日常の変わり目

和泉

第1話

「僕、この景色が好きなんです」


 10月の終わり。緑色の錆びた歩道橋の上、僕は目前に走る道路を見下ろしながらそう言った。


「ふーん、いいじゃん」


 先輩は手すりに頬杖をついてちょっと微笑んでそう言った。僕の横で同じ景色を眺めながらそう言った。

 

 もうすぐ夕暮れ、橙色に染まりかけた空が車の屋根を明るく照らす。走る車は僕たちの下に入ったり、出て行ったりする。


 先輩は「なんで?」とは聞かなかった。僕がこの景色が好きな理由も、見せたかった理由も先輩は聞かなかった。僕もそれはあえて言わなかった。


「じゃ、帰ろっか」


 先輩が顔をあげそう言うと、僕たちは歩道橋を降りた。


 別に意識していたわけじゃなかった。ただの部活の先輩だったし、それ以上でもそれ以外でもなかった……はずだった。けれど、走り去っていく車と頬を撫でるように通り過ぎていく風に、僕は置いていかれる感覚に陥って、どうしようもなくて、泣きそうになった。




✳︎✳︎✳︎


 昔から歩道橋の上から車が走るのを見るのが好きだった。自分がどれだけ悩んでいても車だけは毎日ずっと滞りなく走っていて、あの世界の変わらない感を確かめる事が出来た。そうすると僕の気持ちはふっと楽になって、あとはずっと眺めているだけで穏やかな気分になる。


 高校一年生。僕が何かを好きになるのは滅多になかった。だからあの人の事だって気のせいだって思い込んでいた。だって昨日まではただの先輩だってのに、明日からは好意の対象だなんて信じられない。でも一回そういう変なスイッチが入ると、どうやっても意識してしまってどうやって顔を合わせればいいか、挨拶したらいいか、そんな簡単な事でさえも分からなくなる。


 あの人――先輩は優しくて、頼りになって、凛々しくて、女性に言うのは失礼かもしれないけど、カッコ良かった。家が同じ方向だからと、毎回僕と一緒に帰ってくれた。最初はちょっと怖いと思ってたけど、話しているうちに誤解だと分かった。先輩は気遣いができて、ちょっとお茶目なところがあるけど、それもギャップでむしろ良いっていうか……。こんなことを想像するとすぐに頬が赤くなってしまうぐらいには僕の心は先輩でいっぱいだった。


 でも僕はそんな滅多に触れた事がない感情に戸惑ってしまった。そして、そんなヘタレな僕には神様は微笑んでくれなかった。

 陸上部のエース。先輩はその人と付き合い初めたらしい。イケメンで優しいらしいその人は、先輩とお似合いだ。それでも僕は部活で一緒になっても「良かったですね」は口が裂けても言えなかった。今まで積み上げてきた僕の世界が全部壊されたように思えた。だから僕は車を眺めた。




✳︎✳︎✳︎


 歩道橋を降り、先輩と別れた後も僕はずっと風に揺られるように歩いた。今日先輩を歩道橋に誘ったのは僕だ。今日で先輩と帰るのは最後にしよう。だから誘った。先輩は付き合い始めの噂が流れても変わらず僕と接してくれたし、相変わらず一緒に帰ってくれた。でも、そんなのは僕の我儘にすぎない。多分先輩は全部分かった上で気を回してくれているんだ。だから僕に何も聞かないし、最後の挨拶は素っ気ない。



――翌日。


「じゃあお疲れ様でした」


 そう言って僕がそそくさと部室を出ようとすると、ガタリという音、後ろから何者かに肩を掴まれる。びっくりして振り返ればそこには先輩の困った顔。


「先に帰ってしまうのか?」


 予想外の言葉に開いた口が塞がらない。


「私とはもう一緒に帰ってくれないのか?」


 先輩はそう言って少し首を傾けた。そんな顔見せられたら僕は……。


「…………そ、そんなの帰りたいですよ……」


 そう言い返した時、奥に見えた部員の顔が僕の言葉を止めた。僕は先輩の手を振り払うように肩を揺すって扉を開けて早歩きで歩き出した。そして僕は黙々と廊下を歩き昇降口を目指す。でも不意に追いかけてくる足音が聞こえてきた。


「私は君に嫌われるようなことをしちゃったのかな、本当にわからないんだ、何か理由があるなら教えてほしい」


 先輩のその声に僕は足を止め振り返る。なんで、まだ僕にそんな期待をもたせるんだ。


「わからないって……先輩は彼氏いるんですから、そういうの気をつけた方がいいと思いますよ」


 ああ、なんでちょっと怒ってるんだ僕は。フラれるならきっぱりして欲しかった? そんなの僕のエゴだ。そんな自分にも腹が立つ。


「もういいですか。僕は今日から一人で帰りますから」


 今度は泣きそうになって情けなくなる。そう言うと、目の前で驚いたような顔をしていた先輩はゆっくりと口を開いた。


「ちょっと待って。彼氏って何のこと?」


 ……え? ……僕の聞き間違いだろうか?


「それは陸上部のエースの……付き合ってるんじゃなかったんですか?」


 僕がそう言うと、先輩はハッとした顔になってブンブンと首を振った。


「違う、違うよ。あれは向こうが告白を断るために私に彼女役を頼んできただけで。私は誰とも付き合ったりしていない」


「そ、そんな……ほ、本当ですか……」


 声が震える。そんな奇跡があってもいいのか。怖くて聞けなかった、口に出せなかった話題にはこんなオチがあったなんて。信じられない……。


「ああ、本当だ。信じてもらうには、言うしかないかもな。そろそろ言いたいと思っていた頃だ。ちょうどいい」


 先輩は少し頬を紅潮させ、照れたようにはにかむと、今までで一番かわいい顔を見せながら僕の目を見て言った。


「私は君が好きだ。私と付き合ってもらえないだろうか」


 こんな奇跡、いや奇跡を超えたこんな幻想、本当に現実なんだろうか。幸福感が僕の体を波打つように広がっていく。嘘だろ……。夢みたいだ。先輩も僕のことが好きだったなんて……。僕は声を震わせながら返事する。


「はい、僕もずっと好きでした。是非付き合ってください」


 放課後の校舎、僕らは二人、泣きそうになっていた。






「こんな事なら早く告白していれば良かったよ。私もなかなか勇気が出なくてさ」


 僕らは互いの気持ちを確かめるように手を繋いで下校すると、あの歩道橋の上まで登ってきた。そして下を走る車を眺めた。通り過ぎていく風と、車に僕はやっぱり世界は変わらないという気持ちにされる。けど今はそれ以外の感情もある。


「きっと世界は変わらない。けど、日常は変わることがあるんですね」


 僕がそう言うと、先輩は「ん?」と怪訝そうな顔をしたが、先輩の中でも思い当たる事があるのか、フッと笑う。


「ああ、そうだな」


 そう言った先輩の横顔はとても素敵だった。

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