春の嵐
石濱ウミ
・・・
あ……。
おにいさまが
それは、ふたりきりで身体を寄せ合い黴臭く冷んやりと薄暗い蔵の中に座っていた時。
斜めに差す光に煌めく細かな粒子が舞う様に見惚れていたわたしの視線を、まるで奪い返すかのようなその仕草に、わたしは戸惑うのでした。
その手の甲を庇い、どうしたものかと胸元に引き寄せ軽く睨むように見上げますと、おにいさまは悪戯に微笑んだ顔をわたしに向けるのです。
その、おにいさまの美しい顔を真近にした途端、地面に拡がる鮮やかな朱赤の南天柄の晴れ着の裾から僅かに覗くわたしの白い脚は禍々しいものに変わり、落ち着かない気分になるのでした。
乱れた裾を直そうと小さく
耳を澄ませば、わたしとおにいさまを探す声が蔵の外から聞こえるのが分かりました。
物音がして、そっと抱き寄せられたとき、おにいさまの白いシャツの胸が呼吸に上下するのを目の端で捉えたわたしが、わけもなく泣き出したい気持ちになったのは、何故でしょう。
隠れ鬼をしようと言いだしたのは、まだ幼い従兄弟たちでありました。
年始の集まりで本家に顔を出した大人たちが酒席に着く中、幼い従兄弟たちにせがまれる様に遊びに誘われたわたし達は、こうしてふたりきりで蔵の中に息を殺すことになったのです。
蔵の厚い扉が細く開き、届く明るい日差しがわたしの足先を掠めようとしていることに気づいたおにいさまが、影に隠れようといま一度わたしを強く抱き寄せました。
硬い帯の感触が、おにいさまの身体とわたしを隔てております。
幼い従兄弟には蔵の暗がりは恐ろしいとみえ、
騒々しさの後に訪れた静寂に、耳の奥が痛くなります。
わたしを強く抱き寄せるおにいさまを、そっと押し戻そうとしたとき、僅かな抵抗があったのは気のせいではないかもしれません。
おにいさまは、つと身体を離した後「気づかれなかったね」と耳元に顔を寄せて低い声で言いました。
おにいさまの首筋から香る日向のような匂いに眩暈がします。
おにいさま、と云いましてもわたし達に血の繋がりはございません。
おにいさまになる方がいると聞いてはいたものの、実際にお会いしたのは後妻になった母さまの連れ子として、わたしがこの家に初めて入った日のことです。
あの日、下を向き緊張で強ばるわたしの、
初めての出会いから、早くも十年。
先の春に帝大に進んだことで、この家を離れてしまったおにいさまの帰省を待ち望んでいたにも
久しぶりにお会いする、おにいさまの金ボタンに詰襟の制服を着た凛とした佇まいは、あまりにも眩しくて目を合わせることさえ恥ずかしかったのです。
わたしが……いえ。わたしたちが、お互いに惹かれ合っていることに気づいたのは、忘れようにも忘れられない一昨年の、春の嵐の夜が明けた朝のことでした。
雨風のたてる音の恐ろしさに眠れず、空が薄く白んでゆく朝の気配の中、昨晩の嵐で窓ガラスに貼り付いた沢山の花びらに、内側からそっと指を這わせていたときです。
庭の様子を見に朝早くに外に出ていらしたおにいさまが、わたしの姿を認めて近寄って来ると優しく目を細め、ガラス越しに悪戯に手を重ねたその一瞬。わたしたちは知ってしまったのでした。
絡め合った視線をすぐに逸らしたお互いの姿に、甘い痛みを覚えます。
あの嵐さえなければ、気持ちに蓋をしていられたのでしょうか。
答えは有りません。
逃げ回っていたのは、おにいさまの視線ではなく、それと向き合うわたしの気持ちだと知っているように、ふたりきりになれる時を諮っていたのでしょう。
おにいさまに手を引かれ、蔵の中で幼い従兄弟たちから隠されたわたしは、閉じ込められた甘い疼くような胸の痛みからは、もう逃げられないのでした。
「ほら、まただ」
「……?」
「これで、二十一回目だよ」
おにいさまが、わたしの顎にそっと指をかけました。持ち上げられた顔。おにいさまの瞳の中には、問いかけるわたしが映って見えました。絡まる視線に長い睫毛が揺れます。
その吐息が、わたしの唇に触れる瞬間。
「僕から目を逸らした数だ」
……罰だ、と言ったように聞こえました。
《了》
春の嵐 石濱ウミ @ashika21
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