マジック・アワー【KAC2021 お題『ソロ○○』】

石束

マジック・アワー

 シーズン終了間際の11月8日。ペナントレース24回戦は、午後1時試合開始のデイ・ゲーム。


 すでに優勝チームも決まり、後は個人成績と日本シリーズの行方の方に気持ちが向きがちなリーグ3位と5位のチームの消化試合。それでも熱心な地元ファンが今日も球場を訪れてくれたので三万人収容のスタジアムは8割5分から9割の入り。主催球団側としては有難いとしかいいようがない。だが、であるにもかかわらず。試合の方はといえば、ここまで7勝を挙げて来季の活躍が期待された若手のエースが大乱調。

 序盤に先発投手が撃ち込まれたチームは3回までに5点、6回までにさらに3点取られるというすっかりおなじみの雪崩のような「投壊」現象を起こし、スコアは中盤ですでに8対0。しかも緊張感もくそもない点数差ゆえにか、三つのエラーと7四死球が飛び交う腑抜けぶりである。試合序盤で選手もファンもあきらめムード。まさに今年のチームを象徴するようなグダグダぶりに、ホームゲームなのに7回でファンが帰ってしまいそうな試合だった。


 ところが。9回になっても観客は誰も席を立たなかったのだ。


 相手チームのエース 前場総司(ぜんば・そうじ)が9回まで一本のホームランも一本のヒットも許さず、またただ一度のフォアボールもデットボールも出していなかったからだ。

 ヒットランプは一度も点灯せず、スコアボードには0がならぶ。

 球場は6回あたりから既にさざめき始めていた。


 一試合を一人の出塁も許さず27人で終わらせることをパーフェクトゲーム――『完全試合』と呼ぶ。


 長い日本プロ野球の歴史で完遂者はわずかに15人。

 もしも達成すればNPBでは30年ぶり、前場の所属チームでいえば実に54年ぶりという快挙になる。


 もう席を立つどころか、グラウンドの野手も両軍ベンチもブルペンも3万人収容のスタンドも、ピリピリとした緊張感が漂っていた。

 偉業達成となればめでたい事のように思えるが、それが敵チームとあっては、スタジアムの雰囲気も微妙にならざるを得ない。

 そんな微妙な雰囲気のスタジアムに、今、その試合の27人目のバッターとして代打、河路雄介(かわじ・ゆうすけ)の名前が告げられた。


 河路は今年10年目の29歳。俊足好打のショートストップとして期待されたが、下半身の故障に泣かされ、なかなか結果を出せなかった。しかし数球団を渡り歩いて古巣に帰ってきた今シーズンは長打力を見込んで主として代打として起用されて、ついに「結果」を出して見せた。

 90試合に出場して185打数65安打 打率351。

 元々打撃センスには定評のあった選手であるから、体調が万全で球が見えていればこのくらいはできたのだ――とは、彼を起用した監督の弁である。

 ただし、打点は20にとどまり、代打成功率は高いもののチャンスに弱いとも評されていた。得点圏打率もいささかものたらず、11本ある代打ホームランもすべてソロホームランだった。

 だからこそ、というべきか。今シーズン後半は試合の終盤回の変わり目で起用されヒットでチャンスを作り、あるいはソロホームランで流れを変えたいという場面で呼ばれた。

 最近のファンは記録に詳しいから監督の起用の流れもすぐに理解した。夏頃から河路の起用のタイミングが読めるようになると代打のコールとともに、

「反撃ののろし 仕事人河路雄介」

と書かれた横断幕がライトスタンドに現れるようになった。

 なかなか勝てず、ファンにとっては応援しがいのない今シーズンであったが、それでもファンはそれぞれに楽しみを見つけるものだ。チーム自体は早々と優勝戦線から脱落したが、そんな中でも「代打5打席連続安打」なんて「代打の神様」候補が突然現れれば、球場通いも楽しくなってくる。

 だから夏以来代打コールとともに河路の名が告げられると、ファンが歓声をあげるようになった。その河路の名前がこの試合、この土壇場でコールされる。

 今回も彼の名前とともに歓声があがる……あがりはしたのだが、いつもに比べて少々盛り上がりに欠けた。


 最近のファンは記録に詳しい。また球場に通うようなファンは自分が見た試合をよく覚えている。

 河路と前場の相性が悪く、今シーズン一本のヒットも打っていないことを思い出したのだ

 本人同士の相性か、それとも今シーズン、ご贔屓球団をいささかながら盛り上げてくれた代打男への期待か。微妙に気持ちの天秤が揺れる中、あからさまに完全試合阻止のために送り込まれたのが河路だった。

 しかし、そんな彼が、かつて前場と同じ年のドラフトで同じチームに入団したことを思い出している人間が、このスタジアムに何人いたろうか。


 ◇◆◇


 河路と前場は同じ年のドラフトでプロ入りした。とはいえ片や大学野球のエースで即戦力、こちらは甲子園にも出ていない県立高校の遊撃手。三年目になって河路が一軍入りを果たした時には前場はチームの勝ち頭になっていた。

 それでもプロだと胸を張れるようになった河路は故郷から出てきた幼馴染を食事に招いた。幼馴染は野球部ではマネージャーを務め少し大げさに言えば苦楽をともにした仲だった。

