姉と母の狭間

 泣き疲れた凛が穏やかな可愛らしい子供の寝顔を浮かべて、長椅子に座った千代子の膝の上で寝息を立てていた。その寝顔を慈しむように優しく手のひらで撫でる千代子の横で繭が中神巡査の質問に所々詰まりながらも健気に答えていた。


これで終わりです。辛いところごめんね。ありがとう


少し鼻を啜りながら中神巡査が通常業務の調書を取り終えてそう言った。繭の力の入っていた肩がゆっくり下がっていく。


繭さん、良く頑張ったね。


そう言って撫でていた手を繭の肩に回して千代子が抱き寄せた。そしてその手で背中を優しく、優しく摩ると繭の肩は実の意味で力が抜けたようにストンと下がった。


七右衛門さん、申し訳ないけど凛を抱っこして連れてってくれないかい?



はいはい。


外で野良犬のようにウロウロとしていた七右衛門は、落ち着いた頃を見計らって室内へと入ってきて、中神巡査と繭の話し合いを聞きながら、所々でスマホで電話の為に外に出たり入ったりを繰り返し、話の途中でこっそりと中神巡査へボソボソと何かを伝えていた。

それを見計らったように駐在所の黒電話がけたゝましく鳴ると、慌てて中神巡査は応答し少しばかり緊張した面持ちで話をすると憑き物が落ちたかのような表情をして、以降は簡単な質問事項のみの聴取となっていた。

しかし、その短い質問も、繭にも、尋ねる巡査にも、拷問のようなものであった。聞いていて胸の詰まるような話ばかりであったが、ふと、麻衣奈は彼女の受け答えに、自分というものが無いように感じていた。

それは子供を守る母親のようにも、妹を守ろうとする姉のようにも、聞こえてくるのだが、そこに違和感を感じたのだ。


七右衛門さん、大事に抱き上げてくださいね。


麻衣奈さんまで・・・。そんなにガサツではないよ。


そう言って眠っている凛を抱き上げる七右衛門は、その言葉通りとても上手に抱き上げた。少しモジモジした凛だったが、七右衛門に背中を何度が摩られているうちに、再び穏やかな寝顔と寝息を立て始めた。


上手・・・。


まぁね、歳の離れた親戚の子供の面倒も見ていたからね。


にこやかに笑みを浮かべてそう言った七右衛門は、中神巡査が持ってきた新品のバスタオルを器用に凛の背中へとかけた。


さ、繭ちゃんも行こうかね


は、はい。巡査さん、ありがとうございました。


頷いて立ち上がった繭は中神巡査に深々と頭を下げた。


こちらこそ、ごめんね。


中神巡査も申し訳なさそうに頭を下げ、繭の肩をぽんぽんと優しく触れた。


何かあれば、入るのに躊躇うかもしれないけど、いつでも来ていいからね。


ありがとうございます。


頭を上げた繭はしっかりと頷いた。

繭にとってこの中神巡査はとても信用できると思ていた。今までも近くの派出所などに相談はしたが、誰ひとりこんな言葉をかけてくれることはなかった。軽くあしらわれてばかりだったのに、この巡査は自分たちの対応に困りながらも、精一杯してくれた。

それは心細い旅路を進んでいた幼い2人にはどれほど助けになったことか。


さて、種火屋に行こうね。


そう千代子が言って、七右衛門を先頭に千代子と中神巡査が出たところで麻衣奈は繭へと声をかけた。


繭さん、ちょっとお話できるかな?


えっ・・・ えっと・・・。


唐突に知らない女性に声をかけられて、繭は一瞬驚いたが、麻衣奈の微笑みがとても優しくて穏やかなものであったので、驚き過ぎった不安は緩やかに消えていく。


千代子さん、ちょっと、2人だけで話をしてもいいですか?


珍しい麻衣奈の頼みに千代子も戸惑ったが、頷いて入ろうとする中神巡査を外へと引っ張って出て行った。扉を閉めると室内はストーブの音だけが聞こえる静かな室内になる。


繭さん。


は、はい。


声をかけられた繭がびくりと体を震わせて返事する。顔を上げたが視線を下にずらして麻衣奈を見ようとはしない。両手は解く事なく力を込めて握りしめられたままだ。


驚かせてごめんね、少し、手を握るね。


そのまま繭の握りしめている両手を自分の手で優しく包み込むように握る。暖かい室内で握り拳だというのにその手は冬の水に浸かったように冷え切っていた。

最初は身を固くした繭だったが、暫くすると握り締めていた両手の力をゆっくりと抜いた。掌に爪痕が痛々しく残っていた。


うん。ゆっくりでいいからね。ごめんね。


そう言いながらも麻衣奈は手を離そうとせず、そのまま優しく握り続ける。麻衣奈の暖かさがその手に伝っていくのが、温もりが伝わっていく。


ゆっくりでいいから、力を抜いて座って。ゆっくりね。


麻衣奈は菩薩のような微笑みを浮かべてそう言うと、繭は少し困ったような表情を見せながら、ゆっくりと長椅子へと腰を下ろした。


大変だったね。


そう言って握っていた手を優しく座った太ももの上へ置くと、麻衣奈は目の前にしゃがみ込んで繭の顔を覗き込んだ。繭の目を見れば、どんよりと淀んだ目には動揺が見て取れた。


唐突にごめんね、少しだけお話聞いてもらえる?


