なつかしのあさ

翌朝、凛は柔らかくて暖かい布団で目を覚ました。見慣れない室内に驚きはしたもののの、畳の井草の香りと古い家独特の香りに雪子の自宅にいるような懐かしさを感じて、心地よい布団に再び潜り込もうとしてふと隣の姉を見た。


おねぇちゃん?


泣き腫らした瞼をして、安らかな寝息を立てる姉の繭がそこにいた。普段なら凛が起きればすぐに起き出して一緒にいてくれた姉が、今日はなぜが起きる気配がない。


おねぇ・・・


起こそうと手を伸ばしてその手が止まった。

繭の顔は凛が普段見たことがないほどに穏やかな寝顔で幼心が起こすのを躊躇わせるほどである。

そっと姉の顔に手を伸ばしてその小さな手で頬を撫でた。

凛にとって姉の存在はとても大きい、姉が自分を守ってくれていることも幼いながらに理解していた。


ゆっくり寝ててね


頬から手を離してそっと凛は布団を出ると、種火屋の子供用の寝巻きのままで足音を消して襖の近くへと足を進めた。布団の上から畳の上へと足を出した時はその冷たさに若干は驚いた。


ちょっと冒険してくる


聞こえないほどの小声でそう言ってから、襖をゆっくりと開けてゆく。冷えた襖は音を立てること無くゆっくりと開いていき、それと共に黒光する板の間の廊下が見えたかと思うと、冷たい風が室内へと入ってきた。

身震いした凛だったが、そのまま廊下へと足を出した。床板の冷たさが足を伝わるがそれほど気にならず、廊下に出ると襖を閉めて上を見上げる。そこにはアザミの間と書かれた木製の札が掛かっていた。


雪子ばあちゃんと泊まったお部屋だ。


雪子と暮らしていた頃に度々ここに泊まっては過ごした日々を思い出す。それはそれは楽しい時間だった。


あれ?


すぐ近くの部屋の襖が開け放たれているのが目に入った。恐る恐る歩みを進めて覗き込むと長身の大人の男が着物姿で壁にもたれかかって寝入っているのが見えた。


おじさんだ・・・


昨日の夜、自分を抱き抱えてくれた男の人である事はわかった。抱き抱えられた時に生前のお父さんに抱っこされたような感触を思い出して、薄めでその顔を伺ったのだった。


絵?


その男性の近くには見たこともないものが置かれていた。乳鉢や乳棒、そして沢山の筆や刷毛、白色の絵皿には複数の色が並んでおり、普段、学校で見慣れた絵の具とは全く違っていた。なによりその絵の具は窓の障子の隙間から差し込んできた陽の光に当たると、美しく光り輝いている。


きれい


そんな言葉が口を突いて出る。何も考えること無く、心の中に思い浮かんだことをそのまま凛は口にした。


あのお姉さんかな?


大きな紙、その紙は自分の身長と同じくらいの大きさで、その中に昨日、交番で出会ったお姉さんが和服姿で自分くらいの女の子を腰を屈めて抱き締めていた。女の子はどことなく自分に似ている気がして、凛は少し嬉しくなった。

陽の光が徐々に位置を変えてゆく、そしてその一筋の光がその絵を照らし出すと、それは輝いているかのように美しく光った。


わぁ・・・。


書かれている人物の顔がまるで生きているかのように映し出されていく、着物の袖から女の子を抱きしめる手は優しい色で、そこに手があるかのように思えてしまう。そして抱き締められている女の子もまた、後ろ姿なのにも拘らず幸せそうと思えてしまうほどであった。

それは懐かしい暖かさを呼び起こすような、見ているとそんな気持ちを呼び起こしてくる。数分ほどじっと見入ったのちに部屋を後にした凛は、急な階段を手すりに掴まりながら恐る恐る降りてゆく。この階段で落ちて雪子が飛んできたことを思い出し、それが帰って恐怖を誘ってきたので、途中から冷たいのを我慢してお尻をついて座るようにしながら降りることにした。


目の前に広がるお店は電気が落ちていて、目の前の木戸はしっかりと閉められていた。その左側には以前、七右衛門と麻衣奈が初めて共に食事をとった食堂があるが、その窓の障子もしっかりと閉められて、朝の光を少し弱めて室内へと届けている。

少し薄暗い空間が広がっているためか、凛はぶるりと背中を震わせた。


右を見みると帳場の奥の方から暖簾越しに光が漏れてきて、美味しそうな匂いが漂ってきていた。近寄って覗き込んでみると金色の朝日が少し差し込む電気のついた室内で、2人の女性が朝ごはんの準備をしていた。

