水底に沈む弔いの声

クロロニー

水底に沈む弔いの声

 水着に着替えてからテントをこっそり抜け出し、夜の皆摸川みなもがわに臨む。水面には僅かな月の光が差して、うっすらと銀色がかっている。私は小型ボンベの準備をすると、生温い水流の中へ足を踏み入れ、そして川の中央へと歩みを進めた。中央の水深は約3メートル。水面はあっという間に頭のてっぺんを追い越していった。

 不意にこの川が『皆喪川』であるということを思い出していた。


***


「皆摸川って上流では『皆喪川』って呼ばれていて、そこにある滝が自殺の名所なんだってさ」

 キャンプ行きのバスの中でそう言ったのは他ならぬ私だった。中学生生活最後の夏休み、友達三人と行くキャンプに少し浮かれていたのだ。その場の盛り上がる話題になればいと思ってつい知っていることを得意げに話してしまったのだ。だが他の三人は気味悪そうに顔をしかめるだけだった。そのうち小学校からの親友のマリが呻くような声で、

「あんたなんでそんなことばっかり知ってるのよ……」

 と呟いた。私たちは到着してから日が暮れるまで、キャンプ場脇の皆喪川で水浴びをしようという計画を立てていたのだ。私は図らずもそこに水を差す形になってしまったわけだ。その空気を察してからしばらくの間、もしこれのせいで川遊びが中止になったらどうしよう、と不安な気持ちに駆られたが、トランプが盛り上がったおかげで到着する頃にはみんなケロッと忘れていた。


***


 私は小型ボンベを咥えながら川底を目指して足をバタつかせる。水の中に潜るのは好きだった。身体全体にかかる浮遊感はまるで宇宙空間にいるかのような気持ちのいい高揚感があるし、ゴーグル越しに見る穏やかな水中世界は不思議と安らぎを与えてくれるのだった。その安らぎはそこに人間が介在していないという安心感からくるのかもしれない。

 だが今回の目的は水中世界を楽しむことではなかった。昼間に聞いたあの音――いや、声の正体を突き止めるためだった。

 そのためのソロ遊泳だった。


***


 みんなが岸の近くの浅いところで浮き輪を沈めたりビニールボールをぶつけ合ってキャッキャするのに時折参加しながら、私は川の深いところを探して川の両岸を行ったり来たりしていた。遊んでいたところよりも少し上流のところにひと際深いスポットがあって、私は他のみんなを見失わないギリギリの距離感を保ちながらそのスポットを潜ってみた。川の中では種類も知らない10センチくらいの魚が泡に驚いて散り散りになっていく。本当は小型ボンベを咥えて長い時間潜っていたいのだけど、流石に友達がいる状況でそんな無粋な真似は出来なかった。鞄の中には入れていたのだけれど、取り出す決心まではつかなかった。だからサッと潜って川底にタッチして、そして水面に戻ってくるくらいで考えていたのだ。しかしタッチする直前に不思議な音が聞こえたのだ。それはひどく不明瞭で色々な声がごちゃ混ぜになったかのような声だった。一瞬、父の声かと思って心臓が飛び跳ねそうなほど、人間の声っぽい音だった。その声は川底から1mほど離れると聞こえなくなったが、水面に近づくと今度は別の声が聞こえた。私は水面から顔を出した。するとすぐ傍の岩の上にマリが座っていた。

「そこにいたんだ」

 マリはそう言って立ち上がった。どうやらそろそろ川から引き上げようというらしい。危ないから勝手な行動しないよね、と少し苛立たしげに呟いていたのが私の胸にチクりと刺さった。


***


 川底に手を触れ、そして身体を底石に密着させる。昼のような不明瞭な声が聞こえる。私は耳を澄ませてなんとか聞き取ろうと耳を澄ませる。するとノイズが多かった昼間に比べてなんとか音と音の区別がついた。

「観自在菩薩行深般若波羅蜜多時……」

 お経だ。法事とかでよく聞くあの般若心経だった。不明瞭な声などではなく、単純な調子で耳馴染みのない言葉が並んでいるからこそ、頭に言葉として入ってきていなかっただけだったのだ。

 それからしばらくはお経が続き、やがてそこに混じる誰かのすすり泣くような声。そうだ、これはお葬式会場の音なのだ。だけど、誰のお葬式? もしかしてこの川で亡くなった人の?

