思い出の傷

 翌日から繭と凛の事は町内でも噂となり、人の良い町内会の皆様と馬籠組合などは取り戻しに来るかもしれない連中から2人を守るために、火の用心とかこつけて夜警を増やして対応してくれていた。交番の中神巡査も定期的な巡回を増やし、非番などには交代で来た警察官に委細を説明して助力を乞うてくれている。

 七右衛門はといえば、あの卵焼きの朝食の後に「出かけてくる」と一言を言い残して2日間ほど留守にして外出していたが3日目の晩に人を伴って帰り着いたのだった。


 こんばんは。


  仙人のように長い髭を生やした老人が、蝶ネクタイをしたスーツ姿で営業の終えた種火屋へと七右衛門の案内で入ってきた。とたんに千代子が驚きの表情をしたのち深々と頭を下げた。


 ようこそお越しくださいました。先生もお元気そうでなによりでございます。


 千代子さん、ご無沙汰しております。七右衛門さんにお声をかけて頂きましてね、久しぶりに木曽に来ることができました。


 そう言って機嫌よく大きく笑った老人は階段下に立っていた凛と繭に視線を向けると、うんうんと相槌を打つように頷いた。千代子の姿になのかそれとも木曾の種火屋にくることができたことの懐かしさであるのか、先生と呼ばれた人物は目を細めて懐かしそうにあたりを見回していた。


 千代子さん、説明したいこともございますので、何処か場所をお借りしたいのですがございますかな?


 でしたら囲炉裏がよろしいでしょう。今、ご用意を致します。麻衣奈さん、ちょっと手伝ってもらえるかい?


 は、はい。


 千代子の背後で棒立ちになっていた麻衣奈はかけられた声に、裏返った声で返事をして2人は足早に囲炉裏部屋へと向かっていく。


 あ、2人とも先にご紹介しておくね。


 七右衛門に声と手招きをされて呼ばれると、廊下の先から襲る襲る顔を出して覗きこんでいた繭と凛が店先までおずおずと出てきた。2人を見て温和な老人の浮かべる顔つきは一層柔らかくなり好々爺といっても良いほどに溶けてゆく。


 そんなに怖がらなくても結構ですよ、私はこう言うものです。


 差し出された名刺は2枚で丁寧に2人分用意されている。それを受け取ると凛は難しい漢字が並んでいたので困ったような表情を浮かべたが、繭には記された肩書などがしっかりと理解できる。名刺にはこうあった。「滝川法律事務所 最高顧問 弁護士 滝川善之助 」と。


 弁護士の滝川と申します。お二人のことを七右衛門さんから伺いましてね、良い策を練って勝手ながら参上仕った次第ですよ。


 そう言って好々爺が笑うように声を上げた滝川弁護士は、部屋が用意できたらしく、小走りにこちらへ駆け寄ってきた千代子さんを指差して、まだ少し警戒をしている2人にこう言った。


 若かりし頃、千代子さんに告白して振られた男でもあります。


 それを聞いた千代子が顔を押さえて深いため息を吐く、驚きを浮かべた2人がまじまじと千代子を見て千代子は諦めたように押さえた手を外した。


 何十年前の話をしているですか…。


 ほほ、ここを訪れる時の定番ですからな。


 そ、そんなことよりも、準備が整いましたのでこちらへどうぞ。


 千代子は諦めてお構いなしと言ったように奥を示すと、手慣れたとでも言ったように滝川弁護士は靴を脱いでそのまま廊下の奥へと消えていく。


 七右衛門さん、先生にご連絡されたのでしたら一言仰ってください。こちらも準備というものがあるのですよ。


 少し先の尖った言い方を千代子がする。もちろん、本気の不機嫌などではなかった。


 そうでしたね。今度からは気をつけます。しかし、この案件をうまく丸め込める先生を探すとなると、骨が折れましてね。かと言っていい加減なこともできませんから、今回は仕方なく実家を頼りました。


 三ッ葉の本家をですか?


