消しゴムはんこの恋
沖綱真優
彫るは恋心
こんころんと音も立てずに転がった。
「あ、ちょっと先生、落としちゃ・・・あっ」
「だって、先生!おれ・・・あ?」
ブサイクな造形でブサイクに転がった亜実の消しゴムはんこは、ちょうど近くで同じようにお説教を受けていた男子生徒に踏みつぶされた。ぐしゃり。
「はわわわ・・・わーーーん」
しゃがみ込んで完全につぶれた消しゴムを示す指には絆創膏。
「悪かったって。・・・怪我してんじゃん」
隣にしゃがんで拾った消しゴムを掌で揺らしながら亜実にいう。
「休み時間に教室で消しゴムを彫っていて手も彫ったんですよ」
呆れた声で亜実の担任がいうと、男子生徒の担任が応えた。
「小さなカッターかナイフ一本でしょう?うちは本格的に木材と十本以上の彫刻刀を持ってくるんですから」
「いいじゃん、美術科なんだから。彫刻の授業もあるし」
「休み時間に教室でやるな、と前も注意しただろう。美術室に行くか、取り上げられるか、選ばせてやる」
「横暴だぁ」
亜実は三人のやりとりを目を白黒させて聞いていた。
美術科の子なのは分かったが、休み時間に木彫りの何を作っているんだろう。
「仏師の修行は時間が掛かるのに・・・」
休み時間に教室で刃物を取り出さないと約束させられたのち、先生たちから解放されて、男子生徒と一緒に美術室に向かった。今日の部活はサボリだ。
篤也と名乗った彼は、祖父が仏師で、自分もめざしているらしい。
「仏師ってなんだっけ」
亜実の質問に怪訝な顔をする。
「県内有数の進学校の生徒がそんなことも知らないのか?」
「知らないことを知らないというのが、向学心のたまもの。で?」
仏師とは、仏像専門の彫刻家だ。
僧侶である必要はなく、多くは仏師に弟子入りして修行を積み、独立する。
篤也は小学生の時にはもう仏師になると決めていたが、大学を卒業しないと弟子にはしないという祖父の言もあり、まずは基礎力を磨くために地元の美術科のある高校に入学したという。
「ふーん。仏様・・・」
「そっちは何を彫ってたんだ?」
「消しゴムはんこよ。最近ハマってるんだけどなかなか上達しなくって」
美術室の机につくと、カバンから消しゴムはんこの道具を取り出す。
4cm角の消しゴムにキャラクターの図案を写してある。
できるだけ簡単な絵をネットから集めているのに、いざ彫ってみると、髪は千切れ、目は白目、頬はこけ、と散々なできばえだ。
篤也はへぇえ、といいつつ、余りの消しゴムの六面に適当な花を描き、亜実の細工用カッターを勝手に使って彫りだした。
あれ?柔らかいな、と苦闘する姿を見て喜んだのも束の間、ひとつ無駄にしただけで立体的な花を彫ってしまった。
「ハンコじゃないじゃん」
「あ?平面的に作るのか」
「あのね。消しゴムで遊んでる暇じゃないんでしょ?」
篤也は消しゴムの花を転がすように亜実に渡すと、六人掛けの広い机の上に道具を広げ始めた。
リュックの幅一杯の木製ケースに入った彫刻刀だけでも本気度が分かる。軍手を左手にはめ、新聞紙を敷いた上に粗彫りした木材を取り出した。
横長で丸みを帯びた形状は仏様であるはずがなく、鉛筆での下書きは明らかに。
「土産モノの熊さん・・・」
鮭をくわえた例のヤツだった。
「じーさんが、弟子になるまで絶対に仏様は彫っちゃいけないって。だから色んなモチーフで木を彫る練習をしてる」
照れくさそうに説明したあと、真顔で亜実の方を見た。
「彫りだしたら集中しすぎて何も聞こえないから、話しかけないで。あと、念のためもう少し離れて」
別に美男子というわけでもない篤也の顔が、その真剣な眼差しだけで特別に見えるようになった瞬間だった。
☆
「亜実さぁ、最近部活サボって美術室に入り浸ってるらしいけど、あの子と付き合ってんの?」
昼休み、お弁当を掻き込んで、美術室に向かおうとした亜実をクラスメイトの奈緒がつかまえた。亜実と奈緒の所属する合唱部は、運動部と掛け持ちの生徒が多い部で、真面目に人が集まるのは文化祭前の一ヶ月くらいだ。
奈緒も陸上部をメインに、大声で歌いたい時だけ合唱部の方に顔を出す。だから別にいくらサボっても問題はないはずだと亜実は考えていたが、合唱部だけに所属していてピアノが弾ける亜実が不在だと、歌いたい時に歌えなくなる適当部員たちは困るのだ。
「つ?!」
「あ、分かった。ナイスリアクション。みんなにそう言っとくから」
「みんなに何を?!」
だーいじょーぶって。肩を叩いてウインクし、早く行けと教室から追い出した奈緒の態度に、美術室ではなくトイレに駆け込んだ。
