オレンジ

真花

オレンジ

 話しかけないこと。テレビやスマホで音を出さないこと。

 ホータの部屋に入り浸るにあたって、彼が出した条件はそれだけで、他は何をしてもいい、ピアノがあるけどそれは? ピアノは弾いていい。だから今日も学校に行かないで朝からホータの家に行く。合鍵はくれない。

 チャイムを鳴らしても出ないから電話をかける。

「ホータ、寝てた?」

「寝てた。来たの? 今開ける」

 ドアが開くとホータは柔らかそうな長袖のパジャマを着ている。迎え入れられて、ホータはもう少し寝ると言って布団に潜り込む。畳敷きの八畳間には二組の布団が敷いてある。一つはホータの生活のため、もう一つは私がごろごろするために。秋になって少し肌寒いから、上着を脱いだらドテラを羽織って、本棚から「ナニワ金融道」の七巻を引っ張って、布団の上に転がって読む。

 ホータはいびきをかいてる。今日は仕事のない日。

 窓際には机があって、起きてるホータは殆どの時間そこで書いている。条件にはなかったけど、そこには近寄ってはいけないって分かる。大きな問題ではない。私には私の場所がちゃんとあるから。

 マンガを一冊読み終えて、次の巻を取りに行こうと立ち上がったその音でホータが目を覚ます。

「あれ、ルッコ、いたっけ?」

「夢遊病で部屋に入れたの?」

 うーん? と考えて、あ、そうだった、とホータは収まりのいい顔をして、洗面所に消えた。

 私はマンガの続きを読む。水の流れる音、歯を磨く音、髭剃りの音、顔を拭く気配、一つ一つを背中で追う。足音が近付いて来る。

「ルッコ、飯を頼もう。何がいい?」

「ニラレバ食べたい」

「女子高生ってニラレバ食べるんだ」

「ニラレバに年齢は関係ないよ」

「それもそうか。じゃあ俺はチャーハン大盛り」

 言いながらホータは電話をかける。注文を終えたら、机に就く。パソコンをスリープから戻して、じっと画面に映された文字列を読む。説明されたことはないけど、こう言う状況では必ずそこから入るから、書きかけの文章のモードに自分を戻しているのだ。ホータは小説を書いている。小説家になりたい、なる予定だと言っていた。作家ではないらしい。私にはよく分からないけど彼にとっては決定的に違うのだと言う。女子高生がニラレバを食べないと思っているくらいアバウトなところと、同じにしか見えないものを分ける厳密なところが、私とは別の分布になっている。

 ホータはキーボードを打ち始める。その音だけが部屋の中に響く。私はそれを背景にしてマンガを読む。ホータの蔵書を全部読み終わるまでには相当の時間が掛かりそうだ。キーを打つ音が止まる。

 見ると、窓を開けた。

 少しチルな風が部屋の中を通る。でも寒くはない。ホータは違うみたい、彼のドテラを羽織った。またキーボードの音。窓が開いた分その音は自由に動いて、半分は出て行くから、私はよりマンガに集中する。太陽はまだ午前の色を流していて、それは穏やかな青に落ち着きのない黄色を縦に混ぜたものだから、この部屋の中にも行き先不明の活気が入り込んで来る。

 呼び鈴が鳴り、ホータが打つ手を止めて、玄関に向かう。

 私はホータの布団を畳んで端に寄せて、ちゃぶ台をその場所にセットする。ホータが中華を持って戻って来る。

「ニラレバ美味そう」

「ちょっと食べる?」

「貰う。定食だからご飯とスープもあるよ」

「いただきまーす」

「はい。いただきます」

 私はかねてから気になっていたことを訊いてみる。

「ホータって、お医者さんなんだよね?」

「そうだよ」

「でも、週二日しか働いてないよね?」

「うん」

「どういう仕組みなの?」

 ホータはチャーハンをもう一口食べる。部屋には何のノイズもない。

「バイトで働くと給料がいいから、それを二つ掛け持ちしてる。それで生活するには十分」

 あとの日は小説を書いている。そのためにこう言うライフスタイルにした。それは訊かなくても分かる。他にも同じような生き方の人がいるのかな、でもそれはどうでもいいことだ。ホータにとっては小説の方が重要だ、そう表明されている。無粋な質問だった。

「分かった。ありがとう」

「いない日は入れられなくて、ごめんな。一応生きていかないといけないから」

「ううん。そう言うことを言いたかったんじゃないんだ」

「そっか」

 そこからは静かに食事を済ませる。開いた皿を片付けて、ホータはタバコをちゃぶ台で吸う。私はその前にちょこんと座ったまま。喋るときもあるし、今みたいに黙っているときもある。

