オシにオチて

隠井 迅

第1話 惑わずなんて真っ赤な嘘だった

 二〇一二年十一月十八日――

 この日は南森義武(なんもり・よしたけ)の四十歳の誕生日であった。

 しかし、誕生日前日は、土曜出勤の上に残業まであって、義武が、さいたま市の自宅に戻った時には、時刻は一時を過ぎてしまっていた。

「ハッピー・バースデー、俺」

 応じてくれる者もいない、部屋の中で義武は独り呟いた。

 義武は、帰宅の際に郵便受けから引っこ抜いた新聞を、TVの前に放り投げた。それから、そのままベッドの上にうつ伏せ状態で倒れ込むと、スマフォでメールをチェックした。だが、誕生日を祝うようなメッセージは一つもない。

 まあ、誰からも祝ってもらえなくても、当然か……。

 大学入学以来、小中高の地元の友人には同窓会でしか会っていない。そして、大学時代の仲間とも、社会人になってからはすっかり疎遠だ。また、今、恋人はいない。というか、これまで彼女がいたことはない。

 何とはなしに、SNSを眺めながら、自分のアイコンをタッチし、プロフィール欄に移行すると、画面の下から、ドロップのうような色とりどりの風船が上がってきて、義武の誕生日を祝ってくれた。だが、この誕生日用の演出は、義武の虚しさを、さらに強める効果しかなかった。

 朝、家を出た際に点けっぱなしにしていたテレビの画面を、義武は何とはなしに眺めやった。

 チャンネルは、埼玉のUHF局に合わさっており、コマーシャル明けに、突然、アニメが始まった。

「ん~だよ、アニメかよ、俺、アニメ嫌いなんだよな。所詮、絵の作り話じゃん」

 そうボヤキながら、義武はチャンネルを変えようとしたのだが、リモコンが見当たらない。

 そのうち、冒頭の短い話が終わって、オープニング・ソングがテレビから流れてきた。

 短いピアノのイントロの後に始まった高音の歌が耳に届いた瞬間、全身を電流が走ったようになり、義武は硬直してしまった。耳から入って来た歌声は、身体の内側で反響したようになって、その歌唱が、脳内で再生され続けていた。

 ハっと気が付いた時には、時計は二時近くになっており、テレビの画面では、先ほど耳にした曲とは違う歌が流れていた。オープニングからエンディングまでの約二十分間のストーリーを、義武は一切覚えていない。

 ただただ、もう一度、アニメの冒頭で耳にした歌を聴きたくて、聴きたくて、聴きたくて、どうしようもなくなっていた。

「どうすれば、あの歌をもう一回聴けるんだ。来週のアニメまで、一週間も待ってらんないぞ、でも、曲名も歌手の名前も知らないしな」

 部屋で独り言ちた後で、義武は思い付いた。

 テレビの前に放り投げていた新聞のTV欄に目を走らせ、土曜の<テレ玉>で一時半から放映されていたアニメの番組名を確認した。

 そして、そのタイトルをメモするや否や、義武は、近所のビデオレンタルショップに向かって、自転車を全力で走らせたのだった。


 レンタルショップから戻った義武は、大急ぎで部屋に駆け込むと、最近全く利用していなかったDVDデッキにディスクを挿入した。すぐに再生されなくて、何度も何度もリモコンの再生ボタンを連打してしまった。

 そして、ようやく作品が始まった。

 始まったのだが――

 曲が全く違うのだ。

 デッキのトレイを開けて、作品名を確認してみたが、タイトルに間違いはない。しかし、オープニングもエンディングも歌が違うのだ。

 どういうことだ?

 義武は、ネットで情報を集めることにした。

 その結果わかったことは――

 今、テレビで放映されているのは、その作品の第二シリーズで、DVDとして、現在発売されているのは最初のシリーズ、そして、最初と二番目のシリーズでは、オープニング曲が違っているそうなのだ。

「ったく、そんなアニメ事情なんか知らんわ。俺、オタクじゃないし。結局、DVDの借り損だわ。曲は来週の土曜まで、お預けかよ」

 ただ、作品について調べてゆく中で、義武は、先ほど自分に衝撃を与えた歌のタイトルと歌手の名前を知ることができた。

 そしてさらに――

 タイミングがよいことに、次の二十一日・水曜日にその曲が発売され、それを記念したイヴェントが池袋で開催され、しかも、ミニライヴが観覧自由とのことであった。

 イヴェントって何? 生であの曲が無料で聴けるってことなのかな?

