とどまれ楽進~楽進~
仁、義、礼、智、信、そして忠、孝、悌という。
いわゆる儒教の八徳である。人が行うべき正しい道。すべてを兼ね備えた者は君子であり、儒者はそれを目指して学を修める。
だが八徳そのものは、知識階級の占有物というわけではない。
学なくとも、それがそうであると知らなくとも、生まれながらにして、また生きていく過程で、徳目を自然と身に備える者は、いつの時代にもいたはずだ。
楽進には孝を果たす道が与えられていなかった。親も叔父も祖父母もいなかったからだ。
焼け跡に響く泣き声が最初の記憶だ。それも自分の泣き声ではなかった。まだ乳飲み子の弟や妹に、幼い楽進は無意識のまま食べ物や水を運んでいた。物心も定かでない時分である。損得や義務感などとは程遠い。悌とは、兄を敬う心を指すが、兄弟愛と解釈してもあながち間違いではないだろう。
戦乱の世で家族を失った子どもが生きていくのはほとんど不可能に近い。山賊の手下に拾われるなどはむしろ運のいい方だ。たいていは獣のエサになるか、飢えて死ぬ。
楽進は当初、難民の群れの中にいた。面倒見のいい性格で、少ない食べ物を年下の子らに分けてやったりしているうちに、常に周りに小さい子どもらが付き従うようになった。
城も兵も持たぬ集団が長生きできる時代ではなかった。やがて難民の群れは賊に襲われた。
運がよかったのは、襲われたとき、すでに楽進が少年の域を脱するほどに成長していたこと、そして、最初に殴り倒した賊が偶然、槍を落としたことである。
楽進は子どもらの前に立った。馬に乗った賊が歯を剝き出しながら刀を振り上げる。躊躇や恐れを感じる前に体が反応した。楽進は槍を突き出した。
賊も自分も驚くほどの速さで槍は走った。いや、賊は驚かなかったであろう。それより先に胸を貫かれていたのだから。
思いがけない自身の膂力に一瞬戸惑いながらも、楽進は行動を止めなかった。落馬した賊から槍を抜き、一番敵が多い場所へ向かって駆ける。後ろから子どもらの歓声が起こった。
楽進の初陣は、自身と周囲に、その戦闘力の高さを認識させる契機となったのである。
ところがそれが楽進を悩ませた。
(槍を突くしかできんとは何と不器用なのだ俺は。このままではとてもこの子らは養えんぞ)
集落を築き、人が増えた。楽進の強さを頼りにしている者も多かったが、この寡黙な青年の苦悩には誰も気づかない。
青年となっても楽進は相変わらず子どもらの面倒見がよかった。すでに自身の弟妹は成長していたが、家に乳飲み子の姿が絶えることはない。性分なのか才能なのか、楽進はどんな気難しい赤子でもあやすことができたし、同じことを何度でも繰り返せる根気があった。聞きつけた母親らが次々に子の面倒を頼んでくる。楽進はどの子どもも自分の家族のように受け入れたから評判はますます上がった。
楽進は学問を始めた。槍よりも筆の方が稼ぎになると思ったのである。集落に字の読める者はいなかったから独学である。苦心の末なんとか簡単な読み書き程度はできるようになった。当時、農民で字が読めるというのは並大抵のことではない。うわさは近隣に広がった。
聞きつけた曹操軍が声をかけてきた。帳簿の記録係として雇うという。曹操という男は人の才を愛し、身分や家柄に頓着しなかったから出自は問われなかった。楽進は承諾した。初めての就職である。支給された穀物は残らず村に送った。
楽進は背が低く寡黙で、また職場に知り合いもいなかったので、しばらくの間、その武勇に気づかれなかった。
あるとき、たまたま曹操が帳場に立ち寄り、楽進を見かけた。
「あの隅にいるあいつ、あいつは訓練に出んのか?」
「あれは記録係でございますゆえ」
「あの背中は戦場を知っておるぞ。槍を持たせてみよ。見当違いなら帳場に戻せばいいだけだ」
結果からいえば、曹操の眼力に間違いはなかった。楽進はこののち、曹操軍幕下屈指の名将として名を馳せるのである。
激戦が続いた。
曹操軍は濮陽で呂布と戦った。
