ひとつだけの本

灰崎千尋

ひとつだけの本

 今となっては昔のこと。あるところに、代書屋だいしょやのおじいさんがおりました。


 代書屋というのは、文字の読み書きができない人の代わりに手紙や書類を書いてあげる仕事のこと。おじいさんは以前、学校の教師だったのですが、その頃から簡単な代書を引き受けていました。しかし足を悪くして家から学校へ通うのが難しくなり、自宅でできる代書屋に専念することにしたのです。


 おじいさんの書く文字は、読みやすく温かいと評判でした。母親から遠くへ嫁いだ娘への手紙、お役所の手続きのための書類、別の町に働きに行く若者のための推薦状……おじいさんのところへは色んな仕事がやってきます。一人ひとりの話をじっくり聞きながら仕上げるので時間がかかりますが、みな満足した顔で帰っていきます。


 おじいさんに連れ合いはいませんが、家では黒猫のシピと一緒です。シピはいつからかおじいさんの家に住み着いた猫で、ビロードのような毛並みと金色の眼が自慢でした。お客さんの膝の上で丸くなったり、本棚から別の本棚へ跳び移ってみたり、彼女はいつも気ままに、たいへん猫らしく過ごしていました。けれども紙を駄目にしたり、インク壺を倒したりすることは決してありませんでした。






 ある夜のことです。

 おじいさんは暖炉の前で本を読みながら、うつらうつらしておりました。そこへ猫のシピが音もなくやってくると、行儀よく前足をそろえて、おもむろに口を開きました。


「ねぇ、ちょっといいかしら」


 ツンとすましたお嬢さんのような声がして、おじいさんは閉じかけていた目をしぱしぱと瞬かせました。


「どうしたね、シピや」


 シピはおじいさんと二人きりのときにだけ、こうして人間の言葉を話すのです。

 彼女が言うには、猫には九つの命があって、その命をいくつか渡っていくと色んな力が身についてくるのだそうです。だからそう珍しいことではないのですが、外では人間の領分と猫の領分をちゃんとわきまえているから、軽率に話したりしないのですって。


「ずっと気になっていたのだけど」

 シピは満月のような眼で見つめながら語りかけます。

貴方あなた、自分自身のために文字を書こうという気は無いの?」


 それは予想だにしない話だったものですから、おじいさんは言葉に詰まりました。シピはそんなおじいさんの膝へ軽やかに跳び上がり、その顔を見上げました。


「私、貴方の文字や仕事ってとても素敵だと思うわ。だけどどうしてそれを自分のために使わないの?」

「わしはただ、自分に合った仕事をしておるだけだよ」


 戸惑いながらも、おじいさんは答えました。しかしシピは納得していないようです。


「人間って、仕事といえど好きなところがないとこんなに長くは続けられないはずよ。私、知っているんだから」


 たしたし、とシピの尻尾が苛立たしげにおじいさんの腿を叩きます。彼女の言うことも、もっともではありました。


「自分のために、と言ったって」おじいさんは眉を下げながら呟きます。「何を書けと言うんだね。手紙を送るような相手はおらんよ」

「そんなの日記でも小説でも、なんでも良いのよ」


 シピは今度はおじいさんの肩へ跳び乗って、襟巻きのようにその身を沿わせながら、片方の耳へ囁きました。


「人間の命は猫と違って一つだけなのよ。まずは試しに書いてごらんなさいな。書きたいものがきっとあるはず」






 明くる日、おじいさんが難しい顔で考え込んでおりますと、その日の最初のお客さんがやってきました。


「どうも先生、娘から手紙が来ましたの。読んでくださる?」


 おじいさんは少し前にその老婦人の手紙を代書したので、その返事が来たのでしょう。それを読むのも、おじいさんの仕事のうちでした。


「ええもちろん、お読みしましょう」


 おじいさんは教科書を音読するように、丁寧に手紙を読み上げます。目の悪いご婦人を心配しつつ、近況を伝える優しい手紙でした。


「いつもありがとう、先生。ところで何かお悩みでも? 声がいつも以上に固い気がしますわ」


 ご婦人の言葉に、おじいさんはぎくりとしました。


「実はその、代書ばかりじゃなく自分でも何か書くように勧められたのですが、何を書いていいやらわからんのです」


 おじいさんがそうこぼしますと、「まぁ!」とご婦人は顔をほころばせました。


「一人の人生というものはそれだけで一つの物語ですわ。何を書いたって、きっと素敵なものができますよ」






 その日の夜、おじいさんは一人、書き物机に向かっていました。

 老婦人の言葉を聞いて、ひとまず自分の生い立ちというものを書き出してみようと思ったのです。すぐそばでシピが静かに見守る中、代書の下書き用の古紙にペン先を滑らせます。

 小役人の家に生まれて、読み書きを教わったこと。本が好きで図書館へ通ったこと。近所の小さな子供に名前の書き方を教えたこと。そこから教師を志したこと。家計のために学校をやめてしまった生徒のこと。病気で足が不自由になったこと。代書屋を始めたこと。黒猫のシピのこと。

