タナーとアッシュ

石田宏暁

異母兄弟

 目を覚ますと湖の上に立っていた。足首まで水に埋まっていた。見上げると満天の星空が輝いて美しかった。


 着ている服装は白く透けている。アラブの民族衣裳のようなつくりだったが肌触りは良かった。ゆっくりと片足を水の中からあげてみる。


 関節炎は痛まなかったが靴も下着も履いていないとは思わなかった。手を見ると何十年も前に見た若々しく力強い自分の手があった。


「そうか。儂は……死んだのか」


 裾を掴む子供の手が見えた。振り向くと同じアラブの民族衣裳を着た子供が、顔を見上げていた。こいつは誰じゃったか。


 生意気でいつも人をチビだと馬鹿にするくせに、いざという時は必ず前に立つ。儂より若いくせに……今は随分と小さくなっている男。


「アッシュか。儂をからかってるのか?」


「なら、いいんだが。ここじゃ自分が最もしっくりくる姿が映り時間を止めるらしい」


「ぷっ、まさかガキ大将のあの頃が一番のお気に入りなのか。今なら少しはチビの気持ちが分るんじゃないか」


「……うるさい。向こうみたいだな」


 儂らは暗闇を共に歩いた。歩きながら忘れていた過去が浮かんでは消えていく。静かな水面みなもが感傷的にさせるのかもしれない。


 儂たちは腹違いの兄弟だった。母子家庭に同居人が来たことを疑問にも思わない年頃だったのは確かだ。


 まだ五歳か六歳。幼い頃に貰われてきた子供がこのアッシュだった。父親が同じ人物とは思えないほど、一つの事実を除いて似ているところは無かった。


 母親は厳粛で美しい女性だった。母さんがいるだけで田舎の田園風景に建つ粗末な平屋が神聖な屋敷に思えた。


 特別な能力を持っていた。そう、儂らには常軌を逸する強靭な肉体と回復力があった。おそらく行方不明の父親が化け物だったせいだろう。


 アッシュは越してきてすぐ学校で人気者になった。生徒会に立候補し体育祭では勝利を手にしてガッツポーズをとるタイプだった。


 飯は沢山食うし物は壊す。すぐに儂の身長を抜いて女の子にもモテた。いつも儂をライバル視して纏わりついた。毎日が喧嘩三昧だった。


 ひとつ上の儂は面白くなかった。正直にいえば嫌いだった。母親の決めたルールを全て破るのがアッシュだった。


 どうして言い付けを守らない。騒ぎを起こすんじゃない。世界が終わるなんて馬鹿げた話が公になれば……パニックになるのは目に見えているじゃないか。


『どうして黙っていられるんだ?』アッシュは儂の胸板を叩いた。『数人でも助かる可能性はある。人の歴史が無に帰してもいいのか?』


 それがどうしたと言わんばかりに両肩をあげた。反りが会わなかったのだ。十五歳で母親が死ぬとアッシュは家を出て行った。


 やつが組織に入隊して活躍していることは知っていた。それを一部の能力者たちが名誉だと言って褒め称えていたことも。


 儂は怪物扱いされて生きてきた。まるで自分だけが別の種族だと感じ、自分に異常があると思い込んでいた。


 だから母さんはアッシュを引き取った。すべては儂の為だったのだ。課外授業でパンに虫を乗せられただけで、儂は腹をたてて家に帰ってしまった。


『怪物は虫を食うって聞いたぜ』


『ほんの冗談だったんだ』


 翌日、アッシュはその生徒を突き飛ばした。やつは儂がやらなかったことを軽々しくやってのけた。そして問い詰めれば「ほんの冗談だ」と笑った。


 許せなかった。アッシュにではない。許せなかったのは儂自身の言葉だった。


「俺がせっかく我慢してきたことをお前がやるのか。母さんが怪物を好きだと思ってるのか? 出て行ってくれ。二度と顔を見せるな」



 それから一年が経ち、アッシュは家に帰ってきた。うなかい顔にピリピリとした態度。長く過酷な戦いに疲れ、癒しを求めて帰って来たのだ。


「英雄さまのお帰りだな」儂は酒を飲みながら言った。まだ十八歳だったが大人ぶりたかった。「聞かせろよ。英雄アッシュ様はどんな手柄をたてて組織に貢献したんだ?」


「黙ってろよ、僕が嫌いなんだろ。母さんの位牌がなけりゃ帰っちゃ来なかった」


「お前の母さんじゃないがな」


 わざと喧嘩を仕掛けたのは見ていられなかったからだ。正直に言うとアッシュを痛ぶるのは昔から嫌いじゃなかった。


「何があったんだ。隠居生活を送るにはまだ若すぎる」


 なんせまともに喧嘩して勝てるのはどこを探しても儂だけだったからだ。母さんが死んでから喧嘩はしていない。止められる人間がもう居ないと知っていたからだ。


「僕が羨ましかったんだろ!」


「そりゃそうだ。お前はどこに行っても人気者で完璧、好き放題だった。ルールも関係ない」