が、楽進だけは違う。彼はどの戦場でも一番前の一番戦いが激しい場所にいた。
戦場の楽進は恐怖というものを知らないかのようだった。矢にも刀にもまるで動じず、一歩一歩着実に歩を進める。
頬を切られ、肩を裂かれ、体の前面から血を流しながらも、決して目を閉じず、一瞬出来た隙に槍を突き通す。敵が倒れたあと振り返れば、そこにはいつの間にか道ができている。後続の仲間を励ますようにうなずくと、またゆっくりと前に進んでいくのだ。
戦場でこれほどの頼もしさはない。楽進は、自身が挙げた功績と、それに倍する兵士らの後押しによって、瞬く間に将軍職へと昇った。
「来たな、楽進。ほほう、それはこの間の戦でできた傷か」
曹操は上機嫌であった。着実に前進する楽進の槍は、もはや曹操軍の軍略を成す重要要素のひとつとなっている。自身の抜擢が図に当たったこともあったが、曹操は楽進の愚直な職人気質を大いに気に入っていた。
「こたびも一番前にいたな。兵らがあわてて追いかける様はお主の隊の名物だのう」
「前に進む以外できませぬ。兵法を知らぬ無学者ゆえ」
儒者のこざかしい謙遜には唾を吐く曹操であったが、無愛想ともとれる楽進の無表情ぶりには嬉しそうに眉を開く。
「構わん。あれこそがほかの誰も真似できぬ楽進流兵法よ。歩みをとどめずともよい。お主が行けると思うのであればどこまでも突き進め。楽進の槍は我が軍のきっさきよ」
そういって曹操は杯を掲げた。
楽進は無言で頭を下げる。胸の内に熱いものがうずまいていた。
曹操に仕えてからたびたびこういうことがある。礼を言おうとすると言葉が出ないのだ。最初は何かしらの病気を疑ったほどだ。
やがて楽進は、これは自分が言葉を知らないせいだと思った。「ありがとうございます」だけでは足らないのだ。生まれて初めて自分を認めてくれた人に何と感謝するのがふさわしいのか、楽進は何度も書物を繰った。
感謝の言葉は見つからなかったが、気持ちの正体については見当がついた。忠義。八徳の忠。曹操に出会って初めて得たこの新しい感覚は、これまで想像もしなかった力を与えてくれる。不器用な自分は、詩や言葉で返すことはできぬ。ただ殿が望むまま、どこまでも足をとどめぬことが己の忠義だ。たとえ命尽きても自分は前に進むであろう。
曹操の談笑に言葉少なく応じながら、楽進は身の内に再び新たな力がみなぎるのを覚えた。
「そういえば、お主の家には幼子が多いと聞く。武将の家が子沢山とはめでたいことじゃが、奥方は大変であろう。あとで何か贈らせよう。乳飲み子は何人いる?」
「は、今は八人ほど」
曹操は目を見開いた。
中原を制した曹操は、南の荊州を攻める。
大勢力に怯えた荊州勢はのきなみ降伏したが、劉備という男だけが逃げた。
鼠一匹放っておいてもよかったのだが、予想外の出来事が起きる。農民たちが曹操を怖れ、家と畑を捨てて、劉備に付き従ったのである。その数なんと、十数万。
奇妙な現象であった。大地が動いているかのような、とてつもない人の群れである。
とまれ農民の群れだ、戦闘力はない。こちらの戦力をおびやかす存在ではないものの、生産力の損失は痛い。農民たちは劉備を慕ってついていく。であれば、劉備さえいなくなれば再び故郷に戻るであろう。幸い劉備軍そのものは少数である。曹操は先発部隊を差し向け、みずからもその後を追った。
民の群れには老人や子どももいる。足は遅い。曹操軍は長坂で追いついた。
混戦であった。戦場に民が混じっているのである。無論、彼らを殺すことは避けねばならない。
楽進は馬で巡回していた。
かたわらには曹純がいる。曹操の一族で、虎豹騎という親衛隊の長だ。
「まったく、こんな戦場は初めてだ。どいつが敵やら民やら。先頭に劉備がいるんだろうけど、てんでばらばらに逃げまどってるからなあ。手間がかかりそうだ」
曹純がぼやく。
