わたしの魏延~魏延~

 世蘭せらんは十四で寡婦になった。夫は顔も名も覚えていない。

 結婚式は豪華だった。襄陽の名家同士の婚姻とあって、街中いたるところに宴席が設けられ、人々は大いに沸いた。貧者も富豪も農夫も商人も、街の門を守る番兵さえ杯を手に酔い痴れた。

 賊が襲ってきたのはその隙をついてである。

 蹂躙と略奪。婚礼の客は皆殺しにされ、華燭の明かりは家を燃やす炎となった。

 屋敷の奥に鎮座していた世蘭は、花嫁衣装のままさらわれた。両親と夫がどうなったのか、教えるものはなくても容易に想像できよう。

 それからの数年は地獄だった。湿った穴倉の奥で、毎晩違う男になぶられる。最初のうちこそ悲鳴をあげていたものの、返ってくるのが怒号と殴打でしかないとわかってからは、口を閉ざしてただその時が過ぎるのを待つだけになった。

 穴倉には窓もなく陽の光を目にすることさえほとんどない。与えられる食物は半ば腐ったものばかり。世蘭が死を選ばなかったのは、幼さゆえに自死の方法を思いつかなかっただけのことである。

 あるとき、急に辺りが騒がしくなり、賊どもが慌てだした。別の盗賊団が攻め込んできたのだ。

 少人数ながら統制の取れた襲撃者たちによって、賊どもはたやすく討ち取られた。もちろん、世蘭に経過は伝わらない。響き渡る悲鳴に怯え、穴倉の隅で身を縮めていた。

 助かる助からないは考えなかった。そもそもどっちに転べば助かるといえるのか。  今と違う場所にさらわれて、そこが多少マシなら御の字なのだろうか。だとすれば何と悲惨な運命だろう。自分は何のために生まれ何のために生きているのだろう。体は恐怖に震えていたが、涙はそれだけが理由ではなかった。

 どのくらい経ったか、気づくと辺りが静かになっていた。足音が近づいてくる。扉が破られ若い男が入ってきた。背はそう大きくないものの頑丈そうな体つきだ。短い髪を無造作にかきむしりながら配下に的確な指示を与えている。どうやら襲撃者たちの頭目らしい。

 若い頭目は隅にうずくまっている世蘭に気づいた。

「おお、こんなとこにもおったんかいな。娘さん安心しい、もう自由やで。あんたら閉じ込めてた悪い奴らはわしがぶちのめしたったさかいな」

 若者は世蘭の前にひざまずいた。よく日に焼けた顔に無数の傷がある。世蘭はなぜかそのひとつひとつを目で追った。

「……なんやあんた、えらいべっぴんさんやな。わしゃ惚れてしもたで。どや、帰るとこあるんか?なかったらわしと一緒に来えへんか」

 若者の言葉の意味を世蘭が理解するまで数瞬の間が必要であった。

 破られた扉から青い空が見える。その鮮烈な青さはその後長い間、世蘭の記憶の深い場所に居座り続けた。


 若者の名は魏延といった。字は文長。

 世蘭は魏延の一団についていくことにした。他にあてどがなかったこともあったが、盗賊ながら魏延は女子供に優しかったのである。

「そら当たり前やろ。わしらみんな女から生まれた子供やないか」

 そんなことを言う男を世蘭は初めて見た。魏延は戦利品を分ける際にも、いつも一番上等な物を女たちにくれた。

 一団には同じように家と家族を失った娘が数人加わっていた。一旦加わった娘らは決して離れることはなく、甲斐甲斐しく男どもの世話をした。男どもも頭目の主義に従い、娘らをないがしろにしない。噂を聞きつけ、一団に入れてくれと自らやってくる女さえあった。

 根城が広がるごとに新しい夫婦が生まれた。頭目の魏延にはまだ妻がいなかった。周りは自然と世蘭がそうであるかのように見た。世蘭自身もそれでいいという気がしていた。粗暴なお尋ね者で君子に程遠い盗賊だがそれがなんであろう。この世界で唯一自分を守ってくれた男ではないか。初めて床を共にした夜、世蘭の方から妻にしてくれと申し入れた。世蘭は自分が、その行為を大胆ともはしたないとも思っていないことに軽い驚きを覚えた。


 黄巾の乱を機に世は乱れ、群雄ひしめく大割拠時代が到来した。

 名家の旗を振る豪族もあれば、旧勢力を襲い地盤を広げる新参もあった。何にせよモノを言うのは兵の質と数である。各地の君主はこぞって戦力を募り始めた。

 魏延の一団は荊州の劉表に仕えることとなった。名士や学者の多い劉表軍において魏延たちの強さは際立っており、城の内外に数々の安定と武功をもたらした。盗人あがりのチンピラだった魏延の名は、ひとかどの武将として知れ渡るようになった。 

