おの湯の恋太郎

こんどうよしひで

第1話

『おの湯』はまもなく廃業となる。

 戦後まもなく杉並区清水の地に先代が開業して七十年。オーナーの小野諭吉は、奥さんの父親である先代から引き継いだその暖簾をひたすら守り続けてきた。

 しかし、さすがに今年、齢八十を迎え、また小野夫妻は子宝に恵まれず、後継者がいないこともあって、店を閉めることにした。

『おの湯』は伝統的な銭湯特有の神社仏閣を模した宮造りだ。

 屋根は、上部が丸い山形の唐破風(からはふ)で、浴室正面に富士山のペンキ絵があって歴史を感じさせる。

 脱衣所は天井が高く格子状に区切られ、その四隅に曲線があしらわれた折り上げ格天井(ごうてんじょう)となっており、宮大工の手仕事で見事だ。ぜいたくな空間にゆったりした時間が流れる。

 脱衣所の壁には大きな柱時計がかかり建築を手がけた工務店の名前が入っている。開店記念に贈られたものだ。

 塗料がはげて錆の目立つ体重計に乗り、瓶の牛乳を飲みながら、脱衣所でくつろぐ常連客。そして煙突からもくもくと立ち上る煙。それらは懐かしい昭和の趣を残す。

 お湯は井戸水をくみ上げてそれを沸かすが、燃料は薪を使っているので、夜十一時の閉店後にお湯をいったん全部落としてから、薪で次の日の湯を沸かし始める。

 湯沸かしと並行して掃除を始めるので、小野諭吉が寝るのは夜明けの四時だ。

 ちなみに、いったん沸かしたお湯は、薪の残り火が保温してくれるので、翌日の昼前からふたたび薪を放り込み始め、一時間ほどかけて浴槽に湯を張ってからは、三十分に一回、薪を足して湯が冷めないように気を配る。窯の温度は五十度を維持する。

 大人の入浴料は四百七十円。定休日は毎週水曜日。休みの少ないきつい仕事だ。とにかく銭湯の仕事は体力勝負だ。

 こんな生活を数十年やってきた中で、インフルエンザで夫婦とも倒れたことが二度あるが、休んだのはその日と十年前に諭吉が心筋梗塞で倒れたときぐらいだ。奥さんのいとこの晴美さんが近所に住んでいるので手伝いを頼むこともあったが、大雑把な性格で掃除が苦手なので、最近は声をかけていない。

 残念なことに、一年ほど前に奥さんが脳梗塞で倒れ、帰らぬ人となった。

 この一年、小野諭吉はなんとかひとりで切り盛りしてきたが、もともと心臓に持病があり、身体がいうことをきかなくなってきたので、今年に入ってからは、引退、廃業を考え始めていた。


