夢見草の幻影
竹屋 柚月
ひとり、花に酔う
今年の冬は暖冬という言葉通りに暖かく、その反動か、三月下旬になってもまだ冷たい風が吹いていた。それでも頭上から降り注ぐ日差しは暑く、道端の草花も色づき始めて、確実に新しい季節の訪れを感じさせる。
そんな出会いと別れの季節に仕事をなくした俺は、当てもなくぶらついていた。
去年はあっという間で、まさに忙殺されるような毎日だった。そんな日々を消耗するような生活の末、ついに俺は身体を壊し、強制的に休職を言い渡された。
周囲はとにかく休め、ゆっくりしろと言うが、何をすればいいのか。突然暇を与えられても、仕事しかしてこなかったのだから時間を持て余すだけだ。
彼らの心配とは裏腹に、自分自身では追い込んでいるつもりなどまったくない。むしろ俺から仕事だけは取らないでほしかった。わざと忙殺され、何も考えられないようにしてきたというのに。
ただ流れる川に沿って歩いていると、ひらりと淡い桃色が
顔を上げると、見渡す限り桜並木が続いていた。河川敷を埋め尽くすように並ぶ光景は圧巻で、晴れ渡った空の青との対比の美しさに足が止まる。
ここに来るつもりなどなかった。当然だ。ただでさえ思い出したくないのに、ここに来れば自然とあの日に戻されてしまう。
だが気づけば足が勝手に向いていた。
一人ベンチに腰掛ける。桜は見事なまでに満開に咲き誇り、甘い香りが風に乗って俺をあの日へ誘う。
あの日も今日のように暖かく、晴れた日だった。花びらの舞い散る中を、まるで子どものように走り回るあいつの姿が昨日のように鮮明に思い出せる。あんなに元気で心から楽しそうな笑顔が、わずか数日後には二度と目にすることができなくなるなんて、誰が想像できただろう。
平日の昼間は人がまばらだった。桜並木の下では花見を楽しむ老夫婦や、花など見向きもせずにはしゃく無邪気な子どもたち。
不意に視界が霞む。ひときわ大きな風が吹き抜け、守るように手をかざし再び開いた瞳にはかつての恋人の姿が映っていた。
「はっ……」
手を伸ばした瞬間、目の前を桜吹雪が舞う。視界がひらけた時、そこには誰の姿もなく、いたのは桜の木の陰で日向ぼっこをする真っ白なねこだけだった。
こちらに気が付くとねこは大きく伸びをした。ゆったりとした足取りで近づくと、ベンチの隣に飛び乗る。
「お前も一人か?」
「にゃあ」
ねこは悠然と応える。まるでこちらの気など素知らぬ様子で。
小さな花弁は絶え間なく舞い落ちる。
満開は刹那。雨風に舞い散る桜は儚く、だがだからこそ美しい。
「かわいいねこちゃんですね」
現実と幻想の狭間を彷徨うように魅入っていると、突然声が降ってきてはっと我に返る。
「なんて名前なんですか?」
「え? 五十嵐、です」
「ええと、ねこちゃんの名前?」
「あっ、いや、俺のねこじゃなくて……」
「そうなんですか。大人しいから飼いねこかと思った」
後半はねこに話しかけるように言いながら頭を撫でる。撫でられたねこはにゃあと機嫌良さそうに返事していた。
「となり、いいですか?」
夢見草の幻影 竹屋 柚月 @t-yuduki
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