ポイニクスの赤い羽根

管野月子

エーゲ海に浮かぶ小さな島で

 傷だらけの恋人を担いで、ビオンは坂道を転げ落ちるように走った。

 野獣の危険は自覚していた。ほんのわずかな油断だったのだ。爪と牙は恋人の胸を深くえぐり、栗色の髪も白い肌も、溢れる鮮血に染まっている。息をしているのが不思議としか言いようが無かった。


「この傷では……長く、もたないよ」


 担ぎ込んだ島の物知り婆は、悲痛な顔で呟いた。

 棚やテーブルには様々な薬壺が並んでいる。そのどれか一つでも、恋人――マイアの傷をいやす物があるはずだ。


「必要な物があればどんな物でも用意する。だから! マイアを助けてくれ!!」

「お前たちの為なら、できることは幾らでもやるさ……けど、さすがに」


 血止めに布を押し付け、きつく巻いても真っ赤な色が滲んでくる。

 何もできず、ただ膝を折ることしかできないでいるビオンの背に、婆はポツリと呟いた。


「ポイニクスの――」


 ビオンが振り返る。


「ポイニクスの涙があれば、助かるかもしれないね」

「それは、何だ!?」

「太陽の神のしもべ。何度でも蘇る伝説の不死鳥さ。ポイニクスの涙はどんな傷も癒すという」

「伝説の不死鳥――ポイニクス」

「その姿を見たという話を、聞いたのだよ」


 エーゲ海に浮かぶ火山の島で、ポイニクスを見たという話を物知り婆は耳にしていた。最初はただの噂話と思っていたが、別のつてから三度、「あの炎の色の大鷲オオワシは、一体何と言う生き物なのか?」と聞く者が現れ、婆は不死鳥の存在を確信していたという。


 マイアの命は風前の灯火だ。

 もし命を取り留めることができたとしても、傷は深く、まともに動ける体に戻れると思えない。


「分かった、俺がそのポイニクスの涙を手に入れてくる」

「……ビオン……」

「大丈夫だから、待っていてくれ」


 マイアが指先を上げて、弱々しい声で名を呼ぶ。

 氷のように冷たくなった指を握り返し、豊かな栗色の髪を撫でると、ビオンは婆に後を任せて家を出た。


     ◆


 村の婆に話をした者の情報を得て、海を渡り、ビオンは火山の島に辿りついた。


 大昔、炎の柱を立てたこの島は今も数百年ごとに噴火を繰り返し、荒涼とした黒い岩山となって広がっている。その粗い海辺を上り、夕暮れ間近の空を見渡してから、ビオンはポイニクスの訪れを岩陰で待った。

 姿はキジに似て、大鷲より大きい炎の色の鳥。

 ビオンは何日でも待つ覚悟があったが、マイアの命がもたないかもしれない。そう思うと一日たりとも無駄にできないと神に祈った。やがて――その祈りが届いたのか、太陽の欠片と思われるほど赤く輝く巨大な鳥が、海に沈む陽の方角から飛んできた。


 噂の通り首のまわりを金色に輝かせた、赤紫の美しい羽をもつ鳥。この世に二つとないだろう姿を目にして、ビオンは涙を入れる小瓶を手に、そっと近づいていく。

 朝までここで休むのだろうか。

 ポイニクスは幾つもの枝を足に掴み、岩山の上に置いていく。よく見ればそこは何本もの香りのいい枝が、巣のように積み重ねられている。


「頼む、ほんの一滴でいい。お前の涙をおくれ……」


 呟いてビオンが近づく。

 後、もう少し。

 とその時、ビオンの姿を目にしたポイニクスは、青年が手にした小瓶を石礫いしつぶてと勘違いしたのか、大きく翼を広げて飛び去ろうとした。慌てて掴みかかるビオン。そのまま絡まり合い倒れたそこに、鋭い枝の切先があった。


