第6話 下山

 膝の痛みを感じ始めたのは頂上に着く少し前の事だった。

 何ら問題なく歩を進めていたなずなの右膝に、突然刺すように痛みが走った。

 あまり深くは考えなかった。ちょっと我慢すれば大丈夫。立ち止まるようなことではない。その程度に思っていた。

 頂上に着きスマホでひと通りの写真を撮り終え、ベンチに座って景色を見つめ、感慨に耽っていると、その痛みは強さを増し、次第に動けなくなってしまった。


 なずなは認めたくなかった。


 膝の痛みだけで登山をやめてしまう事を。


 鵯梓に出会ったことはなずなにとってこの上ない幸運だった。彼女がいなければ、なけなしのお金を使ってカーレーターに乗り、ロープウェイで下山するというなんとも家族には話したくないような締めくくりになっていた。


 彼女はなずなの目を真っ直ぐ見て質問を畳みかけてくる。

 「どっちの膝?いつから痛む?どのくらい痛い?」

 周りの登山者に気を使ってか、小さな声で話しているが、なずなは自分の事を本当に心配しているのが分かった。さっきまでの笑いはまるで無かったかのようだ。

 梓の質問に一つ一つ丁寧に答えてから彼女にお願いする。

 「一緒に下りてくれない?」

 もちろん本心として誰かと一緒に下山をしたかった気持ちはあった。でもその内実、梓の優しさに付け込もうという気持ちを否定できなかった。

 手を引いて下山を手伝ってほしかった。

 彼女なら嫌な顔せず二つ返事で良いよと言ってくれると思った。

 しかし、彼女はまたなずなを裏切る。

 「言われなくても一緒に下りるよ。というか、嫌って言われても一緒に下りるから」

 自分の登山ザックを漁りながら、なずなを見ずに話す。

 声がさっきよりも大きく感じた。

 梓は登山ザックの中から膝用のサポーターを取り出した。よく見ると梓は、低山を登るには似つかわしくない大型の登山ザックをパンパンにして背負っている。

 何故そんな物を持っているのかと不思議に思ったなずなは、サポーターを受け取り口を開いた。

 なずなの口からは何も出てこなかった。

 優しさに付け込んだ罪悪感が今更襲ってくる。

 「どうしたの?」

 優しい目で真っ直ぐ見つめてくる梓に

 「ううん。何でもない。ありがとう」

 首を横に振って答えた。梓の目を見ることはできなかった。

 トレンカの上から受け取ったサポーターを着け、周りを少し歩いてみる。

 膝の痛みはさっきよりも感じなくなった。

 「これで大丈夫だね」

 なずなに手を差し伸べながら話しかける。

 「ありがとう」

 心の底から溢れる言葉と笑顔で答えた。

 梓の手を取り、今日歩いてきた道を引き返してゆく。

 歩幅を少し狭くして、膝を深く沈めないように歩くと良い。梓が教えてくれた。

 段差を降りるときが少し怖いが、梓が手を取ってサポートし、ゆっくり歩くように促してくれる。

 自然と会話が進んでいくうちになずなは、梓が背負っている登山ザックの事を聞けた。

 「どうしてそんなに大荷物なの?」

  梓が立ち止まって右足を軽くあげ、視線を靴へと落とす。

 「新しい登山靴を買ったからならしなの。それと今度の縦走に向けて体力作りもあわせてね」

 登山口に着くまで今度縦走するらしい山の話をしていたが、もちろんなずなにわかるはずもなく、その返答だけしか頭に残らなかった。

 海が夕焼けに染まる時間帯。

 「じゃ、私JRだから」

 早々と別れを告げ、大きく手を振りながら帰る梓を少し羨ましそうに見送る。

 連絡先を聞くのを忘れていた。今さら追いかけても梓には追い付けない。膝の事もある。そんな事を頭がよぎると思い出す。

 あと数日で夏休みは終わる。

 学校で聞けばいい。今度は自分から話しかける。頭の中でいくつかのシミュレーションをして呟く。

 「よし、大丈夫」

 夏休みの負債である宿題を片付けて、始業式の日に鵯梓と一緒に帰る。そこまでのシミュレーションを成功させて、なずなの足は岐路へと動き出す。

 なずなは初めての登山を終えた。

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山に馳せ トキ @souta1002

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