ソロショット

薮坂

クレマ・ボディ・ハート


 ポルタフィルタをマシンから取り外し、慣れた手つきでグラインダへセットした。そしてレバーをきっかり2回引き切る。

 レバー1回に付き7グラム。エスプレッソ用に細かくグラインドされた計14グラムのコーヒー豆が、フィルタの上に落ちてくる。縁に乗ったコーヒー豆を指で綺麗に払い、左手に持ったタンパーで豆に圧力を掛けていく。


 イタリア語で『急行』を意味するエスプレッソは、蒸気の力を使い、極めて短時間で抽出するコーヒーだ。通称はショット。そしてショットの味の良し悪しに一番かかわるところが、このタンピングだった。


 豆に掛ける圧力は、弱すぎても強すぎてもいけない。弱すぎると9気圧という蒸気の抽出力に負けて、数秒で抽出が終わり、旨味を感じられない薄いショットになってしまう。逆に圧力が強すぎると、蒸気の圧力が豆の圧力に負けてしまい、いつまで経ってもショットが落ちてこない。時間のかかったショットは、風味がないただの苦い液体だ。


 ショットが落ちてくる理想のスピードは、ハチミツを垂らすようなスピードとよく言われる。

 エスプレッソ急行なのに、落ちてくる速度はハチミツが理想。ちょっと矛盾しているようなところも、私は気に入っていた。 


 低い音とともにマシンが動く。しばらくしてからゆるりとハチミツを垂らすように落ちてくるエスプレッソ。

 このマシンは2杯ドピオ抽出だから、ショットを受けるグラスも2つだ。その2つのグラスに、美しく3層に分かれたショットが緩やかに落ちてくる。


 ──完璧。朝一番のショットが決まると、一日が上手くいきそうな気がする。私はこの瞬間がとても好きだった。



  ◆◆◆



 シアトル系カフェの大手チェーン、緑のアヒルが目印のスターダックスコーヒー。ここで勤め始めて早2年。あらかたの仕事を憶えた私は、お客様に提供するビバレッジの品質向上に取り組んでいる。

 せっかく作るからには美味しいものを提供したい。だからショットの技術向上は必要不可欠だった。

 カフェラテにもカフェモカにもキャラメルマキアートにも、全てショットが入っている。つまりこのショットを上手く淹れることができれば、あらゆるビバレッジの品質が向上するのは間違いない。

 ショットは奥が深く、まるで宇宙だ。ただコーヒーを淹れるだけなのに、その果てない奥深さにはいつも驚嘆してしまう。


 エスプレッソの味をダイレクトに味わうのは、そのままショットで飲んでもらうことが一番だ。だけどそんなお客さんはほぼいない。

 ショットはイタリアでは一般的だけど、日本では馴染みが薄いし、そもそも日本人には苦すぎる。それにソロショットだとたった30ccしかない。だから余程ショットが好きな人じゃないとまず頼まない、それはレアな注文だ。


 でもそんなレアな注文をする常連さんが、一人だけいる。私はその人を、密かに「SSさん」と呼んでいる。

 solo shotter. だからSSさん。本名は知らないから、私が勝手につけているだけ。

 SSさんはとても礼儀正しく優しい人。たぶんだけど、もうすぐ30歳になる私と同世代くらいだと思う。




「──ソロショットをお願いします」


 カウンタ越しに、SSさんはにこやかに笑って言った。私も笑顔を返し、かしこまりましたと告げてショットを落とす準備をする。

 今日のSSさんは、いつもの来店時間より少し早い。いつも朝8時に来てくれるのだけど、今日はその30分前からお店に来ていた。


「おはようございます。今日は少しお早いですね」


「おはようございます。今日は大事なプレゼンがありまして。絶対に負けられないので、いつものショットで早めに気合いを入れようと思いまして」


「お好きなんですね」


「はい、好きです。この美味しさを共有できる人があまり居ないので、少し寂しいですけどね」


「私は好きですよ。ショットが好きで、ここに勤めているようなものですから」


 そう言いながら、ポルタフィルタに豆をセットする。流れるような手つきで絶妙なタンピングを終えると、マシンにフィルタを捻じ込んだ。フィルタの下にショットグラスを2つ並べて、抽出ボタンを押す。

 低く唸るマシンから、ゆっくりとハチミツを垂らす速度でショットが落ちてくる。色も香りも完璧だ。

 

「……今日のショットは、ちょっと自信があります。たまに完璧な手応えがあるんです。このショットからは、その手応えを感じますね」


「本当ですか。それは楽しみだな」


 SSさんはまた笑って、嬉しそうに頬を掻いた。私も笑顔で、ショットをグラスからデミタスカップに入れ替える。そして小さなソーサーを添えてSSさんにお渡しした。


「どうぞ、ソロショットです」


「ありがとうございます。あぁ、そうだ」


「どうかしましたか?」


「いつも不思議に思っていたんですけど、スターダックスのエスプレッソって2杯ドピオで抽出するんですよね? 僕は1杯ソロしか飲みませんが、もう片方のソロはどうしてるんですか? やっぱり捨ててしまうんですか?」