 ある夏の日。午後十一時を回り、小野諭吉が表の暖簾を仕舞いかけたそのとき、

「あのう」

 と声をかけてきた青年がいた。青年は、タオルと自前の洗面器をかかえていた。ジャージ姿だ。

「ああ、毎晩来てくれてありがとな」

「ここを今年いっぱいで閉めると聞いたんですけど」

「ああ、そうだが。誰に聞いた? 誰にも言ってないんだけどな」

「みんな知ってますよ。ぼくはそこの中華屋で聞きました」

「来々軒の寛治か。こないだ飲みに行ったときに、ここだけの話だぞ、って念押ししたのにな」

「あの・・・ぼくは前野恋太郎(まえのこいたろう)と言います。

 いま大学四年で、就職活動中で、大学で銭湯研究会をやってまして、その・・・」

「継いでくれるのか? 」

「できれば」

「ちょっと奥へ来いよ」

「はい」

 関東の銭湯の多くが、男湯が右側で、女湯が左側。なぜかそうなっている。

 ここも同じだ。

 男湯の入り口の右側に引き戸があり、そこを抜けると廊下が続き、奥に小野夫婦の住まいがあった。二階建ての日本家屋で、一階の廊下へつながっていた。

 仏間へ通された。

 小ぶりな仏壇の上に先代夫婦と奥さんの写真が飾ってあった。先代夫婦は肖像画のような白黒写真だった。奥さんのカラー写真は笑顔でこちらを見下ろしているように見えた。

 恋太郎には奥さんの記憶がある。

「ご飯ちゃんと食べてる? 」

 番台からよく声をかけられた。気さくで優しい人だった。

「まあ、座れ」

 恋太郎は座布団の上に座った。だいぶ使い古されてくたびれたせんべいのような座布団だった。

 小野諭吉がお茶を淹れてくれた。

「まあ、安いお茶だが飲んでくれ」

 出されたお茶はぬるくて苦かった。

「恋太郎っていうのか? 」

「ええ、恋愛の恋、です。サークルの芸名みたいなもので、本名は」

「恋太郎でいいよ」


 恋太郎は、小野諭吉に気に入られたらしく、『おの湯』を継ぐために、修行を始めることになった。

 歩いて五分ほどのところに住んでいるので、土日は朝の仕込みから参加した。

 小野諭吉は、ガスや重油で湯を沸かすことはせず、近くの解体業者から廃材を安く分けてもらって薪にして燃やした。廃材は大きさがまちまちなので、銭湯の裏庭に積み上げてチェーンソーで適度な大きさにカットする。やってみてかなりハードな作業に恋太郎はため息が出た。

 湯を沸かすのに、ガスの何倍も時間がかかるらしいが、それでも薪で沸かした湯につかった後は、湯冷めしにくく、お湯がやわらかい、というのが、常連のじいさん、ばあさんたちの間での評判だ。そこの差は、恋太郎にはいまいち感じ取れないが。恋太郎は、この四年近くの間に、全国の銭湯におそらく三百件近くつかってきたが、お湯を沸かす体験はしたことがなかった。

 お客さんの経験はたっぷりだが、いわゆる裏方仕事は初めてだ。

 夜十一時に銭湯を閉めて、それから掃除の時間になる。

 掃除と並行して、お湯をいったん全部落としてから、薪で次の日の湯を沸かし始める。

 湯沸かしのボイラー室をときどきのぞいて薪を足しては、浴場に戻って掃除を行う。

 デッキブラシで、タイルの目地を痛めないように気をつけながら磨き、壁のタイルは大きめのスポンジでこする。掃除の後は、冷たい井戸水をかけておく。これがカビの抑制となる。次はゴム手袋をはめて排水口の毛やごみを拾う。石鹸とからんでぬるぬるしている。

「うっ、気持ち悪い」恋太郎は思わず声が出てしまった。

 ケロリンの黄色のオケやイスは、今はやりの銀は入っていないのでカビが出やすく、一個一個よく洗う。石鹸カスがつくとカビやすいのでスポンジで丁寧におとす。手がかかるが大事な作業だ。続いて、脱衣所の床を業務用のモップで拭きまくり、ロッカーの中も掃除しながら忘れ物のチェックをする。


 男湯と女湯の掃除がひと通り終わると、夜中の二時近くになる。

 ボイラーの湯が沸く夜明けを待つ諭吉さんを横目に、恋太郎はしばらく休憩。

 コンビニで買っておいたおにぎりをほおばり、あとは諭吉さんに任せてアパートに帰って寝る。

 平日の昼の時間は一コマか二コマ大学の授業に出て、午後三時半に出勤。四時から番台に立つ。といっても昔と違って番台は脱衣所の中にはなく、十年前に改装して玄関入ってすぐのところにあるフロントタイプなので、女性客がいやがることもない。料金を受け取ったりするだけだ。

 飲み物は中の自動販売機で売っている。昔と比べると少し味気ないが。

 番台の左右に小さなカーテンがかかっていて、脱衣所から両替を頼まれたり、カミソリや石鹸がほしいお客には、カーテン越しに販売する。

「あんた、跡継ぎだって。がんばってね」

「ええ、はい」

「嫁さんも世話しよかね。うちの娘はどうかね」

 常連のおばさんに冷やかされる。美容院のゆう子さんだ。七十五歳だそうだが、五つくらい若く見える。若い頃は美人だった面影がある。カラオケでは、ザ・ピーナッツの「恋のバカンス」を歌うらしい。

 番台では、夜八時台は客が少ない。雨の日はとくに暇だ。

 その間は、恋太郎は、経営の本を読んだりして勉強する。スマホでゲームをやることもあるが。


 修行を八月に始めて、ちょうど半年がたった。

 最後の春休みも終わり、恋太郎は無事、大学を卒業した。

 経営学部だが、おの湯に就職(?)するまでの大学生活のほとんどを全国の銭湯を訪ね歩くことに使った。夏休みと春休みはほとんど旅をしていた。銭湯研究会に所属していたが、後輩の部員が二名だけだったので、研究会はほぼ消滅の可能性が大である。

 授業料とアパートの家賃は両親が払ってくれていたので、居酒屋のバイト代はほぼ全国の銭湯めぐりの旅費に消えた。

 恋太郎はだいぶ作業に慣れてきた。

 愛知の実家には年末に帰省して銭湯を継ぐ件を伝えた。

 恋太郎は次男だから、実家を継がなくてよいので気楽だったが、二つ上の兄貴が地元の国立大学を出たものの、就職せずに二年ほど部屋にこもりっきりでいまだにプー太郎をやっているので、両親は恋太郎に帰ってきてほしかったみたいだ。