 ええ、久しぶりに父と連絡を取りまして、多少強引でありましたが、顧問弁護士の滝川先生に事情を説明して、全てを処置して頂きました。ああ、費用は気にしないでください。私も別件で用事があったものですし、それに関わり合いのあることでしたから。


 三ッ葉の本家は平安の御代から脈々と続く名家であって、経営でも手堅いことで有名だ。「支援すれども支配せず」をモットーにして長野県や日本各地の大手から中小零細までを資金支援する財団を運営している。表立って姿を見せることもないことから心無いものの中には眠れる獅子と言い張る輩もいるほどだ。


 袖擦り合うのも多少の縁ですから、これくらいはさせてください。


 そう言って微笑んだ七右衛門であった。

 そのまま囲炉裏部屋へと皆が揃い、熱めに入れられたお茶が4人と瓶ジュースが2人に麻衣奈の手によって用意され終えると、滝川が鞄から人数分に用意された資料を取り出して配り終え、白い髭を撫でながら滝川が昔ながらの黒い背表紙を付け表書きに「七右衛門様御依頼案件」と表記された、凛と繭からすれば時代を感じさせる書物のように分厚い資料説明を持ち出して説明を始めてゆく。中身は法解釈的なことから今後の生活のことまでをであった。

 逃げ出さざるを得なかったあの2人には中神巡査が聴取した内容を基にして警察と児童相談所の調査が昨日の内に行われた。児童相談所ではいったん2人を県の児童養護施設で預かりたいとの申し出があったようだが、2人の身柄は三ツ葉家が保護してゆくゆくは里親になる旨が打診されると話は立ち消えとなった。警察、児童相談所、滝川弁護士、七右衛門の4者による協議が並行して続けられて、ようやく満場一致とまでいかないが、世間に対しての体裁が整えられる範囲まで話が落とし込まれてまとまったため、滝川を伴って七右衛門は帰り着いたということらしかった。


 さて、繭さん、凜さん。今からお2人には大事に話をしなければなりません。こちらへ来ていただけますか?


 繭と凜は立ち上がって滝川弁護士の近くへ座ると、書物のような資料に挟み込まれていた数枚の用紙を取り出してそれを2人の前の畳の上へとそっと置いた。


 まずはお2人に聞きたいと思います。きちんと言葉で答えてください。もちろん、難しいことは何でも聞いてください。気兼ねしなくてよろしい。目の前の私はただのじじいとおもってください。気兼ねせずにきちんと話してくださいね。個々の周りの方は味方ばかりですからどんな答えをしても心配しなくてよろしい。そうですな、皆さん。


 千代子、麻衣奈、七右衛門、が微笑みながらしっかりと頷く。


 お2人はこの種火屋で暮らしていきたいですかな?


 うん!


 はい。


 元気のよい声と落ち着いた声が一時の間もなく返答を返した。


 うん。では、お2人は苗字が変わることは嫌ではないですか?


 凜じゃなくなったちゃうの?


 言葉の意味を間違えて捉えたのだろう、不安そうな顔をした凜がそう質問する。それに滝川弁護士は首を振った。


 凜さんは凜さんです。お母さんから頂いた立派な名前なのです。それを無くしてしまうのは誰もできない事ですから安心してください。そこにいる七右衛門さんの生まれたお家は三ツ葉と言います。お2人はその三ツ葉のお名前になって、そのお家の家族となる訳です。


 凛は千代子おばあちゃんと離れるのは嫌です。


 私も…できれば、千代子おばあちゃんと一緒に過ごしたいです。


 うん、そうでしょう、そうでしょう、素直に仰って下さると嬉しいですなぁ。


 回りくどい言い方であるがそれに素直に2人が応じてくれていることに、滝川弁護士は嬉しそうに頷いた。


 でですな、ここでお2人が生活するようにしたい。まずはですが、お2人は三ツ葉の家族になって頂きますが、それと同時にこの種火屋で療養、つまりはゆっくりと日々を過ごして暮らしていくことです。そして保護者は七右衛門さんが務めますが千代子さんにもお手伝いを頂きます。ちょっとした無理も利かせますが、そうしますとここでお2人が暮らすことには何ら問題はない。ここから学校に通って日々を過ごせます。たまにちょっと見に来る方々がいらっしゃるでしょうが、まぁ、それには私も同行しますから気にしなくてよろしい、どうですかな?


