ソロ人類、佐藤(仮)さん

人生

 孤独の研究、無限立ち読み編




 朝になると目が覚めて、夜になると眠りにつく。

 決められた周期をなぞる私はまるで、自然や天体のようなものとなってしまった。


 そもそも、私は人間だったのだろうか。


 顔があり、手が二つ、足も二つ。顔には目と耳が二つ、鼻と口が一つずつある。手と足にはそれぞれ指が五本ずつ。地に足をつけ、立って歩き、時折座って一息つく。


 形状や行動は健常者のそれと変わらない。


 しかし、私には新陳代謝が欠けている。


 汗をかくこともなければ、排泄もない。当然腹が空くこともなく、食欲もない。


 朝、決まった時間に目を覚まし、夜、決まった時間に床につく――


 私は、生きているのだろうか。

 もしかすると、私は幽霊なのかもしれない。


 ただ、先述の通り足は二本あり、いずれも地についている。立って歩き、必要に駆られれば走ることもあるが、しかし汗はかかないし、疲れもほとんど感じない。その気になればいつまでもどこまでも走り続けられるのだろうが、その必要性を感じないので試したことはない。


 私は何者なのだろう。

 人間だと思っていたが、もしかすると天使や悪魔、あるいは神のようなものの成れの果てなのかもしれない。


 なぜなら、私には現在に至るまでの記憶がほとんどないのだ。

 気付けば、無人の都市のマンションにいて、そこで目を覚ました。そこが自分の家であるという実感はあったが、そこで過ごした記憶が欠落している。


 ただ、外に出て、誰もいない世界を見まわしていると、一つ、思い出したことがあった。


 かつてこの世界では、大きな争いがあった。

 その結果として、人々はこの世界から姿を消したのだ。

 もうこの世界には私以外に誰もいない――その私も、もしかするといずれ消えてしまうのかもしれない。


 最近、自分が何者なのか思い出せなくなってきている。

 恐らく、名前は佐藤だった。いや、斎藤か。佐渡だったかもしれない。分からない。


 これもかつての争いの影響なのだろうか。

 放射線とか、そういう類の、身体に害のあるエネルギーを浴びてしまったのではないだろうか。そのせいで、私は人間性を欠いてしまったのだ。


 なんにせよ、こうなってしまったからには仕方ない。


 食事も、排泄も、仕事も趣味も――およそ文明人的な活動に必要性が見いだせなくなってしまった私は、今日も目覚めた時と同じスーツ姿で無人の都市を徘徊する。


 時間だけを持て余してしまった今の私にとって、人類文明の築き上げた遺産だけが生活を潤す術だった。


 本屋に立ち寄り立ち読みしたり、レンタルビデオ店で映画を物色したり――そうやって、夜になるまでを過ごす。


 恐らくだが、昔の――こうなる以前の私はきっと、そういう怠惰な生活とは無縁だったのではないだろうか。スーツ姿をしている通り、きっとどこかの会社に勤める一サラリーマンだったのだろう。

 自宅には、家族がいた痕跡もあった。飾られた写真に写る、私と同じ顔をした男と、妻らしき女性。思い出せないが、きっと私には家庭があった。


 人のいた気配の残る部屋というのは、なんだか寂しさを掻き立てられる。

 孤独、というのだろうか。

 一人、静かな部屋にいることは躊躇われ、私はこうして外出し、エンタメで心を満たす日々を送っている。


 ただ、孤独というものも別に悪いものではない。それは不幸とか、悲しさとか、そういうものとは異なる心の状態を表すものだ。孤独がつらい、悲しいと感じることはあっても、孤独それ自体がつらかったり悲しいものではない。それは、本人の捉え方次第である。


 一人で歩いていると、いろんなことを考える。今日はどこへ行こう、何をしよう。私はどこから来て、どこへ行くのか。家から来て、今日は本屋へ行くのだ。そんなとりとめのないことを考える。他の人間はどこへ消えたのだろう。宇宙に出たのか、地下に潜ったのか。それとも私の眼には見えないだけで、この世界のどこか、海の向こうや次元の彼方にでもいるのかもしれない。

 孤独というのはつまり、他者への関心の裏返し、あるいはその気持ちの一つのかたちなのだろう。


 昔の私はきっと、孤独ではなかった。家に妻がいて、会社には同僚が、休日には友人たちと一杯飲んだりしたのかもしれない。

 それが失われた今、私は孤独ではあるが――多分そのころには考えることのなかった、彼らのいた意味を考えることが出来る。彼らと離れ、より自由な思考に没頭することも出来る。