楽進にとっても不満であった。幼子の悲鳴が聞こえる戦場などまったくもって好ましくない。聞けば劉備は妻子すら置き捨て一人で逃げているそうな。言語道断。楽進は珍しく敵に対する怒りを覚えた。
風が出てきた。砂煙が舞う。ふとどこからか、赤子の泣き声が聞こえた。
「おい楽進、あれを見ろ。ありゃ敵の将じゃないか?」
曹純が示す。見れば、銀の鎧をまとった騎馬武者がたった一騎、軍の真ん中を駆け抜けていく。
「おいおい冗談じゃないぞ。兵がみな蹴散らされてるじゃないか。あいつ、一人で我が軍を突破する気か?」
銀の武将は目を見張る強さだった。繰り出される槍を素早く弾き、後ろも見ずに矢をかわす。突っ込むと見せて、ひるんだ兵の頭上を跳び越した。緩急自在、馬を手足のように操り、ひるむことなく大軍勢の中を突き進んでいく。
「はあっ!」
楽進は声をあげて馬を進めた。敵ならば討つ。迷いはない。いつものように一直線、まっすぐ目標に向かって駆ける。
銀の武将が気づいた。逃げようとしたが兵士が密集しているのを見て取り、すかさず馬体をこちらへ翻す。
手には矛。懐には何かをくるんだ布袋を巻きつけている。
楽進が槍を突き出した。銀の武将が矛を振るった。落雷のような音を立てて、二人の騎馬武者がすれちがう。
(……強い)
楽進は一撃で理解した。こいつは今までまみえた相手とは桁が違う。なるほど、数千人を前にして怖じぬはずだ。
(ならばこそ自分が)
戦場で怖じぬのは自分も同じ。どんな相手であろうと楽進は足をとどめぬ。前進こそ我が兵法。勇気こそ我が戦術。楽進は馬を返すと、再び銀の武将めがけて突進した。
楽進が一撃で相手の強さを知ったように、相手も楽進を理解したらしい。その目には警戒と緊張の色が表れている。
楽進は馬ごとぶつかる勢いで向かっていった。と、いきなり相手めがけて槍を投げつける。槍は凄まじい速さで飛んだ。銀の武将もさすがに不意をつかれ、よけはしたものの体勢を崩す。
すかさず、楽進は手綱を放し飛びかかった。すでに腰の刀を抜いている。相手はまだ矛を構えきれていない。このまま胸板を真っ向から断ち切れる、はずであった。
(何だ?赤ん坊?)
銀の武将の懐の布袋、そこから赤子が顔を出している。がんぜない目を大きく見開いて。何ゆえ戦場で赤子を抱えているのか知らないが、このままだと赤子ごと真っ二つにしてしまう。
(ぬううぅ!)
楽進は空にありながら全力で体をひねった。刀は何もない虚空を切り裂く。安堵した次の瞬間、肩口に鋭く迫る矛の刃が見えた。
「楽進……大丈夫か、楽進」
曹純の声で目が覚めた。気を失っていたらしい。辺りを見回せば、銀の武将も自軍の兵士らも見えず、ただ荒野に砂煙が舞っている。
「あいつは逃げたよ。せっかくお前が食い下がってくれたのにな、面目ない。結局この包囲網をたった一人で抜いてった。敵ながらあっぱれだ」
楽進は身を起こした。肩に激痛が走る。見れば肩当てが砕けて肉がえぐれていた。おそらく骨も割れていよう。巻かれた包帯に血がにじんでいる。
「腕ごと切られてもおかしくなかったよ。運がよかった。撤退の命令が出ている。引き上げよう」
楽進はゆっくり立ち上がると一歩踏み出した。途端、体から力が抜けてよろけてしまう。肩の激痛にうめきながら、それでも足を踏みしめ、歩き出そうとする。曹純があわてて声をかけた。
「おい、楽進、どこに行く。肩、治療しなきゃ。おい楽進、待てってば」
楽進はとどまらぬまま、こう言った。
「取り残された子どもらがいる。救ってやらねば」
長坂の戦いは終わった。劉備は多くの将兵を失いながらも、まんまと逃げおおせ、以後江東の孫権と組み、曹操軍に対抗する一大勢力を築くに至る。
楽進はその後も戦い続けた。
最前線に身を置く戦いぶりは変わることなく、曹操から全幅の信頼を受け続ける。
一介の帳簿係だった身は、槍一筋前に進み続け、右将軍にまで昇り詰めた。建安二十三年、病で死去。
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