電話

飯田太朗

電話。

 あの頃、私は多分、読者だった。

 今でも、そうだ。でも今度は立場が少し違う。


「むかーしむかし、あったとさ」

 春人は口を大きく開ける。あうー。声が漏れる。まだ言葉にもならない、喃語というやつだ。


「はらぺこきつねが、あるいていると、やせたひよこがやってきた」

 がぶりとやろうとおもったが、と続けると、春人は「がぶー」と返してきた。親馬鹿だろうか。いや、でも。多分この子は、一生懸命言葉を覚えようとしている。


 最愛の夫、拓也との間に子供をもうけた私は今、読者である春人と絵本を繋ぐ仲介人みたいな存在だ。

 春人は字が読めない。でも、絵は見ることができる。絵から、想像できる。その想像を、手助けする。そんな役目。


 拓也は家事をやってくれている。拓也は優しい。出産後、少し体調を崩した私のために率先して家事や炊事をやってくれている。


 彼は大学院卒業後、色々な大学で講師として働いているので、育休なんていうものはなかなかとれないはずなのだが、講義と講義のほんの僅かな時間を見つけて帰ってくる。たった三〇分しか家にいられなくても、その時間でできることを見つけてこなしてまた仕事に行く。頭が下がる。本当に、あの人が夫でよかった。


 私はと言えば、基本寝たきり。春人のお守りをしながら、無理のない範囲で拓也の手伝いをする。


 春人は、男の子だけど大人しい。這いずり回ったりしないし……それはそれでちょっと心配だけど……基本的にいい子に座って手元のおもちゃで遊んでいる。私はリビングに敷いた布団の上からその様子を見て、危ないことがないかを確認する。布団は、春人を見守るために夫の拓也に頼んで敷いてもらった。ベッドより、起き上がりが大変だが、春人が近くに感じられていい。


 ある日。

「ごめんね。少し仕事が忙しくなる。期末のテストや課題を見なきゃいけないんだ」

 私が横になっている布団の枕元で、拓也が頭を下げてきた。私は首を横に振る。

「謝らないで。私の方こそ、何もできなくて……」

 しかし拓也は真面目な顔で続けてくる。

「いいんだ。君は春人を産むっていう大仕事をこなしたんだから。……ところで、僕から一つ提案があるんだけど」

「何?」


 拓也は申し訳なさそうに続ける。

「もし、お義父さんの都合がよければ、なんだけど、僕が忙しい間、君の実家に春人を連れて帰ってはどうだろう」

「なるほど」


 その手があったか。

「いいと思う。お父さんも春人に会えて喜びそう」

「僕は少し寂しくなるけど……でも、君のことも見てもらえるし、春人も見てもらえるし、助かるかな、って」


 ここで「寂しくなる」と言っちゃう拓也がかわいかった。私は微笑む。

「拓也の仕事が終わったら、すぐ帰ってくる」

 拓也はにっこり笑う。

「お義父さんには僕から話しておくよ」

「え、いいよ。私から……」私が体を起こそうとすると、拓也がそっと私の肩に手を置いた。

「君は自分の体を第一に考えてくれ」


 それから拓也は私の実家に連絡を取った。しばらく話していたが、どうやら快諾してもらえたらしく、笑顔でこちらに帰ってきた。


「お義父さん、早速明日、迎えに来てくれるそうだ」

「ほんと」


 そういうわけで、私は二週間程度、久しぶりに実家に帰ることになった。



 私が昔使っていた部屋を、と思ったが、私のかつての部屋は階段を上らないといけないことと、随分使っていないから埃っぽいだろうという理由で、一階にある父の書斎を間借りすることになった。父の机の向こう、万が一、本棚が倒れてくることがあっても安全な場所に布団を敷いてもらった。春人のおもちゃも、いくつか持ってきた。


「俺が留守の間……」父はデスクの上を示した。「電話がかかってくるかもしれない」

「電話」

 父の机の上を見る。卓上電話。昔の通信機器だ。

「これでしかやりとりしたがらない連中がいてな」父は皮肉っぽい笑顔を浮かべる。「面倒だが、使ってる。俺が留守の間にかかってきたら出てくれ」

「えーっと。何て言えばいいんだっけ」

「『はいもしもし、名木橋です』でいい。要件は向こうからしゃべるだろう」

 まぁ、滅多にかかってこないから安心していい。


 父はそう言い残して書斎から出ていった。大学の教授はとっくに退官しているのだが、今でも様々な方面から助言やコメントを求められることがあるそうだ。そのためだろう。父が書斎にいることは、滅多になかった。


