空港にて
秋色
空港にて
早朝の空港は海風が氷の粒を運んでいるかのように冷たかった。空はまだ暗く、星が僅かに瞬いている。
一人の男が椅子にかけ、自分の乗る便を、手持ち無沙汰に待っていた。
一見すると青年にも見えるような、世間ずれしたところのない、でも中年期になりかけている男。まるで金田一耕助のような帽子を被り、黒縁の眼鏡に大きなコートを羽織っていた。
後ろから一人の若者が声をかけた。
「三月なのにまだ寒いですよね? あの、国内旅行されているのですか?」
「早春ってこんなもんですかねぇ。ええ、国内旅行…。というより帰省みたいなものですが。あなたは……」と言って相手の大きなスーツケースを見た。「海外旅行のようですね」
「はい。僕は仕事を転職中で、その狭間に外国を旅行する事にしたんですよ」
若者はこの時、真正面から中年男の眼を見た。それは年齢にはそぐわないような澄んだ
「もしかして貴方は
若者は、空港行きバスに乗る時、スーツケースにある名札の"FUYUKI NAGI"という名前にハッとしていた。もしや……と思い、空港でそのスーツケースの持ち主に声をかけようかとずっと迷いあぐねていたのだった。
同姓同名はあまり無いような名前だ。それでも絶対とは言えない。ただ彼の顔を、眼を見れば、漫画家本人であるかどうか分かるだろう、写真を見た事があるわけではないが、凡人のサラリーマンとは違うはず……そんな確信があった。
虚をつかれたかのような中年男は、一瞬の沈黙の後、観念したかのように言った。
「ああ、そうだ……」
「やっぱり! 僕は橘唯斗と言います。転職中で、名刺もないんですけどね。子どもの頃からあなたの大ファンです。特に少年ライフに載っていた『十二ヶ月のめるへん』の……」
小学生の頃、毎週金曜発売のその漫画週刊誌を唯斗が実際に買いに行けるのは土曜日の午後だった。その心弾む道程。田舎町の風景まで幸せな気分に包まれているように思えたものだった。
『十二ヶ月のめるへん』は動物のような妖精達が仲良く暮らす雪深い森の中のお話。
唯斗は言った。
「小三の時、席が隣の女の子と『十二ヶ月のめるへん』の話で盛り上がっちゃって。それで、土曜の午後、二人で妖精を探しに山へ行こうってなったんです。帰り道で迷って、遅く なっちゃって、すっごく怒られました。ハハ、痛いけど、いい思い出です。その隣の席のコの事、好きだったんですよね。後で気が付きました」
唯斗は迷っていたが、口にした。「あの、最近、どの雑誌にも掲載されていないですよね? 休業されているのですか?……あ、気を害したのなら許して下さい」
「いや、いいんだ。漫画は休業しているよ」
唯斗にも漫画家が干される事のあるのは知っていた。結局どの雑誌にも載らないのは、そういう事だと。そういう時にはネット検索しても正確な情報は
唯斗の知る限り、彼が高校生の頃から約七年程、凪冬樹の漫画はどの雑誌にも掲載されていない。
でもそれにしても、凪冬樹は干されるには惜しい漫画家だ。
絵の線が大変美しい。子ども、女性の描き方が特に美しいと思っていたら、成人男性も逞しく魅力的に描く。
彼の描くファンタジーの世界、そのメルヘンチックで抒情性にあふれた世界観は独特だった。切なく美しく、何度でも読み返したくなった。
ああいう漫画家が干されるって、あり得ないと思うのは自分だけだろうかと唯斗は考えた。いや、何処からか文句も出そうなもんだ、と。
「残念です、休業なんて。凪先生の漫画、本当に良かったから」
「ありがとう。そんな風に思ってくれていて。だけど……」と凪冬樹は一面のガラス張りから見える朝焼けの空を見つめながら言った。
「私はね、自分の描く漫画の世界を読者が現実のものと信じるのが怖くなったんだよ。それが現実のものと混同される事に罪悪感を感じるようになったというか。現実の世界は、私の描いていた漫画の世界とは違うものだったろう? 私の描く漫画の世界は、世間とは相容れない。世界はもっと厳しく、争いと憎しみに満ちた場所と気付いたんだ。大人になって、あれは虚構だったと言われるのがオチなんだ」
唯斗は言う。「確かに実際の世の中は醜いものなのかもしれない。自分も一時期そんな疑問を持ち、貴方の漫画から心が離れ、忘れていた事もありました。大人になって就職すると、特に世の厳しさを目の当たりにし、心が折れそうで。そんな時、妖精の靴の伝説を知ったんです」
「妖精の靴?」
「ええ。十九世紀にアイルランドの山中で発見された妖精の靴というのがあるんです。指ぬきと変わらない位小さくて、でも履いてすり減っていて……」
ネットで偶然見つけた妖精の物という古い靴。そのモノクロの写真を見た時、唯斗は涙が出た。まるでその時、唯斗の目の前にその小さな古い靴が置かれてあるように感じた。時代にも風潮にも左右されず、ただ自然の中で、森の中で
そして田舎の実家から持って来た凪冬樹の漫画を読み返したのだった。
「人は妖精のようなものを信じなきゃ、やっていけない時があるんです! たとえ漫画家の頭の中で作り上げた虚構の理想の世界だとしても、貴方の物語を子どもの頃読む事の出来た自分は、そしてそれに力づけられた自分はラッキーだったって、心底思えるんです」
凪冬樹は彼の言葉をぼんやりと聞いていたが、笑みがこぼれた。唯斗は続けた。
「僕はね、これからアイルランドへ行くんですよ。妖精の伝説の残っているアイルランドへ。ただ妖精の伝説の残っている土地の風景を見たくて。帰国したらいつかまた、あなたの新作漫画、読めますよね?」
「ああ、需要があるのなら」凪冬樹は言った。
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私のファンと言う青年はバスから降りたあと空港の中を自分の便の搭乗のため国際線の方へと去って行った。
「わざわざアイルランドへ本当かどうか分からない話のために行くというのか。妖精は国内にも生息しているというのに」
私は仲間たちの住む森を目指すため、北へ向かう国内便を待った。帽子を被り直し、尖った耳を隠しながら。そして、仲間にもこの青年の話をしようと思った。争いと憎しみのない世界に、私達、妖精の世界に理解を示す青年もいるのだという話を。
朝の空港の周囲はようやく明るさと活気を取り戻し、暖かい春風が舞い始めた。
空港にて 秋色 @autumn-hue
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