堕ちる太陽

「何をしている」


 聞き心地の良い低い声が響いている。


「お前掃除はどうした!? 申し訳ありません、ヒード様。私が頼んだばかりに……」


 何やら男性達が自分の周りで話をしているかのようだった。最初は夢だと思っていたが段々とその声が鮮明に頭へ届き始めた。それが現実で繰り広げられていると気付いた時、自分の失態を瞬時に察知したサラリアは寝惚けていたせいか先程の敷布を握りしめたまま王の前ですぐに立ち上がろうとした。だが、座るように寝ていたサラリアは自分の足の感覚がなかったことに気が付いた。両足が完全に痺れ麻痺していたのだ。想像も出来ない程に立ち上がれなかったサラリアは顔から前に倒れ込むように転倒しそうになった。だが目の前にいた眉間にしわを寄せながらこちらを見つめていた濡れた髪の男性に体を受け止められたのだ。


 それがサラリアの思い人であり、この国の主だったとは、こんなこと誰が想像出来ただろうか。


「も、申し訳ございません!」


 今、彼の胸の中にいる。誰もがきっと信じられない出来事にサラリアは顔を真っ赤にさせ、やっと謝る事が出来たと思ったら、今度は足の痺れが治るまでどうしようもなく動くことさえ出来ないことに気が付いた。まともに立っている事さえも出来ていないのだ。完全にこの体全体をこの国の主に預ける形で抱擁されるように支えられている。主の体からは人肌の暖かな体温を感じ取れない事に少し驚いた。だが確かにこの肌の感触やかすかに残るほのかな温もり、何より彼の心臓の鼓動を感じ取ることが出来、いけないと思いつつも喜びを感じていた。

 サラリアはこの状況が繰り広げられていることをにわかに信じられなかったが、猛烈な恥ずかしさと同時にずっとこうしていたいと思った自分を心底いやしく思い、すぐさま主から離れようと藻掻いた。だがまだ全くこの血の通っていない足二本は言う事を聞いてはくれないのだ。


「ヒード様からすぐに離れろ!」


 先程の警備兵は腰の剣の柄を握りしめ、怒りの形相で今にも切りかかりそうな勢いで叫んでいる。いつの間にかこの空間は非常に重々しい空気に包まれていた。


「足が痺れているのだろう」


 無表情のヒードはその重たい空気を軽くあしらうかのように、どうしようもないサラリアをそのまま抱え、近くの寝台の上へ下ろした。


「あ、ありがとうございます……、ご無礼を本当に申し訳ございません……」


 壮絶な失態を犯したサラリアはヒードの顔をまともに見れないまま、すぐさま小さな声でなんとかもう一度謝った。


「はやくその足を元に戻して出て行ってくれ」


 ヒードはそっけなくそう言うと、サラリアの座る同じ寝台へどすっと腰かけた。そんな主をいけないと思いつつもサラリアは横目で一瞬垣間見た。湯浴みから上がったばかりの髪は水滴で滴り、鼻筋の通った綺麗な横顔には黒い稲妻模様の刻印が刻まれている。その下には軽めで柔らかそうな黒い羽織を身に纏い、少しはだけた胸が覗く。今まで遠目から見ているだけだったその姿を目前にし、会話さえも出来てしまったこの現実に今犯したとんでもない失態がどこかへ消え去ってしまったかのような幸福に満ちた感覚に襲われた。


 段々と血の通い始めた両足を確かめサラリアはすぐさま立ち上がると、まだあの白の敷布をきつく握りしめていることに気が付いた。


「あ、あの……新しい敷布に変えてもよろしいでしょうか……?」

「ああ、早くしてくれ」


 ぶっきら棒に一言述べたヒードと、怒りでゆがんだ警備兵に頭を下げると、すぐさまノリのついた固めの敷布を広げ、慣れた手つきで整えると、頭を深く下げ掃除道具と古い敷布を握りしめその部屋を急いで後にした。すると先程自分がしでかしてしまったとんでもない失態が爆発するかのように思い出され、どうしようもない恥ずかしさと申し訳なさ、不甲斐なさ、そして嬉しさが次々に波となって押し寄せてきた。


「寝てしまうなんて……、信じられない……」


 サラリアはその日から夜もなかなか眠れず、食事さえも喉を通らない日が続いた。いつも彼のことをどうしようもなく考えてしまう自分がいる。心臓が常に高鳴っており、上手く食べ物が喉を通らず、食欲さえも湧かないのだ。だがそんな日でも太陽は登りまた夕日は沈んで行く。今日も城内の庭で純白の敷布の影から時間が止まった夕日色に染まる彼を見つめている。何日そんな幸せな日々を繰り返しただろうか。


