goal

常陸乃ひかる

就活と夢

 サッカーボールをシュートした先にある、ネット。

 42.195kmの先にある、テープ。

 恋人との同棲の先にある、結婚生活。

 人とは、なにかを乗り越えた先に『ゴール』があることが、ほとんどである。

 では、『学び』のゴールは――?


   * * *


 就職活動中の女がある。

『これさえ覚えよう! 新・一般常識問題集』

 という、いかにもなタイトルの本をカバンから取り出した女は、自室のベッドにそれを放り投げ、リクルートスーツを脱ぎ始めた。女は大学三年生。是が非でも内定をもらい、安心を手に入れるのが第一目標だった。

 ブラウスもスカートもストッキングも脱ぎ捨て、部屋着をまとうと、「よし、やるぞ」と空回りする気合とともにベッドに横になり、開いた本に目を落とした。まず初めは政治関連のページだった。


・政治(憲法)

「憲法、憲法、憲法……? 天皇主権と国民主権。自由権、平等権、社会権、プライバシー権――プラっ? え、ヤダ……横文字」

 女は昔から、勉強をする時には必ず声に出す。本日も、マントラを唱えるように音読を続けた。果たして、ちゃんと頭に入っているのかどうかが怪しい。


・政治(立法)

「衆議院465名、参議院248名、両院協議会10名ずつ――。そもそも、衆議院と参議院の違いって、なんだ……? まあ良いか」


・経済(景気循環)

「コンドラチェフの波動……強そう。GNI――国民総所得、GDP――国内総生産、NNI――国民純所得、NI――国民所得。てゆーか、日本語で良くない?」


・経済(企業・市場)

「M&A――え、アメリカのお菓子? TOB――飛ぶ……? えっと、独占のことをカルテル、トラスト、コンツェル……ン。日本はあんま関係ない……」


・地理(気候)

「え? ケッペン、5つの気候帯? A熱帯、B乾燥帯、C温帯、D亜寒帯、E寒帯って――つまり戦隊モノってこと?」


・日本文学

「浮雲――二葉亭四迷……くたばってしめえ。若菜集――島崎藤村の処女詩集。しまざき、ふじむら? 武蔵野――山田ビミョー? 美妙びみょうって……男か!」


・海外文学

「トルストイ、スタンダール、ドストエフスキー、ヘミングウェイ、ツルゲーネフ、スティーブンソン――全員の代表作が『〇〇と〇〇』ってどうなっとんじゃい!」

 戦争と平和と赤と黒と罪と罰と老人と海と父と子とジキル博士とハイド氏。


・理科(生物)

「ミトコンドリアは酸素呼吸を営む。ゴルジ体は物質の貯蔵や分泌を営む。私は夜の営みがごぶさたである」


・近代の歴史

「1910年に日韓併合。植民地支配をしたのではなく、日本がインフラを整えて、あんだけ国を発展させたのよね……」


 ――二時間強で約180ページの本をざっと読み終えた女は、

「よし。これで就職ゴールに一歩近づいたわね」

 満足したように布団にくるまってしまった。


   * * *


 ふとすると、女はリクルートスーツ姿で小高い丘の上に居た。見たこともない世界である。だのに前知識が頭に入っており――どうやら女は、争いが絶えないA国とB国の指揮官として、戦況を見極めているようだ。

「報告します。現在、敵陣には465人! 対して自陣は248人しか居ません。それに先ほど、ケッペン戦隊が敗走したとの報告が。このままでは、我がA国は……」

 立派な――いや、邪魔な髭をモサモサと生やした、海外の文学者のような男が駆け寄ってくると、片膝をついて、どこかで聞いたような単語をゴチャゴチャと並べてきた。たぶんコイツの名前は――ゴルジだ、ゴルジ。

「ケッペン戦隊……? Aが最も暑苦しくて、Eに近づくにつれてどんどん性格が冷めていく連中よね。良い奴らだったわね……。でも諦めてはダメよ、ゴルジ。こうなったら、コンドラチェフ作戦を使うわ」

