最終話
「ふう」
食器を洗い終えた私は、淹れた紅茶で一息つく。あれから、1年が経った。ルークとはあれっきり。会ってもいなければ手紙のやり取りだってしていない。それもそうだ。彼はこの国の王子様で、私は普通の人間ですらない。連絡をとるなんて、出来るわけがないのだ。
「……元気にしているかな」
あの日、私が目覚めた時には既にルークの姿はなかった。代わりにテーブルにあった『少し城に戻る』という書置きと、残っていた金貨は未だに取ってある。女々しいと言われてしまうかもしれないが、彼が書いたものを捨てるなんて出来なかったのだから仕方がない。
あれから、周りの環境がすっかり変わった。あの医者のような人間もいるが、ルークのような人間もいることを知った私は、村の人達に勇気を出して告白した。自分は普通の人間ではない。獣人族なのだと。言葉にするのはとても勇気が必要で、声も足も震えていたが、彼らは予想外の言葉を返してくれた。『知っていたよ』と。もちろん全員が全員知っていたわけではない。それこそよく買い物をする八百屋さんだったり、話しかけてくれる雑貨屋さんだったり。フードをすっぽりかぶった怪しい私の正体を彼らは知っていて、それでいて周りに言いふらすことはしなかった。それに他の人達も、初めは驚いていたが、すぐさま笑みを浮かべて『気付かなかったなぁ』とさえ言ったのだ。人間にバレたら攫われる。そう思って生きてきたけれど、全ての人間がそうではなかったのだ。
「それにあの法律もあるしね」
つい先日に施行された新しい法律。獣人も人間と同様の尊厳と地位があり、何人たりともそれを侵すことは許されない。つまり、獣人だからと言って奴隷のような扱いは出来ないというもの。しかし国の人々はすぐには受け入れられないのも事実で、獣人族が堂々と外を歩けるようになるにはまだまだ先になるとは思うが、それでも法律に守られている安心感というものがある。
他にもいくつか獣人族に関する法律が施行されたようだが、まだ全てを把握できていないので徐々に学んでいこう。
「さて、明日の下ごしらえでもして寝ようかな」
カップをテーブルに置き、そして大きく伸びをする。今日は満月。薬はまだ十分あるので摘みにいかなくても大丈夫だろう。それに明日は薬草を売りに少し遠くの村に行く予定だ。だから少し早めに寝よう、なんてことを考えていると、外から何やら物音が聞こえた。
こんな時間に来るのは、私の薬草が必要になった村の誰かだろう。今手元にある薬草を確認し、症状によってどれを渡したらいいか頭の中で整理しつつドアへ向かう。
近づく足音が次第に大きくなってついに家の前で止まったのだが、ノックをしてこない。村の人間ではないのだろうか。それとも夜盗? あらゆる可能性を考えつつ、そっとフライパンに手を伸ばした。これでも十分武器になると、以前ルークに教わったことを思い出し、そして足音を立てないようにゆっくりとドアへと近づいた。
(大丈夫、何かあったら逃げればいい。足の速さに自信はないけれど、この森の中は私の庭みたいなものだから、隙をついて逃げれば追い付かれることはない)
何度か深呼吸をし、いざ、とドアを開けた。
「…………え?」
そこには、予想外の訪問者がいたのだった。
「バート、さん?」
「お久しぶりです、ティアナ様」
彼が深々と頭を下げるので慌てて頭を上げるように告げると、彼はゆっくりと頭を上げて笑みを浮かべた。
「このような時間に女性の家を訪ねてしまい申し訳ございません」
バートさんの視線が私のフライパンを捉えたので笑って誤魔化しつつ体の後ろに隠した。
「いえ、それは大丈夫です。それにしてもお久しぶりですね」
「ええ、1年ぶり、でしょうか」
「はい。あ、どうぞ中へお入りください」
半身だけずらして彼を家に招き入れようとしたが、彼はやんわりと頭を横に振った。
「少しお時間を頂けないでしょうか」
「時間?」
「はい。ついてきて頂きたい場所があるんです」
「それは構いませんが」
そこで自分が寝間着だという事に気付いた私はバートさんに少しだけ待ってもらい、外出用の服に袖を通した。