「この度は――」

 私の心臓が飛びあがった。これは父の声だ。父の声はいつも私の心臓を飛び上がらせる。私はとても嫌な予感がした。この先の言葉を聞きたくなかった。しかし聞き取れてしまった。

「――陽子のお葬式にお集まりいただき――」

 私だ。これは私の葬式なのだ。私は棺の中にいて、そこでこの音を聞いているのだ。どうして私は死んだのだろう? いつ私は死ぬのだろう? 父の声が今と変わらないということはそう遠い未来ではないということなの? 私はいくつかの死に方を想像してみた。車とぶつかって死ぬ、誰かにナイフで刺されて死ぬ、マンションの屋上から落ちて死ぬ、病気になって死ぬ――ありえなくはない様々な死に方を想像した。そのどれもが明日に訪れても不思議はないことに気付き、私は恐ろしい気持ちになった。そして少しホッとする気持ちもあった。

 ――よかった。私が死んでも悲しんでくれる人がいるんだ。

 啜り泣きに混じったマリの声がうっすらと聞こえる。親友が悲しんでくれるならいい死に方だと、そんな風に思う。

 そして私は今ようやく、自分がうっすら死にたいと考えていたことに気付く。きっと私がちょっといなくなっても誰も気に留めないと思っていたのだ。私なんてそれくらいの存在で、だからこそみんな私の意見も言葉も尊重しないし、私ばかり周囲を窺って気苦労ばっかりさせられる。たまに自分を出そうとしても「空気が読めないやつ」と白い目で見られる。だからこそいっそ死んでしまうことで、今まで蔑ろにしてきたことを後悔させてやろうとそういう気持ちがあったのだ。ただ、どうせ死んでも誰も悲しまないだろうと思ってその気持ちにブレーキをかけていたのだ。

 私には一つだけ想像するのをやめた死に方があった。それは今すぐこのボンベを取り外して、水を大量に吸い込んで窒息するという死に方だ。

 マリの啜り泣く声を聞きながら、私はボンベから口を外そうとしたその時、マリがヒクっとしゃくり上げた。息を限界まで吐き出す音。それからまたヒクっヒクっと続けてしゃくり上げる声。私はマリのそのやり方を知っていた。あれは、大人を騙す嘘泣きの方法だ。小学生の頃から何度も傍で見たマリのやり方だ。今までどれだけの大人がそれに騙されてマリを甘やかしたか。マリは私が死んだところで全然泣いてなんかいなかった。ただ大人から同情をもらうために悲しんでいるフリをしているだけだった。私の死をダシにして。

「――あいつ、頭おかしーんじゃねーの」

 マリのそんな声が頭の中で響いた。いや、これは今耳から入ってきた声じゃない。頭の中に最初からあった声だ。昼間の私が水面に上がる時、偶然耳に届いたマリの声だった。私がマリとの仲に疲れを感じ始めていたように、マリもとっくに私のことを嫌いになっていたのだ。空気を読めないから? 一人で勝手に行動しようとするから? 勝手について来ようとするから? 話すことが面白くないから? たぶん、全部そう。私が私であることが、マリにとってひどく目障りだったのだ。そしてとっくに破綻していたものに私はしがみ付いていたのだ。全てが馬鹿らしくなった私は水面に浮上し、口からボンベを外しながら岸へ向かって泳ぎ始める。世界にまるで自分一人しか生き物がいないかのように、水を切る音以外何も聞こえてこなかった。

 無事に岸へと辿り着いた私は、岩の上に用意していたバスタオルを引っ掴む。そして頭からつま先までずぶ濡れの身体を拭きながら、ふと向こう岸を振り返る。すると女性の裸体が岩陰に打ち上げられているのを見つけた。ピクリとも動く気配がないので、おそらく死んでいるのだろう。これはきっと私だ。無意味に死ぬことを選んだ馬鹿な私。せめてものの自分が第一発見者になってあげようかと、スマホを取りに足早にテントへと向かった。しかし結局警察には通報しなかった。どうせ明日には誰かが見つけるし、みんなを起こしたくなかった。


 キャンプから帰って夏休みが明ける頃には私とマリの仲は自然消滅していた。元からそうだったかのように、誰もそのことを気に留める人はいなかった。

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