キリハ先輩と僕とカタンの小説

成井露丸

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 フェリーを下りたら小豆島だった。海岸線は瀬戸内海だから海なのに向こう岸はすぐに見えた。埠頭のコンクリートには南中過ぎの太陽の白い光が注がれている。見上げると空はとても青かった。

 四国と本州に挟まれて浮かぶ『二十四の瞳』の舞台。オリーブの採れる島。そして僕らの小説執筆の思い出が詰まった島。まだ僕が大学生だったころに、キリハ先輩とカタンと三人で執筆合宿をした島だ。


 僕は肩に掛けた2WAYバッグを一旦下ろすと、大きく伸びをして息を吐いた。スマートフォンを取り出して自分の位置を確認する。目的のお店はすぐに分かった。フェリーから出庫する車両や行楽ムードの家族連れを見送りながら、僕は一人歩き出す。

 店で手続きを済ませる。保険代が追加で必要で思ったよりも高かったけれど、予定を変更するわけにもいかず、僕は空色の原付げんつきバイクに跨った。店の人に頭を下げられながらキーを回すと、小気味よいエンジン音が鳴って、ハンドルを握る手に内燃機関の振動が伝わる。ヘルメットを被った頭で、僕は海岸沿いのアスファルトを走り出した。原付に乗るのは五年ぶりくらいだ。少し心配だったけれど、一分も走らせるとすぐに慣れた。島の景色がロードムービーみたいに流れ始めた。


 ☆


 大学生の頃、キリハ先輩とカタンと一緒に執筆合宿をしたことがあった。

 小豆島には学生サークルやちょっとした団体で合宿できる宿がある。そんな情報を大学の友人から入手した僕が提案したのだ。高校を卒業してから僕らは離れ離れになっていたから。僕は大学二年生、キリハ先輩は就職して結婚して少し経っていて、カタンは名古屋に引っ越して専門学校に通っていた。

 大学でも僕は創作系のサークルに入っていたけれど、どうにもノリが合わず足は遠のいていた。だから高校時代の文芸部――もとい漫画研究会の仲間だった二人といつまで経ってもつるんでいた。漫画研究会なのになぜか三人とも小説ばっかり書いている、変な部活だった。

 そんな三人で春休みに一週間の執筆合宿。今から考えると「よくキリハ先輩は会社を休めたよなぁ」って思うけれど、当時まだ学生だった僕は、会社を一週間休むことがそこまで大変なことだとは思っていなかった。

 ――それだけキリハ先輩は、僕らとの時間を大切にしてくれていたんだと思う。


 ☆


 三〇分ほど原付を走らせて、二つほど峠を越えると懐かしい景色が見えてきた。あの時の執筆合宿に使った宿の近く。腰の高さのコンクリートブロックがアスファルトの海岸通りと砂浜を隔て続ける。なんだか懐かしいなぁ。もう何年前だろう?

 春なのに夜の砂浜で遊んだたった千円の花火セット。手持ち花火から弾けた松の葉みたいなチリチリとした光。それを物語の情景につなげて、僕らは小説のアイデアなんかを話した。笑いながら。

 あの日の夜の海岸は、今、昼下がりの太陽光を浴びて、白く染まっている。

 そして僕はコンクリートブロックの向こうに目的の姿を見つけた。


「――キリハ先輩、お久しぶりです」


 黒い髪を肩まで伸ばした女性がコンクリートブロックに腰掛けていた。灰色のチェスターコートを着て。振り向いた彼女の髪を瀬戸内海の潮風が攫う。あの日と変わらない塩の香りがした。


「久しぶり。元気だった?」

「先輩も――変わらず小説は書いていますか?」

「ああ、心配するな。ボクから小説を取り上げたら何も残らないからね。どこにいても書くよ」


 そう言ってくしゃりと笑った彼女の顔は、どこか少し寂しげだった。でも僕はそれを気にしないことにする。僕は先輩とまた小説の話が出来るだけで嬉しいんだから。


「今は何を書いているんですか? SF? ラブコメ? 純文学?」

「さあ、なんだろうね? 自分でも時々わからなくなるんだ。自分の書いている物語が何なのか。ジャンルとか含めてね。キミは今、何を書いているんだい?」

「――なんにもです。恥ずかしながら」

「そっか、仕事が忙しいのかな?」


 僕はゆっくりと首を振った。それもあるけれど。この人の前でそんなことを言い訳には出来ない。高校を卒業して、すぐに就職して、結婚して、何があっても書き続けたキリハ先輩には。


「燃え尽き症候群って感じです。なんだか渾身の一作が最終選考で落ちてから、どうにも次のお話が書き出せなくて」

「キミはキャラクターへの思い入れが凄いからね。そういうこともあるだろうさ。間を開けるといいよ。――カタンはどうしている?」

「あいつは書籍化準備中ですよ。半年前に金賞を受賞して」

「それは良かった。今度あったら祝いの言葉を伝えておいてくれたまえ。ただ『おめでとう』と」

「――わかりました」

「金賞か。カタンはどんな作品で受賞したんだい?」


 彼女はコンクリートの防波堤に腰掛けたまま、ニコニコと水平線を眺めた。


「ラブコメですよ。流行りの。――なんだかあいつ、上手くなったんです」

「そうかぁ、ラブコメかぁ。――うん、彼らしいかもね」


 カタンもキリハ先輩と同じように色々なジャンルを書く奴だった。

 でもなかなか公募やコンテストで上手くいかず、ある時から流行りに合わせつつラブコメに照準を絞るようになった。それから彼の歯車は噛み合い出した。そして彼と僕との溝は広がりだした。


