希死念慮と死神
佐倉伸哉
本編
疲れた。しんどい。楽になりたい。遠くに行きたい。
内なる自分からのシグナルだと分かっていた。こうした気持ちになるのは初めてではないから。
職場の人間関係でメンタル面をやられ、退職してから1年以上が経過した。療養生活を経て何とか社会復帰が出来るまでに回復したはいいが、求人自体が少ない上に応募しても書類選考で落とされ。再就職の見込みは全く無い。
実家で暮らしているので衣食住は保障されているが、いつまでも働かない自分は家庭内でも肩身が狭い存在。ネチネチと嫌味を言われ、家に居れば白い目で見られ。厚労省などのホームページにはメンタル不調の人に気付くコツや言ってはいけない言葉などが分かりやすく掲示されているけど、そんなのお構いなしでこちらのメンタルをガリガリ削ってくる。家族が原因でまた病気が再発したら元も子もないのに。
健康保険や通信料などは家族が払ってくれているが、生きていれば金が掛かる。流石に「金をくれ」とは言えず、節制はしていても金はどんどん出ていく一方……貯金通帳の額も右肩下がりで減っていき、底が見えてきた。
ストレスはジャンジャン増えていく。発散しようにも流行病の影響で色々と制約がある上に、思い切った事をやろうとしても元手が無いから出来ない。最近は趣味も楽しめなくなった、というか集中が続かない。
積もりに積もったストレスが、遂に限界に達した――ふと海が見たくなったので、車で港まで来た。
空は晴れ、気温も穏やか。多分ここで釣りをしたらさぞ気持ちいいんだろうな~と考えたり。
平日の昼間なので、他に誰も居ない。人気のない港で、自分一人。
ボーっと水面を眺めると、ふっと頭にある事が
(……もう、いいや)
仕事なし、友達なし、貯金なし、30代、彼女なし、嫌なこと沢山。生きていてもしょうがない。未来に希望もないし、そろそろ人生を仕舞ってもいいんじゃないか。
そんな時だった。
「――こんにちは」
急に声を掛けられ、ビクッとした。驚いてそちらを向くと、そこには見知らぬ男が立っていた。
さっきまで誰も居なかったのに、いつ現れたんだ。ビックリして心臓が飛び出しそうだった。まだバクバクいってる……。
「あ、申し遅れました。私、死神のトートと申します」
トートと名乗った男は腰を
「死神……」
「はい。正真正銘、死神でございます」
疑いの目を向けるが、トートの方は慣れっこなのか一切気にする素振りを見せない。あんまりに精神的に疲れているから変な物が見えるようになったのかと目を擦ってみるが、目の前の胡散臭い人物は本当に居る。
死神っていうと、ボロボロのマントを羽織って大きな鎌を持ったイメージがあるけれど……なんか、微妙に違う。微妙に。
「この度は人生のゴールを迎えるということで、
まるで執事がご主人様を迎えるようなポーズをとるトート。一々リアクションがオーバーで、まるでアニメのキャラみたいに思う。
「入水自殺を選ばれるということは、水に溺れて苦しむ辛さを覚悟されたも同然のこと。その心意気、実にお見事!」
オストは拍手をして賞賛の言葉を掛けるが……一方で、急激に気持ちが萎えてきた。
自分が苦しむ様が脳裏に映像となって想像して――どうせ死ぬなら苦しむのは嫌だなと思った。
そんな心境の変化を察知したのか、トートは心底残念そうな表情で言った。
「おや、残念……ご案内するのはまたの機会ということで」
直後、猛烈な風が吹いて思わず目を閉じると、次に瞼を上げた時にはトートは居なくなっていた。
一体何だったのか……狐に抓まれた気分で、まるで夢を見ていたような感覚だった。
それでも希死念慮は少しだけ薄れ、少しだけ気持ちが持ち直した……と思う。
希死念慮は、常に“死にたい”という気持ちを持っている訳ではない。ある時、ふとしたキッカケで浮かんでくるのだ。故に、
一度は希死念慮が消滅したものの、根本のストレス超過の精神状態に何ら改善されていない。悪くなってないだけが唯一の救いか。
港を後にして、街中に移動してきた。どうせ外出したのだからついでに買い物も済ませようという軽い気持ちだったが、ふと高いビルに目線がいった。
何階建てだろうか、かなりの高さがある。先日桜が開花したニュースが流れていたから、高層階から遠くを眺めれば素敵な景色が見えるのだろうな。そんなことを
(あの高さから飛び降りても骨が折れるだけだろうな……どうせやるなら屋上からだな)
思考がネガティブというより死ぬ方向に転がっていくのは、無意識の内に“楽になりたい”“苦しみから解き放たれたい”と思っているからである。精神的に健康な人の場合、こういう思考に至らない。
(飛び降りって落ちている瞬間から意識が飛ぶって聞いたことがある。という事は、地面にぶつかった瞬間は痛みがないんじゃないか?)