「ただなあ、えらいさんらの言うことはときどきようわからんねん」

 閨で魏延がこぼす。城へあがる日はとみにその頻度が増えた。

「儒がどうとか礼がどうとかばっかりぬかしよる。今まずせなあかんことはどこを攻めてどこを守るかの議論やないんか。わしの冠の位置なんかどうでもええやないかホンマ」

 知識階級の一部が魏延を嫌っていることはすでに知れ渡っていた。乱れているとはいえ儒の教えはこの世界の根本倫理である。秩序と形式を重んじる風潮は世の良識と呼べるものだった。

 さらに君主劉表は儒の名士としての顔も持つ。その評判を慕い、多くの儒者がここ荊州に集まっていた。彼らは宮殿の一隅に派閥を作り、作法にのっとったいにしえの秩序を回復させようとしている。ろくに字も読めず舞にも楽にもうとい魏延を、彼らは見下し疎んじていた。

「それを殿は知ってて注意もせえへんねん。それどころか何や知らん褒められて有頂天なっとる。この荊州を狙っとる奴らはウヨウヨしとんねんで。あんな呑気なことでどないすんねん」

 世蘭は黙って魏延の頬を撫でる。世蘭は知っていた。魏延が儒者たちに疎まれる原因のひとつが自分であることを。家同士の正式な取り決めでなく、野で出会い結ばれた自分たちの結婚を、儒者たちは野蛮の極みとさげすんでいたのである。

 魏延は何も言わない。だから世蘭も何も言わない。

 恐ろしいことなど何もなかった。世の倫理に反し社会から疎外されようとも、自分にはこの人がいればそれでいい。儒が礼が、何をしてくれただろう。賊にさらわれた女を汚物のように侮蔑し排斥することが倫理であるというなら、自分はむしろ不倫こそを選ぼう。

 世蘭は魏延の胸にしがみついた。愛しさが体中に満ちる。どこにいようと、どこまで行こうと、自分はこの人を愛し支えよう。もう何度目かの決意を再び強く誓う世蘭の体を、魏延が優しく抱きしめてくれた。


 戦乱のうねりは拡大し、やがて大きな三つの渦としてまとまりだした。北の曹操、東の孫権、そして西の劉備である。劉表死後、魏延は劉備の下にいた。勇猛果敢な戦いぶりは衰えを知らず、その戦功は劉備軍の中でも際立つ。劉備は大いに認め、曹操と対峙する最前線、漢中の太守に魏延を任じたのである。

「劉備殿は農民の出やさかいな、わしと気持ちが通じるんや。わしゃやるで。きっと劉備殿に天下を取らせる。この漢中に曹操が攻めてきたらたとえ十万の兵でも蹴散らしたるわ。曹操の配下連中なんか呑み込んでこっちの戦力にしたる」

 すでに壮年に達し、牙門将軍として一国の趨勢を担う立場になりながらも、出陣前の魏延は少年のような覇気をみなぎらせる。世蘭は夫を送り出しながら、今度も必ず無事帰ってくるよう心から祈るのであった。

 夫の留守中、頻繁に訪ねてくる者があった。軍師・諸葛亮の補佐官、楊儀ようぎという男である。

「いや、特に用というわけではありませんがな。南国の珍しい果実が手に入ったものですから、奥方様にも是非にと思いまして」

 儒者らしく所作は礼にのっとっているものの、どうにも好感が持てない。世蘭を盗み見る視線に卑しく邪なものを感じる。

 世蘭の美しさは荊州にいた頃から評判であった。楊儀は劉表に仕えていたのでその頃から見知ってはいる。しかし当時は文官の端くれで魏延との身分には隔たりがあったため、このように家に押しかけてくることはなかった。

 それが劉備に仕え、軍師の補佐官という地位に出世すると、やにわに世蘭にこなをかけてくるようになったのである。

「拙者もね、苦労したのですよ。荊州に集まった文人数あれど、実は真の礼を学んだ者などほとんどおりませなんだ。知者は知者を知ると申しますが、孔明殿に至ってようやく拙者の才に気づいたのですよ。まあ今の地位になればなったで、責任がつきまとい忙しいものなのですがね」

 侍女たちもウンザリするような中身のない話を、世蘭は笑顔絶やさず聞いてやった。すると楊儀はそれが嬉しいのか、ますます鼻息を荒らげて訪ねてくる。あるときついに、手を握ってきた。さすがに黙っておられず、世蘭はピシャリとその手を打った。