はい・・・。


立ち上がった麻衣奈は繭の隣に腰を下ろした。


私ね、つい最近に死にたくなってね。 落合の駅で降りて山道を彷徨ったの。そしたら、あの外のお兄さんに助けられてね。


扉の外で入りにくそうに悩んでいる七右衛門を手で示した。当の本人は何が何だか話がわかっていないので、自分を自分で指差して首を傾げた。


私は彼に助けられなかったら今はここにいないと思う。その時に足も怪我して、まだ治療中なんだけど・・・。あの、男の人、七右衛門さんと言ってね、画家さんなんだけど、なんだかんだと世話を焼いてくれたりするとっても優しい人だよ。千代子さんも、こんな私に理由を聞いたりもせずに滞在を許してくれている。私が手伝いを申し出ても、快く頷いてくれる。馬籠の人たちもそう、私のことを普通に受け入れてくれて、普通に過ごさせてくれる。雪子さんのこと千代子さんから教えてもらったのだけど、すごく素敵な人だったんだよね。


雪子の名前がでると繭は驚いたように麻衣奈を見た。


ごめんね、雪子さんの名前を出すのは卑怯だね。でも、そんな姿を雪子さんには見せたくないでしょ?


そんな姿?


うん、繭さんはすごく頑張ったよ。巡査さんとのお話を聞いていても、繭さんがお姉さんとして小さな頃から幼い妹を守ってきた事も、お母さんの代わりのように妹のために尽くしてきたこともすごくわかったよ。でも、それは、お姉ちゃん、お母さんがわりの繭さんだよね。


しっかりと繭の目を見て麻衣奈は言った。繭も視線を外さずに麻衣奈を見ている。


ごめんね、余分なことかもしれない、何も知らない人がこんな事を言うべきではないかもしれない。でも、あの時の私と同じくらい苦しんでいる人が目の前にいるのなら、私は躊躇うべきじゃないと思う。繭さん、繭さんとして泣いてもいいんだよ


私として・・・?


そう、繭さんとして。お姉ちゃんでもない、お母さんがわりでもない、純粋な繭さんとして泣いていいんだよ。


でも、妹が・・・。



妹さんは今、千代子さんと一緒だよ。大丈夫、ここには雪子さんの思いを知ってる人が沢山いる。2人の幼い頃を知ってる人たちも沢山いる。だから、ここは安心していい場所なんだよ。


安心していい場所・・・。


濁っていた目に微かな光が宿った。


そう、千代子さんがいるのだから、1人で抱え込んで悩まなくてもいいの、誰にも相談でないからと諦めなくていいの。


再びゆっくりと繭の手を取った麻衣奈は優しくとも力強く握る。


この馬籠は雪子さんと過ごした頃ときっと変わってないよ。だから、繭さんは繭さんでいていいんだよ。


その言葉を聞いた途端、繭の両目から涙が溢れ出た。


繭さんは繭さんでいいんだよ。


そう初めて言ったのは雪子だった。

一緒に暮らしてしばらくした頃に、繭を抱きしめながら雪子がそう言ったのだ。他の家ではお姉ちゃんでしょという理不尽で、常に妹の面倒を見ていた繭にとってその言葉はとっても不思議な心地であった。それから雪子は繭のやりたい事や楽しめる事も出来る範囲でしてくれた。お姉ちゃんではない、繭を1人の女の子として見てくれた。

ここ一年の叔父との生活で、暮らし始めてすぐに心身ともにボロボロにされて疲れ果て、雪子も死んでしまった今、もう、あの頃はないだろうと悟り諦めた。それでも妹を助けなければと頑張ってきた。年数などはもはや関係ない、1日1日、1分1秒が地獄の日々を耐えて耐えて頑張ってきたのだ。体や心に軋みもでた、でも、それは見ないふりをして潰したのだ。罵られようと、体を滅茶苦茶にされようと、それでも、妹の為に耐え抜き通した。

そして妹の食事の一件で耐えていた全てが決壊した。このままでは妹ももっと不幸になってしまう。そんなことは姉として母親がわりとして許されない。そう考えた時に死ぬことを決意した。

そんな晩にあの夢を見たのだ。本当は夢の中の雪子は悲痛な面持ちであった。目覚めてからいい結果にはなるとは思えなかった、でも、最後になるのならと凛に楽しい思い出を作ってやりたい、そう思ってできる範囲のことをしてここまで来たのだ。

雪子はもういない、でも、妹の凛が落ち着ける場所は見つけた。先ほどまで千代子に抱きついて泣いていて、幸せそうに眠る凛の顔を見てそう感じた途端、もう、これで安心して死ねると思えた。明日の朝にはいなくなろうと考えていた矢先、雪子と同じようなことをいう人が目の前に現れた。


麻衣奈がしっかりと繭を抱きしめた。


良く頑張ったね。沢山、沢山、頑張ったね。


そして優しく背中を摩る。まるで雪子に抱きしめられてるかのようであった。


大丈夫、もう、1人じゃないからね。

そう優しく言ってからあとは無言で繭を抱きしめ続け、繭は大粒の涙を、沢山、沢山、流しながら泣いた。耐えて耐えて、耐え抜いた分を洗い流すかのようだった。

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