 ――その日は前触れもなく突然やってきた。

 

 いつものように上空の窓を見上げるとあんなに鮮明に見えていた彼がなぜか日に日に見えなくなり始めたのだ。視力には自身があったサラリアは、最初は目の疲れのせいだと思いすぐに治ると思っていた。だがその視力は段々と衰えていくばかりだった。


 仕事にも支障が出始めた。ゴミや埃を見つけることも出来なくなり、針仕事さえも出来なくなった。洗濯は辛うじてどうにか出来たが、地下へ続く階段を踏み外し、危うく転倒しそうになり大事故になりかけるところだった。


 周囲からは医者にかかったほうが良いと言われたがそんなお金はサラリアにはなかった。城内で働いていると言えども、使用人の中でも低位置に属するサラリアは衣食住を提供されるだけでほぼ収入はなかったのだ。


 ――ついに何も見えなくなった。


 だが、微かに光を感じていた。あの夕刻時に彼が見つめていた眩しい太陽の光を。その光を感じ朝を迎え、目の中で無くなる光と共に夜を迎える。そんな空しく流れゆく日々が繰り返されるだけだった。

 もうどの仕事さえも出来ないサラリアはただ自室の小さな寝台に横たわる日々だった。このまま働けずにいればこの城から追い出される日も近いだろう。心配してくれる同じ使用人仲間もいた。だがどうしようも出来ないのだ。分かっている。もうこの目は治らないと。


 サラリアは自分の胸に右手をそっと当てた。心臓音がこの手に響いてくる。このまま私はどうなってしまうのだろうか。目の見えない自分にこの先何か出来る事があるのだろうか。そんな不安が次々に押し寄せ、視界だけでなくこの心までもが暗闇に満ち始めていた。悲しみ、喪失感に押しつぶされそうになる。時々戸の外から響いてくる楽しそうな笑い声。その声を聴くたびになぜ私だけがこんな人生なのか、と自分を殺したくなるような衝動にも駆られてしまう。そんな自分が嫌にもなる。もっと前を向いていたいと思う自分もいるのだ。だがこの見えない目を実感する度に顔を手で覆い隠し、泣き続ける日々を過ごすしかサラリアには残されていなかった。この地獄の苦しみが永遠に続くような感覚に襲われる。もう自分を必要としてくれる人はこの世には誰一人いないのだろう、そう思えば思うほど涙が止まらなく、どうしようもなくなるのだ。


 だけど最後にもし、命を絶つ前に、私の願いを一つ叶えることが出来るのなら――


 サラリアはベッドからふらふらと立ち上がり机の上にあった鋭い先端を持つキリを握り締めると、微かな夕日の光を頼りにゴル城の最上階を目指し群青色の衣服を引きずるように歩き始めた。壁を伝い、冷たく固い物に幾度となくぶつかり傷を作りながらも上へ向かっていく。元から人気のない城だからなのか、それとも神の導きなのか、誰とも会わず最上階へなんとか辿り着くことが出来た。

 サラリアが目指す場所、それはこの国の主の部屋だ。最後に一目会いたい。例え目に映らないとしても。そこでやいばによって切られたとしても。


「誰だ!?」


 聞き覚えのある低い声が響く。前回も刃を向けようとしたあの顔色の悪い男の声だった。その声にあらがうことなくゆっくりとサラリアはその男の元へ近付いて行く。


「おい止まれ! お前はこの間の女だな!? それ以上近付くな! さもないと……」

 

 剣を抜くような音が聞こえる中、サラリアは叫ぶように言い放った。


「ヒード様に会わせて下さい!」

「何を言っている……!?」

「お願いです、その後私を切っても構いません……、お願いです……お願いです……」


 サラリアはその兵士の前で泣き崩れる様に座り込み何度も頼み込んだ。


「サガラ、何事だ」


 扉が開く音と同時にずっと聞きたかった声がサラリアの耳に届いた。思わずその方向へ目を向けるが、微かな光しかもう通すことが出来ないサラリアの目には何も映らなかった。分かってはいたもののこの突き付けられる現実に途方もなく悲しみが込み上げてくる。彼の姿を最後に見たい、それさえも叶えることが出来ないというのか。まだ明るい光を感じられたあの日、彼女にはそれだけが毎日の救いであり幸せであった。だがその幸せを奪われたあの日から自分の全てをこの世界から拒絶されたかのように感じ、なぜ生きているのかさえも分からなくなった。


 だけど、最後にまた彼を感じ取ることが出来たら――。


「……ヒード様、お願いがあります。目の見えなくなったわたくしと最後となる夕日を一緒に見て頂けませんか……?」

「貴様! 何を言っている……! ヒード様こいつを信用してはなりませぬ!」


 サガラと言われた警備兵の怒りの声だけがこの広い廊下に鳴り響く。

 