 凜は千代子おばあちゃんとおねえちゃんと一緒ならそれでいいよ!


 あまり話が理解できていないもかもしれないが、話の文脈からそう判断したのだろうか、嬉しそうに滝川にそう言って笑って見せる。繭は少し困ったような顔をしながら七右衛門を見た。


 繭さん、不安よね、いきなりこんなことされたんですもの。


 麻衣奈が近くまで駆け寄ってきて、そう言って繭の背中にそっと手を置いた。


 麻衣奈さん…。


 どうしてここまでしてくれんるんだろうとか、色々と考えちゃうわよね。でも、そう言う人なのよ。ちょっと強引で無理が過ぎる人なのだけれど、悪い人ではないわ、もちろん、良い人とも言えないけれど。


 中々な言われようだ。


 麻衣奈の言いぐさに七右衛門が文句をつける。


 私の時もそうだったもの…。でも、そういう人もいるってことなのよ。私も千代子さんも助けたいと思ったけど、ここまでのことは正直できないわ。でも、七右衛門さんにはできてしまった。ただそれだけのことなのよ。だから、気にはなるでしょうけど、ここは一つ頼ってみてはどうかしら?


 じっと七右衛門を見つめた繭は、やがて決心したように顔を引き締めた。姿勢を正してゆっくりとそして深く頭を垂れてゆく。


 七右衛門さん、色々とありがとうございます。ご厚意に甘えさせてください。


 こちらこそ、不甲斐ないですが、精一杯、務めさせて頂きます。


 居住まいを正して七右衛門もしっかりと頭を下げる。麻衣奈と千代子は優しい微笑みを浮かべて安堵したように息を吐いた。


 では、おふたりには、いや、繭さんに主に書いて頂きますが、数カ所ほどお手隙ですが、署名と拇印をいただけますかな?


 滝川が本当に嬉しそうに笑って、鞄から追加の資料を繭の前に広げてゆく、七右衛門と共に繭は書類へと署名を行なってゆく。不安そうな時には麻衣奈がそっとそばに寄り添い、七右衛門より遥かに優れた分かりやすい解釈で説明をして、安堵させて、千代子がそれに同意するように頷いてゆく。


 これで全てできました。提出致しまして受理されましたら、全て完了となりますよ。


 色々とありがとうございました。


 ありがとうございます!


 時計を見れば1時間以上の時が過ぎていた。

 滝川に対して深く深く頭を下げてお礼をした繭と、姉の真似をするようにされど元気よく頭を下げた凛の姿に滝川がうんうんと頷いた。


 お二人とも、今日のことを傷と思わぬようにしてください。繭さん、凛さんが頑張り抜いた末に今があるのです、どんな思い出にも傷になることが、一つや二つあるものです。辛く苦しかったことまでそうだとは申しません。ですが、お二人の今後を楽しみにしている方々がいるのですから、だから、2人とも、しっかりと背伸びをせずに、ゆっくりと暮らしていってください。味方は常に隣にいます、だから、負けそうになったら遠慮なく頼りなさい。それが一番心配をかけない方法なのですからね。


 凛は頷くだけであったが、繭はポロポロと涙を溢してしっかりと頷く。そっと麻衣奈が背中を摩ると少しだけ甘えるように繭は上半身をそっと寄せて預けた。


 さ、じゃあ、食事にしましょう!滝川先生の分も、七右衛門さんの分もできますから、片付けて頑張りましょうね!


 千代子の元気の良い声に皆が頷いた。

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