 ある日。

 電話が鳴った。一瞬、びっくりする。しかしそれがすぐ電話の音だと気づくと、私は受話器を手に取り耳に当てる。


「はい。えーっと、『もしもし』?」

 名木橋です、を言い忘れたが、しかし受話器の向こうの誰かは、何も言わなかった。

「『もしもし』?」

 返事がない。

 何だろ。変なの。

 私は受話器を置いた。その時は何も気にならなかった。


 しかしそんなことはまた続いた。

「『もしもし』、名木橋です」

 沈黙。

 受話器を置く。

 何だろう。電話ってこういうもの? あまりに古い機械なので勝手が分からない。


 同じ日。今度は夕方。

 また電話が鳴る。出る。沈黙。

「あー」春人が笑う。私も笑う。

「変だねぇ」しかしさすがに、薄気味悪かった。


 夜。

 四回目の電話が鳴った。

 ちょっと警戒して、受話器を取る。次も沈黙だったら……父に相談しよう。そう決めて、耳を当てる。

「もしもし」は、言わなかった。

 しかし電話の向こうからは、声がした。


〈むかーしむかし、あったとさ〉

「えっ」

 思わず声が出た。

〈はらぺこきつねが、あるいていると、やせたひよこがやってきた〉

「えっ、えっ」混乱する。受話器をしっかり耳に当てる。

〈がぶりとやろうとおもったが、やせているので、かんがえた。ふとらせてから、たべようと〉


 涙が出た。

 お母さんの、声だったからだ。

 私の母は私を産んだ三年後に死んだ。出産後の体調不良から立ち直れなかったのだ。私も春人の出産後に体調を崩した。運命なのかな、と少し思ったりもした。


〈そうとも、よくある、よくあることさ〉


 それはまだ、私が読者だった頃。

 私が春人みたいに、喃語しかしゃべれなかった頃。

 私が春人と絵本を繋いでいるように。

 母も私と絵本を繋いでくれた。


 まだ幼くて、記憶も曖昧で、母の顔や仕草を何一つ覚えていられなかった私が、唯一残している母の記憶。それが、声だった。受話器の向こうから聞こえてくるのは、間違いなく、私が知っている母の声だった。


〈やあ、ひよこ……〉

「やあ、きつねおにいちゃん」

 それから先は、諳んじることができた。私がずーっと、春人に読み聞かせている内容だからだ。

 受話器から聞こえる絵本の読み聞かせは、それからしばらく続いた。私は泣きながら受話器を耳に押し当てていた。床に座り込んだ春人が、「あー」としゃべりながら私の方を見上げていた。私はずっと、母の読み聞かせを聞いていた。



「……これでよかったかね?」

 受話器を置いた僕は名木橋の方を向いた。場所は僕の家。まぁ、今の世の中電話を探そうと思うと大変だろう。僕の家に来たのは正解だ。同じ研究者仲間である、僕の家に来たのは。


「ありがとう」

 名木橋は照れ臭そうに笑った。名木橋の奴、一日に三回も電話をかけたのに一言もしゃべらなかった。まぁ、久しぶりにこのツールを使うと……それも実の娘に使うとなると……緊張してしまうのは、分かる。


 僕の手元には、やはり古い時代の端末。音声を記録するためのものだ。電話の受話器にそれを当て、再生するだけのことが、名木橋にはできなかった。まぁ、思い出も色々あるのだろう。


「本当は、孫の春人が生まれた時に聞かせてやりたかったんだが、当の娘が体調を崩してな」

「聞いてるよ」私は受話器を撫でながらつぶやく。「どうなんだい。少しはよくなっているのかな?」

「顔色はいい。多分だが、回復傾向だ」


 名木橋の目に一筋、光るものが。感極まったか。まぁ、無理もない。

「助かったよ」

 彼が僕の肩に手を置く。僕はそんな彼の手に、端末を渡す。

「ほら。奥さんだ」

「ありがとう」


 名木橋を連れて僕の書斎を出た。今日は祝賀会だ。名木橋が、過去をきちんと伝えられたことの。娘さんの心に救済を与えられた、ほんの些細な、幸せを祝うための……。


 了

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電話 飯田太朗 @taroIda

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