 似た言葉に、孤立というものがある。

 孤独が心の状態を表すなら、孤立はより物理的で表面的なところにウェイトが寄ったものではないだろうか。単純に一人でいるというより、集団から離され、一人にさせられている――あるいは自ら離れ、一人になっている状態。


 ソロキャンプとか、自ら人里を離れ一人でキャンプをする趣味のようなものがあるが、あれは孤立しているのではない、ただ、「一人の時間」という孤独を楽しみたいという欲求があるのだろう。


 私も、きっと以前ではこうして特に目的もなく、外を出歩くなんて真似はできなかった。

 家があり、仕事があり、生活があり、予定があったから。今は帰るところはあっても、特に私を縛り付ける何かはない。だから自由に、やりたいと思ったことを出来るのだ。


 孤独は楽しめるが、孤立はそうではない。

 人には一人の時間が必要だが、集団の中でそうなるのは自然なことではないのだ。


 孤独は自由であるが、孤立はきっと不自由だ。

 孤独は誰かとのつながりの有無を感じられるものだが、孤立はただ隔絶している。


 であるならば――現在の私の状態は、どちらかといえば孤独なのだろう。


 私が人類の遺産に時間を割くのもきっと、かつてそこにいた人々の気配を感じたいがためなのだ。


 本屋にたどり着き、週刊誌を手に取る。前に、別のコンビニで見かけた雑誌だ。その時と同じ表紙。来週号が出ることは、きっとない。続きが読めない、終わりの見えない漫画を読むことは躊躇われたが、今日はなんとなくその雑誌を読んでみたい気分だった。


 ぱらぱらとめくる。なんとなく目を通す。


 きっとこの雑誌が発売された当日なんかには、ネット上でその感想が出回っていたのだろう。そうしてみんなが気持ちを共有する。時には自信が感じ、考えたことを吐き出したくて、時には一人では受け止めきれない感情を誰かの言葉で中和したくて。


 私のこの感想は、どこへ遣ればいいのだろう。


 面白いと、感動しても、誰にもこの気持ちを伝えることが出来ない。


 私は今、孤独を感じている。


 話し相手が欲しいと思った。


 しかし、そんな相手はどこにもいない。

 スマートフォンでもあれば、AI相手に会話の猿真似が出来そうだが、生憎と電子機器の類はほとんど使用できない状態だ。今や、かつて三種の神器と呼ばれた一部の家電がまさしく神器がごとき価値を持つ。珍しく価値が高いが、とくに利用価値がないという意味も含むが。なぜなら、テレビをつけても番組は流れていないし、私には食事の必要も、服を着替える理由もないのだ。


 動物を捜してみたこともあるが、これも見当たらない。いたとしても、しょせんは独り言だ。


 私の活動全てがソロなんとかと呼ばれるものになるのだろう。ソロ歩き、ソロ呼吸、ソロ生存。なにせ、この世界にはもう私のほかに誰もいないのだから。


 私は、いつまでこうしていられるのだろう。

 睡眠はしても食事の必要のないこの体。あるいは不死にでもなったのか。試してみようとは思わないが、いつかはそういう気も起こるかもしれない。


 ソロ自殺。まあ、自殺は大抵の場合ソロなのだが。人を巻き込むのは心中という。


 心中、心の中、か。語源はよくわからないが、私が死ぬとするならきっと、この心の中が空っぽになったときだろう。

 やはり人には、エンタメが必要なのだ。

 下らないと思っていたバラエティー番組も、こうして思えば意義のあるものだった。


 何か、最後の人類として出来ることはないかと考えた時、私は未来に何かを残そうと思った。

 ノート、カメラ、ビデオ、レコーダー……そうしたものを収集する。スマホの便利さを痛感した。


 自分の想いをつづったり、言葉にしたり、そうして吐き出すことで少しでも己を保つことが出来れば幸いだ。


 それでもいつかは、私も消えてしまうのだろう。

 子孫を残すことが出来ない私は、細胞分裂して増殖でもしない限り――こうして残した私の生きた証も、誰にも伝わらず埋もれてしまう。


 いつか、いつか遠い未来にまた、人類が再興することがあれば――この記録も、意味を持つのだろうか。


 私の名前は、佐藤――いつか、このメッセージを受け取る誰かよ。

 どうか、我々と同じ過ちを繰り返さないことを願う。


 一人はやっぱり、寂しいものだ。

 最後の時には誰かといたい。

 たとえ明日死ぬとしても、傍に誰かがいてくれたら、きっと。



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