 ポイニクスが叫ぶ。


 切先は不死鳥の首筋を刺し、散った鮮血がビオンの顔にふりかかった。そのまま、ポイニクスは二度三度と鳴き声を上げ、海の向こうへと飛び去って行った。


 残されたのは、抜け落ちた赤い羽根が幾つかと割れた小瓶だった。


     ◆


 ポイニクスの赤い羽根だけを持って、ビオンは失意のままマイアの元へ帰った。島一番の物知り婆であれば、この羽根から何か薬を作れないかと思ったのだ。

 だが時すでに遅く、ビオンが帰った朝にマイアは息絶えていた。


 土地の者たちはビオンに労わったが、誰の言葉も慰めにはならない。


 死者の魂の旅立ちを促すため、肉体は火による清めの儀式が行われる。薪を積み上げ、様々な香油と共に死者を送るのだが、ビオンに高価な香油を買う金は残されていなかった。

 代わりに、二十一枚のポイニクスの羽根を捧げ火にかけた。

 海の見える岬で風の精霊に祈り、マイアの魂が無事、天へと旅立てるよう願う。その祈りの中で奇跡が起きた。


 赤い羽根が踊るようにマイアを包み、やがてそこに、一羽の赤い鳥を生み出したのだ。

 火山の島で見たような怪鳥ではない。けれど姿形はよく似た一抱え程の美しい鳥は、まるで炎によって命を与えられたように翼を広げ、大空に飛び立った。


「マイア!」


 ビオンが叫ぶ。

 赤い鳥は恋人の叫びに舞い戻ろうとしたが、その体を、強い風が連れ去っていった。


     ◆


 ビオンが不老不死になっていたと気づいたのは、それから間もなくのことだった。

 死んでもおかしく無いような怪我をしながら生きながらえた。周囲の者たちは運が良かったのだと言ったが、ビオンには分かっていた。これはきっと、ポイニクスの血を浴びたせいだ。でなければ不死鳥を傷つけた呪いだろう。


 ビオンは一人故郷を出て、赤い鳥となったマイアを探し歩いた。


 互いを呼ぶ声が導く様に、運命は二人を引き合わせるが、その度に、炎に焼かれる赤い鳥を風が攫う。気がつけば二千年を越える時が流れていた。


「お兄さん……ちょっと、見ていかないかい」


 冷たい雨の、人ひとりいない街角。張り出した軒下に小さなテーブルを置いて、鮮やかな赤いマフラーを身に着けた老婆が声をかけた。

 胡散臭い辻占つじうらないに、ビオンはコートの襟を立ててそのまま通り過ぎようとしたが、ふと思い立ち足を止める。


 二十一世紀にもなって占いも何もない。だが、擦り減った心に、もうマイアを探す旅などあきらめようかと思い始めていたビオンは、酔狂な真似をしてみたくなったのだ。


「何を占ってくれるんだ?」

「そうさね……」


 老婆は枯れた折れ枝のような指でカードを切る。

 そして不意に止めた一番上の物をテーブルに置いた。ゆっくりと開いたカードは十三の番号がふられ、鎌を持った骸骨の絵だった。老婆の瞳が細められる。


「ほぅ……逆位置の死神だね」

「不吉だな」

「そう見えるかね? ふふふ……新しい展開……再生。ふむ、もう何か一つ、カードが伝えたいようだ」


 そう呟いて、更にもう一枚をテーブルに置いた。


「二十一番、正位置……世界。完成、成就……永遠不滅。終わりは新たな始まりでもある。お兄さん、この二十一という数字に何か心当たりがあるだろう?」


 占い婆の言葉で不意に思い出す。

 遥か昔、持ち帰った不死鳥ポイニクスの赤い羽根は確か二十一枚あった。


「二十一回目の再生の後、願いは成就する」

「それは……」

「薪をくべよ。シナモンと乳香樹ニュウコウジュの、香科の枝に火に投じよ。赤き鳥は炎の中で生まれ変わる」


 婆が笑った。

 同時に風が吹き、ビオンは顔を覆う。

 側で大きな鳥の羽ばたきを聞き、顔を上げた時には老婆の姿は無い。

 まるで夢のようだと思いながら、雲の切れ始めた空を見上げる。そこには、赤紫の鮮やかな翼を広げたポイニクス――ラテン語ではフェニックスと呼ばれる不死鳥が、遠く飛び去って行くところだった。


 赤い鳥と邂逅かいこうしながら、この手に掴むことができなかった回数を指折り数えてみる。途方も無く長い年月ながら、どれも忘れられない記憶として刻まれ、丁度二十を数えることができた。


「二十一回目の再生……」


 さっそく抱えられるだけの薪とシナモンと乳香樹を手に、ビオンはかつてマイアを埋葬した、エーゲ海の小さな島へと戻った。島の様子はビオンが生まれた頃から大きく様変わりしていたが、哀しい別れの地は現代にも残っていた。


 鮮やかな夕陽の見える岬で薪を組み、ビオンは香科の枝に火をつける。

 果てしない時をたった一人で探し続けてきた。もしその旅の終わりが今ならば、答えてくれと心で祈る。

 祈り、祈り、祈り続け、やがて赤い太陽が水平線に沈もうとする頃、あの日と同じ、輝く赤い鳥が舞い飛んできた。


 赤い鳥は、花びらに誘われた蝶のように、炎の中へ身を投じる。


 そのまま体中の羽根を燃やし――やがて、炎の中から一人の娘が生まれた。


「ビオン……」


 微笑み、指先を上げて名を呼ぶ。

 傷一つない温かな指を握り返し、ビオンは豊かな栗色の髪を撫で、腕に抱いた。






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ポイニクスの赤い羽根 管野月子 @tsukiko528

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