「同じタイミングでオーダーされた他のビバレッジに使用したりしますが、ショットが美味しく飲める期限は短いんです。だから、捨ててしまうくらいだったら、私はこっそり味見していますよ。もったいないですから」


 私が笑うと、SSさんもまた笑って言った。


「もし僕が店員さんだったら、きっと同じことをすると思います。羨ましいな。いつでもショットが飲めるなんて」


「バリスタの、数少ない特権ですね」


「なるほど、やっぱり羨ましいな。では、頂きます」


 SSさんはデミタスカップを手に取ると、カウンタでそのまま飲もうとカップに口をつけた。今日はお砂糖は入れないのだろうか。


「あの、お砂糖は……?」


「あぁ、今日はブラックで。あまり一般的なショットの飲み方じゃあないかも知れませんが、今日は気合いを入れたいんです」


 それを聞いた私は、残っていたソロショットを自分のデミタスカップに移した。そして、掲げていたSSさんのカップに、自身のそれをカウンタ越しに軽くぶつける。カチンと、陶器が当たる澄んだ音がした。


「ええと、これは?」


「……ショットって、湿度や気温の僅かな変化で味が微妙に変わっちゃうんです。だから同じ味のショットって、なかなか味わえないんです。ただ、」


「ただ?」


「同じタイミングで落としたドピオ2杯だけは、全く同じ味になる。同じ釜の飯を食べる、って言葉があるじゃないですか。あれのショット版ですよ。同じドピオを飲んだ私が、あなたを応援します。どうかご武運を」


「ありがとうございます。頑張ってきます」


 2人して、カップを傾けて一気にショットを呷った。強い苦味の中に浮かび上がる、キャラメルのような香りとナッツを思わせる後味。それらが舌を流れていき、やがて香ばしい香りが鼻腔を抜けていく。

 ──あぁ、やっぱり美味しい。ショットは淹れたてが、間違いなく一番美味しいのだ。


「あぁ、やっぱり美味しい。ありがとうございました。頑張ってきます」


「こちらこそ、いつもありがとうございます」


「……あの。ちなみに今日は、何時までお店にいらっしゃいますか?」


 それはSSさんからの珍しい質問だった。今まで、お互いの名前すら聞かない距離感で過ごしてきた。

 あくまでお客様と店員。暗黙の了解みたいなものがあり、お互いの顔を憶えてから世間話はするものの、ここまで踏み込んだ話をしたことはなかった。

 これはもしかして。私が答えを返すのに逡巡する間で。SSさんは表情を柔らかく、苦笑いに変えた。


「……あぁすみません。今のは、」


「──今日は早番ですので、16時で仕事は終わりです。でも明日の勤務は中番ですので、20時までです」


 たまには私も勇気を出してみないと。鈍い私にもわかる。きっとこれはSSさんからのお誘い。

 私の意思を汲み取ってくれたのか。少しだけ、SSさんは嬉しそうに表情を変えた。


「明日のその時間、今日の結果報告に来てもいいですか?」


「もちろんですよ。お待ちしていますね」




             ◆◆◆




「──それで、昨日のプレゼンは上手くいったんですか?」


 次の日の夜。私はSSさんのお誘いを受けて、落ち着いた良いお店で食事を共にしていた。SSさんは言う。


「おかげさまで。仕事も上手く行きましたし、プライベートはもっと上手く行っています。何しろあなたと、こうして食事を楽しめたんですから」


「不思議な感じですよね。今まで、カウンタ越しにしかお話ししたことなかったのに」


「勇気を出して、本当に良かったと思っていますよ」


 苦笑いのような、それでいて本当に嬉しそうな顔のSSさん。きっとこれが彼本来の笑顔なのだろう。

 つられて私も微笑んでしまう。今日は、何故か久しぶりに楽しい気がした。


 あらかたの食事を終えて、店員さんが食後のデザートに合わせる飲み物を聞きに来てくれた。メニューから、私は迷わずソロショットを選択する。だけどSSさんは意外にも、ショットをお湯で割ったアメリカーノを選択した。

 驚く私を見て、SSさんは申し訳なそうに言う。

 

「正直に言いますと僕、ショットが少し苦手なんです。僕にはかなり苦くて」


「じゃあどうして、お店ではソロショットを?」


「……もちろん、ショットをいつも飲んでいたあなたに、僕を憶えてもらうためです。こんなのはずるいと思ってはいます。だから、せめて今伝えておきたかった。ごめんなさい。でも最近は、ちょっとずつショットを楽しめるようになってるんですよ」


「……なるほど。私に嘘をついてたんですね?」


「すいません。嘘をついていました」


「私、嘘吐きは嫌いです」


「そうですよね。本当に申し訳ないことを、」


「でも、嘘を本当に変えてくれる人はもっと好きなんです」


「え?」


「私があなたを、本当のショット好きにしてあげますから。だから覚悟しておいて下さいね?」


 私は笑う。SSさんも笑う。

 私たちの物語は、まだ交わったばかり。それでもいつか同じ味のドピオ2杯になれたらいいなと、私は思う。





【終】

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ソロショット 薮坂 @yabusaka

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