 そんな同志めいた思いで招いた再会だったが正直河路は狼狽えた。彼女は驚くほどきれいになっていたのだ。

 浮かれた彼はチームメイトやスター選手である前場を紹介した。先輩たちと一緒の食事会は大変もりあがり河路は慣れない酒を飲んで結局潰されてしまった。

 もっと話したいこともあったのに彼女は帰ってしまい、河路も練習と移動の日々に戻った。

 彼女とはその後音沙汰がなかった。他人行儀な年賀状と暑中見舞いが届いたがそれだけだった。

 河路は充実のシーズンを送って年俸も二倍になった。


 ひそかな決心とともに自主トレ前の正月に河路は帰郷し、そこで――幼馴染の口から前場との婚約を告げられた。


 ◇◆◇


 ネクストバッタズサークルで二度、三度と素振りをする。そして、グリップエンドで地面を叩くようにしてバットからウエイトを外す。

 同じルーティーン。ルーキー時代から馴染んだ球場だ。サークルからボックスまでの距離も練習と同じ。そこを同じ歩幅同じ歩数で歩く。

 代打になってから、ついた習慣だった。


 ケガの多い野球人生だった。二軍で調整する時間が長くなるほどに実戦の感覚が薄れた。

 復帰の目途がつくとトレードに出された。戸惑いも憤りもあったが、環境が変われば野球も変わる。得るものはあった。渡り鳥のように数球団を移り、今シーズンFAで移籍した前場と入れ違うように古巣へ帰ってきた。

 不思議なめぐりあわせという外ない。

「……」

 ボックスから見る前場は憎らしい程に落ち着いていた。

 完全に『上』から来てる。こちらを見下している。打てそうにもない。そう思った。

 そんな河路の脳裏に数日前の記憶がよみがえった。


 ◇◆◇


 その日、遠征先のホテルに河路あての外線電話があった。河路の姉からとのことだったが、河路には妹はいても姉はいない。

 いぶかしみながら相手の発声を待つと、声ではなく幽かに鼻をするような音が聞こえた。

 ただ、それだけだった。

「――――」

 受話器を耳に当てて、どれくらいそうしていたろうか?

 マネージャーと心の中だけで呼んでから、河路は言った。

「俺が打ったら、あいつと別れろ」

 返事はなかった。ただそのまま、受話器の向こうから気配が消えるまで、河路はずっとそうしていた。


◇◆◇


 唐突にファンの声がした。


「河路ぃぃぃ。なんとかしてくれええええ」


 まるでライトスタンドを代表するかのようなその声が、野球場の喧騒の一瞬の空隙をついて、フェンス越しに聞こえてきたのだ。

 わずかながらに空気が緩み、スタンドがざわめき、拍手が起こる。

 ふっと河路は片頬をあげた。この異様な雰囲気に金縛りにあっていたのはどうやら自分だけではないらしい。

 河路は体の軸に合わせて真っすぐにバットを立てた。

 そして、いつも通りに構えに入ろうとして一瞬動きを止めた。

「……」

 美しい空だった。11月の高く澄んだ青空と随分早くなった日の入り。

 それほど長い試合でもなかったはずなのに太陽は沈み切っている。

 でも、空にはまだその余光があった。

 原色の青と赤が散らばる空に、鮮やかな芝の緑がよく映えていた。


 ――マジック・アワーだ。


「すとん」と肩から力抜けるのを感じた。

 もう一度ルーティーンを繰り返す。自然体に立ち、体の中心線に添うように真っすぐバットを立て、ロゴマークを確認し、バットを構える。

 グリップ位置の高い、独特の構えだった。


 見据えるマウンドに前場がいた。河路は今そこに初めて前場の姿を確認したかのように思っていた。見上げた空が美しかった。ただそれだけのことで、世界全てが塗り替わったような気がした。


 先ほどまでの余裕はどこへか、前場はいら立って目がつり上がっている。

 あるいは河路の変化に気づいたのか。


 前場が投球モーションを始動する。

 100球を超えてなお緩やかで、滑らかな、しかし力感溢れる堂々たるフォーム。そこから放たれたボールが糸を引くようにストライクゾーンへ――

「――っ」

 いつ自分のスウィングが始動したのか河路にはわからなかった。ただ、反応した。

 一瞬空振りしたのかと思うほどに、軽い手ごたえ。振り切った後で前場が投じた球種がスライダーであったことがわかった。

 それほどに、濃密な刹那だった。


 河路はバットを振り切った。完全に振り切った後、バットを高く遠く放り投げた。

 打球の行方を確かめる必要もなかった。

 白球は、虹色の空を横切って、場外へ消えていった。


 静かだった。誰もが息を飲み込んで、目の前の光景に魂を奪われていた。


 サヨナラホームランでも、満塁ホームランでもない。すでに決着のついた試合に悪あがきのように刻まれるたった1点。

 たかが、1本のソロホームラン。


 だが、次の瞬間、スタジアムは奔騰するような歓声に包まれた。

 

 中空に投じたバットが地上に落ちるのを待って、河路はダイヤモンドをゆっくり走り出した。


 完


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