「お待たせいたしました」
「では、参りましょう」
バートさんの後を追う形で、彼が言う“ついてきて頂きたい場所”へと向かう。
「あの、どちらに?」
「ついてからのお楽しみです」
「はぁ……」
一歩前を歩くバートさんの背中を追いかける。歩幅が違う私のために、彼が歩くスピードを緩めてくれているのに気が付いた。
「ルーク……ルーカス様はお元気ですか」
一番気になっていたルークの近況。関係のない、身分の違う私が聞いたらまずいかもしれないと思ったが、気が付けば勝手に口に出していた。しかしバートさんはそれと言って気にする素振りは見せず、優しい声音で答えてくれた。
「お元気にしておりますよ」
「ご飯はちゃんと食べていますか」
「はい」
「しっかり休息はとれていますか」
「はい、もちろんです」
「そうですか」
良かった、と安堵する。遠くにいる彼が元気でやっているのならこれほど嬉しいことはない。
「そういえば、先日なんですが、ルーカス様が包丁を握りましてね。今まで握ったこともないだろうに、すっかり慣れた手つきでリンゴの皮をむいておりましたよ。それには陛下も王妃様も驚いておられました」
なんて楽しそうに話すバート様に、つい笑みが零れる。ここに来たばっかりの頃は危なっかし気に使っていたのに。自分の事のように嬉しくなってしまった。
「あぁ、それからルーカス様はいつも『アップルパイ』が食べたいと仰っていますね」
「アップルパイ、ですか?」
「えぇ」
「お城で出るアップルパイはとても美味しいんでしょうね」
「それが、出されたアップルパイは手を付けないんです」
「え?」
「最初口にした時に『これじゃない』と難しい顔をして以来、食べようとしません」
「えぇ、もったいない」
私だったら残さず食べるのに。なんて考えていると、バート様はまた楽しそうに微笑んで『どうしてでしょうね』などと口にしていた。それから他愛もない話をしながら歩いていると、あることに気が付いた。今私達が歩いているのは何度も行き慣れた道。そしてその先にあるのはルークと共にまた来るはずだった場所。月光草が生い茂る、あの場所だった
「では、私はここで」
「えっ」
急に歩みを止めたバートさんに振り返ってみせると『ここからはお一人で』と優しく微笑まれてしまった。その笑顔に何も言うことが出来ず、ただ頷いて歩みを再開させる。
どうしてバートさんはあそこに連れてきたかったのだろう、と考える。月光草を摘みたいのならその場所まで一緒に行くはずだ。しかし彼は途中で立ち止まり、そして私を見送った。まさか、とポツリと呟く。心の中に期待という蕾が徐々に膨らんでいき、それと共に動かす足が速くなる。
そんな、まさか、いるわけがない。だって彼はこの国の王子で、やるべきことがたくさんあって、私とは身分がまるで違って、微かに香る彼のにおいも気のせいなわけで。色んな感情がぐるぐると混ざり合って、でも期待の蕾はどんどん膨らんでいく。
夜道を抜け、開けた場所は見慣れた景色。そしてその真ん中にたたずむ人影もまた、見慣れたものだった。
「……よっ」
声音も、少し恥ずかしそうにしている顔も、私の知っているもので。ただ身に纏う服装だけが違っていた。
「ルーク……?」
「久しぶりだな」
「う、うん」
酷い緊張のせいでうまく声が出せない。目の前にいるのはルークであり、ルーカス様であるからだろうか。そこではっとした私が腰を落とそうとしたがすぐさま彼に止められてしまった。
「そのままで」
「で、ですが」
「お前にはルークとして接してもらいたいんだ」
真っすぐと私を射抜くような瞳に不安の色が混じっている。それでも困惑している私に向かって『それにここは俺達しかいないんだから』と柔らかく微笑むものだから、私は一瞬ためらったもののすぐに態度を戻すことにした。
「ルーク、どうしてここに?」
「ん? だって約束しただろ?」
「約束?」
「次摘む時も、必ず連れて行けって」
自分だけが覚えていると思っていた。私が気に入っている場所に、彼も気に入ってくれたこの場所に、たった一度だけではあったけれど、この場所の思い出を、彼も覚えていてくれたのだ。