鏡には想像以上に赤い顔をした亜実が映っていた。
深呼吸、深呼吸。
意識してないから、ほら、向こうは集中するとこっちのことなんて見えないし聞こえないし。
だーいじょーぶって。
奈緒の言葉がリフレインして、全然ダイジョウブじゃない。
でも。
彫刻刀を握りぐっと力を入れる瞬間白く変わる右手の指先、作品を持つ左手の、支えあるいは抜く力の込めが現れる手頸。
手があれほど雄弁なのだと、彼と出会わなければ気付くことはなかっただろう。
思い出してまた赤くなる顔を整えながら、廊下を急ぐ。
がらっと開けた美術室の入り口。
いつもの席にいる篤也は、いつもと違って道具を広げていない。
亜実が一歩、入室したとき。
「あのさぁ」
聞いたことがないほど剣呑な声色。
常につっけんどんな態度を取ろうが、どこか人懐こい彼には似つかわしくない。
「もう、来ないでくれる?気が、削がれるんだ」
こちらを見ないままいうと、リュックを持って立ち上がった。
それから決して視線を合わせずにすぐ横を通り過ぎて、出て行く。
左手に巻かれた包帯には微かに血が滲んでいた。
背後からごめんな、と聞こえた。
☆
ぶぉおーーーんとやかましい音を立てる掃除機をぐいぐい押し引きする。
テレビの前から動かない次女のお尻をブラシ先端で押すとスカートを吸い込み、ぶろろろとおかしな音に変わった。亜実は慌ててスイッチを切った。
「ちょっとぉ。おかーさん、吸わないでよ」
「こっちのセリフ。吸い込まれないでよ」
登校自粛で家庭学習の子どもたちと、在宅勤務の亜実。
春からのこの生活に慣れたころ、平日昼に子どもたちと一緒にいられることのありがたさを感じた。もちろん面倒なことも多いのだけれど。
「へー、仏さん彫ってる人だって」
ちょうどうるさい掃除機が止まって、テレビの音が聞こえるようになった。ダイニングから遠目に見ていた中学生の長男が声を上げた。
亜実は画面を見て固まった。
つるりとそり上げた頭と紺の作務衣の男性に、仏師・石室篤定、とテロップが出ていた。
石室はかつて淡い思いを寄せた同級生の姓で、篤也の本名から一字取り、篤定という雅号にしてあるのだろう。
高校時分に引き戻される。
昼休みと放課後の二回、彼は美術室で木を彫った。
クマ、フクロウといった動物、人魚姫、白雪姫などの童話の登場人物、美術室にある塑像の模写。
木材が、彼の手によって命を吹き込まれるのを眺めていた時間。
立体的に彫り込まれた恋の時間。
短い恋が終わったすぐあと、受験生になった。
進学校の受験生に恋愛などしている暇はない。もちろん両立できる器用な人もいるが、亜実は受験勉強だけで手一杯だった。
努力の甲斐あって、県内の国立大学に無事進学できた。
篤也は関西の仏教系大学に進学したと噂で聞いていた。
告白もできなかったけれど、高校生活でただひとり本気で好きになった人だった。
あぁ、夢を叶えたんだ。
潤みそうになるのを堪えながら、掃除機を片付ける振りをしてテレビから目を逸らした。
そんな母親の葛藤など気にしない子どもたちは更に声を上げる。
「立派な仏像の間にすごく下手くそなの飾ってるの、何だろうねぇ?」
「あれだけすっごい下手くそだよねぇ?」
インタビュアーも気付いたのか、仏師に尋ねる。
『ただ如来とだけ記されているそちらの作は・・・』
『これはいくら修行しても届かない境地、を表しています』
柔らかな声に再び画面に吸い寄せられた亜実の目に映る穏やかな眼差しは、壮年らしい深みを増していた。
あの目を、手を、横からずっと眺めていたかった。
青春が喉から苦い感覚となって上ってくる。
一緒に映った如来像は、亜実があのころ消しゴムで彫った地蔵をモチーフにしていた。
下手くそだと笑いながら、ポケットにしまったアレを元に作品を作ったのか。
だとしたら、彼も亜実のことを意識していて、だからこそ遠ざけた。夢のために。
目に盛り上がる水分をどう言い訳しようかと思案したとき、画面が切り替わり、二三歳の子どもを抱いた綺麗な女性が映った。
でれりと表情を変えた仏師に涙も鼻水も帰っていった。
そうかそうかと、二十年近く前の儚い想いに別れを告げて、掃除機をしまう。
この後は夕飯の下ごしらえと午後の在宅勤務だ。
その前に。
書類ケースの隅に張り付いた、花の形をした消しゴムを、引き剥がしてゴミ箱に捨てた。
内側でどう転がったかは知らない。
消しゴムはんこの恋 沖綱真優 @Jaiko_3515
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