「お前は落ち行く日を見たいと思うのか……?」


 その声にサラリアはすがる思いで声の方向を見上げた。


「はい……!」


 返事を発したと同時に誰かに右手を鷲掴みにされたかと思うと、体ごと乱暴に抱きかかえられた。そしてあの体温を感じた。ひやっとして冷たいながらもわずかな熱を感じる彼の温もりだった。その僅かな体温にサラリアの冷え切っていた心臓はまた熱く高鳴り始めていた。


 扉の閉まる音が聞こえるとサガラの怒りの声は消え失せ、サラリアの真っ暗な暗闇の中に段々とほのかな黄金色の光が照らし始めた。


「望みの落ちゆく日だ」


 感情を感じさせない言葉を発した主はその小窓の傍でサラリアをそっと下ろした。


「ヒード様がいつも見ていた夕日……」


 見えない夕日へ向かって口走ってしまったサラリアは思わず口を手で隠した。


「いつも見ていたな、私を」

「申し訳ございません……、ご存知だったのですね……」


 ヒードはそれ以上何も口にしようとはしなかった。サラリアは最後の思いを載せ、自分へ言い聞かせるように主へ向かって口をゆっくりと開いた。


「わたくしにはあの夕日のように止まらない時間があったとしても、この先にはもう永遠の暗闇しかありません。だから、だから……この身が滅びようともあなた様へ会いに来たのです。私の最後の願いを叶えて下さり感謝しています……。もう思い残すことはありません……」


 サラリアは夕日が暖かく差し込む光の前でずっと握り締めていた鋭いキリを己の首へ突き付けた。


 だが彼女の手を止めるかのようにサラリアの華奢な指へ冷たく大きな手が重なった。


「お前は死を乗り越え、時間という概念が止まった私と共にあの幾度となく堕ち行く夕日を永遠に味わいたいと思うか?……例え魔物になったとしても」


 サラリアは見えるはずのない彼の顔を見つめた。


「もし、もしも……、そんなことが出来るのなら……。私は……この上なく幸せです……」


 サラリアの消え入るその言葉の後に、手から鋭いキリをゆっくりと取り上げる者がいた。すると自身の黒い前髪をそっと手で押し上げられると、鋭い痛みが額に走った。あのキリで線を横に描くように傷を付けられているようだった。その痛みに必死に耐えていると冷たい指が自身の額に押し当てられ、額から自分のものではない血液が流れてきているのを感じた。

 ヒードとサラリアの生暖かい血液が深く交じり合った瞬間だった。


「うっ……」


 サラリアは自身の額がとても酷い熱を持つような感覚に襲われ頭もふらつき始め、全身にとてつもない悪寒が走りガタガタと震え始めた。立っているだけで精一杯だった彼女はヒードにもたれ掛かるように支えられ、その心休まる腕の中で激しい熱と悪寒に静かに耐え続けた。悶え続ける彼女を優しく抱き抱える様にヒードは彼女が望んでいるものを待ち続けているようだった。


 するとサラリアの視界の中にもう二度と感じることが出来ないだろうと思っていた強い明るさが灯り始めたのだ。


「夕日が……見えます……」


 冷たい腕に包まれながらサラリアの額からゆっくりと開眼したその瞳は見つめていた。


 ――その堕ちゆく灯火を。


「お前の第三の目だ。そして永遠の時間がやってきた。私のように」


 いつも夕日を眺めていたあの悲しげな瞳でヒードはサラリアを見つめていた。皆が影で言うような恐ろしい姿はそこには微塵もなかった。ヒードに宿る黒神チェルノボーグの力によって、サラリアは永遠の命を持つ魔物となり果てた瞬間だった。だが彼女は幸せに満ち溢れ、目の前にいる彼を静かに見つめていた。


「ヒード様……、ありがとうございます……」


 彼女の血塗られた額の中心にある瞳には彼の姿が投影され、一粒の涙が零れ落ちた。


「お前は私が恐くないのか……?」

「……わたくしは、あなた様の事が」


 夕日が完全に落ち、闇に包まれた窓際でその秘めた思いを口にしかけた時、ヒードはサラリアの体温を確かめるかのようにその細い体をきつく抱き寄せた。


「私はもう何も感じ取る事が出来ない。だがお前と共にこの永遠の時を生きてみせよう」


 心地良い低い声とその冷たい温もりが彼女の身も心も溶かすようだった。



 例えどんな暗闇がまた訪れようとも生きていける。


 あなたとなら――

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堕ちゆく灯火 凛々サイ @ririsai

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