実際に行動へ移さなくても、“死ぬ”事を前提に考えている点ではかなりの重症である。本来であればそういう考えになる前に自己対策または他人からさりげなく促すべきなのだが、現実はそんなに簡単ではない。重症化のサインは些細なものが多く見逃されやすい上に、身近な人であればある程に見落としやすい。
「よくぞ決心されました!」
いきなり大声で褒められ、ビックリする。見れば、先程居なくなった筈のトートが隣に居るではないか。
「高所から落ちるという恐怖。地面にぶつかった衝撃の痛さ。二重の苦しみがあるにも関わらず、飛び降り自殺を選ぶその勇気。私、感服致しました!」
トートは本心から尊敬しているという眼差しでこちらを見る。一方で、そんなオストの態度を目の当たりにして、冷静になっていく。
よくよく考えれば、飛び降り自殺って怖いな。高い所から落ちたら絶対痛いに決まっている。どうせ死ぬなら痛くない方がいい。
段々と思考があるべき方向に戻っていく……それを察知したトートは再びガッカリした表情を浮かべた。
「おやおや……心変わりしましたか。では、またの機会に」
次の瞬間――それまで目の前に居たオストが、消えてなくなってしまった。
一体、彼は何者なのだろうか……疑問は尽きなかった。
「仕事熱心で困るな」
どこかのビルの屋上。煙草を吸っているトートに、声を掛けてきた人物が居た。
中世的な顔立ち、銀髪、真珠のように白い肌、そして特徴的だったのは――ルビーのような紅い瞳。
「おぉ、ラクか」
トートはぞんざいな言い方で返す。
「仕事熱心で何が悪いんや」
「君の仕事は“死ぬ”人を迎えに行く事だ。わざわざ“死のうと考えている”人の背中を押すのは筋が違うと思う」
するとトートは煙草を銜え直してから「あのな」と苛立った口調で反論する。
「別に死人を増やそうなんて気持ち、これっぽっちもないで。純粋に、『余命があるにも関わらず自分で人生のゴールを決める』という英断を褒めてるだけや」
「君のその身勝手な振る舞いで、本当に死んでしまった人も少なくないじゃないか」
ラクが指摘すると、困ったように両手を上げながらオストは答えた。
「そん時はそん時や。望みが叶ったのだから問題ないやろ?」
「本来死ななくてもいい人を死なせるのが問題なのだ」
「……この話は平行線やな」
反省の態度を示さないトートに、ラクの方も説得を諦めたようだ。
「……頼むから、寿命以外で死人を増やさないよう努めてくれ」
「善処しまーす」
軽い返事と共に手をヒラヒラさせるトート。ラクは溜め息を一つついてからその場を後にした。
ラクが居なくなった後も、ビルの屋上で紫煙を
「――さて、死にたいと思っている奴はおらんかな?」
職業、死神。
人生の終着点に辿り着いた人を迎える。それが仕事。
希死念慮と死神 佐倉伸哉 @fourrami
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