いつか誰かが死んだとき

キノハタ

いつか誰かが死んだとき

 おじいちゃんの訃報はある日の夜、何気なく届いた。


 電話越しの母親は少し疲れたような声で、その事実をどこか虚ろに告げた。


 あんたは葬式、帰ってこれる?


 ごめん、今仕事忙しいから、多分、無理かな。


 そう、身内だけでこじんまりとやることになったから。また、出せるときに顔出して。おじいちゃんも喜ぶから。


 うん。


 母親は最後に軽くため息をついた。


 そんな短いやり取りを終えて、僕は通話を切った。


 おじいちゃんが死んだ。


 初めて、近しい誰かが死んだ。


 いや大昔にひいばあちゃんが死んだ時があったはずだけど、僕はその時物心ついてなかったから、よくわからない。


 とりあえず、意識して僕の人生の中にいる誰かの死を見るのは初めてだった。


 ……。


 涙は出てこなかった。


 悲しいとも思わなかった。


 最初に浮かんだ言葉は「勘弁してくれよ」だった。


 今、仕事が忙しいんだ。プロジェクトの真っ最中で、僕が抜けると穴埋めの人員がいない。


 一日二日ですら抜ければ現場が崩れる。しかも、そんな働き方をしているから、休みの日も正直動く気力がない。


 友達と少し前に喧嘩した。疲れにかまけて出していない役所の書類がある。保険の更新が、賃貸の更新が迫ってる。


 私生活でそれだけ悩み事がある。仕事の悩み事は正直あげればきりがないから、普段はわざと忘れるようにしている。


 何より、実家は遠くて、この疲労でそれだけの距離を無理に動けば体調を崩すのは目に見えていた。


 向かうことはできない。


 薄情もの。


 という声がした。母親の声だ。多分、大昔、高校生くらいの頃に言われた言葉だ。


 その時の僕は、どう返したっけ。


 ……確か、うまく答えが返せなかったんだ。



 ※



 おじいちゃんが死んだ。


 肺炎だ。


 認知症と足腰の病も併発して、全身ボロボロだった。


 よく病院で夜徘徊しているのを、母親が愚痴っていたっけ。


 つらい。苦しい。


 そんな言葉を、正月や盆に実家に帰るたびに、母親の口から聞いていた。


 その言葉に、僕も父親もうまく言葉を返せなかった。


 返しようがなかった。


 何もできないし、出来たとして僕の人生を大きく削られてしまう。


 それは嫌だ。


 わがままなやつ。


 どこか遠くで声が聞こえた。多分、中学生くらいの頃に、同級生に言われた言葉だ。


 あの時も、僕は確かうまく言葉が返せなかったんだっけ。



 ※



 おじいちゃんの訃報が届いた翌日、当たり前だけど仕事はいつも通り行われる。


 狭い現場を人が所狭しと動いて、何か異常があるたび僕に報告してくる。


 状況に応じて、取捨選択。優先度の高いこと、僕がいないと解決しないものから片づけていく。


 僕が余裕を失えば、チーム全体の雰囲気が悪くなる。ひいては能率が堕ちるから、可能な限り余裕があるふりをする。


 声色を落ち着けて、笑顔は絶やさず、指示はできるだけ明確に。


 能率を最大にするコツは何より潰れないこと、潰さないこと、ギリギリの現状を余裕綽綽のふりをして、回し続ける。


 そんな感じで、全体に休憩時間を振り分けて、小さな現場の端で一息をついた。些細な時間だけれど、この時間がないと確実に長い目で見たときに潰れるリスクが上がる。


 そうしていると、通りがかりの同僚が声をかけてきた。


 お前が優しいんで、仕事がやりやすいって、お前んとこのチーム員が褒めてたぞ。


 和やかな笑顔で彼はそう言って通り過ぎた。


 僕は苦笑いしながら、無言で応じた。


 どう返したらいいのか分からない。


 優しい? ほんとにそうかよ。


 お前は薄情ものだ。


 そう心の奥で、誰かの声がしていた。厳しく、冷たい声だった。


 心の奥が冷えていく。


 響いたのは、母親の声じゃ、なかった。


 