 こうして書き出してみると、平凡な自分の人生にも色んなことがあったものだと、おじいさんはしみじみ思いました。そのうちに、これをきちんと清書してみたいという気持ちも頭をもたげてきました。






 おじいさんは代書屋をお休みして、ゆっくりゆっくりと杖をついて、馴染みの文具店を訪れました。


「おや代書屋の先生。もうインクが切れましたか?」

「いや、今日は違うんだ。仮綴じでもいいから、製本された紙が欲しくてね」

「なるほどなるほど、ちょっと待っていてください」


 文具店の店主はおじいさんに椅子をすすめてから奥に引っ込むと、しばらくして、いくつかの紙束を手に戻ってきました。


「帳簿ならこのあたり、手帳はこれかな。日記ならこれなんか渋くて良いですよ」


 おじいさんは日記としてすすめられた一冊に目を止めました。ほとんど装飾のない焦げ茶の革表紙は素朴ながら味わい深く、紙の質もそう悪くありません。何よりそれは、一冊の本のような佇まいをしていました。


「これにするよ」

「ありがとうございます。たくさん書いてくださいね。私、先生の書くものが好きですから」






 それからおじいさんは、まっさらな本に丁寧に文字を綴っていきました。仕事の合間や眠る前に少しずつ書き進めて、紙が文字で埋まっていきます。それが楽しくなってしまって、「こんな時間に起きていてもいいのは猫だけよ」とシピに寝床へ追い立てられることもしばしばでした。代書の仕事は気に入っていましたが、それとは違ったところが満たされる気がしました。

 そうしてたっぷり時間をかけて、おじいさんの本は遂に完成したのです。


「いやはや」

 おじいさんは革表紙を撫でながら、ほうっと息を吐きました。

「どうにか終わったよ。嗚呼、楽しい時間だった」


 それを聞いたシピはひょいと書き物机に乗って、小首を傾げました。


「それで? 貴方まさか、もう思い残すことはない、なんて言わないでしょうね」


 おじいさんは図星だったものですから、しどろもどろになりました。


「シピ、これ以上わしに何をしろと言うんだね」

「決まってるじゃない、読んでもらうのよ」


 シピはぴしゃりと言いました。


「貴方の仕事の文字だって、読まれるために書いているんでしょう。この文字だって読まれないと可哀想だわ」

「わしの人生など読みたい人がいるかね」

「いますとも。今に現れるから待っていらっしゃい」






 そんなことのあった数日後。近所のパブの主人がやってきました。


「毎年書類が必要だなんて全く面倒だよ。先生がいてくれて本当によかった」


 彼はお役所へ出す書類を、毎年この時期に頼みにくるのです。


「ところで先生、長いことやってた書き物が仕上がったって聞いたよ。今度うちで読んでみないかい?」


 そう広くない町のこと、おじいさんの書き物の噂は今やすっかり広まっていました。

「流石に耳が早い」と、おじいさんは苦笑いします。


「しかし老いぼれの自伝なぞ誰も聞きたくはないだろう」

「何言ってんだい、先生の世話になってる人はたくさんいるし、みんな気になってうずうずしてたんだ。近いうち朗読会をやるから、一節で良い、披露しちゃくれないか?」


 おじいさんはパブの主人に頼み込まれて結局、朗読会に出ることになってしまいました。






 それは月のない晩でしたが、パブはたくさんの人で賑わっていました。

 何人かが趣味の詩を朗読する中、自分は場違いなところに来てしまったんじゃないかと逃げ出したくなりましたが、いつの間にかシピが来て金色の眼を光らせていましたのでそうもいきません。遂におじいさんの番がやってきました。

 どうせなら町の人に関わりのある部分を、と代書屋を始めてからの一節を読み上げることにしました。この仕事で食べていけるか不安だったこと、最初のお客さんは遠くの友人への手紙だったこと、恋文の依頼には苦労したこと……手紙を読むときとは違ってたくさんつっかえながら、おじいさんは朗読しました。声に出してみると直したいところが色々と見つかります。パブの中には目の悪いご婦人をはじめ、おじいさんのお客さんがたくさんいるのが見えました。そうしてその節を読み終えたとき、おじいさんの目からは涙が一すじ流れました。


「この本は、わしそのものです」


 おじいさんは自ら書いた本を閉じて、思うまま言葉をこぼしました。


「文字というのは、人の心を形にして残してくれるものです。わしは代書屋の仕事でもそこに気を配っておりました。しかしいつの間にか自分の心については放っておいたのを、ここでようやく拾い上げることができた。このような機会を与えてくれた古い友人と、この場にいる皆さんに改めて感謝します」


 語り終えたおじいさんに、温かな拍手が降り注ぎました。

 ふいに足元が温かくなったので見てみると、シピがすました顔で寄り添っています。彼女は得意げにおじいさんを見上げ、「ほら、私の言った通りでしょう?」とでも言うようにニャアンと鳴いたのでした。

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