リバーサイド・ランナーズ

戸松秋茄子

本編

 鉄橋の影がゴールラインだった。


 太陽が傾きはじめたいま、鉄橋の影は東に伸びている。K川下流のスタート地点から見て、ゴールラインは徐々に遠ざかっていることになるのだろう。


 それを追いかけるようにして、ミアは河川敷のサイクリングロードを疾走していた。ポニーテールを揺らし、制服のスカートをはためかせ、歩行者や自転車とすれ違いながら、推定二〇〇メートル先のゴールを目指していた。


 いずれ、ミアはゴールラインに追いつくだろう。


 ミアの汗ばんだ背中を追いかけながら、アイはそんなことを思う。


 ミアはスタートから飛ばしていた。それがアイの誤算だった。


 このレースはレコードアタックではない。アイとミア、どちらが先にゴールラインを駆け抜けるか。それだけの勝負だった。


 ならば、最初から飛ばして体力を使い果たすよりも、相手とつかず離れずの距離を保ち、ここぞというところでスパートをかける方が理にかなってるように思えたのだ。


 なのに、どうだろう。ミアは先行逃げ切りを図って全力疾走だ。 


 スタートの合図はアイがした。体力テストの結果でミアに劣るからと与えられたハンデだ。しかし、スタートしてすぐミアの後塵を拝すことになった。


 それだけ、ミアは本気なのだ。自分が本気であることを見せつけようとしている。そうすることで、アイの戦意を削ごうとしているのかもしれない。あるいは、アイの気持ちを試そうとしているのかも。


 ――勝った方が先輩に告白するの。それで恨みっこなし。


 そういう約束のレースだった。一年年上の、越谷先輩。彼に告白する権利を賭けたレース。同じ人を好きになってしまった親友同士、後腐れがないようにと設けられた決着の機会。


 


 アイは一度も先輩を好きだと言ったこともないし、実際好きだったこともない。そもそも話したことすらほとんどない。


 アイは、ミアが好きになったというその先輩の話にうんうんと頷き、「いい人を好きになったね」と話を合わせていただけだ。そしたら、いつの間にか自分もその先輩を好きだということになっていた。


 アイは口下手だ。「アイも先輩のこといい人だって言ったじゃない」なんて詰め寄られたらどう否定したらいいかわからない。


 結果、アイの反論は要領を得ないものになる。漠然と「違うよ」とか「そういう意味じゃなかった」と言い返すのが精々だ。それが余計にミアの疑念を煽ったらしく、二人は次第にぎくしゃくするようになった。


 その解決策としてミアが提案したのが、このレースだった。


 告白なんて好きにすればいいのに、とアイは思うし、ミアにもそう言った。だけど、ミアの中でこの思いつきを実行に移すことはすでに決定事項になっているのだった。


 こうなったらいくら反論しても無駄だ。かえって事態がこじれる。アイは諦めてその提案を飲んだ。川原をひとっ走りするだけで友情が元通りになるなら安いものだ。


 それに、とアイは思う。これはきっとミアなりの通過儀礼なのだ。ミアはこのレースに勝つことで自分の背中を押したいのだろう。先輩に告白する勇気がほしいのだ。


 自分は言うなれば、当て馬だ。ミアがそのように見立てたのだ。


 不本意だが、それが結果として親友の背中を押すことにつながるなら、アイはそれでかまわない。


 だからこんな蒸し暑い中を走ってる。散歩中の犬に吠えられながら、体を伝う汗を感じながら。


 アイの予定では、途中までミアとつかず離れずの膠着状態を演じ、最後のスパートで競り負けるつもりだった。


 間違ってもミアに勝つわけにはいかないが、あまりに簡単に負けても後から何か言われそうだ。下手をすれば再試合になりかねない。


 しかし、蓋を開けてみれば、ミアは最初から全力疾走だ。まるで先輩への好意を、覚悟を見せつけるようにして、アイをぐいぐいと引き離していった。


 もう何メートル走っただろう。さすがにペースは落ちてきたが、ミアの背中は遠い。


 ここからどうレース展開を運ぶべきか、アイにはわからなかった。


 接戦を演じるつもりならもう少しペースを上げるべきだろう。しかし、ミアがこのまま失速し続けたら、余力のある自分が追い抜きかねない。様子を見て自分も失速すればいいにしても加減を間違えば演技とばれる。「なんで手加減したの」「臆病者」そんな非難が飛んできそうだ。


 そもそも、なんで自分がそこまでしないといけないのだろう。


 走るのだって楽じゃない。運動が好きなわけでもない。なのにここから追い上げて接戦を演じる? どうせ負けるだけなのに?


 そうだ、自分には負ける理由はあっても走る理由がない。全力になんてなれない。


 アイはそう思う。


 だから、はあっさり負けた。


 ――カット!


 わたしアイがゴールラインを横切ると、堤防の上から監督都筑先輩の声がかかった。カメラマンを兼ねる彼女はわたしたちから少し遅れて、入来君が押す台車に乗って鉄橋間近までやって来た。


 ――亜以ちゃんさあ、もうちょっと接戦にならない? 最後は距離詰まったけど、まだいけるでしょ。もっとこう気持ちを入れてほしいな。引きの絵なんだから、走りっぷりで語ってほしいんだよ。


 ――だって、ここでアイががんばる理由なんてないでしょう?