「あ、奥方様……な、何をなさる」

 何をするはこちらのセリフ。品行方正を旨とする名士が何とはしたない。不相応な身分を得て舞い上がっているのかもしれないが、それが真の礼とやらにかなう行為か。荊州にいた頃、あなたは私を野合で結ばれた卑しい女と蔑んだ。その女を夫の留守中に盗もうとする。卑しいというならこれほど卑しい真似はあるまい。頬を打たれる前に席を立つなら、恥とは何か、もう一度学びなおす猶予を与えてあげよう。

 思いがけない世蘭の啖呵に楊儀は反論どころか一言も言えず、ただ顔を青くしてそそくさと退散した。

「あの楊儀のクソガキが、お前にふらちなことしよったんか!」

 魏延は激怒した。世蘭はわざわざ告げることは、と黙っていたが、召使たちの口は止められない。武器を取って駆けだそうとするのを何とかなだめたものの、以後、楊儀との亀裂は決定的なものとなった。

 軍議においても二人の意見はことごとく対立し、魏延が刀を抜いたことさえある。逃げ出した楊儀を諸葛亮がかばったが、それがまたことさら魏延の気に食わない。文と武の主軸同士が不仲であるというのは、首脳部を悩ませる劉備軍の深刻なアキレス腱であった。

 世蘭は胸の奥に抜けないとげが刺さったような不安を覚えた。


 やがて劉備が夷陵いりょうで散り、諸葛亮が全権を委ねられた。魏延は督前部・丞相司馬・涼州刺史となり、武の要として幾度も幾度も激戦を繰り広げた。

 戦には勝つ。では勝った分だけ有利になるかといえば、どうもそうではない。ちぐはぐしている。すでに歴戦を経てきた魏延は、最前線と司令部に妙なズレを感じていた。

「確かに軍師殿は賢い。名軍師や。せやけど今戦場におるのはわしや。戦場には機っちゅうモンがある。こればっかりは現地に身を置かなわかるもんやない。劉備殿はそこんとこよう知ってて、わしに全部任せてくれはった。将の将たる人はああやないとあかん。軍師殿は全部自分でやろうとするけど、あれは兵の将たるやり方や。あれでは勝てる戦も勝てんで」

 口調はともかく現場の意見としては聴く価値があろう。だが矢が常に真直ぐ飛ぶとは限らない。

 魏延の声を受け取ったのは楊儀であった。彼は諸葛亮への批判部分だけを抜き出し、それを拡大して上層部へ報告した。

 名軍師といえど人の子である。諸葛亮の心にほんのわずか魏延に対する影が差した。

 街亭を猛将張郃が襲ったとき、魏延は先鋒を命じられなかった。

 別動隊を率いて敵の都を狙うという献策が、一方的に否定された。

 魏延は不信感を募らせた。かといって、諸葛亮に刃向うというのではない。

「楊儀のヤツや。あいつがあることないこと軍師殿に吹き込んどんねん。クソガキ、人の妻に手ぇ出すような犬っころが。今度会うたら問答無用で首飛ばしたる」

 だがすでに楊儀の間者は、そのつぶやきが聞こえる近さにまで入り込んでいた。報告を受けた楊儀は恐怖し、そして、策を打った。いつでも最初に剣を抜くのは臆病な方である。

 悪いうわさが流れた。魏延はやがて叛逆し敵国へ寝返るつもりだというのである。

 世蘭のもとにまでそれは聞こえてきて、屋敷にゴミが投げ込まれた。暇を告げる召使が増えた。

 世蘭は思案し、家財を整理した。すべてを捨てて、身一つで戦場まで赴くことにしたのである。

 忠実な執事らが必死になって止めたが、世蘭は微笑みを浮かべて答えた。

 私は汚い穴倉で男たちの慰み者として生きていました。救われたあともまるで罪を犯したかのように蔑まれてきた。この世界で私はずっと殺され続けてきたのです。旦那様だけが光だった。旦那様と一緒にいるときだけ私は生きていることを喜べた。命にも世界にも未練はありません。士は己を知る者のために死ぬと言うではありませんか。士にできて女にできない道理がありましょうか。


 世蘭が都を離れた数日後、諸葛亮が激務に倒れた。跡を継いだ楊儀は全軍に退却の命を出す。

 魏延は猛反対した。わずかな手勢だけでも残って戦うと主張した。そのわずかな手勢の中にもすでに楊儀の手が回っていることに気づかなかった。

 魏延は捕らえられ、命令違反のかどにより処刑された。

 世蘭は知らぬまま山道を歩いている。希望と歓びで足取りは軽い。

 さあ早く行って支えてあげなければ。あなた。あなた。すぐに参ります。

 道なき道を一心に。愛しい名を呼ぶごとに、風がそれを和して遠くへ運ぶ。

 雲一つない空は、あの日のようにどこまでも鮮やかな青であった。 

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三国志群星伝 桐生イツ @sorekara359

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