 池袋なら埼玉の一部だ。

 折よく、今日、土曜に出勤した代わりに、次の水曜は休みになっている。

 情報を確認した時には既に、義武は、あの歌をもう一度聴ける期待感で一杯になっていたのだった。


 イヴェントは十八時開始だったので、その三十分前に到着すれば余裕だろう、と義武は思っていたのだが、それは完全に甘い考えであった。

 すでに、イヴェント・スペースは多くの人で溢れかえっており、ステージの近くで観覧するのは難しく、義武は、仕方なく建物の二階のバルコニーからイヴェントを観ることにした。

「ったく、アニオタ、はえ~よ。こんな早くから集まって、時間が無駄って思わないのかね?」

 階段を昇りながら、義武は周りに聞こえないように小声で呟いた。


 十八時――

 イヴェントが始まった。

 その歌唱は圧巻だった。

 テレビのスピーカーを通して聴いた歌もすばらしかったのだが、生で耳にした歌声は、吹き抜けの高い天井に届かんばかりに声量もあり、高く澄んだ声は音の矢となって、義武の耳を射抜いたのだ。

 しかも、アニメの曲もアニメの放映時よりも長く、歌ったのはアニメのオープニング曲だけではなかった。

 これまで、一度もライブにもコンサートにも行った事がなく、歌なんてTVやCDで、BGMとして聞けば十分と思っていたのだが、生歌を聴くという行為に義武は強い衝撃を受けた。

「し、知らんかった。こ、こんな世界もあったのかよ」

 生まれて初めてイヴェントに参加した義武は、終了後に、そのまま会場から立ち去ろうとしたのだが、その時、司会がこう話すのが聞こえてきた。

「握手会参加の方は、そのまま二列にお並び下さい」

「な、何いいいぃぃぃ~~~、そんなの、あり得るの!? 歌手って芸能人だろ。握手なんて、できんのかよっ!」

 義武は、隣にいた大学生らしき観覧客に訊ねた。

「握手会って、どうやったら参加できるんですか?」

 彼が言うに、CDを買えば、参加券がもらえるとのことであった。

 それだけで、いいのかよ。

 義武は、ステージ脇の販売テントに急いだ。


 運の良いことに、最後の一枚の握手券を義武は入手することができた。そして、流れに乗って握手会の列に並んだ。

 何せ、四十歳にして人生初の芸能人との握手だ。何をどうしたらよいのか全くわからない。

 右手で握手したらいいの? それとも左手? やっべ、めっさ手汗かいてきた。

 ハンカチで手をぬぐいながら、握手会の模様を観察していて気付いたのは、単に握手をしているだけではなく、歌手の方と会話をしているのだ。

「な、何ですとぉぉぉ~~~、は、話せんのかよっ!」

 でも、いったい何を話したらいいんだ? 初めまして、いや、曲の感想? 先週アニメを偶然に見ていた時に知りました。歌うまいですね、いや、歌手だから当たり前か? ま、まとまらん。

 思考がぐるぐる回っているうちに、自分が握手する順番が来てしまった。

「は、はじめまして…………………………………………………………………………」

 義武は、初対面の挨拶をしただけで、それ以外の、話そうと考えていたことは全部ふっとんでしまい、もう何も言えなくなってしまった。

「はじめてなんだ。嬉しい。今日はありがとう。またよろしく、ね」

 目の前の歌い手さんは、歌声だけではなく、その美貌も麗しく、ありていに言えば、義武のどストライクだった。こんな人がこの世に実在するなんて……。

 そして、触れ合ったその手は柔らかく、さらに、軽く力を込めて手を上から握ってきてくれたのだ。これまでの人生で彼女がいたことすらない義武は、女の人に触れられた経験も数える程しかなく、この握手によって、完全に心が蕩けてしまった。

 そうこうしているうちに、「はい、ありがとうございます」とマネージャーらしき男性に言われ、義武は、その場から離されてしまった。

 帰りの埼京線の中で、義武は、この日のイヴェントの余韻に浸りながら、ずっと掌に視線を落としていた。

 まだ、先程、体験したばかりの彼女の手の感触と温かさが残っているように、義武には感じられていたのだった。


 二日後の二十三日――

 この日は、等身大ガンダムのすぐ傍で、CDのリリイヴェが催されることになっていた。

 情報では、ミニライヴは十三時からなのだが、握手券は十一時から先着順に配布されるらしい。会場到着がぎりぎりで握手ができなかったら、そう思うと、義武はいてもたってもいられなくなった。

 それで、朝十時に義武はお台場に到着していたのだ。

 こんな早くに来ている熱心なファンなんて自分くらいだろう。

 そう思っていたのだが、会場は既に先達たちが何人も来ていた。

「まじかよ、オタク、熱心すぎっ!」


 この日の握手会の時、義武は、例の歌い手さんからこう言われた。

「あれっ! この前の池袋に来てたよね? ありがとう。また来てね」

 憧れの歌手に覚えてもらえたなんて、これ以上の喜びが、はたしてあり得るのだろうか?


「それが、<ヨッポーさん>のイヴェンターとしてのオリジンなんっすね」

 子供位の年齢差のイヴェンター仲間が義武に言ってきた。

「ああ、十年くらい前、ちょうど四十になった直後だったかな。それまで、アニメすら観たことがなかったんで、最初は、アニソンのこともイヴェンターのことも、ヲタク用語についても全く無知でさ。四十は<不惑>、惑わずって言うけれど、俺のイヴェンターとしての四十代は、もう惑いっぱなしだったよ」

 その時、開始を告げる<SE>がライヴハウスで鳴り響き、少し間をおいて、歌い手がステージの中央に現れ、スポットライトが灯ると同時に、彼女の激しい歌唱が始まった。


 うん、十年たっても、俺のオシさんは今日も<尊い>な。


<了> 

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オシにオチて 隠井 迅 @kraijean

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