調理台の上にはお皿に盛り付けられた料理たちが、優しく湯気を揺らしながらその温かさをその身から溢れさせている、そして、フライパンや大きな鍋からも料理たちより大きな湯気が立ち上り、それは当たりを漂うとそのまま換気扇から外へと出て行く。

室内は美味しそうな匂いが充満していて、その中に凛のお気に入りの匂いも見つけた。久しく嗅いでいなかったその匂いに幼心が揺れた。


あら、おはよう、凛ちゃん


あ、千代子おばあちゃん、おはよう


逆光のため凛から表情を窺い知ることはできなかったが、その声からひとりは千代子であることはわかった。室内が徐々に明るさを増してくる。金色の色合いが室内を照らし始めてゆく。


おはよう、凛ちゃん。寒くない?大丈夫?


もう1人の女性がタオルで手を拭きながら声をかけてきた。昨日の、先ほどの絵に書かれたお姉さんであることが凛にもわかった。

そして、先ほど見た七右衛門の絵に書かれた子供の幸せそうな姿も思い出す。


大丈夫だよ


そう言いながらも、歩みは自然とお姉さんの方へと向いていた。


こっちにおいで、寒いからね


そう言ってお姉さんはその場へと腰を屈めると、まるで凛を迎え入れるように両手を開いた。


うん


短く頷いて凛はその両手の中へと駆け込むように入り込むと、しっかりとお姉さんを抱きしめた。広げがれた両手がゆっくりと凛を包み込んでくれる。


その温もりはあたたかくて、そして、心を満たしてくれる。あの絵の子供を思い出して凛はさらに体をお姉さんへと押しつけてゆく。そうすると抱き締めるても苦しくない程度にさらに優しく抱きしめてゆく。


冷えちゃったね、暖かいところに行こうか


抱きしめてくれていた両手が少し離れ、千代子からブランケットを受け取って凛の両肩にかけられると、そのまま再び抱きしめられる、2、3度と背中を優しく撫でられて、そして、ゆっくりと抱き抱えられた。


抱っこしていこう、そうした方が暖かいかな?


すぐ近くにあの綺麗なお姉さんの顔があった、その顔は凛々しくて、でも、優しくて、亡くなってしまったママとお母さんのように温かみのある笑みを向けてくれる。


う・・うん


急に恥ずかしくなって顔が真っ赤になる。でも、その笑みから視線を外せなかった。

陽の光が室内を金色に染め上げた。その輝かんばかりの色に凛は驚いて視線をお姉さんから周りへと向けた。


綺麗でしょ、お日様の色。


お姉さんはそう言って笑う。


この時間は私も好きさね。


千代子がそう言って笑った。


きれい・・・


凛もまたそう感じた。室内のありとあらゆるものが黄金の色、黄金色、いや、金色と呼ばれる美し色で光っている。調理台も、その上にある料理たちも、そして鍋たちも、まるで生きているかのように光り輝き、そして、湯気を揺らして立ててた。


あ、卵焼き。


黄色に金色でさらに輝く卵焼きが白色のお皿に長方形の形のままで置かれている。その身から美味しそうに金色の湯気を立ち上らせていた。


美味しそうでしょ?私の手作りだよ。


うん、美味しそう。


こんな素敵な卵焼きを見たのは久しぶりの凛だった。


さ、お着替えしてから、みんなを起こして朝ごはんにしようかね。麻衣奈さんお願いできるかい?


千代子の声に頷いたお姉さんは凛を抱き抱えたまま、調理場を後にしようとして、ふと凛の視線に気がついた。


ちょっと味見する?


凛の視線の先はあの卵焼きに釘付けとなっていた。


ううん、みんなで食べよ。


凛は名残惜しそうにそう言うと視線をずらしてお姉さんの方を向いた。


凛ちゃん、こっちをお向き。


千代子の声がしたのでそちらを向くと、小さに匙が差し出されていた。その上にはあの卵焼きが少しだけ乗せられている。


暖かいうちにお食べ。


凛はゆっくりと口を開いてその匙を加えた。程よい温かさにされたその卵焼きの味は、一生涯忘れることの出来ない、そして、再現することの出来ない味となった。


おいしい。


そう言って満遍の素敵な笑顔をみせた凛に、2人もまた優しく、また、愛おしそうに微笑んだ。



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