まだ的前には立ちません!~アラフィフ弓道初心者の葛藤
多賀 夢(元・みきてぃ)
まだ的前には立ちません!~アラフィフ弓道初心者の葛藤
耳に心地いい射的音が、弓道場に響いている。
威風堂々たる、先輩方の射姿。そして早々に道着を買った初心者仲間の、ちょっぴりはしゃいだ明るい顔。
それをほぼガン無視する形で、私は巻き藁に向かってひたすら矢を飛ばしていた。巻き藁練習は、1.5mくらい先の文字通り巻いた藁に矢を放ち、型や力の具合などを点検・学習するものである。
「なあなあ、そろそろ的前行こうぜー」
明るく誘ってきた経験者の彼氏を、私は思いっきり睨みつけた。
「だから勝手に行けというとろうが」
「いや、的に向かってやるのも経験だから」
「それ以前の問題だって、何度言えば分かるんだよ!」
私はまだ、『矢が頬に当てられてもいない』んだってば!!
弓道で矢を引き絞る時、体に当てておくべき場所がある。
まず、弓に張った弦は、胸に当たっている必要がある。体に固定するためだ。
もう一つ、つがえた矢を頬に当てねばならない。当てないと照準が定まらないのだ。
弦を胸に当てるのは、案外自然とできる。しかし難しいのが矢の方で、少しでも顔の位置が悪いと矢を放った瞬間に弦が顔に当たったり、髪にかすったりして、矢の軌道が大きくずれる。――弦が顔に当たったらあざや傷ができるし、髪に当たったら髪が焼けてボロボロになる。だからって顔を逸らして避けちゃうと、あらぬ方向に矢が飛んじゃう。的に当たらない以上に普通に危ない。
高校の弓道部とかでは、入部3年目でやっと的の前に立つらしい。
だけど大人向けの弓道教室では、半年間、しかも週1回の練習で的に向かってバンバン打たせる。大半は高校・大学時代にやっていたブランク有の経験者だからなのだろうが、私は全くの初心者のまま、45歳まで来ちゃった運動音痴なのだ。なので案の定、半年たっても先生から的前に立つOKは出なかった。
弓矢は武器だ。きちんと矢が固定できる状態にならなきゃ危険だというのが、先生方のご意見だ。
だのにうちの彼氏ときたら。自分が経験者だから問題ないとのたまって、先生のいない間に私を的前に立てと急き立ててくる。――その場の勢いで呼ぶんじゃねえ、お前は弓は上手くても責任を取る度胸はゼロじゃろうが!
私はうざい彼氏をガン無視して、手帳に感触を記録した。
(くっそー、今日は1回も成功してねえ)
先週は先生に御指導していただいて、1回だけ成功した。あの時は無我夢中だったけど、不思議な安定感を感じた。だけどあれから何度やっても、うまく矢が放てない。弦が何度か顔を擦って、頬骨の辺りに浅い擦り傷が重なっていく。
今日の記録を数えてみる。14射やって、完全に逃げたのは9射。惜しかったのが5射。
「あと6射行きてえー」
休みなく没頭していたせいで、腕は筋肉痛寸前、踏ん張ってきた足もガクガク。先生も言っていたが、弓道は疲れると引けないし、焦っても引けない。心が乱れても引けない。その先生が今日は遅れて来るらしく、道場には見知らぬ上級者ときゃぴきゃぴ初心者の我々ばかり。御指導願いたくても聞ける人間が誰もいない。
よし。あと6射だ。自力で何か掴もう。
私は一度体をほぐし、弓と矢を手にして巻き藁の前に立った。彼氏はまだじーっと待っているが、こやつに屈したら負けである。
足踏み。
胴造り。
弓構え。
弦調べ、野調べ。
物見。
打ち起こし。
大三。
引き分け。
会。
離れ。
残心。
決められた手順を脳内で唱えて繰り返す。繰り返すうちに無になっていく。
しかし弦は頬骨を擦り続ける。あの時の感覚に近いのに、何かが違う、何かが遠い。
「17射目が姿勢、18射は右手かな……あれ、今何射だっけ……」
彼の姿がウザいから、集中しすぎて数を忘れた。そういやあの野郎はどうしたんだと振り向くと、飄々とした顔で的前に出ていやがる。
私はちょっと拍子抜けし、なんだか妙に笑えてきた。急に頭が冴えてきて、さっきまでの6射分の感触を手帳に記す。
「ああ。同じところに弦が当たっているという事は、あごが出てないって事か?」
経験で覚えろという彼と違い、私は理論で覚えるタイプだ。理詰めでコツコツ積み上げて行って、最後に体にしみこませる。
「あごだけ、だな」
あとは何も考えまい。
私は再び巻き藁の前に立つ。
手順を略さずに全て行うのは、平常心を保つため。
巻き藁の向こうに的の姿を想像し、奥歯を食いしばり弓を限界まで引き絞る。
(あご)
そのまま五秒以上はたっぷり耐えて、右手をただ引きぬくようにして矢を放つ。
弦は、頬すれすれをすり抜け。
矢は、狙った場所に深く刺さる。
――できた。
私は、両腕を開いた格好でじっとしていた。今の射を冷静に振り返る作法、『残心』である。
まだ拙いけれど。確率も低いけれど。
だけど今の射は、理想的だ。
「おーい、マジで的前立たんのかー」
うるさい彼が帰ってきた。私は手帳を開いて『21回 〇』と書き、音を立てて閉じた。
「先生いるなら、1回やってみる。作法教えてもらっていい?」
「前の人のを見て覚えろや」
「いやだから。私はその方法苦手なんだって」
一度だけということで、初めて的前に立った。
作法に戸惑って心が乱れたけれど、矢は途中で失速したけれど、それでも弦は私をかすらず、矢も方向だけは正しく飛んだ。
「お前、会短すぎ」
という彼の苦言にはむっとしたが、先生の
「離れが相当よくなりましたね!」
という言葉には素直にお礼を言った。
私、黙々とやるのが得意なんです。
まだ的前には立ちません!~アラフィフ弓道初心者の葛藤 多賀 夢(元・みきてぃ) @Nico_kusunoki
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