は過去をチャラに出来るような一言が欲しくて、でもそれは僕から言い出すと永遠に失われてしまうから口では否定しているだけなのかもしれない。「そうじゃなくって、陽太の前では話せなかったこととかあるんじゃないのかなって。こう、自分の気持ち的な」「惨めさとか、孤独感とか、そうやって自覚してもっと惨めな思いをすればいいって思ってるんでしょ。そうだよね? そうじゃなかったら一旦家に帰って話を聞こうってなるはずだもんね?」今の加奈は疑心が疑心を呼んでいる状態だ。相手をテストしてテストしてテストして、不合格なのは全部不勉強ゆえだと確信しているような、ある種の傲慢さに基づいた疑心。「わかった。明日朝一で帰るよ」「いや、もういいよ。もう陽太もあんたも嫌いだから」「そういうわけにはいかないだろ。家族なんだから」「陽太の帰るべき家はここだもんね、いいよ私出ていくから」「今から帰るから待ってろ」そう言って通話を切り、それから僕はガレージ代わりに使っている祖父の家に向かうためトンネルに入る。実家から祖父の家に向かうには丘に開通しているこのトンネルを通るしかないのだが、昼間は通り慣れているこのトンネルも夜に通るのは随分と久しぶりのことだった。あの時のことを僕はふと思い出す。

 20年前、小学1年生になったばかりの僕は祖父に誘拐された。当時は父と母の仲が最も悪い時期で毎日のように言い争いをしてお互いに暴言を吐きまくっていたのだが、特に僕のことになるとその暴言は苛烈さを極めどっちも一歩も引かないであわや暴力沙汰に発展しそうな雰囲気を醸し出した挙句どっちが悪いかの判定を僕にさせようとしたりしていた。そんなんだから僕は父も母も嫌いだったけど別に二人は僕に対して怒ったりはしなかったしだからこそ僕自身割とどうでもよくて毎日嵐がやってきてるくらいの感覚だったしそういうのは大体ゲームをしていればすぐに過ぎ去った。当時はモンスターを倒して世界を救うRPGゲームにハマっていて、欲しいソフトを父にねだったら何でも買ってもらえていたのだ。

 家が近い父方の祖父は毎週土曜日に僕の様子を見に来ては少しおしゃべりをしてお小遣いをあげて帰っていく得体の知れない人って感じで、それが祖父だと知ったのは何度かお小遣いをもらった後だった。誘拐されるその日まで僕はずっと祖父のことを優しい人だと思っていたし、でもおしゃべりするよりはゲームの方が楽しいからその日も祖父の前で思いっきりゲームしていたら何を思ったのかいきなり僕を抱えて家を飛び出して車の助手席に座らせると急いで車を発進させた。よぼよぼのように見えていた祖父の力が思いの外強くて、抵抗するという考えが及ばないほどあっという間に連れ去られてしまった。祖父は僕が居なくなれば二人が自分たちの愚かさに気が付いて反省すると思っていたらしい。きっと祖父は本当に優しくてゲームしか出来ない僕を憐れんでいたのだろうし、一方で自分の正義を盲信出来るほど想像力の乏しい人だったのだ。正直な話、僕はほっといて欲しかった。何か刺激を与えることで二人の矛先が自分に向いてしまうことの方が怖かった。「別にいいよ、帰ろうよ」家に連れ込まれた後も泣きながら、あるいは怒りながらそう言い続けたのだが祖父は「これはお前のためなんだ」と言って取り合ってくれない。祖父の前で泣いたのはこれが初めてのことだった。僕の意思なんてこれっぽっちも尊重されなかった。優しかったはずの祖父が、優しくしてくれているのにそれが恐ろしかった。そして泣き疲れたのかいつの間にか眠っていて起きたら夜になっていた。日常が壊れたことを確信して血の気が引いた僕は今すぐに帰ろうと思った。玄関で靴を履く僕を祖父は引き止めなかった。「そこのトンネル抜けたら帰れる」と言うのを聞くや否やすぐに飛び出して坂道を走っていった。辺りは真っ暗だったけど大体の輪郭は見えていたからそれほど怖くはなかった。だがトンネルはそうもいかなかった。暗闇の中に一際黒い暗闇がトンネルの中に広がっていたのだ。トンネルからは聞いたことのない音がぐわんぐわん響いていたし、ありとあらゆる魔物が待ち構えているような気がしてならなかった。振り返ると祖父の家まで薄明るい道が続いていて引き返したくなった。でもあの家に引き返すわけにはいかなかった。僕は勇気を振り絞るために叫びながらトンネルの中へと走り出した。ゴールは全然見えてこなかった。自分の叫び声が四方八方から聞こえてきて、それがとても恐ろしくて足が震えてしまってうまく走れなくなって、でも途中まで進んだ以上更に進むしかなくてよろよろになりながら出口を目指して進み続けた。そうやって抜けた先は暗いけどどこか見覚えのある場所で、街灯のおかげでちょっと光輝いて見えたのを覚えている。

 そして今、同じように僕はトンネルを走り抜ける。トンネルはあの頃に比べたらとても短く感じたし、逆側から走っているからか抜けた先の景色はあの時ほど明るく思えなかった。そもそも僕はこのまま加奈と会って何の話をすればいいのかわからなくなっていた。車にキーを差し込みエンジンを回しながら、「加奈のいる家族」という形に拘る必要があるのかと胸に問いかける。本当は臆病になってしまっていたんじゃないか? 子供の「蔑ろにされた」という記憶は中々消えないことを僕は知っている。加奈も陽太のことを許すつもりがなくて、きっともう普通の「家族」という形には戻れない。なのに僕はまだ元に戻そうとしている。二人とも大切な家族だから。家族が欠けた未来を突き進む自信がないのだ。だから一縷の望みに縋ろうとしている。だが僕は自覚しなくてはならない。今トンネルの入り口に立ったのだと。あの頃とは逆側の入り口に立っているけれど、決断しなければならないことは同じだ。一歩足を踏み入れてそのまま最後まで突き進むか、それとも引き返すか。

 あの頃は長く感じたトンネルを今度は車で駆け抜けた。もう決断する時間すら与えてはくれなかった。

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