 わたしは息を切らせながら反論する。


 ――そうだけどさ、わかるでしょ。ここクライマックスなんだよ。最後までデッドヒートを演じてもらわないと白けちゃうじゃん。


 ――なら、アイががんばれる理由を教えてくださいよ。


 監督は脚本も担当している。


 ――しょうがないでしょ。アイと先輩の絡みだってほしかったけど、入来君があんな大根なんだもん。出れば出るだけフィルムが説得力を失うよ。


 監督の背後で入来君が申し訳なさそうな顔をする。映研唯一の男子部員、入来君。当初、「先輩」として多くの出番を与えられていた入来君。裏方志望で演者の才能はからっきしだった入来君。


 ――ごめん。みんなに皺寄せが行ってるよな。


 入来君は詫びる。確かに彼の出番が減ったことで、三角関係を題材とした王道の青春ストーリーは親友の恋に振り回される少女の不条理劇に変わってしまったのだった。わたしの役作りも振り出しに戻ったし、それどころか、先輩を直接的に描けなくなったせいで主人公だったミアの出番もごっそりと削られ、アイが実質の主人公となってしまったのだった。


 ――いいんだよ、監督が無理言ったんだから。


 わたしはフォローする。


 ――だよねー。


 と、ゴールの近くでへたり込んでた未愛が加わる。


 ――それは否定しないけどね。


 監督はむすっとしたように言った。


 ――でも、亜以ちゃん。頼むよ。いまや君が主役なんだからさ。


 ――そうは言っても、アイとしてはどうしてもがんばる気になれないんですよ。


 ――そこをどうにかするのが役作りだろ?


 監督は無責任なことを言う。


 ――まあ、疲れたろうし天気も荒れそうだから、今日はこれまでにしよう。ははは、よかったね。しばらくは悪天候が続くらしいから、撮影が再開するまでに自分の役とよーく向き合うといいよ。


 監督が言った通り、天気は荒れた。梅雨前線が列島の上で停滞し、各所で記録的豪雨を降らせたのだ。ロケ地の河川敷もどっぷりと冠水し、堤防が決壊する寸前までいったらしい。


 ――河川改修様様。ご先祖様たちに感謝。


 撮影が再開した日、未愛はそんなことを言って笑った。


 ――この川もむかしはもっと曲がりくねってたんだってねー。だけど改修されてピンと真っ直ぐになって、それがこういう風に直線のコースとしてかけっこに利用されるわけだ。歴史を感じるよねー。


 未愛は準備運動を続けながら言う。堤防の上では監督が台車の上でカメラを構えていた。スタート地点からは少し先だ。そこから入来君が押す台車で並走しながら、わたしたちを俯瞰で撮影、徐々にパンしていき、最終的には見送る形でレースの模様を収めることになる。


 ――ねえ、ミアはなんであんな本気で走れるの。


 ――え? うーん、そうだな。先輩が好きだからっていうのももちろんあるだろうけど――アイに追いかけてほしいっていうのもあるかな。


 ――どういうこと?


 ――やっぱり、劇中では先輩なんてほとんど出てこないから、わたしもミアとアイの関係を重視してるんだよね。ミアはやっぱりアイが好きだし、アイもそうでしょ? だからさ、ミアとしては「このまま自分を先輩に取られてもいいのか」ってアイに問いかけてる部分もあると思うの。


 ――だから追いかけて来いって? めんどくさいなあ。


 ――だよね。でも、わたしはそう解釈してる。漠然としたイメージでしかない「憧れの先輩」より、亜以が演じるアイへの気持ちを大事にしてる。


 それから程なくして撮影準備が整い、「アクション!」のかけ声とともに、レースがはじまった。


 最初のレースと同じように、ミアは最初から飛ばした。それが未愛が考えるミアなのだ。対するアイはまたも意表を突かれ、迷いながらも追いすがる。


 未愛がなんと言っても、けっきょくこのレースはミアの勝ちで終わるし、彼女は先輩に告白して結ばれる。そういう脚本なのだ。ミアがどれだけアイを好きでも、友情を越えた感情を抱いていたとしても、最後は先輩への気持ちが勝つ。


 アイだってわかってる。親友が好きな人と結ばれようとしていることにどこか寂しさを感じながらも、自分が勝ったところでどうにもならないことを知っている。なら、せめて親友の恋を後押ししようと思っている。


 鉄橋が迫ってくる。電車が通過して、地鳴りのような音が響く。


 ミアは振り返りもしない。失速しつつも真っ直ぐ走り続けている。


 こんなのは出来レースだ。だけど、ミアがアイを試していると言うなら、アイがミアを試すことも許されるだろう。


 ミア、あなたがどこまで本気なのか教えて。追いかけるわたしを振り切ってみせて。その程度のことができないと言うなら、先輩なんかよりわたしといた方がいい。


 アイは先行する背中をきっと見据え、スパートをかけた。

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