 母親は納得してくれたが、父親とは正月から会話がない。


 三月の卒業式が終わったその日だった。

 小野諭吉が倒れた。

 心臓病が悪化したのだ。十年前にいちど心筋梗塞で倒れたことは、恋太郎は寛治から聞いて知っていた。

 深夜、恋太郎が浴槽の掃除を終えて帰宅しようとしたとき、うめき声が聞こえた。

 諭吉が番台ちかくでかがみこんで苦しそうにしていた。

 恋太郎が救急車を呼んだ。

 連絡がもう少し遅れたら危ないところだったそうだ。

 諭吉は荻窪の病院に入院した。ふだんからかかりつけの病院だった。

 翌日、恋太郎が見舞いに行くと、

「悪いな、こんなことになっちゃって」

「おの湯は俺が何とかやっていきますから、安心してゆっくり養生してください」

 諭吉は、横浜出身だが、兄弟との音信もとだえていて、とくに身寄りもなく、見舞いには、もっぱら近所の八百屋の登美子さんや来々軒の寛治さんやら仲間うちが訪れた。


 恋太郎は連日ひとりで『おの湯』を切り盛りした。おの湯に就職したので当然と言えば当然だったが、思いのほか独り立ちが早くやってきた。

 夜中の掃除からボイラーでの湯沸かし、近所の解体屋へ廃材を取りにリヤカーで二往復、午後四時に暖簾を出して、さあ、本日の開店。四時には表で待っている常連客が三、四名はいる。

「一分遅れたよ」と常連客の幸之助じいさん。近所で、車の修理工場を営んでいる。今年、七十五歳を迎えて引退したので、息子が後をやっている。家に風呂はあるが、銭湯につかるのを楽しみにしている。

「あんたもひとりで大変ね」と八百屋の登美子さん。登美子さんも息子夫婦に店を任せているので、銭湯だけが日々の楽しみと言っている。もちろん家に風呂はある。あとは喫茶店でやっている昼のカラオケが楽しみらしい。麻雀もやるのでけっこう楽しみはあるほうだ。