 吸い終えたらトイレに行って、また机の前。

 私は音を切ってスマホのゲームをちょっとやって、アホゲーだなと思って、やめて、布団に仰向けに転がる。この部屋の時計は全部秒針の音がしないタイプだから、時間の進みを自分で捉えないと迷子になる。前にホータが言っていたことを反芻する。話すことは少ないけど、なくはなくて、少ないからこそ一つずつちゃんと覚えている。大体、そのとき書いている小説の話だ。もう今日は書くのは十分だと彼がなった後に話すことが多い。

 ワークライフバランスってのは不十分な区分だよ。本当は四つ必要なんだ。ワーク、ライフ、メイク、ホビー、の四つ。Whlm、フルムって言うのがいいと思う。メイクは何かを作ること。人間は作るのが好きだ。それがアートのレベルになるかは別の話だからアートじゃなくてメイクにする。料理とかお絵描きとかDIYとか範囲は広い。ネットで、作ったものを出すプラットフォームが流行っているのは当然なんだ。で、ホビー。これは仕事にも生活にも役に立たない、純粋な、遊びだ。この二つがないと豊かにはなれない。

 税金をたくさん払っている人と、払ってない人が同じ一票っておかしいと思わないか? だって、税金の使い道を決める人たちを選んでるんだよ? でもその悪平等に怒るのはまだ二流。そのおかしいシステムをどう利用するかを考えるのが一流だよ。俺は小説家になるから関係ないけど、小説内でやってみてもいい。

 多少難解であっても丁寧に説明してくれるのでちゃんと理解出来る。私に聞かせてどうするつもりなのかとも思うけど、話すことで改善するものがあるのかも知れないから、面白いし、聴く。

 思い出しを続けている内にうたた寝をして、タバコの匂いで目が覚めた。

 陽はもうてっぺんを過ぎて、過ぎると陽光の色は赤みを含むようになって、でも他の色と釣り合って白く、部屋の中には窓は開いていても風は流れて来ない。

 私はトイレに行って、布団でマンガの続きを読む。じわじわと今日が進んで、まだ少し先だけど終わりに近付いて行く。実家だと拒絶したいその感覚が、ここでは当たり前のものに感じられる。それで何か問題があるのか、問われて答えられない程に。ホータはパソコンを打っている。

 八巻を読み終えた。ピアノの前に座る。ここに楽譜はない。持って来てはいけないと思うから、私は暗譜した曲を最初は弾いていたけど、手持ちはすぐに尽きて曲を作ることにした。作るものの記録と言うかメモと言うかはしてもいいと思ったから、譜面台にノートとペンを置いて書き書きしながら作曲の続きを始める。音を出してもホータは無反応に書き続けている。

 ホータは私が曲を作っていることに何も感じてないのかな。それとも、感じながらもキーボードを優先させてるのかな。完成したら私はこっちを向いて聴いて欲しいと思うのかな。音と音の間に思う、でも淡く儚く流れて、作ることに熱中する。一つ納得出来るフレーズが出来た。

 今日はもういいや。

 ピアノから離れて布団の上に座る。

 開けっ放しの窓から太陽がもう一つ赤に近付いて携える柔らかい熱とともに射し込んで、ホータの前を照らしている。ホータのドテラ。タバコの音、匂い。ぼんやりと見る。右手に布団の感触。ここに初めて来た日からホータは変わらない、ずっといつも小説を書いている。サオタケ屋の呼び込みの音、ホータがそれに意識を取られて過ぎ去るのをじっと耐えて待っているのが、後ろからでも分かる。私は変わった。もう泣いてない。

 九巻を取りに立って、本棚の前、風が吹き込んで窓の方を向くと、ホータは手を止めていた。次の一文を考えている? 風に感じている? またホータの手が動く音を聞いて、私はマンガを片手に布団に戻る。

 マンガを読んで、次の巻も読んで、その次の巻。

 顔を上げる。

 オレンジ。

 部屋がオレンジに染まっていた。

 ホータ。さっきと変わらない、いつもと変わらない。書いている。でもオレンジの中、彼だけが影になっている。私はきっと部屋と同じ色なのに。

「ホータ」と呼び掛けたい。でも、邪魔をしてはいけない。したくない。

 じっとホータの影を見る。キーボードの音がする。

 私はマンガを構えたまま、ホータを、影を、オレンジの洪水の中に動かない。

 ホータが消えてしまうことはない、それだけは確かだ。だけど。

 ホータがそこにいることを確かめたい。怒られる、帰れって言われるかも知れない。それでも、ホータがいなくちゃこの部屋は部屋じゃない。

 唇に力を込めて、息を吸い込んだとき、キーボードの音が止むから、私はそのまま固まる。

 ホータがタバコに火を点ける、煙、匂い。

 途端にオレンジがこの部屋に定着して、そこにあるのはホータの背中。

 私は吸い込んだ息をそっと吐き出して、マンガの続きを読む。


(了)


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