21回目の春

蜜柑桜

姉妹の春

 暗い焦茶の枝の先に少しだけ紅い色が差していたと思ったら、三月頭の大雨と暴風から一夜明けて、眩しい朝日の下に目が覚めるような白い色が枝先についていた。

 もう何年振りになるのか、部活も卒業式も入学の準備もない、春休み。私は窓枠の向こうに揺れる白と薄紅の花をぼんやり眺めた。

 故郷よりもずいぶん遅れ、初めて四月頭に見る桜の蕾。進級と共に大学のキャンパスが移動し、一人で迎える初めての開花。


 そして、私が「大人」になってから初めて見る桜だ。


 枝に鶯が飛び降りて、緑の羽根を羽ばたかせる。

 その動きに、私は止まっていた手を再び動かした。買ったばかりの空っぽの衣装ケースに移そうと、段ボールの蓋を開けて衣類を取り出す。


 すると、フローリングの床に直に座っていた腿に軽い振動を感じた。横でスマートフォンが震え、画面にアイコンがピョコリと顔を出す。


「もしもし」

『ああ咲? 引っ越し片付いた?』

「まだ。どしたの」


 同県でも私の大学とは逆の端にある大学院に通う、三つ上の姉だった。ろくに家に帰らない姉が電話を寄越すなんて珍しい。院生は休みなしというけれど、向こうもまだ学事歴としては春休みだろうか。


『あのさ、あんた今日、二十歳はたちの誕生日だったじゃん』

「うん」


 春の陽気がそう思わせるのか、姉の声は家にいる時よりも柔らかい。そういえば大学で地方に出てからも、毎年誕生日にはメールが来たっけ。


『そっち出てくから、ご飯食べに行こうよ。引越し祝いと、誕生日祝い』

「いいの?」

『いいよ。いいとこ連れてったげる。お洒落してきなよ』


 荷物の中から顔を覗かせた桜色のスカートを、私は目の高さまで持ち上げた。


「わかった、ありがと」

『お店の候補送るから、どれがいいか選んで』

「うん」


 通話を切ると、すぐにレストランのリンクが送られてきた。私は段ボールの外に出した服の山を背もたれに、足を放り投げてリンクをタップした。冬を過ぎた日差しが足元に心地よく、鶯の鳴き声が部屋の中にも入ってくる。


 二十歳。二十回目にして初めて、姉と二人きりの誕生日だ。


 ***


 姉が連れて行ってくれたレストランは、私のアパートの最寄りのターミナル駅からほど近い、路地裏のイタリアンだった。この県出身のご主人がイタリアで修行を積んだのちに開業し、地元の食材を使った品々を学生にも手の出る値段で提供しているらしい。

 席に着くと、私がメニューを見るよりも早く、姉がスパークリング・ワインのグラスを二つ注文した。


「まずは、乾杯。祝、初スパークリング」

「うん」


 薄い琥珀色に光る液体の中で、キラキラ光る泡が細長いグラスを上に向かって上がっていく。一口飲んでみると、ジュースとは違う甘さと、ソーダとも違う刺激が喉を通り過ぎて行った。


「最後の二十歳成人だね」

「あ、来年からだっけ? 十八成人」

「そうだよ。だから二〇〇一年から二十一回目の二十歳が最後の二十歳はたち成人」

「そう聞くとハタチって言葉が形骸化しそう」

「元服は十代でしょ。それにそもそも成人って意味と違くない?」

「それもそうか」


 前に言葉を交わしたのはお正月の三ヶ日だった。久しぶりなはずだけれど、久しぶりという言葉も浮かんでこない。いつものテンポで口が動く。


「引越しの片付け終わった?」

「あらかた済んだよ。あとは週末に雑貨、買いに行こうかなって」

「荷物多いなら車出したげるよ。ホームセンター、駅から離れてるから不便でしょう」

「院はまだ始まらないの?」

「ガイダンスはすぐだけど、履修科目は学部より少ないからね。授業より自分で研究時間の確保」


 タイミングよく運ばれてくる品々を口に運びながら、他愛もない話を続けた。スターターの中には、カプレーゼとか知っているものもあったのに、白のワインを飲みながらだとまるで食べたことのない料理みたいだった。


「咲、そのスカート、私のでしょ」


 ホタテのリーフサラダを取り分けながら、姉が唐突に言う。さっき荷物から出したスカートだ。三年前に姉が買って、去年私に下がってきたよそ行きの服だ。姉が今日の私と同じ歳の春に買った、春色のスカート。


「お洒落してこいって言うから。ありがとね」


 姉が履いていたのがとても大人っぽく見えて、私も二十歳になったら着たいと言ったら、去年突然くれたのだった。二十歳になった姉が自分の誕生祝いに買って、今年は二十歳になった私が着ている。

 小さい頃は親よりも一緒にいた時間が長かったのに、中高生くらいから家でもあまり顔を合わせなくなった。姉が大学に出てからは、年に数回しか会わない。いつの間にか随分と疎遠になったと思う。

 それなのに、人生の節目の誕生日に、一緒にご飯を食べているのになんの不自然も感じない。


 なぜか笑いが込み上げながら、私は白身魚のソテーにナイフを入れた。


「なんだか変なの」

「何が」

「だって二十回目の誕生日が、お母さんでもお父さんでもなくてお姉ちゃんと二人きりなんてさ」

「二十一回目」

「え?」


 顔を上げると、姉がグラスを揺らして笑った。


「私が咲の誕生日を祝うのは二十一回目だよ。生まれたばっかのゼロ歳のあんたは私なんか認識してないだろうけど」


 だから二十一回目、と姉は繰り返す。

 そうか、と妙に納得した。


 私にとって二十回目の姉との誕生日が、姉にとっては二十一回目の私との誕生日。


 親元から離れて最初の、両親抜きの誕生日。


 外のライトの下で、夜桜が光る。

 姉が私と過ごす二十一回目の姉の誕生日は、私が姉にご馳走しよう。


 そんなことを思って、姉が差し出したグラスに、私のグラスをカツンとぶつけた。



 ——完——










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21回目の春 蜜柑桜 @Mican-Sakura

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