 半月ほどして、人がいないと不用心だというので、諭吉に頼まれて、恋太郎は、おの湯の奥の諭吉の家に寝泊まりをすることになった。

 近所の自分の部屋は解約して、荷物を小野家に運び入れた。服や勉強道具やこたつくらいしかなかったので、おの湯のリヤカーを借りて、一往復で運び込んだ。

 諭吉は退院のめどが立たない。

 一日おきに恋太郎は見舞いに行ったが、行くたびに弱っていくような印象を受けていた。

 そんなころ、ボイラーが故障した。思うようにお湯の温度が上がっていかないのだ。

「ぬるいぞ」

 常連客から文句が出た。

「江戸っ子がぬるい湯につかれるか」

 背中に大きな刺青をした老人だった。

 刺青はしわがよって、昔はもう少し立派な彫り物だったろうが、今は精彩を欠いて弱弱しかった。じいさんが若い頃に若気の至りで彫ったやつだろう。

 絵としてはいまいちかな。風神雷神のデッサンが少し狂っている。恋太郎の感想だが。

「すみません。ボイラーが故障みたいです」

「あっそ。あとで見てやるわ」

 老人は純次さん。八十歳過ぎの近所の水道工事屋だった。本人はまだ現役だと言っているが、実のところは、娘婿が後をやっているので引退も同然だ。

 純次さんは、深夜に道具一式をもってやってきた。額に鉢巻きでカーキ色の作業服のいかにも水道工事のおじさんに変身していた。裏の機械室へまわった。

「ここをこうやって、こうしてああして」

 ボイラーのあちこちのねじが緩んでいたらしい。蒸気が漏れていた。

 一時間くらいで直してくれた。

「このボイラーも年季が入って古いからな。俺の親父の代にうちで取り替えたやつだ。

 おめんとこはもうかってなさそうだし、当面このまま使えばいいさ。壊れたらまた俺が修理してやるからさ」

 修理代は風呂代を一週間ただにすることで純次さんと話がついた。


 数日たったある夜。十一時過ぎに恋太郎が暖簾をおろしていると、

「あのう」

 と声をかけてきた女の子がいた。二十歳くらいに見える目がくりくりした丸顔のショートカットの女性だった。

 いまどきめずらしい赤系チェックの長そでシャツにジーンズ姿だった。小さなリュックを背負い、白いガーゼマスクをしていた。口元は隠れているが鼻の先が出ていた。

「何か? 」

「あの・・・私は信子といいます。

 今、お茶の水大学四年で、銭湯同好会に所属してまして、その・・・」

「悪いけど、バイトは使ってないんだ。給料が払えないし」

「給料はいいんです。掃除でも何でもしますし」

「本当に給料なくていいの? 」

「はい」

 銭湯に関する卒論を書くのでしばらく働かせてほしいというのだ。


 信子は次の日から『おの湯』で働くことになった。

 夕方、四時にやってきて、番台に座ってお金の管理をやったり、滑って転ばないように脱衣所の床をモップでこすったり。雑用の数々をこなしてもらった。

 信子は、あいかわらず白いマスクをしていた。数年前に流行ったコロナ以来、マスクが手放せなくなったそうだ。

 初日から結構手馴れていた。

「おじさん、だめですよ。牛乳のふたはこのゴミ箱にいれてください。冷蔵庫の上に置きっぱなしはだめですよ」

「はいはい」

 おじさんのあしらいもうまいもんだ。

「どこかの銭湯で働いたことあるの? 」

「いえ、他ではとくに」


 数日後の夜八時。小雨が降っている。少し客がすいている時間帯。

 といっても一日平均、六十人来ればいいとこ。採算を割っている。

 恋太郎が番台で経済の本を片手にこっくりこっくり船を漕いでいると。

 信子がお茶を淹れてくれた。

「あっちー」

 でもうまいお茶だった。

 お茶っ葉も急須も同じなのに、お湯の温度、淹れ方の違いかな。

「おいしい」

 恋太郎は、毎晩、信子がこの時間に淹れてくれるお茶が楽しみになった。

 目が覚める。この温度、苦み。

 住所はとくに聞いていないが、アパートまで徒歩で二十分くらいかかるという信子には、暖簾を下ろしたら十一時過ぎに帰ってもらう。

「雨が強くなってきたね」

 恋太郎は信子の顔と表の雨を見比べる。

「これから浴槽の掃除をするから、いっしょにやる? よかったら泊まっていったら。

 二階の部屋が空いているし」

「はい」


 恋太郎から掃除の仕方をひととおり教えてもらい、信子はデッキブラシやスポンジを使って段取りよく女湯の掃除を終えた。しかも恋太郎の男湯の掃除より早く。

「やっぱりどこかでやったことあるでしょ」

「そんなことないです。見よう見まねです」

「筋がいいのかな」


 その晩は、小野家の二階に布団をしいて信子に泊まってもらった。

 朝七時。

 起きてきた恋太郎は、ちゃぶ台をみて驚いた。

 ご飯とみそ汁と卵焼きと、そしておしんこが、並んでいた。二人分。

「え、どうしたの」

「ご飯ちゃんと食べてます? 」

 聞き覚えのあるフレーズだった。

「食べてるよ、ほとんどコンビニだけど」


 この日から、信子が小野家の二階に居ついてしまった。

 恋太郎も初めは、恋人でもないのに同居はまずいよな、とか思ってみたが、最近は結婚前に同居するカップルも多いというし、一階と二階に分かれているし、仕事をしてもらうんだし、住み込みの従業員ということで、ま、いいよな、いろいろ言い訳を考えたりした。

