I am the legend ~伝説のプレイヤー~

Youlife

第1話 伝説のプレイヤー

 関東山地にある小さな温泉街「花の井温泉」。

 この温泉は、江戸期に開削され300年近い歴史を持つ、国内有数の古湯である。

 東京に住むOL・仁科にしなほなみは、キャリーケースを引いて一人でこの温泉にやってきた。

 電車を乗り継ぎ、一日数本しかないという路線バスに乗って、やっとたどり着いたこの温泉は鬱蒼とした山々に囲まれており、数軒の旅館が軒を連ねていた。


 トレンチコートを羽織り、栗色の長い髪をなびかせる都会風の出で立ちのほなみは、ヒールの音を響かせながら今にも壊れそうな木橋を渡り、予約していた旅館「花の井いにしえ荘」を探した。


「おかしいなあ。ネットで調べたら、確かこの辺にあるはずなんだけど」


 その時ほなみは、沢山の梅の木に囲まれた、木造の小さな旅館が目に入った。入り口に掲げられた木造の看板には、今にも消え入りそうな文字で「花の井いのしえ荘」と書いてあった。


「すごい!ここなんだ。ここに、あの人がいるんだね……」


 引き戸を開け、暖簾をくぐると、初老の男性が腰をかがめながら玄関先に出てきた。


「いらっしゃいませ」

「今日から一泊予約していた、仁科といいます」

「ああ、女性のおひとり様ね。こんな山奥まで良く来れましたね」

「以前から、ここには来たいと思っていたんですよ」


 すると、男性は腰をかがめながら、ゆっくりとした足取りでほなみを先導した。

 廊下を歩くと、強烈な軋み音が建物中に響き渡った。

 やがて、廊下の突き当りの部屋に案内されると、男性はにこやかな表情で一礼した。


「温泉はもう準備できています。ごゆっくりお入りください」


 ほなみは笑顔で一礼すると、キャリーケースから浴衣を取り出した。

 普通であれば、旅館備え付けの浴衣を着るものだが、ほなみは自分の浴衣を持ち歩いていた。これから始まる「戦い」のため、用意してきた特別仕様の浴衣であった。

 ほなみは大きな岩に囲まれた露天風呂で、しばらくの間ゆっくりと湯あみを楽しんだ。夕暮れ時、山からの風に乗ってほのかに香る梅の花の香りが心地よく、都会での忙しい生活を一瞬忘れてしまいそうになった。


「本当にこんな鄙びた温泉宿に、あの人はいるんだろうか?」


 部屋に戻ると、ほなみの部屋には夕食のお膳が用意されていた。

 焼きたてと思われる焼き魚や鍋の味噌汁の香りが、部屋いっぱいに広がっていた。

 ほなみは座布団の上に座ると、さきほどの男性が、不安定な体勢で櫃に入ったご飯を部屋の中に持ち込んできた。


「ちょ、ちょっと大丈夫ですか?ご飯がひっくり返っちゃいますよ!」


 案の定、櫃を持つ男性の足がもつれて、体勢が斜めになってしまった。


「あぶないっ!」


 ほなみは野球のスライディングのように、頭から滑り込んで男性が転倒するのを防ごうとした。

 しかし、男性はつま先で辛うじてバランスを取り、そのまま何事も無かったかのように、ほなみのお膳が並べられたテーブルの前に櫃を置いた。


「え?まさか、転ばなかったの?」


 畳の上に倒れ込んだほなみに向かって男性は一礼すると、「ご心配をおかけしてすみません。ごゆっくりお召し上がりください」とだけ言い、部屋を後にした。

 ほなみは畳の上でしばらくあっけに取られていたが、座り直して、辛うじて無事だった櫃からご飯を茶碗に盛り付け、食事にありついた。

 焼き魚の身を箸でほぐしながら、ほなみの中にある予感が浮かんだ。


「あの人が……ま、まさかねえ」


 しばらくすると、あの男性が部屋に入り、お膳を片付け始めた。


「お味はいかがでしたでしょうか?」

「とても美味しかったわ。お魚も、お鍋も。あ、そうそう、お米もすごくつやつやして食べ応えがあったかも!」

「それはよかった」


 男性は笑顔を浮かべながら、黙々と食器の片づけを続けた。

 この男性が、まさか……伝説の名人?

 人違いかもしれないが、ほなみは、この店に来た真の目的を男性に告げることにした。


「あの~、お聞きしたいんですけど。このお宿に卓球台があるんですよね?」

「ああ、ありますよ。おひとりで卓球をするんですか?」

「いや、私、伝説的な温泉卓球の名人がこのお宿にいると聞いて、はるばる東京からやってきたんですよ」

「卓球が目的で?」

「ええ、このお宿には伝説の温泉卓球名人・浅羽龍之介あさばりゅうのすけがいると聞きました。私、こう見えても、昨年、全日本女子温泉卓球選手権を制したんです。今日は浅羽さんと、ぜひお手合わせしていただきたい、と思いまして」

