一人と一人、砂浜の上

夜長 明

海岸にて

 窓の外を流れる見慣れない風景を眺めていると、なんだか自分の存在が不安定なもののように思えた。

 ──僕はこの町を知らないし、この町も僕を知らない。

 それは本当の意味での一人だった。もちろん、この電車の中には乗客がいる。たとえば新聞を熱心に見つめるスーツ姿の男性。あるいはスマホゲームに夢中な中学生。

 けれどその誰もが僕のことを意識してはいなかった。僕自身、ここにいるその他大勢には全く興味がない。当たり前だ。これが一般的な他人と他人の距離感なのだから。

 どうして高い電車賃を払ってわざわざ知らない場所へ来ているのかといえば、それは端的に言って現実逃避ということになる。大学受験に失敗したのだ。

 結果はあまりにも呆気あっけなかった。携帯の画面に不合格という三文字が表示されて、それでおしまい。僕は落ちたんだ、と実感した時、不思議と辛くはなかった。僕の心はただ不合格を告げるだけの無機質な画面みたいに空っぽだった。

 目的の駅に着き改札をくぐり抜けるとかすかに潮の香りがした。あてもなくこの場所にやってきた訳ではない。目的地は近い。場所はわからないのでとりあえず適当に歩いていると、すぐにそれは見つかった。

 海だ。光を反射して輝く水面が、水平線の向こうまで続いている。

 小さな階段を降りて砂浜へ足を踏み入れた。人はいない。それもそのはずだろう。3月は海水浴には早すぎる。

 なんとなく気に入った場所に腰を下ろして、それからただぼんやり海を見る。そうしている内に、色んなことがどうでもよく思えてきた。

 ──海に来て正解だったな。

 海には想像以上に現実逃避としての効果があった。でもまだ頭の片隅にもやがかかっているような気もする。そのうち消えて無くなってくれるだろうか。


 それからいくらか時間が経った。海にも飽きてそろそろ帰ろうかと考えていた時、後ろから声が聞こえた。

黄昏たそがれてるね」

 人が来るとは思っていなかったし、さらには話しかけられるとも思っていなかったから驚いた。振り返ると、一人の女性が立っていた。知らない顔だ。

「いや、怪しい人間じゃないよ。ただ少年が砂浜で黄昏れてるなんてドラマみたいだなと思っただけ」

 だからって普通話しかけるだろうか? 判断に迷っていると女性は勝手に喋り続けた。

「なんかありそうだと思わない? 悩み多き思春期の少年が海で静かに自分を見つめ直す……みたいな」

 まあ、分からなくはないけれど。

「どうして海なんだろうね? 山とか川とか、お寺や神社じゃだめなのかな?」

 別に湖でも城でもどこでもいいと思う。

「海に反射する自分の顔を見ることで、自分を見つめ直すきっかけになる……とか考えてる? 残念、不正解。それじゃ川とか湖とかでもいいでしょ」

 勝手に人の考えを捏造されても困る。この人はさっきから何が言いたいんだろう。

「でもまあ、実はそんなことはどうでもいいんだ。私がここに来たのは一人になりたい気分だったからで、そこに先客がいた。なら、話しかけるしかなくない?」

 意味がわからない。一人になりたいなら人には話しかけないだろう。

「ほら、一人になりたい時って大抵の場合気分が落ち込んでいるでしょう? なら本当に一人になるより誰かに悩みを吐き出した方が効率がいいと思わない?」

 そんな訳がない、と言いたかったけれど、そういうものかもしれない、と思ってしまった。現に今、僕は一人になりたかったけれど一人でいるのが嫌になっていた。一人になりたい時は一人にならない方がいい、なんてまるで詐欺みたいだ。

「だから少年も言いたいこと言ってみたらどう? すっきりするよ」

 この女性が何者なのか、信用していいのかはわからない。けれど僕が今日ここに来たのは、もしかしたらこの人に会うためだったのかもしれない。そんな気がした。

「じゃあ、言います」

「どうぞどうぞ」

 ここにいるのは二人じゃない。一人と一人が勝手に喋って、一人で勝手に救われるだけだ。

「まず、僕のことを『少年』と呼ぶのはやめてください。一応19歳なんで」

「なにそれ。少年は少年だよ」


 *


 それから僕はその時初めて会ったその女性としばらくのあいだ話をした。それで僕はとても晴れ晴れとした気持ちで海を後にすることができたのを覚えている。あの人のおかげだ。

 あれ以来あの人とは一度も会っていない。けっきょくあの人が誰だったのか、僕は名前さえ知らない。

 それでも、初めて一人で行った海で出会った、名前も知らない一人の女性を忘れることはできなかった。

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