 ※



 二週間が経った。


 おじいちゃんの通夜も葬式も終わった。


 その間、僕は一度も、実家に顔を出さなかった。


 電話すら掛けなかった。



 ※



 「ーーーはいはい、どうしたのこんな時間に。仲直り以来じゃん」


 「久しぶり、今、時間大丈夫?」


 「うん、大丈夫だけど」


 「ちょっと、変な話していい?」


 「うん。まあ、君の話、何時も変だけどね」


 「そっか。えーとね、おじいちゃんが死んだんだ」


 「………」


 「二週間くらい前にさ、でも、僕、仕事が忙しかったからさ、帰らなくてさ」


 「うん」


 「正直、『勘弁してくれよ』って感じでさ。今、忙しいんだから、無理だよって」


 「……そっか」


 「そしたら、なんか急に自分が嫌になっちゃってさ」


 「うん」


 「ほんとは泣かなきゃいけないんだと思う。悲しまなきゃいけないし。惜しまないといけないし。ああいえばよかったっとか、後悔しないといけないんじゃないかな、普通は」


 「……」


 「でもさ、どれもさっぱりできないんだよ。僕の心にはさ、僕独りしか入らなくてさ。おじいちゃん入れてる余裕がないんだよ。でもそんなのただのわがままでさ、みんな辛い思いしてるのにさ、僕だけそんなこと言えなくてさ」


 「……」


 「だから、なんだろ。人間失格なのかなって……そう……思った」


 「……」


 「……」


 「……そんなもんじゃない?」


 「……」


 「誰でもさ、そんなもんだよ。人が死んだら悲しまなきゃいけないなんてことはないし、感じ方は人それぞれでしょ」


 「でも、きっとおじいちゃんからはたくさんもらったんだよ」


 「何を」


 「………、お年玉とか」


 「それだけ……?」


 「ううん……きっと、もっと一杯……」


 「一個、一個、思い出してみなよ」


 「…………」


 「君はさ、優しいから人の言うこととか、どう思うかとか、すぐ考えちゃうの。それで自分の抱えてるものがわからなくなる」


 「……そんなことないよ」


 「……黙って聞いてて。多分ね、今、自分の抱えている心が人にどう思わるのかが心配なだけだよ。それで本当の自分の気持ちがわからなくなってるだけだよ。でも、別にいいんだよ、それで。意外とみんなそんなもんだよ。落ち着いた頃にさ、おじいちゃんのこと一個一個想い出せたらさ、それでいいよ、きっと」


 「……」


 「今日はおやすみ。返事は返さなくていいよ。その分、ちょっと自分に優しくしてあげて」


 通話が切れた。


 ベッドに寝ころんで、しばらくスマホを眺めて、友人の言葉の意味を考えた。


 誰に、どう思われるのかが心配。


 ……そうかな、そうなのかな。


 じっと目を閉じた。


 怖い、かな。


 ………………。


 …………………………。


 ……………………………………。

 