「って、結局1年以上も経っちまったけどな」
「……ううん、そんなことないよ」
嬉しくて、嬉しくて。胸がいっぱいになる。ずっとずっと会いたかった。声を聞きたかった。また一緒にアップルパイを食べたかった。色んな感情が一気にあふれ出す。我慢しようと拳を握り締めたのだけれど、その感情は涙となってあふれ出した。
何かを言葉にしなければと思うのに口から出てくるのは嗚咽ばかりで。急に泣き出した私にルークはきっと困惑しているだろうな、とは思うものの涙はすぐには止まってくれなくて。ごしごしと強く目をこすっていた私の手を、彼が優しく掴んできた。
「……すぐに会いに来れずすまなかった」
手を掴んでいる反対の手が、私の目元に優しく触れる。
「本当はすぐに会いに行くつもりだったんだ。けれどまずはお前のような獣人族が住みやすい国にしてからと行動をしているうちにこんなに時間がかかってしまった」
ルークの親指の腹が、私の涙を優しく拭う。
「やっとのことで元老院を納得させ、法律も制定し、準備も整った」
「じゅ、んび……?」
彼の手が下へと移動し、私の両手を優しく包み込む。そして、ぎゅっと力が込められた。
「全てはお前と結婚するために」
「……え?」
彼の言葉を理解するにはあまりにも唐突すぎた。冗談でも言っているのだろうか、と思うがルークの瞳は真っすぐと私を見つめている。思わず引っ込めようとした手は、彼に握り締められているため全く意味がない。
「け、っこんって、誰と誰が……?」
「俺と、お前だ」
その言葉の意味を理解した瞬間、体中を熱が駆け巡る。
「な、何言って……冗談はよして」
「冗談じゃない、本気だ」
「だって私は獣人だよ? 普通の人間と結婚なんて、ましてや王子様とだなんて」
「言ったろ、法律を制定したって。それには婚姻についての記載ももちろんあるし、王族との婚姻も問題ない。そのために元老院を黙らせ……納得させたんだからな」
「だ、黙らせたって……」
「いや、でも、国王陛下と王妃様が認めるわけが……」
「その点は心配いらない。むしろ母上は誰よりも乗り気だった」
おかしそうにしているルークに私はめまいを起こしそうになった。ルークに会えただけで胸がいっぱいだったのに、誰がこんな展開を予想していただろうか。
「外堀は完全に埋めた。後はお前の返事のみなんだが」
私の手を包み込んでいる彼の手が微かに震えていることに気が付いた。いつものルークの態度に惑わされていたが、彼もまた不安でいっぱいなのかもしれない。
「……私、王族の心得とか立ち振る舞いとか、そんなの知らないよ?」
「これから徐々に覚えていけばいい」
「言葉遣いもダンスも、全然分からないよ」
「全部俺が教えてやる」
「表面上は納得していても、内面では私を気に食わない人がいっぱいいるよ」
「心が汚い人間より、心がきれいな獣人の方がこの国には必要なんだ」
「ルークに、迷惑をいっぱいかけちゃうよ」
「そんなの、俺だって同じだ」
あまりにも優しすぎる言葉の数々に、止まっていた涙が再びあふれ出す。
「俺はいずれ、先頭に立ってこの国を守っていくことになる。その時にお前に隣にいてほしい。俺の隣で笑っていてほしい。寂しい思いをさせてしまうかもしれない。悲しい思いをさせてしまうかもしれない。けれど俺の隣にいるのはお前以外考えられない」
「……っ」
「好きだ。一緒に過ごしたあの時から、今日まで。そしてこれからも。お前が好きだ。だから、俺と結婚しよう」
涙でぐちゃぐちゃな顔で、可愛くないと思うけれど、でも私は、彼の言葉に色んな不安が吹き飛んだ。
「はいっ!」
強く、強く、ルークに抱き締められる。息苦しくて、けれど優しい。全身が彼の熱に染まっていく気がした。
白銀の満月が見守る中、彼の温かい唇が、そっと私の唇へと重なったのだった。
【完結】獣人族だとバレました ちゆき @aaaaanz0105
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