「……」


 男性は何も言わず、食器を片付け続けた。


「すみません、もしかしたらと思うんですが、浅羽龍之介って。あなたなんですか?」


 すると、男性は口元を緩ませながら、ようやく言葉を口にした。


「いかにも。私が浅羽です」

「やっぱり。あなたがそうだったのね?」

「しかし、私が温泉卓球大会で最後に優勝したのは、もう大分前のことですよ」

「でも、あなたは現役でプレーしていた時、ずっと無敗記録を続けていたと聞いたわ。温泉卓球界で、あなたは伝説のプレイヤーだと言われているのよ」

「伝説だなんて、そんな、アハハハ。ご覧の通り、今は老いぼれて、私と妻の二人で旅館を切り盛りしておりましてね。腰も悪くなったし、もう温泉卓球なんてやることもなくなりました」


 するとほなみは、立ち上がると、キャリーケースから、卓球のラケットを取り出した。


「今日はぜひ、あなたと勝負したい!あなたに勝って、私が温泉卓球の伝説の存在になりたいの」


 ラケットを持ったまま、真剣なまなざしで見つめるほなみを見て、龍之介は顎に手を当ててしばらくの間考えたが、


「わかりました。じゃあ、その勝負、受けましょう」

 と言い、ほなみを手招きした。

 ほなみは龍之介の招く方向へと歩き始めると、灯りのない真っ暗な廊下へと通された。そして、通された部屋には、豆電球だけが灯る中、年季の入った卓球台が用意されていた。


「す、すごい!なにこれ?傷だらけじゃん。しかも、埃まみれだし……」

「もう何年も使っておりませんのでね。私自身、本当に久しぶりにやるので、お手柔らかにお願いしますよ、お嬢さん」


 龍之介は部屋の片隅に置かれた棚からラケットを取り出すと、腰が曲がったままで、時折足元が震える不安定な姿勢で卓球台の前に現れた。

 ほなみは卓球台の前に立つ龍之介の姿を見て、思わず吹き出しそうになったが、ボールを手にすると、力を込めてサーブを打ち込んだ。

 龍之介は足元をふらつかせながらも、打ち込まれたボールに向かって肘を伸ばした。


「そんな姿勢で、ボールを打ち返せるはずないでしょ?」


 勝ち誇った表情で見つめるほなみだったが、龍之介は何とかボールを打ち返し、ボールはそのままスピンを描きながら、ほなみの脇の下をすり抜けていった。


「え?」


 ほなみは呆然とした表情で、ボールの行方を追った。


「いやあ、久し振りだから、やっぱりボールを上手く打ち返せないですね」


 龍之介は照れ笑いを浮かべながら、ほなみに向かって頭を下げた。

 続いて、今度は龍之介がサーブを打った。

 ボールは速度が無いものの、回転を付けながらほなみのラケットの真下を通り抜けようとしていた。


「ま、まずい!」


 ほなみは何とか打ち返したが、龍之介は慌てることなく、ボールをラケットに当てた。すると、打ち返されたボールは、ほなみのすぐ目の前で直角にカーブした。

 ほなみはラケットを思い切り空振りしたまま、勢い余って卓球台に倒れ込んだ。


「じょ、冗談でしょ?今の角度、マジ?」


 卓球台にも身体ごともたれかかったほなみは、青ざめた表情で龍之介を見つめた。


「お嬢さん、大丈夫ですか?これ以上試合を続けると怪我しますから、おやめになった方が良いと思いますが」

「バ、バカ言わないでよ!まだまだ試合は序盤だからね。今までは相手がお爺さんだと思って手を抜いていたけれど、ここからは本気で行くからね!」


 しかし、セットが進むにつれて次第に龍之介が打ち返すボールのスピードが上がってきた。スピードに加え、ボールがスピンしたり、思わぬ方向へカーブするので、ほなみは全く手が出なかった。最後のセットでは、龍之介の打ち込むボールを打ち返すのがやっとであった。

 結果的に、ほなみは1セットも取れず、ストレートで敗れた。


「いやあ、本当に久しぶりにやったから、身体が痛いわい。お嬢さん、なかなかやるね」


 龍之介は頭を掻きながら照れ笑いすると、ラケットを棚に仕舞いこみ、腰を曲げながら、ふらついた足取りでその場を去ろうとした。

 ほなみはしばらくの間、悔しさのあまり無言のままであったが、部屋を去ろうとする龍之介の背中に向かって大声で叫んだ。


「お手合わせ、ありがとうございました!やっぱりあなたは、温泉卓球界のレジェンドですね。こんなにも尊い存在のあなたに、ひょっとしたら勝てるかもと思って安易に挑んだ私が愚かでした!」


 すると、龍之介は後ろを振り向き、片手で軽く手を振った。

 そして、そのまま激しく軋む音を立てながら、廊下を歩き去っていった。


 翌朝、ほなみは出発する前に、キャリーケースを抱えながら、フロントに立つ龍之介に頭を下げた。

 すると、龍之介はほなみの肩に手を置いた。


「ほんの一試合だけでしたが、あなたの一打には情熱と素質があると感じました。ぜひとも、日本のエースとして、将来の温泉卓球界を引っ張って行ってもらいたい。期待していますぞ」


 そういうと、ほなみの目からは大粒の涙が流れてきた。


「私、浅羽さんにまた勝負に来ます!その時までに、もっともっと強くなってきますからね!あなたには、いつか絶対に勝ちたいから」


 ほなみは鼻息を荒くしながら声高らかに叫ぶと、キャリーケースを引いて玄関の引き戸を開けた。


「あの方がいる限り、しばらくは、我が国の温泉卓球界は安泰ですな」


 龍之介は、微笑みながら手を振って、木道を歩き去っていくほなみの背中を見送った。








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