 それに、ご飯も作ってくれるし、そのほうが健康にいいし、小野諭吉さんもわかってくれるよ、とか良い方に考えたりもした。

 近所の人たちには、妹だよ、ということにした。しかし、来々軒の寛治さんには早々に見抜かれてしまった。

 来々軒の寛治さんが湯につかりに来た時に、

「いいこ見つけたんだって」

「え? 」

「みんな知ってるよ。小野さんもこれで安心だな」

「ち、違いますよ」と言いながらも、恋太郎は否定する気持ちもなかった。


「荷物はこれだけ? 」

 恋太郎がたまたま二階に上がったとき、襖が少し開いていたのでついついのぞいてしまった。 

 チェックの長そでシャツとジーンズがハンガーにかかっていた。

 チェックのシャツは、赤系と青系の二枚だけ。

 物干しハンガーには、洗った白マスクが二枚かかって窓からのすき間風に揺れていた。

 化粧道具はなさそうだった。

「女の子なのに、地味だな」


 信子は、近所で評判になった。

 恋太郎の嫁さんだ、という噂もとびかった。

 番台に座っていると、水道工事屋の純次さんがすりよってきて、

「嫁さんもらったんだって」

「ち、違いますよ」

「みんな知ってるよ。俺は来々軒で聞いたぞ」

「あのオヤジめ」


 このころになると、小野諭吉に、意識障害が出始めた。

 一週間ぶりに恋太郎が見舞いに行くと、

「親切にしていただいてすみません」

 恋太郎と認識していなかった。先週は僕とわかっていたのに。恋太郎は悲しくなった。

 看護師さんが分厚い封筒を持ってきた。

「諭吉さんから預かりました」

 恋太郎が中を見ると、相続の書類だった。銭湯及び家の権利を譲ってくれるというのだ。

 小野諭吉は意識がしっかりしているときに司法書士に頼んでいた。


 男湯の浴槽で水漏れが見つかった。

 以前からそういえば湯の量が減っていることに感づいてはいたが、今週になってかなりひどくなり、一時間前に足した湯が、半分になっていた。

 大きな浴槽の方でそれが起こっている。これは一大事だ。

 水道工事屋の純次さんを呼んで、閉店後、見てもらったが、配管からやり直さないとあかんということだったので、とてもお金がないのでどうしたものかと思案していると。

 奥から信子がやってきて、

「高井戸の旭屋さんに頼んでみたら」と言った。

「ああ、旭屋さんか。昔、来てもらったことがあったよな」

 水道工事屋の純次さんは旭屋のことを覚えていた。

 銭湯業界では有名な修理屋さんだそうだ。

「でもなあ、俺が若い頃の人だからな、きっと死んでるぞ」

 念のため、番台に置いてあった電話帳で恋太郎が調べると、

「あった」


 翌日、恋太郎が旭屋に電話した。

「はい、もしもし旭屋です」

 つながった。

 さっそく、その日の午後一番に来てもらった。

 旭屋のおやじは、意外と若かった。小太りで角刈りで眉毛の濃い五十歳くらいの男だった。

「ああ、俺は二代目です。親父は五年前に死にました。

 俺は子供のころ、親父と一緒にここに来たような記憶があります。

 さあ、どこから漏れてるかな。かな、かな」

 旭屋は楽しそうだった。ここをこうしてこうしてこうやって。

 旭屋はお湯を張った問題の浴槽に、持参したキッ〇ーマンの醤油さしを差し出し、そして数滴、醤油を垂らした。

 ぽっとん、ぽとぽと・・・

 すると。

 醤油のしずくが筋となって吸い込まれていくではないか。

 浴槽の隅の奥深く。

「ここだね」

 湯を抜いて、旭屋は浴槽の漏れているらしい隅に、手慣れた様子でヘラでパテをこねて押し込んだ。

「応急処置ではあるけど。これで一年はいけるよ。また一年後見てあげるね」

 修理代は出張費込みで二万円だった。

 それにしても信子は何で旭屋を知っていたんだろうか。

 もうすぐ四時だな。開店の支度を急いでしなくては。

 信子は何してるんだ。

 いつもこの時間には番台に出ている信子がいないので、恋太郎は小野家に呼びに行った。

 一階にはいない。二階に上がる。

 襖が少し開いていて。

「信子」

 返事がない。

 中をのぞく。誰もいない。どこへ行ったんだ。

 壁のハンガーにチェックのシャツもジーンズもかかっていない。

 部屋に入った。ぷーんとカビ臭いにおいが鼻をつく。

 一階におりる。流し台は、きれいに片付いて。まるで使っていないようだ。

「信子・・・」

 ボーンボーンと廊下の柱時計が四時を告げた。


 その日、信子は銭湯に現れなかった。

「そういえば携帯聞いてたな」

 番台から恋太郎は信子の携帯に電話してみた。

『おかけになった電話番号は、現在使われておりません』

 つながらない。

 ・・・信子が消えた。


 その日の深夜。

 掃除を終えて一服している恋太郎の携帯へ電話が入った。

 荻窪の病院からだった。

 小野諭吉が死んだ。


 数日後。

 寛治さん、純次さん、登美子さんら、町内の友人たちが近所のホールに集まって内輪だけの葬式を行った。

 この日、おの湯は臨時休業となった。

 葬儀を終えて小野家にみんな集まり、賑やかな送る会となった。

 夜遅く、みんな帰った。恋太郎が、小ぶりな仏壇に骨壺を置いた。

 せんべいのような座布団に座って見上げると、先代夫婦の写真があり、そのとなりで奥さんの写真が微笑んでいた。

 仏壇のろうそくに火をともす。手を合わせる。傍らには相続の書類が。

「諭吉さん、俺やっていけそうな気がする」

 仏壇の薄明りの中、先代夫婦の位牌があり、その横に奥さんの位牌が見えた。

『小野信子之霊位』とあった。

 信子がそこにいた。                 〈了〉


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