「コ、コンドラチェフ波動ですか? しかし悠長にそんなことを言っている場合ではありません! 敵には、戦場を独占する三羽烏――カルテル、トラスト、コンツェルンの三名の姿があります! ケッペン戦隊も奴らにやられたんです……」

「よもや、ここまでとはね。仕方がないわ、こうなれば腕利き――筆利きの二葉ふたば藤村ふじむら美妙みさを送りこむのよ」

「その手がありましたな。あの三人が居れば、百人力ですな」

「えぇ、二葉が『くたばってしめえ!』と叫べば、たちまち相手は戦意喪失! 美妙はあんな名前だけど実は男だから、相手は……やっぱり戦意喪失。中でも藤村は処女だから、汚れを知らぬ強さがあるわ!」

 A国の隠し球。文豪衆によって戦況は大きくひっくり返った。これにて終戦か、そう思われたのだが、

「――これで終わりだ、ゴルジ!」

 背後から、激しい怒号とともに銃声が聞こえた。振り返ると、髭を生やした海外の文学者みたいな男が、拳銃を握り、口元を緩めていた。

「お、お前はミトコンドリアーナ……裏切った、な……」

 血を流して、ゴルジが倒れてしまった。

 というか撃ったのも、撃たれたのも髭を生やしたオジサンなので、女には見分けがつかなかった。が、とにかく仲間のゴルジが撃たれたのは確かである。

「悪いな。俺は昔GNIやNIに居たんだが、今はGDPでNNIを司っているんだ」

「ミトめ……そこまで落ちたか」

「水戸? てか、国内総生産で国民純所得を司るってなんなの!」

「司令官……ち、力尽きる前にこれを。この本には、終戦させる呪文が記されています。どうか、彼の国を……。意識が、と……飛ぶ……と、TOB!」

「えぇ……」

 ゴルジは今際の際、胸元のポケットからそっと取り出した一冊の本を、女に手渡してきた。手に乗ったそれは、到底服の中に入るわけがない六法全書サイズの分厚い本だった。表紙には、

『これさえ覚えよう! 新・一般常識問題集』

 とデカデカと記され、女を勉強の世界へふたたび誘おうとしていた。

「えぇ? この禁書に……終戦の呪文? が書かれてるから読めってこと?」

 女が渋々、分厚い本を開こうとすると、

「させるか!」

 と言ったきり、まったく妨害してこようとしないミトコンドリアーナと、小刻みに息をしているゴルジの体がチラチラと目に入ってしまう。

 たぶん、呪文は長いやつなのだろう。たぶん、本を開いてもなにも書いていないのだろう。だから、思いつきでなにか言わないといけないのだろう――

 女の杞憂はすべて当たった。本はまっさらで、とりあえず台詞を言わなくては場面が変わらなくなっていたのだ。


「戦争と平和と赤と黒と罪と罰と老人と海と父と子とジキルとハイド!」


 追い詰められた女が、頭に残っていた『アレ』を唱えると、たちまちA国は国民主権に切り替わった。また敵側のB国は、あっさりA国と併合された。A国はB国を発展させ、のちに逆恨みを食らった。

 めでたくない、めでたくない。


「……なんだこりゃ」

 ――妙な夢を見た、その半年後。女は無事に内定が出た。

 が、入社してからは、一般常識以上に役立たない、『会社のルール』を勉強し、『取引先と上手に付き合う方法』を先輩から学び、『マウント上司の機嫌の取り方』や『いかに腰掛と思われないか』を思索するのであった。

 このままでは社会のストレスで殉職ゴールしてしまいそうだ。

「……あぁぁぁぁ、夢の中で殉職した方がよほど楽しいわあ。あぁ、ゴルジ……」

 少なくとも、『学び』にゴールはない。

 強いて言うならば、学びのゴールは、『学ぶことをやめた時』である。


 義を見てせざるは、勇無き也。

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