 みぞおちに強烈なフックを食らった。息が止まって喉から笛みたいな音が鳴った。振り上げられたこぶしをギリギリでかわす。


 儂は反撃の蹴りを入れた。くの字になったアッシュをタックルで吹き飛ばすと壁をバラバラに突き破って表まで行って倒れた。それでもやつは唾を吐いて立ち上がった。


「あ、あんたもルールを破れば良かったじゃないか!」


「はっ、俺は長男だぞ。貰われてきたお前とは違う。好き放題に暴れることがどれだけ母さんを傷付けるわからないのか」


 真夜中の畑で儂たちは殴りあった。骨が軋むほど強烈なパンチの応酬。一撃で意識が飛びそうになる。木々がなぎ倒され、岩が砕けた。


 いつしか血と汗と泥にまみれた儂らは笑いだしていた。出来損ないの二人が同じ完成度だと確認するのは何より楽しかった。


「ぷっ……ぷははは」


「アハハ、アハハハハハ」


「あは……あは……はは……わからないよ、わかるもんか」アッシュの笑いは涙に変わっていた。泥と土にまみれて。「仲間が……仲間が何人も死んでいったんだ」


「しぶといのもいるがな」


「僕が殺したようなもんだ。仲間を見殺しにするよう仕向けられた」


「……」むせび泣くアッシュに驚かされた。何と声をかければいいか分からなかった。「そいつは大変だったな」


「どんなに抵抗しようと思っても、逆らえなかった。僕は仲間を殺した。何人も」


 完璧だと思っていた弟も所詮は人間だったと知った。儂らは決して仲の良い兄弟では無かった。旧姓の田中と芦田をもじってタナーとアッシュと呼びあっていたほどだからな。


 アッシュが何で帰ってきたか分かった。助けて欲しかったんだ。儂たちは縺れあって泥だらけの畑に寝転んでいた。


 儂らは初めから兄弟だった。ミケランジェロは彫刻を造るときにこう言った。それはもともと存在していて削り取るだけでよかったと。儂らの関係も同じだと思えた。


「今も戦況は厳しいのか?」


「……あんたを巻き込みたくなかった」


「そんな意見は聞いてない。まあ、辛い状況だよな、お前にとって。だから支える」


「何でここに来たか分かったよ。タナー、あんたに助けて欲しかったんだ」


「ハハハ、知ってたぞ」


 儂たち二人は住み慣れた家を出た。住宅地の小さなアパートに根城を移して組織の仕事をすることにした。


 アッシュは狙われていたし、儂は田舎からおさらばしたかった。それから何十年も儂らは二人で生きてきた。互いに支えあってきたのだ。


 目を細めると暗闇に女の姿が見えた。星の光が写す母さんは若く美しかった。人生で一番、美しい時に止まっていた。


「僕の母さんじゃない」アッシュは言った。


「いいや、お前の母さんだ」


 儂らは同じように愛されていた。ただアッシュは自分が貰われてきた子供だとずっと不安を抱えていたんだ。


「……誰が何と言おうとな」


「お別れだな。僕は先に逝って母さんを独り占めさせて貰うよ」


「何!? 死んだのは儂じゃなかったのか。だが、すぐにここに来そうだ。独りでどこまでやれるか分からん。自信がないんだ」


単独ソロミッションじゃない。それに僕たちが付いている。つまり……同じ次元にいる。どこかにいる。死んだ仲間もいる。ずっと一緒にいる。生まれてくる前もここにいるし、死んだ後もここにいる」


「ああ……アッシュ。一緒に来てくれ、それが駄目だっていうなら儂もここに残ってもいいじゃろ?」


「あんたは死んじゃいない。僕じゃなくたって人が死んだり、別れたりするのは辛いことだ。もう話したり触れたり出来ないのは悲しいことだ。でも、僕はここにいるんだ」


「……」


「始まりも、終わりもない。ここに、みんながいる。ここに死はない。僕も母さんもあんたも、誰も居ない……でも、ここには皆がいる。分かるか?」


「ああ……」


 きっとそういうことなんだ。別れや死は怖いが、こう考えれば良かったんだ。一人じゃない。儂の中にみんないる。


「……驚いたよ」


「昔から驚かせるのは得意だったろ、兄さん。あんたの気を引くためなら何だってやるさ」


「初めて兄さんと呼んだな、兄弟」


 さあ、目をさませ。もうひと頑張りしなきゃならない。少しばかり時間をくっちまったが、まだ間に合うはずだ。


 髭面で白髪だらけの老人は、立ち上がった。ライダースジャケットに身を包んだタナーは喉元をさすって歩きはじめた。


「やれやれじゃわい」


     



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タナーとアッシュ 石田宏暁 @nashida

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