 ………………………………………………怖いな。



 昔から、多分、そうだったんだ。


 誰にどう思われるかが怖かったんだ。


 人と違うことを想うのが怖かったんだ。


 人と違うところに視点を向けてしまうのが怖かったんだ。


 薄情ものだと、わがままだと言われるのが、怖かったんだ。


 そっか。


 怖かった、のか。


 そっか。


 そっか。


 僕は怖かったんだな。



 ※



 おじいちゃんと僕はどんな関係だっただろう。


 よくいる祖父と孫だったような気がする。


 小さい頃はよく色々連れていってもらった。僕は泣き虫だったから、よく泣いておばあちゃんとおじいちゃんを困らせてた。


 大きくなるにつれて、僕も僕の事情が増えて疎遠になっていた。


 でも、僕が来るといつも笑顔を向けてくれて、喜んでくれていた。


 おじいちゃんはどんな人だったろう。


 人となりはよく知らない。昔、えらい仕事をしていたそうだ。貿易か何かの、今は畑を耕して暮らしてた。時折、おじいちゃんが育てた野菜が家に届いてた。


 優しい、おじいちゃんだった。そう思う。


 僕が親と喧嘩して家出したときに泊りに行ったら、しばらく家においてくれた。


 おじいちゃんは何も聞かなかった。


 おばあちゃんはただ笑ってた。


 お年玉をたくさんくれた。


 大きくなって、もういいよと言っているのにやめなかった。


 自分たちはこれくらいしか、返してやれることがないとよく言っていた。


 意味はよくわからなかった、わかっていなかった。


 ただ遊びに行っているだけなのに、僕は何もしていないのに、何を返すというんだろうって。


 大きくなってわかったけど。


 ……多分、喜んでくれていたんだ。




 僕がいるだけ、僕が行くだけで。




 ただ、それだけで。




 喜んでくれていたんだ。


 


 それが、そんなのが、僕とおじいちゃんの思い出だった。




 零れるものがあった。




 これはきっとわがままな水だ。




 おじいちゃんの死が悲しいんじゃなくて、僕がいるだけで喜んでくれる人がいなくなったことが寂しいんだ。




 ただ、それだけなんだ。




 僕が思えるのは、ただ、それだけなんだよ。




 ごめんな、おじいちゃん。


 



 ※




 僕は人が死ぬだけで悲しいと思うことはできないんだ。


 その人が僕にとって与えてくれてたもの、その人との繋がりで生まれていたものがなくなって、初めて何かを感じるんだ。それが悲しみなのかすら、わからないんだ。



 僕は人が死ぬのが惜しいとは思わないんだ。


 事実としてそうなのだから、いつか命は終わりが来るものだから。どう頑張ったって、おじいちゃんはいつか死ぬし、僕だって、母さんだって、友人だって、いつか、死ぬ。遅いか早いか、ただそれだけだと思うんだ。



 僕はああ言えばよかったみたいな後悔はわからないんだ。


 その時の僕らには、その時の僕らなりの事情があって、その時なりに必死に選択して今があるのだから。わかりもしないことを、もしわかってたらとか、できもしないことを、もしできたらとか、そんなのただの妄想じゃないかと思ってしまうんだ。



 僕はきっと人と考えることとか、見方たとかが少し違うんだ。



 「誰だってそうじゃない?」


 「そうかな」


 「そうだよ。ある程度、同じものが見えてるってことにしといたほうが便利だから、皆、君も含めてそう思ってるだけ。実際は感じてることは、誰だって違うでしょ」


 「例えば?」


 「私、この前さー、職場の人に赤ちゃんみせてもらったんだけどさー……。かわいくねー! って想っちゃったの、でも、周りがかわいいかわいい言ってるから、どーしたもんかなって」


 「はは、…………僕も赤ちゃん苦手だな」


 「でしょー、でも意外とそんなもんだよ。ま、君の苦手と、私の苦手、ちょっと違うんだろうけどさ」


 「そうだね。ところで人間失格って読んだことある?」


 「読んだことないけど、心配しなくても、君も私も充分人間だよ」


 「そうかな」


 「そうだよ」


 「そうかも」


 「そうでしょ」


 少し笑って、通話を切った。


 それからゆっくり空を見上げた。


 僕の感じ方はきっと人とは違うんだろう。どう思われるかが怖くて、考え方がちょっと、きっと変だ。


 おじいちゃんが死んで、寂しい。寂しいのは僕がいることで喜んでくれた人が、一人減ってしまったから。そんなわがままな理由。


 でも、それでいいのかな。


 それでも人間でいて、いいのかな。


 こんな理由で泣いていいのかな。


 おじいちゃんに、聞いてみたいな。


 そしたら、笑ってくれるかな。




 風が吹いた。




 頬に一筋だけ冷たさが、あった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

いつか誰かが死んだとき キノハタ @kinohata

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説