 ☆


 キリハ先輩――ペンネーム富枡トミマスヨキリハは天才だった。美人でもあった彼女は高校時代には学校のちょっとした有名人だった。いわば残念美少女として。自分をボク呼びし、授業中でもしばしば奇っ怪な発言をし、素行は若干変態だった。でも部活で後輩の面倒見はよくて、僕もカタンもとてもお世話になった。――そして何より、何でも書けた。

 彼女の書く小説は高校生離れしていた。僕とカタンが一年生の時、高校二年生だった彼女の小説がとある小説大賞の最終選考四作品に残った。惜しくも受賞は逃したのだけれど、僕とカタンはその戦績に戦慄した。その戦慄はすぐに憧憬へと変わった。あの頃から僕らはずっとキリハ先輩の背中を追いかけている。


 カタン――ペンネーム松阪まつざかカタンは僕の同級生で、漫画研究会の同期。どこか今も意識しあっているライバルだ。僕とカタンはほぼ同じタイミングで小説を書き始めた。同じように文化祭の部誌に小説を掲載し、同じ頃にWEB小説投稿サイトへの掲載も始めた。高校を卒業してからは離れ離れになってしまったけれど、僕とカタンはSNSを介して連絡を取り合っていた。


 ☆


 最終選考まで残ったキリハ先輩には担当編集がついた。高校生なのに。僕らにとってキリハ先輩は憧れの業界人みたいなものだった。わかりやすいくらいに憧れた。でも今から考えれば、それが全ての問題の始まりだったのだ。

 勉強は苦手だったキリハ先輩は近いうちに専業の小説家になることを前提に、進学はせずに就職した。腰掛け前提。でも現実は非情だった。


 端的に言うならば彼女はその編集に振り回されたのだ。度重なるダメ出しと方針転換。小説に関しては純粋で、真面目で、器用な彼女は、その編集の指摘を真に受けすぎた。何でも書ける彼女は、だから芯がぶれやすかった。結局三年間ほどの努力の果てに、一冊の本も出版できず、彼女は出版社から見放され、結婚し、やがて出産した。


 ☆


『――小説が書きたいの。ねぇ、ボクは……どうしたら良いのかな?』


 あの夜に電話口で訴えかけられた声が、今も忘れられない。

 ずっと後ろから彼女の背中を見つめるだけの僕に、掛けられる言葉なんてなかった。


 ☆


 海岸に打ち寄せる波の音が聞こえる。瀬戸内海は静かだ。


「――押し黙って、どうしたんだい? キミ」

「何でもないです。いろいろ思い出して。――でも先輩と話すとなんだか原点に戻れるみたいな気がします。……話せて良かったです」


 三人で物語を書いた小豆島からまた僕は海を見ている。

 その向こうに世界と、やがて書かれる物語を見ている。


「それは良かった。キミはキミの物語を書けばいい。昔からボクはキミの物語が好きだったんだよ? だからキミには書いてほしいんだ。キミ自身の物語を。ボクの分までね」


 彼女は打ち寄せる波へと視線を落とす。そしてそのまま海岸線の先へと顔を上げた。

 その先で幾羽ものアビが北に向かって飛んでいた。


「――それがきっと、ボクら三人の物語でもあるんだから」


 強い風が吹いた。僕は空を見上げる。

 春の太陽は、たった一人で原付に跨る僕のことを照らしていた。


 ☆


 キリハ先輩は二年前に死んだ。自殺だった。


 離婚して親権を手放した彼女は、世間の目を離れ、ひたすら執筆に打ち込んだ。

 僕らとの連絡も途絶えがちだったけれど、時折り来る連絡であの小豆島の宿にしばしば滞在していることが分かった。住みづらくなった地元を離れて執筆に集中しているのだという。離婚の慰謝料を執筆の宿代に変えながら。


 それが彼女の人生の逆転に繋がると僕もカタンも信じていた。

 でも現実は非情だった。彼女が成果を得る前に、彼女の天命は尽きた。

 それでも生前に彼女が投稿した作品は、小説大賞でまた最終選考に残っていた。


 ☆


 宿で一晩過ごした僕は、原付に乗ってまた同じ海岸通りを港へと向かっている。

 先月、受賞作が発表されて最終落ちが確定した僕の投稿作。それは僕の抱えていたキリハ先輩への思いを全てぶつけたみたいな作品だった。キリハ先輩に憧れた自分。キリハ先輩の文体。キリハ先輩の紡ぎそうな物語。その全てをあの物語に託した。それでも受賞には届かなかった。だから燃え尽きてしまっていた。


 でも小豆島に来てみて、彼女とカタンと過ごした海岸に座ってみて分かった。

 やっぱり僕は小説を書き続けないといけないのだと。

 キリハ先輩の代わりとしてじゃなく――僕として。


 そう考えると南中に向かう太陽から、また新しい光が降ってきた。

 アイデアが。プロットが。新しいキャラクターたちの笑顔が。

 まるでロードムービーのワンシーンみたいに。

 

 少しずつ埠頭が見えてきた。

 フェリーが鳴らす汽笛の音が聞こえる。

 明日からまた日常が始まる。


 (了)

 

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